2008年03月31日

日本の特色は清潔さ

清潔な日本人の生活

今回ご紹介している「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は当時の床屋。F・ベアト写真集より
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引用開始
 多分、住民の身体の清潔なことが、伝染病を防いでいたのだろう。というのは、毎日熱い湯に入浴をしない人はほとんどなかったし、少なくとも一日おきに入浴しない人はめったになかった。
 開港初期の日本における体験談を出版した人々は、江戸で目にとまった婦人の、人前でする行水の話をしている。・・・・さらに本書を書いている現在(1874年)から五年とさかのぼらない頃でも、こんな光景を居留地のすぐ近所で、毎晩通行人は見たし、見ている。私はこの光景を本村から山手へ通じる道の一つでも、また周りの村でも何度も見た。・・・

 1862年頃までの、またもっと後までの日本人町の一つの特徴は、公衆浴場(銭湯)がたくさんあったことだ。ここでは、男女が一緒に入浴していた。当時、ここに住んでいた数人の外国人が示したような世論の力によって、ようやく次第に改められた。横浜でなくなった後でも、江戸では数年続いた。しかし現在では、男女が多くの場合に、今なお一つの浴場を使用してはいるが、概して仕切りで分けられるようになった。中には何軒かは、男女の別が一層完全なものとなっている。
 ところが今日でも、ほとんどの浴場では、男が女の仕切りの中にまで入り、女客の求めに応じて、水をかけたり、あるいは身体を洗う手伝いを仕事としている(三助のこと――訳者)そんなことをしない浴場は、実際あったとしても、一軒位だ。・・・
 日本の農村生活の素朴さは、他国に見られるものと全く同じようだ。ヨーロッパと同様に、日本でも、多くは自給自足の生活である。村はたくさんあるが、村民たちはほとんど、分業をいとなむ程度には発達していない。というのは、仕事の規模が、大変小さいからだ。各村には、一種の雑貨屋があって、ごく普通の簡単な、安い必需品を買うことが出来るが、この店とて、少しばかりの土地を自分で耕している家がしばしば経営しており、供給する品物の多くは、この屋敷で用意する。
 村人のすることは、すべて極めて原始的だ。彼らは太陽とともに起きるか、時には日の出前に起き、すぐに労働を始める。大ざっぱではあるが、都合のつく時には、身づくろいをする。ある時は起きると、すぐするし、昼休みにも、ちょいちょいするが、夕方仕事の終った時も、よくする。どの農家にも風呂おけがあって、一日の仕事が終ると、その中で半ゆでになって、身体を洗い、生気を取り戻す。浴場の温度は、非常に高く、風呂から上がった者は、ほとんどアメリカ・インディアンのような赤色をしている。1872年(明治五年)に東京で布告が出された、それは銭湯は適温、すなわち血液の温度(白人の習慣では、入浴の温度は非常に低い――訳者)よりちょっと低目以上に、熱くしてはならない、というものだ。
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2008年03月29日

日本の法律無視の来航

威嚇による条約締結

今回ご紹介している「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は横浜の外国人居留地
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引用開始
 英艦フューリアス号は、エルギン卿を乗せて、(以下オリファント氏の描写)「海岸から約三マイル、この帝国の首都から約五マイルの距離にあって、日本艦隊からほど遠からぬ」江戸沖の碇泊地へ、首尾よく来ていた。もちろんただちに一団の役人が訪ねて来て「『神奈川へ帰れ』という文句を繰り返した」。
 エルギン卿は応じないで、同日午後首席老中あてに陸路手紙を送り、訪問の目的を詳述した。すなわち「条約を結び、帝王にヨットを贈呈したい」と。さらに「陸上に適当な住居を提供してもらいたい」と要求した。日本艦隊は、「オランダ政府から購入した二隻の大型横帆船と、かなり小型の外輪船一隻と、三本マストのスクーナー船一隻からなっている」といわれていた。・・・翌々日、陸上の住居に関する申し出に対して高位のる回答が来て、一行は八月十七日上陸した。

