2008年04月17日

大量殺人で成る中共

破落戸(ならずもの)達との共謀殺人

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。共産党と自国民の大量殺人は共産主義者のロシア革命以来の常識でしょう。中国共産党も大量殺人から身を起したと著者は書いています。
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引用開始
1921年7月、中国共産党は上海で第一回党大会を開き、コミンテルンの中国支部として発足した。・・・・
 運命の悪戯か、中国共産党の成長を手助けしたのは、温和な国民革命を目指す孫文の国民党であった。1924年、数々の革命に挫折してきた孫文は、目的達成のために悪魔と手を組む覚悟でコミンテルンと提携し、援助を受けた。コミンテルンからの交換条件として、国民党は生れたばかりの中国共産党を組織内部に受入れた。「第一次国共合作」の成立である。その後しばらくの間、国民党という母体に寄生しながら侵食するのが、共産党による党勢拡大の戦略となった。
1927年、孫文亡き後の国民党軍は蒋介石に率いられ、根拠地である中国南部の広東省から北方へ向けて軍を進めた。「北伐」が開始したのである。国民党軍は各地の軍閥たちを次々に打倒して全国政権の樹立を目指したが、その途上、共産党による新政権の乗っ取り計画が発覚した。・・・・激怒した蒋介石は断固とした行動をとった。国民党と国民党軍に潜り込んだ共産党員をいっせいに洗い出し、追い出したのである。

 「清党」と呼ばれる蒋介石の措置で行き場を失った中国共産党は、暴動を起して独自の勢力をつくる戦略を取った。まず1927年8月、周恩来を中心とする党の中央組織が国民党軍の一部を乗っ取って江西省の南昌で暴動を起し、中国共産党軍の樹立を宣言した。
 続いて米の収穫が終るころ、以前から湖南省の農村地帯で「農民運動」に取り組んでいた毛沢東が、農民軍を組織して有名な「秋収蜂起」を発動した。
 しかし、二つの暴動はともに失敗に終った。毛沢東が率いる農民軍の敗残兵は、食糧補給のための略奪と、兵力補給のための拉致行為を繰返し逃走した。そして、江西省南部の奥地にある井崗山にたどりついた。
 そこで毛沢東らは、以前から山を占領していた王佐と袁文才という二人の山賊のボスを取り込んで、彼らに頼って山中で生き延びた。しばらくすると王佐と袁文才ら幹部たちは次々殺され、600人あまりの下っ端の兵卒が毛沢東の部隊に吸収された。井崗山はこれで、まんまと毛沢東の手に落ちた。中国共産党の最初の「革命根拠地」はこうして作られた。
 年が明けた1928年4月、南昌で蜂起した朱徳率いる共産党軍は、一万人規模の大部隊で井崗山にやって来て、毛沢東の部隊に合流した。勢いを得た共産党軍は(この時から「紅軍」と称した)、この年の夏に山から降りて、周辺地域の町や農村地帯を次々に攻略して、革命根拠地を拡大していった。・・・・
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posted by 小楠 at 07:12| Comment(0) | TrackBack(1) | 書棚の中の中国