2008年03月05日

ある兵士の支那事変10

杭州湾の敵前上陸3

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は崑山攻略の苦戦の部分です。
写真は弾雨下に勇士と共に活躍する軍用犬
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引用開始
 背後の鉄橋はまだブスブスと燃えくすぶっている。依然として敵の銃火はこの橋に弾幕を張っている。河向うと連絡に走る戦友はみんなこの橋桁の上で倒されて行った。私たちはこの河を境に完全に後方と連絡を絶たれて孤立してしまっている。なんとか連絡をつけねば、とみんなが焦った。すると誰かが叫んだ。
「犬が・・・犬が!」
 みんなが壕から振り返って橋を見た。橋の上を、燃え残った橋桁の上を、大きなセパードが一匹こちらへ向かって必死に走っている。敵陣に重機が一ときは激しく鳴って、黒く燃え残った橋桁が炭を散らすようにパッパッと刎飛ぶのが見られた。セパード犬はこの中を煙をかむって一気に走っている。
「サチだ、サチだ!」と荒木准尉が叫ばれた。私たちの隊についている軍用犬の『幸』号だった。みんなが歯を喰いしばってこれを見た。『幸』はやっぱり私たちと同じに敵の銃火が自分に集中されたことを知ったのか必死な目をして猛烈なスピードで走った。橋桁の上に死体がある。一つ、二つ、三つと『幸』は走った余勢でこの死体を飛び越えていた。ちょっとよろめいたようだった、みんなハッとして胸が詰まる思いであった。「サチ! サチ!」と大声で叫ぶ。『幸』は、また走りつづける。死体を越えて。そうして大変な勢いで私たちの壕へザブーンと飛込んできた。サチは全身水の中へ入ってしまった。私たちは自分が弾丸に射たれるのを忘れて『幸』を抱いた。みんなが抱いた。耳をキッと立てて口を開いて、長い舌を出して、荒い息をした。抱くと『幸』はよろこんで私たちに強く体をすりつけてきた。『幸』は本部からの命令書をつけている。そして米を、僅かだが重い米さへ体につけていた。この米は一粒づつみんなに分けて大切に噛もう。

 雨は降りつづけている。敵の銃火は一こうに衰えない。いやますます激しさを加えてきたようだ。『幸』は再び大切な命令への返事と報告を体につけた。荒木准尉が『幸』の頭を撫でられた。「すまんのう。もう一度頼むぞ」私たちはみんなで『幸』に頬ずりした。「すまないすまない」とみんな口に出していう。『幸』はその間もはやって橋の方へ飛び出して行こうとする。私たちは、はやる『幸』をじっと抱きかかえて銃火が少しでも衰えるのを待った。橋からは煙が上っていた。橋の向うに、友軍の鉄兜がチラチラと動いていた。「オーイ、これ頼む!」と叫んで横の壕から石原上等兵がなにか私の方へ放り投げてきた。濡れてはいたが、千人針だった。死線さえ越える五銭玉もついて、『大和魂』と縫った赤い糸の色が水に崩れて赤い千人針になっていた。説明を聞かなくとも一切がわかった。私はこれを『幸』の腹に巻いてやった。銃火が少し切れたようだ。「たのむ!」と叫んで手を放した。『幸』はなにか獲物でも見つけたように猛然と飛び出して行った。また死体を越えて、橋桁を走った。敵の銃火がソレッ! というように一斉にわめき叫んだ。橋桁がパラパラッ、パラパラッと崩れて飛ぶ。『幸』は走っている。一つ、二つ・・・死体を越えた瞬間、ハッキリと『幸』がよろめいた。
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posted by 小楠 at 07:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変