 オリファント氏は書いている。――「当日の朝、儀式を盛大に行うために、大準備がされた。数名の日本の役人が来て、使節に従って上陸する手筈をととのえた。われわれが日本側のボートで上陸する、と彼らは明らかに思っていたらしい。だから、自分達が、大勢の正装した艦隊員とともに、リー号に乗せられ、またスマートな乗組員を乗せて、軍艦旗をはためかせて、整然として、陽気に見える十三隻のボートをひきいていった時、彼らは少なからず驚いた。レトリビューション号、フューリアス号、そしてヨットはみな飾り立てられた。砲台を通過する時、小さなリー号が荒々しく蒸気をたて、かなたのジャンクの間をぬって走った時、われわれが浅瀬や砂州を全く無視しているのを見て、日本人達は呆然としていた」。「ついに水深測量が七フィートに達すると、リー号でさえも船底が砂地についたことを知り、われわれは錨をおろしてボートに移った。そうしている時、各艦は礼砲をとどろかせ、レトリビューション号の軍楽隊は外輪船の中で、『英国国歌』を奏し始めた。他のボートは、船首に真鍮製の大砲をつけた四隻の外輪船の間に、エルギン卿の長官艇を中心にして船列をつくった。この隊列で、われわれは岸に沿って三マイルばかり進んだ。

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2008年03月28日

天津条約で恐怖を煽る

中国の悲惨さで恐怖を煽る

今回ご紹介している「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は著者のジョン・レディ・ブラック
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引用開始
 日本人は生来社交好きだ、だから彼らと仲良くしようと思えば、難しいことではない。それに二十一年前のこの国民の生活は、現代のヨーロッパに知られている以上に違っていたし、しかもヨーロッパの過去の時代(つまりヨーロッパの物語時代、「古き良き時代」とわれわれが特徴付けている時代)のものとして、知悉されているものをたくさん持っていたから、これを学ぶことは、珍しくもあり、また本当に楽しかった。
今日まで、日本滞在中、日本人の中で暮らすことに満足している外国人が非常にたくさんいる。彼らには「隠とん者の生活」とか、孤立しようという考えは全然起らない。そしてこの国の人々の友情と信頼を得ようと努めたハリス氏のやり方からみると、彼がこうした生活に気をくさらせていなかったことが、納得出来る。

 当時はまだ、後になって外交団を緊張させたような事件は起らなかったからだ。ハリス氏には、取り決めねばならない多少重要な事柄があるにはあった――例えば、貿易のために米国人が下田に居住する権利――。しかしこれらは空気のように微々たるもので、ほとんど苦労させなかった。
 天津条約(注)をもたらした英仏軍の成功は、ハリスが条約を結ぶのに、事実助けとなった。彼は、中国で横暴なやり方をしているこの二国の使節が、同じ行動を日本でも必ず取る、と主張して、幕府の恐怖をあおりたてた。こうして、二つの強国と日本との間における調停者として、必要ならば、出来るだけ尽力しようと約束をして、彼は執拗に求めていたものを獲得した。もちろんその必要はなかった。

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2008年03月27日

ペリー提督の米国条約

ペリーの威嚇による開国要求

今回ご紹介する「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
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引用開始
 日米間の最初の条約は、1854年に結ばれた。この時、米海軍提督ペリーがアメリカ合衆国の全権使節であった。横浜が交渉の行われた場所であって、このことだけで、横浜は日本歴史において、いつも有名になるに違いない。ペリー遠征隊は、三隻の蒸気船と六隻の帆船、計九隻から成っていた。この艦隊は横浜沖に戦列をしいて錨をおろした。
日本側は提督をむかえ、会談をひらく準備をした。広い木造の建物が大急ぎで建てられ、あらゆる点で、外国人に心地よいように用意されていた。ペリーは前年浦賀沖へ始めて到着して以来、あらゆる機会に、高飛車で尊大な態度を取っていたが、今度も条約を譲歩ではなく、権利として要求した。多くの反対意見が出たが、ペリーはこれになんの考慮も払わないと、きっぱり拒絶して、目的を達した。協定は調印された、それによると、日本人は、沿岸で難破したアメリカ国民に好意と援助の手を差しのべ、アメリカ船が要求した時には、食糧薪水を供給し、さらにアメリカとの貿易のために、下田、箱館、琉球の那覇を開港せねばならなくなった。ペリー提督が立ち去って数カ月すると、かわって英国東インドシナ艦隊司令長官スターリングがあらわれ、イギリスを代表して同様の条約を締結した。

