2008年04月30日

知ってはならない歴史5

韓国併合で知ってはならない歴史3

若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。

引用開始
 当時の日本でも(朝鮮との)合併に対して異論がなかったわけではない。伊藤博文は保護国論に近い立場にあった。強硬な合併論者はいても、いわゆる植民地化論者は皆無であった。これが事実である。当時の朝鮮は極度に貧しく、李朝の苛斂誅求によって国は衰亡したも同然であった。朝鮮の前には、独立の選択肢は存在していなかった。滅亡か、日本との連衡による滅亡回避かの二択しかなく、他の道はあり得なかった。これが歴史の事実である。
 当時の日本に朝鮮植民地論者は皆無であった、と書いた。
 植民地という以上は、コロニーとしての「うま味」がなければならない。例えば収奪の対象になり得る財貨・物産が、当時の朝鮮に存したのだろうか。
 そんな物はありはしない。
収奪した物を運ぶ道路はない。鉄道はない。港湾はない。橋はない。破壊されたハゲ山、堤防のない河川と、洪水の危機に曝され、野放しの農地と破壊された自然というのが、李朝支配五百年余の惨たる風景であった。
 李朝の国是は「衛正斥邪」だが、この中華従属イデオロギーの自家中毒が李氏朝鮮滅亡の根本原因である。

 半島が独立したのは日清戦争での清国の敗北の結果であり、下関条約第一条で朝鮮の独立が規定されてからである。にもかかわらず、朝鮮の独立を奪ったのは日本だという韓国人、朝鮮人がいることを、私は奇観だと思う。同時に、私は合併は日本の現代史上、最大の過誤であったと言わざるを得ない。
 元の時代、高麗朝の貴族は競って「創氏改名」して、モンゴル式の名を名乗った。元が明に代わると、高麗の武将の李成桂は高麗朝を滅ぼし、朝鮮の国号を頂戴した。そしてさらに「創氏改名」して中華風の名乗りに変えた。
 清の時代になると、清朝は満州族の王朝だから、朝鮮は明に殉じて小中華をもって任じ「衛正斥邪」を国是とした。だから、明に忠節を尽そうとした宋時烈たちの義挙もあった。だが、清軍に撃破(丙子胡乱、1636年など)されると清の忠良なる属国となった。
 日本と合併ののちは、「創氏改名」を希望する者が多く、朝鮮総督府は申告制で対応した。・・・・・日本式の名乗りが多くの利便を韓国人に与えたことは事実である。支那でも、アジアでも欧米ででも、日本人として振る舞うことの利便は大きかったし、日本式の名乗りを好んだ韓国人は少なくはなかった(台湾では許可制であった)。特に支那では、ほとんどの韓国人が日本式の名乗りを用いた。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2008年04月28日

知ってはならない歴史4

韓国併合で知ってはならない歴史2

若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。

引用開始
 李朝では清国の干渉を逃れるために、密かにロシアに接近する構想が練られ始めていた。1885年(明治十七年)一月に甲申事変の後始末のための漢城条約の交渉が始まると、ウラジオストックに密使が派遣された。策謀者はメレンドルフ(清国政府推薦のドイツ人外交顧問)である。
 メレンドルフは謝罪使として東京を訪れているが、滞在期間の大部分をロシア公使館書記官スペールとの会談に費やしている。メレンドルフは天津条約に言う朝鮮軍隊の訓練にあたる第三国にロシアを当てようとしたのである。彼は清国の顧問官であり、清国を裏切ったようではあるが、清国もロシアを「利用」する気持を抱いていた。それは清国へのロシアの圧力を朝鮮経由で日本に充てようという以夷制夷策に出ている。
 メレンドルフの提案をスペールは受諾した。
 ところが、四月十八日に天津条約が締結され日清両国以外から軍事教官を招くべきことが決められると、李朝政府はアメリカから軍事教官を招くことを決定した。
 六月に漢城に到着したスペールは違約を責めるが、外務督弁・金充植は不知として相手にならない。交渉は紛糾した。

 こうしたなかで朝露密約の存在が暴露された。内容の要点は次のようである。
1、金玉均がウラジオストックに来れば、ロシアは逮捕して朝鮮政府に引き渡す。
2、日本への賠償金はロシアが日本政府への影響力を行使する。
3、外国が朝鮮を攻撃するときはロシア軍が相手となる。
4、朝鮮の海軍の代行をロシアが担当する。

 外務督弁・金充植らがウソを言ったわけではない。ウソを言ったのではなく、李朝内部の意見の分裂が露呈されたのである。・・・・
 甲申事変後の朝鮮政府内では、閔氏派は清国への服属を嫌い、もっと強大なロシア帝国の力に依存しようとする別の事大主義が力を得ていた。
・・・・朝鮮半島は、ロシアのものになると列強は見始めた。果然、イギリスが動いた。
 明治十八(1885)年四月、イギリス艦隊は朝鮮半島の南端の巨文島を占領した。朝鮮海峡を扼するこの島は、ロシアの東洋艦隊の行動を同時に扼する位置を占めている。ロシアはイギリスに抗議して、巨文島の占領を続けるならば自国も朝鮮の一部を占領すると主張した。イギリスは聞かずに、砲台構築を進めた。
 英露交渉は二年間にわたったが、清国の仲介で、ロシアは朝鮮を占領しないと宣言したことで、そしてこれを清国が「保証する」という了解のもとで、英国艦隊は去った。

続きを読む
posted by 小楠 at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2008年04月26日

知ってはならない歴史3

韓国併合で知ってはならない歴史1

若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。

引用開始
 幕末から明治の日本を支配していた空気は、ロシアへの恐怖である。露国や列強に支配され、ひいては滅ぼされるのではないかという恐怖感は、なまなましい現実感を帯びていた。
 黒船の脅しに始まり、不平等条約を無理矢理に呑まされる過程で思い知らされた彼我の武力の絶対的な格差は、「富国強兵」・「殖産興業」の道を猛烈な勢いで日本を進ませることになる。エネルギーは「追いつける」という感覚である。
 当初、日本の描いた構想は、日本・清国・朝鮮(李氏朝鮮)の三国の連衡であった。
この連衡の構想は、橋本左内・吉田松陰・横井小楠たちも考えたものであったが、根はもっと深い。
 西郷隆盛のことを「征韓論」の武断主義者のように言う人もいるが、誤解である。明治六年の西郷隆盛の下野を、「征韓論」否決の抗議と書く歴史書(例えば、高校教科書)は例外なく史実を曲げている。

