今回ご紹介している「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は当時の床屋。F・ベアト写真集より

引用開始
多分、住民の身体の清潔なことが、伝染病を防いでいたのだろう。というのは、毎日熱い湯に入浴をしない人はほとんどなかったし、少なくとも一日おきに入浴しない人はめったになかった。
開港初期の日本における体験談を出版した人々は、江戸で目にとまった婦人の、人前でする行水の話をしている。・・・・さらに本書を書いている現在(1874年)から五年とさかのぼらない頃でも、こんな光景を居留地のすぐ近所で、毎晩通行人は見たし、見ている。私はこの光景を本村から山手へ通じる道の一つでも、また周りの村でも何度も見た。・・・
1862年頃までの、またもっと後までの日本人町の一つの特徴は、公衆浴場(銭湯)がたくさんあったことだ。ここでは、男女が一緒に入浴していた。当時、ここに住んでいた数人の外国人が示したような世論の力によって、ようやく次第に改められた。横浜でなくなった後でも、江戸では数年続いた。しかし現在では、男女が多くの場合に、今なお一つの浴場を使用してはいるが、概して仕切りで分けられるようになった。中には何軒かは、男女の別が一層完全なものとなっている。
ところが今日でも、ほとんどの浴場では、男が女の仕切りの中にまで入り、女客の求めに応じて、水をかけたり、あるいは身体を洗う手伝いを仕事としている(三助のこと――訳者)そんなことをしない浴場は、実際あったとしても、一軒位だ。・・・
日本の農村生活の素朴さは、他国に見られるものと全く同じようだ。ヨーロッパと同様に、日本でも、多くは自給自足の生活である。村はたくさんあるが、村民たちはほとんど、分業をいとなむ程度には発達していない。というのは、仕事の規模が、大変小さいからだ。各村には、一種の雑貨屋があって、ごく普通の簡単な、安い必需品を買うことが出来るが、この店とて、少しばかりの土地を自分で耕している家がしばしば経営しており、供給する品物の多くは、この屋敷で用意する。
村人のすることは、すべて極めて原始的だ。彼らは太陽とともに起きるか、時には日の出前に起き、すぐに労働を始める。大ざっぱではあるが、都合のつく時には、身づくろいをする。ある時は起きると、すぐするし、昼休みにも、ちょいちょいするが、夕方仕事の終った時も、よくする。どの農家にも風呂おけがあって、一日の仕事が終ると、その中で半ゆでになって、身体を洗い、生気を取り戻す。浴場の温度は、非常に高く、風呂から上がった者は、ほとんどアメリカ・インディアンのような赤色をしている。1872年(明治五年)に東京で布告が出された、それは銭湯は適温、すなわち血液の温度(白人の習慣では、入浴の温度は非常に低い――訳者)よりちょっと低目以上に、熱くしてはならない、というものだ。
続きを読む