2008年03月27日

ペリー提督の米国条約

ペリーの威嚇による開国要求

今回ご紹介する「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
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引用開始
 日米間の最初の条約は、1854年に結ばれた。この時、米海軍提督ペリーがアメリカ合衆国の全権使節であった。横浜が交渉の行われた場所であって、このことだけで、横浜は日本歴史において、いつも有名になるに違いない。ペリー遠征隊は、三隻の蒸気船と六隻の帆船、計九隻から成っていた。この艦隊は横浜沖に戦列をしいて錨をおろした。
日本側は提督をむかえ、会談をひらく準備をした。広い木造の建物が大急ぎで建てられ、あらゆる点で、外国人に心地よいように用意されていた。ペリーは前年浦賀沖へ始めて到着して以来、あらゆる機会に、高飛車で尊大な態度を取っていたが、今度も条約を譲歩ではなく、権利として要求した。多くの反対意見が出たが、ペリーはこれになんの考慮も払わないと、きっぱり拒絶して、目的を達した。協定は調印された、それによると、日本人は、沿岸で難破したアメリカ国民に好意と援助の手を差しのべ、アメリカ船が要求した時には、食糧薪水を供給し、さらにアメリカとの貿易のために、下田、箱館、琉球の那覇を開港せねばならなくなった。ペリー提督が立ち去って数カ月すると、かわって英国東インドシナ艦隊司令長官スターリングがあらわれ、イギリスを代表して同様の条約を締結した。

 ドンケル・クルチウス氏は、長崎におけるオランダ人の状態を改良する協定を取り決めた。1857年(安政四年)に、プチャーチン伯爵はロシアのための条約を結んだ。しかしこれらの条約は、すべて前奏曲にすぎなかった。一層完全な通商条約が1858年に米国全権ハリス氏と、大君(徳川将軍)との間に結ばれた。続いてただちに日英間に同様の条約が結ばれ、すこし後にフランス,オランダ、ロシアが続いた。これらの条約によると、神奈川、長崎、箱館が1859年(安政六年)七月一日に、また江戸、大阪、兵庫、新潟が1863年(文久三年)一月一日に開港されることになっていた。

平和裡ではあるが、威嚇によって結ばれた条約
 ペリー提督は、目的達成のために取った方法と、日本と結んだ条約とで、非常に称賛された。しかし、もし理論家と人道主義者の原理が正しいとすれば、ペリーが1853年(嘉永六年)に条約申し入れのために到着した時から、1854年(安政元年)に条約をたずさえて退去した時までに取った「威張る」というやり方が、全然まちがっていたことは、まったく確かだ。
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posted by 小楠 at 07:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本