 ドンケル・クルチウス氏は、長崎におけるオランダ人の状態を改良する協定を取り決めた。1857年(安政四年)に、プチャーチン伯爵はロシアのための条約を結んだ。しかしこれらの条約は、すべて前奏曲にすぎなかった。一層完全な通商条約が1858年に米国全権ハリス氏と、大君(徳川将軍)との間に結ばれた。続いてただちに日英間に同様の条約が結ばれ、すこし後にフランス,オランダ、ロシアが続いた。これらの条約によると、神奈川、長崎、箱館が1859年(安政六年)七月一日に、また江戸、大阪、兵庫、新潟が1863年(文久三年)一月一日に開港されることになっていた。

平和裡ではあるが、威嚇によって結ばれた条約
 ペリー提督は、目的達成のために取った方法と、日本と結んだ条約とで、非常に称賛された。しかし、もし理論家と人道主義者の原理が正しいとすれば、ペリーが1853年(嘉永六年)に条約申し入れのために到着した時から、1854年(安政元年)に条約をたずさえて退去した時までに取った「威張る」というやり方が、全然まちがっていたことは、まったく確かだ。
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2008年03月26日

日本の戦争は自己防衛

日本は何故戦争に突入したか

今回の引用本はフィリピン人、ダニエル・H・ディソン氏著の「フィリピン少年が見たカミカゼ」からです。
 氏は1930年生まれで、少年時代に日本軍将兵と出会い、戦後特攻隊と日本の歴史研究に没頭。1974年に特攻隊が初めて発進した地、マバラカットにその記念碑を建立。自宅に開設した「カミカゼ博物館」で地元の子供達に特攻隊の精神と意義を説いているという方です。
写真はディソン氏宅の一角に設けられた「カミカゼ博物館」。中央五つの絵はディソン氏による特攻隊の先陣、敷島隊五名の肖像
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引用開始
 戦時中、日本軍とは侵略者であり、フィリピンを支配し、自分達の欲しいものを持っていくだけの国と教えられていました。
 しかし私には、日本がただ単に、人殺しをするためや、他国を侵略するため、日本が統治する領土を拡大するためだけに、戦争を始めたとは思えませんでした。
 そこで、それにはもっと深い意味があったのではないかと考え、日本が何故戦争に突入していったのかについて何年もかけて調べていきました。そして一つの結論に至りました。
 それは、欲深い白人達のせいだった、ということです。白人達というのは、正にアジアに対してテロ行為を行ったのでした。
 白人達が侵入してくる以前のアジアはとても平和な世界でした。当時すでにアジアの国同士の交流がありました。
 17世紀には、日本人はルソン島に大挙して来ていたし、マニラでも当時は戦争中とは違って友好的な交流をしていました。
 タイも、スペインがやってくる前にマニラと貿易関係がありました。また、カンボジアや中国もそうでした。これらは、皆とても平和な共存共栄関係でした。

 ところがそこに白人がやってくると事態は一変し、全ては混乱状態に陥り、破壊されていきました。
 そして、アジアの国々は互いに敵同士になってしまったのでした。
 白人の欲望にはきりがありませんでした。彼らはすでにあらゆるものを手にしていたにも拘わらず、より多くのものを欲し、決して満足することはないようでした。
 アジアの国々は皆、白人の侵略に対して身を守るようになり、日本もそうだったということです。
 これが、日本が戦争を始めざるを得なかった原因です。つまり、それは攻撃的で侵略的な目的のものだったのではなく、自己防衛的な目的のものだったのです。
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2008年03月25日

