2008年04月23日

18年前の北京虐殺

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は著者の同志が命を奪われた天安門事件についてです。

引用開始
 1989年4月、北京を中心とする中国各地で大学生たちは政治の改革や、官僚腐敗の厳罰などを訴えて、嵐のごとく民主化運動をいっせいに起した。それにたいして、中国共産党政権は戦車や正規軍部隊を北京市内に派遣し、6月3日夜から4日の朝方にかけて、天安門広場周辺で抗議活動をしている大学生へ武力弾圧を始めた。 戦車が青年たちの体を踏み潰し、機関銃を持つ兵士が学生や市民に向けて乱射し、大勢の人々が無差別に殺された。・・・・当時、すでに日本に留学していた私は難を逃れることができたが、私と面識のある数名の同志たちは、まさにこの「北京虐殺」においてかけがえのない命を奪われた。・・・・
 天安門事件で殺された人々のなかに、袁力という若者がいた。年齢は私より一歳半上で、1960年7月7日の生まれである。当時、袁力は北方交通大学修士課程を卒業して、国家電子工業省所属の自動化研究所に勤めていた。・・・・
 この年の4月下旬に民主化運動が勃発した後も、仕事に没頭していた袁力は、デモなどの抗議行動にそれほど積極的に参加しなかった、だが、同時代に生きる多くの若者たちと同様、彼も当然運動の展開を熱心に支持し、行く末に多大な関心をもっていた。
 毎日の仕事から帰宅すると、彼はさっさと夕飯を済まし、自転車で近所の中国人民大学へ行き、そこで民主運動の新しい動向や関連ニュースを聞き出すのである。そして夜遅くにふたたび家に帰ると、両親や弟を起して、自分が聞いてきたことを報告しながら,運動の行く末や国の将来について自分の意見を熱っぽく語り、家族と論争することもあった。
 5月19日、中国政府はとうとう北京において戒厳令を敷く事態になった。その時から、学生運動にたいする軍の武力鎮圧が現実味を帯びてきたが、袁力は頑としてそれを信じなかった。彼は「人民解放軍は人民に銃口を向けるようなことは絶対ない」と断言したという。

 そして、6月3日の晩、悲劇のときがやってきた。その日、袁力は友達と一緒に一日中出かけた。人民解放軍の戒厳部隊がすでに北京市外に迫っていたので、袁力らは市内への入口の一つである「公主墳」という交差点へ行き、やってくる解放軍先頭部隊にたいして宣伝活動を行い、北京から撤退するよう説得しようとした。しかし日が暮れても先頭部隊がなかなか現れなかったので、夜の九時頃に袁力はいったん帰宅した。一晩休んでから、翌日に引き続き、人民解放軍を説得しにいくつもりであった。
 その時であった。夜11時半頃、袁力の家の近くにある木犀地という長安街の交差点付近で、爆竹のような銃声が炸裂するのが聞えた。袁力はまっすぐに家から飛び出し、玄関の外に置いてある自転車に乗ろうとした。彼の後ろについて飛び出してきた母親の李雪文さんは力いっぱい袁力の自転車を止めて、「やめなさい。解放軍はもう発砲しているのよ。危険だよ。止めなさい」と、彼の外出を阻もうとした。しかし袁力は、「こんな時に何を言っているんだ。家でじっとなんて、できるわけないだろう」と険しい表情で怒り出し、気でも狂ったかのように自転車を母親の手から奪おうとした。そして、母親の手が緩まった瞬間、彼の体はすでに自転車の上に跨り、あっという間に闇の中に消え去ったのである。
それは、母親の李雪文さんが袁力の姿を見た最後であった。・・・・
 両親は今度は、自転車に乗って天安門広場の方向へ向い、息子の姿を探しまわった。途中、両親が目撃したのは、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図であった。彼らはその時に見た光景を、手記の中でこう記している。
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posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国