 高校の教科書の例に、『日本史A 現代からの歴史』(東京書籍 日A553)をあげておく。この教科書は西郷のみならず木戸、大久保たちもみな征韓論者として描いている(四十五頁)。
 江華島事件を
「日本軍艦の徴発によって砲撃事件(江華島事件)がおこるや、大久保らとともに(木戸も)朝鮮に対する強硬策を主張している。その結果、欧米からおしつけられた不平等条約を、逆に朝鮮におしつけたのである(日朝修好条規)」と書くのであるが(同頁)、こんなところが日本人に「おしつけられた」歴史の一端である。

 西郷、大久保、木戸・・・・とまるで日本の政府は侵略主義者の巣窟である。まともな感覚の文章とは思えないが、わが国の高校生はこのように教育されているのである。・・・・・
 日本の開国と朝鮮(李氏朝鮮)の出会いの不幸は、その精神世界の舞台が「衛正斥邪」と「尊王攘夷」意識の大きな隔たりにあった。・・・
 1868年、日本は明治元年である。十二月、対馬藩の代表たちが釜山に到着した。明治新政府の派遣した使節たちである。この使節たちの持参した国書の受け取りを朝鮮が拒否した、理由は日本の国書は「皇上」「奏勅」「朝廷」の文字を用いていることや、印璽や署名が伝統と異なる、などがその理由である。
 まさに「衛正斥邪」である。中華秩序と儒教が正義であり、これに服さない者を邪とする精神世界からは、日本ごとき島夷が僭上にも「皇上」とか「朝廷」の言葉をちりばめた国書を朝鮮にもたらすなど、絶対に許されることではないのである。

続きを読む
posted by 小楠 at 07:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2008年04月25日

知ってはならない歴史2

日本人が「知ってはならない」戦後の追撃戦

 若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
これは特にお薦めしたい本です、是非購読してみて下さい。

引用開始
 支那事変は日本の侵略という。しかし、支那事変を始めたのは日本ではない。盧溝橋事件は、中国共産党軍の日支両軍への発砲により始まったものであり、そして、その背後にはコミンテルンの世界革命の戦略が深く関わっていた。民国政府・軍部も日本も盧溝橋事件の拡大を避けようとした。しかし、停戦協定がなるたびにテロが繰り返された。これらのテロは、コミンテルンの指示・支持を受けた中国共産党が実行したものである。
 大陸の日本人へのテロに憤激した軍部が、戦火を拡大していったという話は、非常に不正確なハナシである。事態はそんなに単純ではない。陸軍の参謀本部、海軍の軍令部もともに不拡大・収拾の方針であった。ただ陸軍省・海軍省が一撃後和平と割れていた。
 問題は日本政府の内部にあった。昭和に入ると、日本の政官界の内部には多数の共産主義者が要路に潜伏するようになっていた。コミンテルンの人民戦線戦術によるものである。先に書いたように、日本には一撃後和平論者はいたが、日本には支那事変拡大派はいなかった。ただし、二人だけいた。尾崎秀実と、工作された近衛文麿である。

 表の共産党は当局の取り締まりで、ほぼ壊滅させられたまま終戦にいたる。獄中十八年とかの「英雄的闘士」は、表の部分の残党にすぎない。獄中とは、生命と三度の食事が保証された世界である。善良な国民は職域に殉じ、戦陣に倒れていった。獄中での拷問を口にする人がいるが、内務班の辛さと戦地の地獄を思えば、獄中など天国だと吐き捨てるように言う多数の元兵士たちを、私は知っている。
 コミンテルンは、主戦力は潜り込ませたのである。尾崎・ゾルゲ事件は露頭部の一部にすぎない。これは捜査が中途で終っているからである。
 北進してソ連と対峙する路線が、なぜか米英と対決する南進に転換していった過程は十分に研究されなければならない。今や資料の類は続々と明らかになりつつある。
 中国大陸での泥沼の戦線に日本の大軍を貼り付け、ソ連への脅威を減じ、そして列強同士を噛み合わせるというコミンテルンの政策について、ひとり日本や中国にとどまらず米国の政策決定に関わる研究が急がれている。ルーズベルト政権内部にコミンテルンの影響の痕跡が歴然としている。日本、米国、中国(民国)ともにコミンテルンには存分にやられたのである。・・・・・朝鮮戦争の勃発とともに、マッカーサーは自分がかつての日本が歩んだのと同じ道を進んでいることを知り、愕然となった。日本がマットに沈んだら、たちまち中国、朝鮮、ベトナム、カンボジアは共産主義の制するところとなったからである。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2008年04月24日

知ってはならない歴史

だれが、何を知られては困るのか?

 若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介します。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。これは特にお薦めしたい本です、是非購読してみて下さい。
wakasa01.jpg

先ずは序章の一部から引用します。
引用開始
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
 ずばり言えば、日本人のなかでは日本のメルトダウン(融けて倒れる・融倒)を期待する劣情を秘めている反日的日本人である。ならんで、中国・韓国・朝鮮・ロシア、ひいてはアメリカである。
 中華人民共和国を支配する中国共産党の正統性は、日本帝国主義の侵略から中国人民を解放したという「歴史」を土台にしている。朝鮮民主主義人民共和国についても、事情は同じである。「抗日・解放」が朝鮮労働党支配の正統性の根拠である。
 しかし、心ある歴史家なら、これらの抗日解放の「歴史」は史実に反する偽史であることを知っている。早い話が、抗日パルチザンで「英雄」だった金日成と、ソ連軍に担がれて北朝鮮の支配者になった「金日成」は、まったくの別人であることは公然の事実なのに、この事実は「知ってはならない」のである。これを知らない人が本当にいるのなら、その人は単に無知であるにすぎないか、あるいは「知ってはならない」政策の犠牲者にほかならない。金聖柱ソ連軍大尉が、突如、金日成となり本人を知る人々は仰天した。

 日本が中国を侵略したというが、日本と中国の戦争は日本が始めたものではない。盧溝橋事件だけのことを言っているのではない。今日では、同事件での日本軍への射撃は共産党の工作であることが明らかになっている。・・・
 私は単に共産党の工作のみを指摘しているのではない。現地解決の和平をぶち壊した「通州事件」の工作を言うだけでもない。昭和十二年の上海事変は蒋介石の主力十個師団余が二十万の兵力を集中し、五千余の日本海軍陸戦隊と十万余日本人(女性・子供を含む)を全滅させようと企図した事件である。蒋介石はドイツの元参謀総長ゼークト(第一次世界大戦の名参謀総長とうたわれた)と彼のスタッフを顧問団に招き、軍の編成、訓練ならびに実戦の指導を依頼していたが、これはソ連とドイツのラッパロ条約を背景にしている。
(ラッパロ条約・・1922年4月26日、ソ連とドイツの間で結ばれた秘密条約。ドイツ国防軍もソ連赤軍も密かにドイツ主導のもとで進められた。蒋介石はソ連の仲介でゼークトたちを受け入れていた。)
 第一次世界大戦の敗戦国ドイツは、この密約により、列強の包囲下にあったソ連軍建設の指導に当るとともに、密かにドイツ国防軍の再建の骨格を準備していた。空軍や機甲師団建設の準備はソ連国内で進められていたのであった。これも今では周知の事実である。
 国共合作により蒋介石軍の中にソ連の影響力が一気に広まっていった。
 上海事変はこのような国際的背景をもっている。・・・
続きを読む
posted by 小楠 at 07:18| Comment(5) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2008年04月23日