白人のフィリピン蹂躙

スペイン植民地統治と革命

今日の引用本はフィリピン人、ダニエル・H・ディソン氏著の「フィリピン少年が見たカミカゼ」からです。
氏は1930年生まれで、少年時代に日本軍将兵と出会い、戦後特攻隊と日本の歴史研究に没頭。1974年に特攻隊が初めて発進した地、マバラカットにその記念碑を建立。自宅に開設した「カミカゼ博物館」で地元の子供達に特攻隊の精神と意義を説いているという方です。
写真は2006年10月25日新しいカミカゼ記念碑とカミカゼ飛行士像の前で行われた慰霊祭
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コラムから引用します。
16世紀半ば、フィリピン全土の人口は60万人程度で国家という意識もまだ発達していない状態だった。そこにスペインが侵略し、マニラを拠点にして各地を次々と武力によって制圧。さらにキリスト教の布教を行い、植民地体制を確立。以後300年以上もフィリピンを支配した。
マニラとメキシコ間を船で往復する「ガレオン貿易」が始まり、資本家たちは莫大な利益を上げ、19世紀初頭まで続いた。しかしフィリピンはこの貿易の通過地点に過ぎず、支配者達はフィリピンの発展には目もくれず、近代化の基礎となる家内工業などの発展は全く見られなかった。

植民地支配の柱である教会は、広大な土地を所有し、聖俗両者において絶対的な力をふるった。
フィリピン人は負担しきれない税を課せられて奴隷化し、さらに、強制労働に駆り出された。このため、かつては肥沃で作物が豊富だったフィリピンで飢餓が生じるようになった。このような中で16世紀末から抵抗運動が起るようになり、19世紀末までに反乱の数は100回以上もあったと言われるが、多くは10日以内に鎮圧されている。
18世紀後半から、たばこなどの輸出が増加し、中国系メスティーソ(混血)が中産階級として台頭、そこから民族主義に目覚める者が出てきた。
1880年代終わりに民族主義的運動が起り、1892年に革命集団「カティプナン」が成立、1896年8月に最初の革命の蜂起が起り、各地でスペイン軍と衝突。スペインは本国の力が衰えていたこともあり、フィリピン側と和平交渉を持ち、その結果スペイン側が賠償金を支払い、革命の指導者アギナルドは国外追放となった。
そこにキューバを巡ってスペインと戦争中のアメリカが、フィリピンを狙い、革命軍に協力すると持ちかけた。アギナルドは米艦に乗って帰還、1898年6月12日に独立宣言を行った。
しかし同年8月にアメリカがマニラを占領した際、革命軍はマニラから閉め出された。


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2008年03月24日

ある兵士の支那事変25

無念!遂に戦傷の谷口上等兵

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載しています。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は「全滅を期して敵陣へ」と題された最終章の引用になります。25日25回に亘ったこの本からの抜粋引用も今回が最後となります。
写真は轟然一発!山形を崩す我が砲の威力

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引用開始
「今度は後続部隊は来ない。弾も補給されない。落伍したらそれでおしまいだ。どんなことがあっても決して落伍しないように・・・」と坂本大尉から訓示があった。田家鎮はまだ十里近くも前方と思われるのに、大きな砲弾が田家鎮から空を裂いて私たちの頭上を越えて、後方に猛烈な勢いで落下していた。巨きな砲弾だった。要害田家鎮から敵の要塞砲が撃たれているらしい。要塞砲はウーウーウーと獣が呻るように腹にしみわたる音をたてて飛んで来た。前進を開始すると、来る山々で敵は猛烈に抵抗する。一つの山をとると、敵は周囲の山から囲むようにして山砲、野砲、迫撃砲を目茶苦茶に浴せ、果ては堂々と逆襲を繰り返して来た。みんなに「このまま前進したらどうなる」という気が起きて来る。「どうなってもいい、全滅なら全滅しよう、そしてこの敵を撃退しよう!」と考える。

