日清戦争と三国干渉
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
1894(明治二十七)年、いわゆる「東学党の乱」が起った。「東学」党は「人乃(すなわち)天」の平等主義を掲げ李朝の打倒を民衆に呼びかけた。鎮圧に派遣された政府軍は敗北し、全羅道は東学党の制圧するところとなった。狼狽した李朝は清に救援を求めた。清国の北洋軍が派遣され、日本も出兵した。日清戦争の勃発である。
開戦前、清国は日本を完全に侮っていた。だが、結果は清国軍の連戦連敗、完敗であった。清国は意外な敗戦に呆然自失した。ある清国の軍人は敗因を、整然とした散兵線(戦)のできる日本軍と、それができない清国軍との差に求めたりしている。
日本軍は国民軍だが、清国軍は王朝軍でしかなかった。拉夫という言葉は日本人は知らないが、清国兵の多数はこの拉夫から成っていた。兵士にするために若い男を「拉致」して、兵隊に仕立て上げるのである。支那の諺に「良い鉄は釘にならない」というのがあるが、兵に良民なしとも言った。
散兵したら兵隊は文字通り散っていなくなるのである。だから、兵隊は常に団塊の状態で督戦隊の監視下で戦わされたのである。逃げる者は射殺である。砲撃には特に被害が大きい。だから散兵線なのにである。
日本軍の「とっかーん」の掛け声は、清国軍には恐怖の声だったと諸書は伝えている。「とっかーん」は突貫だが、一方で日本兵は大陸の戦争文化に大きな衝撃を受けている。例になく頑強に抵抗する清国軍の陣地を攻略した日本の兵士は、足を鎖で縛られた清国兵士の戦死体を見て、思わず泣いたという。
また捕らわれた日本兵が虐殺されているのを見て、捕虜の運命を知ったという。日本人には食人(カニバリズム)の習慣はないが、喰われた仲間の骸に激昂し捕虜にだけはなるまいと心に誓ったのである。精強な日本軍というのは、脅迫観念の産物という一面がある。
日清戦争は日本人に大陸の生死の苛烈さを教えた。人を信じることは、死に直ちに結び付くことを学び、日本人は緊張した。日清戦争は日本人の大陸経験の始まりであった。
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