18年前の北京虐殺

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は著者の同志が命を奪われた天安門事件についてです。

引用開始
 1989年4月、北京を中心とする中国各地で大学生たちは政治の改革や、官僚腐敗の厳罰などを訴えて、嵐のごとく民主化運動をいっせいに起した。それにたいして、中国共産党政権は戦車や正規軍部隊を北京市内に派遣し、6月3日夜から4日の朝方にかけて、天安門広場周辺で抗議活動をしている大学生へ武力弾圧を始めた。 戦車が青年たちの体を踏み潰し、機関銃を持つ兵士が学生や市民に向けて乱射し、大勢の人々が無差別に殺された。・・・・当時、すでに日本に留学していた私は難を逃れることができたが、私と面識のある数名の同志たちは、まさにこの「北京虐殺」においてかけがえのない命を奪われた。・・・・
 天安門事件で殺された人々のなかに、袁力という若者がいた。年齢は私より一歳半上で、1960年7月7日の生まれである。当時、袁力は北方交通大学修士課程を卒業して、国家電子工業省所属の自動化研究所に勤めていた。・・・・
 この年の4月下旬に民主化運動が勃発した後も、仕事に没頭していた袁力は、デモなどの抗議行動にそれほど積極的に参加しなかった、だが、同時代に生きる多くの若者たちと同様、彼も当然運動の展開を熱心に支持し、行く末に多大な関心をもっていた。
 毎日の仕事から帰宅すると、彼はさっさと夕飯を済まし、自転車で近所の中国人民大学へ行き、そこで民主運動の新しい動向や関連ニュースを聞き出すのである。そして夜遅くにふたたび家に帰ると、両親や弟を起して、自分が聞いてきたことを報告しながら,運動の行く末や国の将来について自分の意見を熱っぽく語り、家族と論争することもあった。
 5月19日、中国政府はとうとう北京において戒厳令を敷く事態になった。その時から、学生運動にたいする軍の武力鎮圧が現実味を帯びてきたが、袁力は頑としてそれを信じなかった。彼は「人民解放軍は人民に銃口を向けるようなことは絶対ない」と断言したという。

 そして、6月3日の晩、悲劇のときがやってきた。その日、袁力は友達と一緒に一日中出かけた。人民解放軍の戒厳部隊がすでに北京市外に迫っていたので、袁力らは市内への入口の一つである「公主墳」という交差点へ行き、やってくる解放軍先頭部隊にたいして宣伝活動を行い、北京から撤退するよう説得しようとした。しかし日が暮れても先頭部隊がなかなか現れなかったので、夜の九時頃に袁力はいったん帰宅した。一晩休んでから、翌日に引き続き、人民解放軍を説得しにいくつもりであった。
 その時であった。夜11時半頃、袁力の家の近くにある木犀地という長安街の交差点付近で、爆竹のような銃声が炸裂するのが聞えた。袁力はまっすぐに家から飛び出し、玄関の外に置いてある自転車に乗ろうとした。彼の後ろについて飛び出してきた母親の李雪文さんは力いっぱい袁力の自転車を止めて、「やめなさい。解放軍はもう発砲しているのよ。危険だよ。止めなさい」と、彼の外出を阻もうとした。しかし袁力は、「こんな時に何を言っているんだ。家でじっとなんて、できるわけないだろう」と険しい表情で怒り出し、気でも狂ったかのように自転車を母親の手から奪おうとした。そして、母親の手が緩まった瞬間、彼の体はすでに自転車の上に跨り、あっという間に闇の中に消え去ったのである。
それは、母親の李雪文さんが袁力の姿を見た最後であった。・・・・
 両親は今度は、自転車に乗って天安門広場の方向へ向い、息子の姿を探しまわった。途中、両親が目撃したのは、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図であった。彼らはその時に見た光景を、手記の中でこう記している。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国

2008年04月22日

中共恒例祝日前殺人祭典

処刑者の頭数確保で発明された「悪攻罪」

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は文化大革命時の凄惨な殺人の実態です。
写真はハルビン郊外で民衆の前での処刑。マオより
sekihei04.jpg

引用開始
 文革中、共産党の創立記念日、国慶節、元旦などの「祝日」の直前には、全国各地の大小都市でかならず「公判大会」と称する公開処刑のための群衆大集会が開かれた。都市の規模で異なるが、一度の大会で十数名から三十数名の「反革命分子」が人民裁判で死刑を宣告され、即時銃殺となるのが慣例だった。
 中学生の時分から四川省の成都市に住む私も鮮明に記憶しているが、「祝日」の直前になると、市内の街角のあちこちに死刑宣告の「布告」が貼り出される。大きな貼り紙に数十名の受刑者の名前と罪状が順番に並べて書かれているが、一人ひとりの名前に、「死刑」を意味する赤い字で☓☓☓という符号が鮮明につけられていることは特に印象的であった。時には、中学校の生徒全員が「公判大会」に動員されることがあった。・・・・
 しかしこれが恒例化してくると、各都市の「革命委員会」は処刑を行うための「反革命分子」の人数の確保にずいぶん苦労したようである。・・・

 そこで、各地方の「革命委員会」が考え出した唯一の解決法は、「反革命分子」という罪名の適応する範囲の恣意的な拡大である。
 たとえば、当時、流行っていた「悪攻罪」は、すなわち「毛主席に対する悪辣な攻撃の罪」の拡大解釈によって発明された。・・・拡大解釈が進むと、毛沢東の政策や政治スタイルにほんの少し疑問や不信感を呈するだけでも、「悪攻罪」として認定される。・・・
毛沢東の肖像画や語録を不注意で汚したり破ったりすることも、毛沢東の顔写真が掲載された新聞紙を使って野菜を包んだり竈の火を点けることも、ことごとく「悪攻罪」にされた。

階級の敵根絶のための大虐殺
 文革中、毛沢東の手先の紅衛兵や地痞流氓たちは時々、「階級の敵=人民の敵」にたいして集団大虐殺を行うこともあった。
 中国上海出身の文革史研究者で、現在は米国カリフォルニア大学に勤める宋永毅氏は、文革中に起きた一連の「集団虐殺事件」にたいする綿密な現地調査に基いて、2002年7月に『文革大屠殺』を上梓して香港の開放雑誌社から刊行した。後に『毛沢東の文革大屠殺』というタイトルで原書房から邦訳されたこの著作は、大屠殺の実態に関する最も確実な研究書であるといえる。・・・・