 敵は大別山から大部隊を繰出して田家鎮へ進む友軍の側面を襲おうとした。私たちはラクダ山を裏へ廻って突撃した。山頂をとると同時に、敵はこの山めがけて前方、後方、左右、数段に構えた山の陣地から、あらゆる砲を動員して集中射撃を送って来る。友軍の○砲が放列をしいたが、霧が深くて敵の陣が射てない。敵はただかねて知り覚えたラクダ山を距離だけで盲射ちすればいい、ラクダ山に砲が当れば必ずこの山にいる友軍の何処かに命中するのだ。一弾は倉本隊の○○名を一時に空へ噴き上げた。
「負傷! 負傷!」の声はあちらでもこちらでもひっきりなしに叫ばれて全山を埋めた。このままいたら山の土くれと運命を共にして部隊は全滅しなければならない。一層、前方の佐山を奪ろうということになった。佐山は山の頂上が二百メートルほどの間隔をおいて三つの瘤に別れていた。・・・散開して一度に佐山へ突進したのでは山頂へ行くまでに全滅するだろうと思われたので、私たちは一人パーッと飛び出して伏せると、次がまたパーッと走る――という風に交互に前進する方法をとった。佐山の麓の部落から次々と左右を見合って交互に走り進むと、山頂から手榴弾が投げつけられたり、コロコロと転がされたりして来た。岩を跳ねて下へ下へと転がり落ちる手榴弾は私たちの近くまで来るとダーンと炸裂する。破片は降りしきる雨と競って鉄兜を打った。
 私たちが頂上の最初の瘤をとると、さきに負傷された丸尾少尉は傷の癒えぬ手に抜刀して第二の瘤にとりつかれた。これも先ごろ負傷された植竹少尉が包帯姿で部下を引きつれて第三の瘤に突進される。手榴弾は跳ね上って、運動会で紅白にわかれて籠にマリを抛り入れるあの競技のように思われた。

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2008年03月22日

ある兵士の支那事変24

瀕死の耳に聞かす母の手紙

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載しています。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は戦死直前の戦友に、その母からの手紙を読んでやる様子と海軍機の活躍の様子です。
写真は前線部隊に食糧を投下する空軍の活躍ぶり
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引用開始
 廣斎を出て間もなく山の下に大きな河が流れていて、不思議とここは氾濫しない砂原があった。山腹には例によって頑強な敵の掩蓋機銃座が列んで火を吐きつづけている。海軍機が四機飛んで来て山の敵陣に猛烈な爆撃を加えていた。海軍機はウーンと翼を振るわすように呻ると、山をめがけて急転直下に落下、ヒヤリと私たちが肝をひやす瞬間、ヒラリと機首をあげて爆弾を叩きつけざま再び呻って空に直線を描きながら上がって行った。一機急降下するとつづいてまた一機が急降下する。繰返し繰返し山腹に這う蛇でも見付けた鷹のように鋭く落下しては爆弾を叩き込んだ。その度に噴きあがる黒煙にまじって掩蓋の鉄材や木や岩や、そして重機や敵兵やが目の前で空高く舞い上る。外間伍長が倒れ、藤本伍長が血を吐き、山口上等兵が呻き、次々と砂原を戦友の血に染めさせたこの敵陣が、いま目前で木端微塵に噴き上る――私たちは涙も出したい気持で、「有難う有難う」と空を見て叫び、地を叩き踊るのであった。