広西賓陽虐殺事件
 1968年7月3日、中国共産党中央委員会、中国国務院、中央軍事委員会が連名で「7・3布告」を公表し、全国の党組織、政府機関、人民解放軍にたいして、「階級の敵をいっそう厳しく鎮圧せよ」と殺戮の大号令をかけた。それを受けて、広西自治区賓陽県革命委員会はさっそく全県内において組織的な虐殺を実施し、有名な「賓陽大虐殺」を引き起した。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:12| Comment(0) | TrackBack(1) | 書棚の中の中国

2008年04月21日

殺人者の楽園文化大革命

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は朝日新聞などが絶賛していた文化大革命の記述です。
写真は批闘会に引出された前国防部長、彭特懐。マオより
sekihei03.jpg

引用開始
 毛沢東が権威回復のために破落戸(ならず者)と無知層を利用し数千万人の餓死者を出した大飢饉の発生をもって、毛沢東が推進した「大躍進政策」は完全に失敗に終った。それで威信を失墜した毛沢東は、徐々に党務と政務の第一線から退き・・・・毛沢東自身は、党全体から敬して遠ざけられる「雲の上」の存在となった。
 まさにこの政治状況を打破して自らの政治権威を回復するために、毛沢東は文革の発動に踏み切ったのだ。彼がとった政治手法は、党と政府の幹部階層にたいする一般民衆の不満を利用して、「下からの造反」という形の民衆運動で党の組織を破壊し、党内実務派を一掃することであった。
 毛沢東は林彪将軍という野心家の軍人を手先に使って軍隊を掌握する一方、「地痞流氓」の文人版である「四人組」を党の中枢部に抜擢して身辺を固めた。その上で、毛沢東は天真爛漫にして無知な学生たちを煽り立てて紅衛兵として組織し、社会下層の破落戸たちを「造反派」に仕立てた。
 
彼らを突撃部隊として、狂瀾怒涛のごとく造反運動をいっきに展開したのである。
 いったん発動された造反運動の及ぼす範囲は、もはや各級の党組織や実務派幹部たちを対象とする限定的なものに止まらなかった。いつのまにか、大学の教授から小学校の先生まで、作家・芸術家から各分野の芸能人まで、旧家・素封家の出身者から地主や資本家たちの子孫まで、医師や技術者から一般の職人まで、要するに中国社会の中で多少の権威と財産と名声を持つ者、あるいは知識と技能を持つ者のほとんど全員が、この凄まじい造反運動に巻き込まれて、政治的迫害の格好のターゲットとなったのである。
 どうしてそうなったのかといえば、理由は簡単である。
 この「大革命」は中国社会の中の破落戸の階層と、無知な紅衛兵たちを主力部隊とする「地痞流氓の革命」である。したがって、普段なら地痞流氓と正反対の社会的立場にある人たち、あるいは社会下層の地痞流氓からすると嫉妬と恨みの対象となりえる人たちは当然、この「大革命」で打倒され迫害される羽目にならざるを得ない。そして、「理由なき反抗」に飢えている紅衛兵たちにしてみれば、なんらかの「権威」をもった煙たい存在、たとえば学校の先生などは、造反運動の格好の対象なのである。
 とにかく、紅軍時代に敢行した「一村一焼一殺」と同様、毛沢東のひきおこした革命はいつまでも、下品な「地痞流氓」の造反なのである。そして、無知な紅衛兵と人間性の欠如した地痞流氓を主力部隊とする史上空前の大造反運動は、やり方も、残忍極まりないものであった。・・・・
続きを読む
posted by 小楠 at 07:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国

2008年04月19日

中共政権後の大虐殺

200万人の命を奪った土地改革運動

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は国民党との内戦に勝利し政権を樹立してから、思う存分大虐殺を断行した中国共産党です。
写真は大量公開処刑、地主や特務(スパイ)の字が見える。マオより
sekihei02.jpg

引用開始
 政権樹立の翌1950年初頭から、中国共産党政権はさっそく全国規模の「土地改革」を実行した。それは、今まで「革命根拠地」で行ってきた、地主、素封家たちを対象とする「一村一焼一殺」を、全国的に展開していくことであった。全国の村々の農民を総動員して地主たちを吊るし上げ、土地その他の全財産を奪ったのである。
 地主たちから没収した土地以外の財産はすべて政権側の懐に入り、新しく成立した中華人民共和国の国家財政を支える重要な財源となった。土地はすべて農民に配分されたが、もちろん中国全土の農民は、共産党政権にたいし「公糧」と称する年貢を納める義務を負わされた。・・・
 それでも、全国で吊るし上げられた六百数十万人の地主のうち、200万人程度は確実に銃殺された。「革命根拠地」開拓時代から共産党軍の協力者だった「地痞流氓」(地域のならずもの)の多くが、出世して立派な「農村幹部」となっていた。彼らの多くは「土地改革のプロ」として、共産党政権が新しく支配した地域に派遣され、土地改革の指導に当っていた。
 指導に当った地域や村では、以前のような「一村一殺」がそのまま再現され、殺戮の嵐がふたたび吹き荒れた。結果、全国で約200万人の地主が命を落としたのである。
 これは、中国共産党政権が天下をとってから、自国民にたいし行った最初の大量虐殺である。


 翌1951年になると、毛沢東からの強制的な殺人命令により、全国規模の大虐殺がまたもや始まった。「反革命分子鎮圧運動」である。共産党政権はこの一年間で、71万人の「反革命分子」と称される人々を人民裁判にかけて銃殺してしまった。・・・・
 手法はこうである。まず、各地の共産党組織が動員大会を開き、反革命分子を告発するよう群衆に呼びかける。そして、群衆からの告発に基くという形をとって、共産党政権が事前に目をつけた反革命分子たちをいっせいに逮捕する。即座に人民裁判にかけ即座に銃殺する。
 1998年に中国本土で出版された『鎮反運動実録』という書物で、「反革命分子鎮圧運動」凄まじさを垣間見ることができる。
 首都北京の場合、動員大会がなんと626回も開かれ、参加人数は330万人以上に達したという。
「(1951年)3月24日、北京市は15000人以上参加する人民代表連合裁判大会を開催し、反革命分子による破壊活動の証拠を示し、被害者による血と涙の告発を行った。大会の模様は、ラジオを通じて全国に生中継された。翌日公安当局は、告発された399名の反革命主犯をことごとく逮捕して、彼らがかつて悪事を働いた各区域へと連行した。各区域の人民法廷はさっそく反革命主犯たちの罪状を公表した上で、その場で判決を言い渡し、直ちに処刑したのである
続きを読む
posted by 小楠 at 07:04| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国

2008年04月18日

中国共産党の殺人方針

「一村一焼一殺」の恐ろしい実態

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は紅軍の元高級幹部が書き記した殺戮と略奪の実態です。

引用開始
 毛沢東が率いる紅軍は、革命根拠地を拡大する中で、「行動方針」を明文化した。「一村一焼一殺、外加全没収」である。
 「一つの村では、一人の土豪を殺し、一軒の家を焼き払い、加えて財産を全部没収する」という意味である。紅軍と配下の破落戸たちは喜んで、この行動方針を忠実に実行した。
 紅軍の元高級幹部だった龔楚が、殺戮と略奪の実態を書き記している。彼は紅軍から離脱して上海へ逃げ、『私と紅軍』という書物を出版した。「一村一焼一殺」の手順を紹介している。

「われわれは未明のうちに村に近づき、まず村全体を包囲し、夜が明けるのを待つ。朝になると、事前に味方につけていた村の地痞を案内人に使って、その村の地痞たち全員を呼びつけて集合させる。彼らから村の地主の詳細な情報を得て、彼らにこれから取るべき行動の手順を教えてやる。
 家族がみな揃って朝食をとる時間を見計らって、われわれは行動を開始する。まず地痞たちと一緒に地主の家に乱入し、家族全員を一ヵ所に監禁してから、すぐさま家全体の捜索を行う。
 金銀の塊、地契(土地の所有証書)、現金の三つがまず確保の対象となる。それらが見つからない場合、家の主を別室に連れ出し、訊問して、所在を聞き出すのである。吐かないときには当然、激しい拷問をする。それでも口を閉じている場合、『吐かなければお前の家族を殺すぞ』と脅しをかける。それでたいてい、目当てのものはすべて手に入る。金銀の塊と現金は、われわれ紅軍のものとなる。それ以外の家財道具は、協力してくれた地痞たちに呉れてやるのがしきたりである。
 地主の家屋だけは、われわれ紅軍もどこへ持っていくこともできない。分けて配分することもできないため、燃やしてしまう。
 あとは土地の処分である。村人全員を村の中心の広場に集めて、地主の家から持ち出した地契をすべて燃やしてしまう。それから、土地は全部お前たちただでやるから、あとはわれわれ紅軍にしっかりと地租(年貢)を納めるようにいう。棚からぼた餅の村人たちは、歓声を上げて大喜びするのがいつもの光景である。その際、もしわれわれ紅軍に兵員補給の必要があれば、土地を配分する代わりに、村民たちに壮丁を兵隊に出すよう要求する場合もある。
 最後に、盛大な祭りが残されている。監禁している地主を広場に引きずり出して、村人に裁判を開かせる。その際、事前の言い合わせにしたがって、地痞たちの何人かが前に出て、涙を流してこの地主の平素の罪状を一つひとつ憤りを込めて告訴する。大半はおそらくでまかせの作り話だろうが、主催者のわれわれ紅軍は当然、真偽を問いただすような余計な真似はしない。罪名と罪状が備わればそれでよいのである。
 そして、いよいよ『その時』がやってくる。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:09| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国

2008年04月17日

大量殺人で成る中共

破落戸(ならずもの)達との共謀殺人

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。共産党と自国民の大量殺人は共産主義者のロシア革命以来の常識でしょう。中国共産党も大量殺人から身を起したと著者は書いています。
sekihei01.jpg

引用開始
1921年7月、中国共産党は上海で第一回党大会を開き、コミンテルンの中国支部として発足した。・・・・
 運命の悪戯か、中国共産党の成長を手助けしたのは、温和な国民革命を目指す孫文の国民党であった。1924年、数々の革命に挫折してきた孫文は、目的達成のために悪魔と手を組む覚悟でコミンテルンと提携し、援助を受けた。コミンテルンからの交換条件として、国民党は生れたばかりの中国共産党を組織内部に受入れた。「第一次国共合作」の成立である。その後しばらくの間、国民党という母体に寄生しながら侵食するのが、共産党による党勢拡大の戦略となった。
1927年、孫文亡き後の国民党軍は蒋介石に率いられ、根拠地である中国南部の広東省から北方へ向けて軍を進めた。「北伐」が開始したのである。国民党軍は各地の軍閥たちを次々に打倒して全国政権の樹立を目指したが、その途上、共産党による新政権の乗っ取り計画が発覚した。・・・・激怒した蒋介石は断固とした行動をとった。国民党と国民党軍に潜り込んだ共産党員をいっせいに洗い出し、追い出したのである。

 「清党」と呼ばれる蒋介石の措置で行き場を失った中国共産党は、暴動を起して独自の勢力をつくる戦略を取った。まず1927年8月、周恩来を中心とする党の中央組織が国民党軍の一部を乗っ取って江西省の南昌で暴動を起し、中国共産党軍の樹立を宣言した。
 続いて米の収穫が終るころ、以前から湖南省の農村地帯で「農民運動」に取り組んでいた毛沢東が、農民軍を組織して有名な「秋収蜂起」を発動した。
 しかし、二つの暴動はともに失敗に終った。毛沢東が率いる農民軍の敗残兵は、食糧補給のための略奪と、兵力補給のための拉致行為を繰返し逃走した。そして、江西省南部の奥地にある井崗山にたどりついた。
 そこで毛沢東らは、以前から山を占領していた王佐と袁文才という二人の山賊のボスを取り込んで、彼らに頼って山中で生き延びた。しばらくすると王佐と袁文才ら幹部たちは次々殺され、600人あまりの下っ端の兵卒が毛沢東の部隊に吸収された。井崗山はこれで、まんまと毛沢東の手に落ちた。中国共産党の最初の「革命根拠地」はこうして作られた。
 年が明けた1928年4月、南昌で蜂起した朱徳率いる共産党軍は、一万人規模の大部隊で井崗山にやって来て、毛沢東の部隊に合流した。勢いを得た共産党軍は(この時から「紅軍」と称した)、この年の夏に山から降りて、周辺地域の町や農村地帯を次々に攻略して、革命根拠地を拡大していった。・・・・
続きを読む
posted by 小楠 at 07:12| Comment(0) | TrackBack(1) | 書棚の中の中国

2008年04月15日

将軍の小姓の身の上話4

維新の将軍慶喜に仕えた小姓4

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。

引用開始
 戦闘の知らせは、たちまちひろがり、もちろん将軍の耳にも入った。この日、御前は、後になって官軍と知られる側に加わっていた主な一大名の家老に謁見を許した。この家老は、将軍に毅然とした態度を取るように促し、そうすれば、刀一本たりとも、将軍に向って抜かせないと保証した。
 突然、使者が駆け込んで来て、伏見の戦闘が始まったことを告げた、ただちに混乱状態が起った。
戦闘は三藩に有利だった。その最中に、極めて嘆かわしい裏切りが起った。伏見に布陣していた津藩が敵方に投じて、友軍に刃向かって来た。この大名の偉大な祖先は、家康の最も忠実な部下の一人だったし、誰も、こんな卑劣な戦場放棄が起ろうとは、考えても見なかった。
 養父が将軍に従って大坂に行った時、私も同行した。それで、私は事態の進展を目撃していた。