 外間伍長も藤本伍長も頭を真赤に染めて一言の言葉もなく倒れてしまったが、山口上等兵は腹に大きな穴をあけて、「お母さん、リスがいるリスがいる、お母さん」と叫んで砂原の上へ転がって青い空を見上げていた。私たちが炎熱に喘いで急進撃するこの大別山麓には、何処の部落にも樹の上をスルスルと走って一っぱいリスがいた。山口上等兵はこの敵の逆襲かと間違わせるリスのガサゴソした動きを、急行軍の辛さの中にも網膜に焼きつかせていたのだろうか。それとも山口上等兵の故郷にはリスがこのように沢山いたのだろうか・・・「お母さん、リスがいる」という叫びは、何か私たちに忘れていたものを呼び起させた。
 廣斎の近くで私たちは久方振りに内地からの便りを貰っていた。山口上等兵の血にまみれた上衣のポケットには手紙が二通入っている。私たちはこれを大声で山口上等兵に読んでやる。
「山口、お母さんからの手紙だよ。・・・畑の茄子に花が付いたのはお前様にこの前に御報せしましたかしら。いま畑に茄子が一ぱい出来て居りますよ。茄子はちぎって町へ出しましょう。一本杉の伯父様が毎朝籠に積んで町へせっせと出して下さいます。善吉が戦地へ行ってからはお前もかえって人手がふえたろと伯父様が笑われますよ。だからお母さんはちっとも不自由をしてはいません。ただお前様が一生懸命に、お国のために働いてくれさえしたら、もうそれでお母さんは何も心配することはありません。お前様がこの茄子さえ喰えずに戦地で働いている、とそうお母さんは考えては毎朝大きな茄子をちぎって居ります。お前様が帰る日はこの茄子に、また花が付くころか実がなるころか―」手紙を読む声はつづかなかった。
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2008年03月21日

ある兵士の支那事変23

ああ『兄さん』の戦死

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載しています。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回はこのシリーズ第一回目にあった、ずっと一緒に過ごし、『兄さん』と呼んでいた石原上等兵の戦死の様子です。
写真は対岸からの敵弾を浴びてクリークを渡る部隊
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引用開始
 潜山で久し振りの宿営だった。石原上等兵が何か妙に浮かぬ顔をして私の横へ来る。「兄さん、どうした」「ウーム」空返事をして私の話に乗って来ない。そして木切れで地面を叩きながら「オイ、谷口、わしの飯たいてくれんか」といった。「エー?」と私は自分の耳を疑う。戦争に次いで、炊事といえばいつでも諸肌脱いで鉢巻までしたがる石原上等兵が、これはまた私に飯をたいてくれとは何としたことだろう。私は眉をひそめて石原上等兵を見た。「崑山以来だ。久し振りでお前がたいた飯盒の飯が喰いとうなった」
 私は不思議に思いながら飯盒二つに粟を入れ、木を集めてしきりと火を吹いていると、石原上等兵は傍に腰を下ろしてじーっと私を見つめている。煙が目に入って涙が出た。
「兄さん、少し今日は変だぞ」飯盒はボーッボーッと湯気を噴いた。やがて二人で並んでつつくと、石原上等兵は「うまい、これァうまい。これァ腕がいい」といった。私はふと胸を突かれる。自分の腕が自慢で滅多に他人をほめたことのない石原上等兵が、これはまた何とした優しいことだろう。何かこの日に限って割り切れないものが石原上等兵にあった。さて寝ようとすると、石原上等兵は急に背嚢から新しいシャツを出して着替えはじめた。「おい兄さん、えらくしゃれるな」「ウーム、ちとしゃれんとな」そして私の首を抱いた石原上等兵は、寝たまま目を開いて話し出す。