 戦闘と幕軍の敗退を聞くと、慶喜はただちに江戸への出発準備を命じた。そこで養父は急いで、心斎橋近くの舟小屋から小舟を手に入れ、将軍はこれに乗って、在港中の汽船へ急いだ。将軍と数人の御老中と役人は、無事に開陽丸に着いた。ただちに蒸気があげられ、進路を江戸に向けたそうだ。
 今や、あらゆる困難が始まった。私自身についていえば、どうやって逃げたのかわからない。養父は御前と同行し、私は一人城内に残された。大部分の兵士が恐怖にとらわれた。たくさんの千両箱を見たが、誰も最初は、それを持ち出そうとは思わなかった。みんな自分の命のことだけ考えていた。ついに、ほかの者よりも冷静だった一人の役人が全兵士に、全力を尽して、紀州へ向うように命じ、千両箱はその路銀にあてるために持ち出された。
 奥女中は、開戦の数日前に、海路から江戸へ行った者もあったので、そこは、すでに人気がなかった。
 三藩の兵士は素早く大坂に着き、徳川軍が放火していた城を占領した。そしてくまなく捜索した。その間にある者は外国公使館へ向った。ここでも人気はなかった。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本

2008年04月14日

将軍の小姓の身の上話3

維新の将軍慶喜に仕えた小姓3
今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。

引用開始
 私は、丈夫な身体ではないが、幼い時から父に剣術を教えられていた。それで、剣術では、相手として人から軽蔑されることは決してなかった。また槍と弓術の使い手だったが、特に所望されないかぎり、殿中では自分の力量を見せたことはなかった。
 将軍の一番のお気に入りの競技で、また非常にすぐれていたのが打球(馬上ホッケー)で、小姓達に競技に加わるように命じるのが常だった。また時には、一緒に射撃をするように命じることもあったが、これは、めったになかった。私は馬術では上達していなかったが、少しは心得があり、これは将軍が教えて下さった。

 以上が殿中における表面の生活だったが、私どもはみな、主人の心に重荷がかかっていることを知っていた。この重荷に堪えるには、毅然とした人物が必要だった。私どもは始終、将軍の傍にいたが、幕府内部で起っている事柄を聞くことはなかった。
 将軍が普段よりも落ち着かなく見える時もあったが、概してもの静かで、無口だった。今となっては、将軍の生活が幸福だったというわけにはゆかなかったと思う。というのは、友人がいなかったからだ。
 大名でも、将軍とははかり知れないほど、身分の低い者と見なされていたので、彼らと交際することは不可能だった。将軍の前に出る大名は、床まで頭をすりつけて、会見の間中この姿勢でいなければならなかった。したがって、将軍との食事に招かれることはなかった。将軍が大名や他の人と会うのは、厳密に政治に限られていて、それも作法ずくめだった。
 大坂と兵庫を外国人に開港する時期が迫って来た頃の京都の興奮状態を、私はよく覚えている。当時十五歳にすぎなかったが、それでも、私の外国人に対する偏見が、他の日本人同様に、強かったことを十分覚えている。将軍が、外国人について何かいわれるのを聞いたことはなかった。しかし、大坂で仏国公使が将軍を訪れ、公使は、贈物として徳川家の紋入りの刀を授けられ、早速それを革帯にさして、城を辞去した時、私はお傍にいた。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本

2008年04月12日

将軍の小姓の身の上話2

維新の将軍慶喜に仕えた小姓2

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。

引用開始
 私が立ち去ろうとした時、御前は私に、「大きな漢字で詩の一節を書いてみよ」と仰せられた。侍女の一人がしとやかに硯や筆などを持って来て、私に渡した。私は五、六節したためた。しかし、御前はすぐに私の帰宅を許さず、気晴らしのために使う小舟のある池へ、みずから連れて行って下さった。しばらくの間、御前は舟を漕いだ。また網で魚をとり、網の投げ方を教えてくれた。そのあとで彼は、一羽の鷹が空に美しい輪を描いているのを見て、短銃を取り、発砲して殺した。これを見て、私は、将軍が射撃に非凡な腕を持っているという噂が、本当であることを知った。その後将軍が射撃するのをしばしば見たが、滅多に的をはずしたことはなかった。
 将軍は非常に親切だったので、その善良を強調したいと思う。私が辞去する前に、将軍は私に外国のオルゴールと数枚の洋紙――当時日本人の間では比較的珍しかった――と鉄砲、射止めた鷹を下さった。文字どおり、私は将軍の恩を身に受けて帰宅した。これが私の慶喜様についての最初の体験だった。

 帰宅すると、養父は、私が非常に光栄に浴したことを知って、非常に喜び、のちのちまで長い間、語り草となった。その後しばしば御殿に出向き、いつも将軍から、同じように厚遇され、侍女や、その他御殿のすべての人からも厚遇を受けた。
 この頃は、私にとって平穏な日々だった。私は、すぐれた漢学者から教えを受け、上達と勤勉を賞められるのが好きだった。私はこの首都で、美しさと古さと、歴史的な由緒で有名なものはすべて見に行き、人生は全く晴天であるかのように見えた。特にその頃を振り返ってみる時、輝く広い光の道がこの時期を照らしていて、そのために、それ以前のものも、それ以後のものも、すべて一層暗い闇に投げ込んでしまう、と思われた。養父は限りなく愛してくれ、私の未来は、輝かしく、幸福な生涯となると、定まっているように思われたが、永久には続かず、これについては、説明する機会が別にあるであろう。
続きを読む
posted by 小楠 at 08:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本

2008年04月11日

将軍の小姓の身の上話1

維新の将軍慶喜に仕えた小姓1

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は徳川慶喜young14.jpg

引用開始
 殿中における一橋(徳川慶喜)の日常生活を一瞥することは、すべての読者に、特に興味のあることであろう。以下は、将軍の就任時から大坂退去に至るまでの間、小姓として勤めた一紳士が、私に書いてくれた一文だ。これは数年前、雑誌『ファー・イースト』にも載せたが、もう一度掲載する価値が十分あろう。

彼の登城、家茂の親切
 私は1853年(嘉永六年)越前の国の福井市の近くの村に生れた。父は同藩のサムライ、剣術の指南役として有名であり、この道では、私も幼少から、かなり上達していた。十歳で、私はある人の養子となり、京都に連れていかれた。その人は将軍家に勤めていた。
 家茂が京都に来た時、私の養父に、時折私を遊びに、城内に連れて来るように命じた。これが私の城中へのお目見えでした。私は将軍の小姓役を命じられたことはなかったが、しばらくの間、その役を勤めた。家茂の死去から幕府の崩壊までの期間に、私は外国人読者にとって、多分興味深いと思われる多くのことを見聞した。

 家茂が、1858年(安政五年)に前将軍の死後、将軍職に任ぜられた時、まだほんの青年だった。前将軍は、ペリー提督のもたらした米国大統領の親書を受け取ったのち、間もなく死去した。
 家茂は御三家の一つ、紀州候の子息であった。御三家とは、水戸、尾張、紀伊という将軍家の一族で、この三家だけから、将軍が選ばれる。家茂は、ミカドの妹で、非常に可愛らしい和宮(年は彼とほぼ同じ)と結婚した。
 私が始めて将軍にお目にかかったのは、1866年(慶応二年)だった。私の養父は御側御用人、すなわち、小姓の頭であった。これは、城内の全部署を監督すると同時に、将軍の身のまわりの世話や御老中の文書をすべて将軍に伝える役を含んだ職務であって、重要な仕事だった。当時はまた、全大名が毎年一定期間江戸居住を強制されていて、彼らが江戸に着くと、登城して将軍に祝賀の言葉を述べ、例外なく国許から持参した贈物を献上することになっていた。この身分の高い来客の案内をするのが、養父の仕事であって、もちろん非常に重く見られていた。
 私は江戸には行ったことはない。私が始めて京都の城――有名な二条城――に連れて行かれたのは、将軍が上京した時だった。

続きを読む
posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(1) | 書棚の中の日本

2008年04月10日

ヘボン博士のローマ字

ヘボンの『和英語林集成』

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真はヘボン博士
young13.jpg

引用開始
 「宣教師は外国交際の害毒となっている」と、常にある人々は強調してきたし、たぶん今後もそう主張し続けるだろう。その主張とはこうだ、「中国人と日本人とが外国人に示している憎しみは、すべては宣教師に対する嫌悪に由来している。したがって外国人と日本人の間に友情を拡める最善策は、宣教師を一人残らず、どんな名目でもよいから、船に乗せて送り帰してしまい、日本人の宗教に干渉しないことだ」と。幸に、これはすべての人の意見ではないし、多数の意見でもないと思う。これは、極めて誤った意見だ、と私は確信する。

 宣教師が有益であるか、どうかという一般問題に立ち入るつもりはない。教団内の個人個人の宣教師が、日本人の間で果した善事については、多くの実例が挙げられやすい。だが、若干の宣教師の労苦が、中国と日本の双方において、信者以外の同胞に与えた恩恵まで、疑う人はあるまい。
 神奈川が開港すると、真っ先に日本に来た人々の中に、家族連れの二人の宣教師がいた。S・R・ブラウン氏とヘボン博士だ。二人は神奈川で、アメリカ領事館からほど遠からぬ寺を住居とし、数年間ずっと住んでいた。二人とも長い間中国で主(キリスト)の教えのために働いていた。ブラウン氏は、その間弟子を持ったが、そのうちの数人は今、中国を西洋文明の方向へ進ませるのに、非常に熱心な働き手となっている。
 ヘボン博士は医者で宣教師だった。その奉仕は、特に価値のある部類のものだ。というのは、その医術はすぐれており、苦しんでいる多くの長い病気の患者を救うことが出来るという理由から、他の者には出来ないことまで許されていたからだ。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:07| Comment(1) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本

2008年04月09日

将軍と外国人との交際

将軍自身が日本人と外国人の楽しい交際を始めた人

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
young12.jpg
写真はハリー・パークス

引用開始
 5月2日(1867)、パークス卿とその随員は、将軍との私的な会見を許された。会見の終わりに、騎馬護衛隊は将軍の前で、分列式を行い、アプリン大尉の指揮で、演習を見せた、これは将軍を大層喜ばせたようだ。
 ついで英国公使と随員は、大晩餐の用意された部屋に案内された。晩餐はフランス風の料理で提供され、皿やグラスはすべて最高のヨーロッパ製品であった。将軍自身が主人役をつとめた。彼が上座につき、右手にパークス卿が坐った。
 食事の後、デザートがテーブルに出され、将軍は英国の女王と、ついで公使の健康のために乾杯を提案した。この二つの乾杯に対して、パークス卿が答礼の乾杯をした。一行が席を立つと、別棟に会場を移し、コーヒーが供された。将軍の役人が、将軍の贈物を持って来た。

 翌日は、オランダ公使が、将軍と私的会見を行った。あらゆる点で、英国公使の場合と同様だった。数日後、米国公使が到着すると、彼も同じように招かれた。最後にレオン・ロッシュ閣下が将軍の歓待を受けた――その際には、ゲリエール号の軍楽隊が参列した。
 私的会見の数日後に、同じ順序で、公式の会見が行われた。
 公式会見では、日本側役人は殿中の正装で出席した――床の上に長く、後方に引きずる長袴、上衣には、着用者自身と将軍の紋が前側に刺繍してあった。頭には、奇妙な小さい黒い帽子をかぶっていた。
 公使団が城に着くと、外国事務総裁に迎えられ、将軍の前に導かれた。一行は将軍にうやうやしく頭を下げて、一言、二言挨拶した。これに対して、将軍は起立して挨拶を受け、適切な言葉で答礼した。
 ついで一行は、老中筆頭の板倉伊賀守によって別室へ案内され、将軍家の紋を縫い取りした豪華な殿中用装束を贈られた。将軍は、前側に朱色で紋を縫い取りした袖のついている非常に豪華な白絹の召物を着けていた――そして幅の広い袴をはき、小さい黒帽子をかぶり、腰にはみごとな刀を差し、もう一本は脇の刀架にかけてあった。
 私的会見の際には、部屋はすべてヨーロッパの一流のぜいたく品で飾ってあった。床には、豪華なブラッセル絨毯を敷き、壁には、花鳥の描かれている金箔紙が張ってあった。

続きを読む
posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本

2008年04月08日

将軍職を固辞した一橋

一橋(慶喜)は将軍職を受けたがらなかった

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は薩摩藩の武士たちF・ベアト写真集より
young11.jpg

引用開始
 一橋は主権を握ることを固辞した。誰も、彼以上に、はっきりと自分が遭遇しなければならない難局を見通してはいなかった。そこで彼はミカドに対して、「将軍職を免じるか、さもなければ、全面的な信頼を与える、いつでも自由に会見する、さらに内政同様、外国人との条約維持についても自分を支持する、また職務に忠実でなかったり、無視したりするという馬鹿げた報告がミカドのもとに届くかもしれないが、それに耳を貸さない」ことなどを懇請した。
 彼はさらに、「征長戦は、有利な結果にはならないようだし、おそらくは同様の政策へ他の大名の心をかりたてる傾向にあるから、これを中止すべきだ」と提議した。ミカドは、「すべて一橋の望むままにし、彼を全面的に支持しよう」と約束した。