「小林伍長はどうしたろうなァ」「○隊へ付いたからちょっとは会えんぞ」「ウーム、一体わしら、支那へ来て街をいくつぐらい通ったろなァ」「兄さん何を云い出すかわからんぞ。街なんて、天津から石家荘、それに杭州湾、南京・・・つまらんこというな・・・」
私は何か、あまりに不思議な今宵の石原上等兵に腹さえ立つ気持だった。そこへ「オイ、ここはあいとらんかッ」と声がして歌野曹長が入って来た。歌野曹長は空席をみつけると、いきなり、背嚢から新しい褌を出してズボンを下げて取り代え出した。
「曹長殿、お召代えですか」と私は思わず聞く。
「ア、ちとしゃれんとな」私は驚いた。「おかしいなァ、石原もそんなこといってシャツを代えるし、曹長殿は褌をかえられるし、今日は一体何でありますか」
「ホー、石原も代えたかい・・・そりァわしら二人は明日あたり、やられるかな。それじゃ谷口、貴様帰還したら靖国神社で二人分参らにゃいかんぞ。今晩のうちにわしが持っとる金を墓参りの旅費がわりに貴様にやっとこうか」
そして三人がワッハッハッと声を出して笑った。
 一夜は明けて出発、本道上を潜山へと約三十分も急行軍すると、クリークの橋が焼き落されていてその対岸の丘陵から敵の機銃が唸りたてた。
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2008年03月19日

ある兵士の支那事変22

決死の伝令

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載しています。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は「弾薬一発もなし、肉弾をもって死守する」との丸尾隊からの伝令に弾薬を運ぶ谷口上等兵の様子です。
写真は敵弾を浴びながら弾薬を運ぶ勇士
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引用開始
右側の山をとった丸尾隊は隊長以下負傷するし、前面の歌野隊もまた弾薬がなくなって、ただ肉弾で山を死守している。左方の倉本隊は夜明けとともに山麓の軍用道路に伏せたまま一歩も前進できず、とうとう午後の四時になった。本部には私を除いて伝令は一人もいなくなってしまった。・・・
 やがて○隊本部へ弾薬をとりに行った伝令が、弾薬箱を背負って血まみれになって這い転がって来た。
「もらったか!」「ハイ、小林一等兵、○隊長殿にただいまこれだけ貰って帰りました。終りッ」「有難う、坂本大尉心から礼を云うぞ」そしてみんなが手をとって泣いた。
「谷口!」坂本大尉が呼ばれる。「御苦労だが丸尾隊にこれを届けてくれんか」
 もちろん私が持って行こうと待ちかまえていたものだった。これで丸尾隊も歌野隊も救われるのだ。弾薬を届けてそのまま箱の傍に骸をさらすとも何の思い残すことがあろうか。

「谷口上等兵、弾薬を持って丸尾隊へ連絡に行って参ります」「御苦労、頼むぞ」弾薬は○○発あった。私はその箱を左手で背にかつぐ。右手に銃を持って山を伏せて降りて行った。前方の二段に高くなった山頂へは一切が目鏡に写ってしまう。たちまち機銃弾が飛んで来た。迫撃砲弾も落ちて来る。砲弾は岩をコナゴナにはね上げて、顔や手や咽喉や、肌の服から出た部分はところ嫌わずチクチクと刺した。・・・・
 岩に跳ねた銃弾はブルーンと呻って背の弾薬箱にピシリッとぶつかる。斜めに飛ぶ跳弾が鉄兜をカンカンと打って棒で帽子を殴るような衝撃を与えた。箱の重さも銃の重さもなにもわからなかった。ただこれを届けてよろこぶ戦友の顔がみたい。・・・
 山頂に這い上がると、一切をなすにまかせて寝転がっている戦友の姿が見えた。「誰かッ!」「谷口上等兵!」丸尾少尉も戦友もみんなどこかを血に染めて昼寝でもするように山の上に寝ている。「谷口!」丸尾少尉が走って来られる。戦友が二、三名バタバタと駆けて来る。
「谷口上等兵、ただいま弾薬を持って参りましたッ!」「オ、!」と叫んで丸尾少尉が私の両手をしっかりと握られた。少尉の血が私の手にベットリと付いた。「谷口うれしいぞ! 谷口うれしいぞ!」子供のように叫ばれた。
・・・・
「谷口、これをよーく見てくれ。坂本大尉殿に頼むぞ!」そして丸尾少尉がサメザメと泣かれる。私を囲んだみんなが鼻をすすった。
 どれだけの敵軍かほとんど推知されなかった。敵は更に左斜後方の山にも登って私たちの背後を襲おうとする。友軍の○砲☓砲○○砲らが後方でズラリと放列をしいて、猛烈な射撃を開始し出した。○○砲はたてつづけに敵の掩蓋銃座に命中して、線路や材木を重ねた掩蓋を空高く吹きあげる。生き残った戦友たちが手を打ち涙を流してよろこんだ。
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2008年03月18日