 しかし諸大名からの猛反対が懸念された。最近まで、一橋と薩摩は非常に仲が良く、ともにこの国で改革を行いたいと望んでいる、という話だった。こういう二人の人物が、この目的のために一緒に働けば、かならず良い方に大影響があるというのが、一般の意見だった。ところが、しばらく後で、一橋は、薩摩が目指しているのは、単に政治改革ばかりでなく、将軍家の交替であることに気がついた。かくて、両者の間は冷たくなった。
 しかし、薩摩はまだ数ある大名のうちの一人にすぎなかった。一橋は、数人の大名が最近の数年間取って来たやり方を続けたのでは、政治をうまく運ぶことが出来ないことを、よく知っていた。そこで大名会議が大坂で開かれた。この会議には、最も重要で、有力な大名の多数が出席した。島津三郎も含まれていて(松平大隈守という新しい称号で)、薩摩代表として出席した。新将軍も出席し、自ら議事を始めた。
 将軍は始めに「自分が選ばれ、信任された職を受諾するのはいやだ」と素直に述べた。また、「この地位は諸侯の積極的な協力がなければ、守ることが出来ない。公然とした敵意と不満の徴候が現れたならば、ただちにこの職を捨てるに躊躇しない」と。同時に、自分を支持するために、どんな手段を諸侯に求めているか、ということを知らせるために、彼は次のことを明らかにした。すなわち、「将軍として、自分は、正統であり、また責任のある幕府の統治者としての自分に対し、諸侯の助力と忠誠を期待する、さらにその意見を自分に聞かせたい時にはいつでも、ミカドに次いで国家の元首であり、徳川家創設者の権現様の正統に選ばれ、承認された後継者に対するものとして、尊重出来る、礼儀にかなった手続きをふんで、知らせてもらいたい」と。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本

2008年04月07日

維新前の宇和島訪問

維新前の宇和島から富士登山

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は横浜の茶屋F・ベアト写真集より
young10.jpg

引用開始
 「1866年8月2日(木曜日)薩摩藩主の二番目の弟が乗艦してきて、写真を撮ってもらった。午後には、プリンセス・ローヤル号は、十五発の礼砲を受けて、鹿児島を去った。
 ついで航路を宇和島にとった。提督は、その港で、ハリー・パークス卿と落ち合うつもりであった。(伊達)遠江守が特に彼らを招待していた。
 宇和島は、海図では間違ってクガマと記入されていたが、ここには、速くて愉快な航海の後到着した。二人の利口な日本人水先案内が、すぐわれわれを港内へ向う水路に案内してくれた。
 この土地については、乗艦者はみんな、大きな興味を見せていた。この予期は失望に終らなかった。長崎の美しい港を見て喜んだ者ならば、宇和島もある程度想像がつくというものだ。というのは、四方八方にそそり立つ険しい緑の丘と、港内に碇を下ろす船が安全だという点で、この二つの港は非常に似ている。
 しかし宇和島の方が、ところどころ、小川があったり、入江になっていて、長崎よりも変化に富んでいる。蒸気をたいて入りながら、われわれはみな、この美しさを喜んだ。町と居城が高い連山の下に見え隠れしている側では、特にそうであった。

 8月4日(土曜日)、午後五時、われわれは碇を下ろした。伊達遠江守の家臣が乗艦して来た。翌日には、藩主とその兄が六人ほどの家来を連れて、公式訪問ではなく、おしのびで来た。この兄は前の藩主だったが、将軍に反対した結果、弟のために辞職するように命ぜられたことを説明しておく必要がある。しかしながら彼が実権を握る人物で、弟の同意を得ていることは明らかだ。
 この日彼らは艦上で七時間ばかり過ごした、彼らは大変興味を持ち、帰るのを残念がるほどだった。この人達が、単に日本の学問に通暁しているばかりでなく外国の学問にも通じていると知って、われわれはいくぶん驚いた。例えば、ウォーターローの戦いといった話題で、話が出来たのである。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本

2008年04月05日

維新前の薩摩訪問

パークス卿とキング提督の薩摩候訪問

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は下関前田砲台を占拠したイギリス軍F・ベアト写真集より
young09.jpg

引用開始
 この訪問に関係の記事は、プリンセス・ローヤル号に乗艦していた一士官が、横浜に到着した際に、私によこしたものだ。
「1866年7月27日、太陽は晴れた空に輝き、海は穏やかで美しかった。この日、英艦プリンセス・ローヤル号は、サーペント号とサラミス号を率い、蒸気をたてて、鹿児島港に入っていった。海は荒れ、風は激しく、左右の厳然たる砲台から砲弾の雨が降ったあの時(鹿児島戦争)に、この湾にいた者もいく人かいた。今ではその砲台は静まっていた、ただ一基の砲台を除いて。この砲台の砲手は提督旗に礼砲を発する準備をしていた。鹿児島戦争の時の戦闘のための訪問と、今回の友好訪問とを、われわれは比較せざるをえなかった。今回の訪問は、薩摩候松平修理大夫が長崎にいる出向役人を通して、ハリー・パークス卿に伝えた招待によるものだった。

 正午少し過ぎ、堂々たる順序で、三隻の軍艦は、蒸気をたてて港に入った。碇が下ろされると、町近くの砲台が、十五発の礼砲をゆっくりと、しかしみごとに間をおいて発した。プリンセス・ローヤル号も礼砲を返した。サラミス号に乗艦していたのは、パークス卿夫妻、ウィリス博士、アプリン大尉であった。プリンセス・ローヤル号には、シーボルト、ローダー、T・B・グラバー氏、堀という日本人通訳が乗っていた。
 薩摩の首席家老や、その他の役人が乗艦して来て、日本の紳士に特有の、上品で丁寧な物腰で敬意を表した。彼らに、これからの行動の意味を説明したあとで、日本側の旗に対して、二十一発の礼砲が発射された。また砲台から礼砲が答えた。
 この日には、公式訪問はないことになっていたが、上陸して見物したいと望む士官には、午後には護衛がつくという準備がされた。午後四時、ハリー・パークス卿、提督と、多数の士官が上陸して、町を歩いた。これまで一人のヨーロッパ人も見たことのない当地の人々が、数千人も道の両側に並んだ、道の中央は役人によって、まったく整然と、あけられていた。
 非常に清潔で、所によっては、全く絵のように美しい町の中を通ってから、一行はあるお寺に着いた。
そこには果物、菓子、シャンパン、酒、ビールなどのもてなしの品が用意してあり、口のかわいた客達に丁重にすすめられた。

続きを読む
posted by 小楠 at 07:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本