ある兵士の支那事変21

巣懸から盧州での戦闘

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載しています。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は騎兵部隊の様子と、いきなり激戦場へ補充された兵たちの様子です。
写真は膝を没する泥濘を猛進する騎兵部隊
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引用開始
 巣懸から夏閣を攻め、盧州に向うと、頑強な掩蓋機関銃座が城壁の外にならんで私たちの進撃を喰い止めた。鉄道のレールは全部とり外されて掩蓋銃座の材料になってしまっている。迫撃砲弾と野砲弾が入り乱れて競争するように私たちの周囲に落下していた。私たちの横を、巣懸から敗敵を一気に急追した騎兵部隊が、二、三メートルの間隔で馬頭をならべ田の中の一本道を砂塵をあげつつ城壁に突撃している。黄塵は濛々と巻きあがって躍りかかるように飛び上がる馬脚は、これに向われた敵はどうしても陣地にじーっと止っていることは出来まいと思わせた。すると、たちまち敵の迫撃砲弾と野砲弾が、この騎兵部隊の黄塵の渦の真中へ集中されて来た。
 矢のように駆ける馬の上から騎兵がコロリッコロリッと二、三名転げ落ちる。馬は裸のまま城壁に突進して行く。再び炸裂する轟音に馬が二頭、空高く吹き上った。火柱を浴びて倒れる馬の腹は真二つに裂けて臓物が綺麗に砂塵の上へ崩れ出す。この臓物を蹴って次の馬が騎兵を背に突進して行く。

「早く、早く! 突撃に移ろう」と歩兵のみんなが叫んだ。血を全身にしたたらせてまだ駆ける馬、腹を割られながらも首をもたげて、駆けて行く兵たちを見やったりする馬――これを眺めていると、どうしても眼頭が熱くなって来てカーッと全身がのぼせあがるのだった。友軍の○砲が射程距離まで進もうと私たちの近くまで陣地侵入をやり出すと、とたんに敵の野砲弾が前方の大獨山頂から飛んでビューンと空気を裂いた。馬が三頭バタバタ倒れ、砲車が止まる。
「やりやがったやりやがった!」砲兵は倒れた馬にすがって泣いた。口惜しい思いだった。これを見ている歩兵部隊の方がもっと口惜しく煮えくり返る思いだった。
「突撃しよう!」と叫んで乗り出そうとする。しかしそれは無駄だった。城壁と射ち合ってじーっと対峙していると後方から補充された新しい兵が○○名やって来た。本当は○○名来る筈だったが途中でヘバッたり落伍して○○名しか来なかった。・・・・
 銃火はいよいよ猛烈になって四方八方から飛んで来る。ビューッビューッと耳をかすめる鋭い音に、「とんでもないとこから重機が来るな」と戦友がいった。やがて反対側からブルーンブルーンと飛んで来る。
「アレ、こっちはダムダム弾を使ってやがるな」とまた戦友がつぶやく。すると新しい兵が不思議な顔をして、「上等兵殿、どうしてそんなに弾がわかるのですか」と、訊いた。「フーム、なるほどな、まだお前らにァわかるまい」と。上等兵殿少々得意である。

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2008年03月17日

ある兵士の支那事変20

二度目の敵前上陸

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載しています。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は平穏な蕪湖から再び戦場へ向う兵たち。
写真は植えたばかりの水田に散開して突撃
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引用開始
 長い蕪湖での生活への別れだった。『戦争』ということを忘れてしまっていたような楽しい生活だった。こんな生活ならいつまで続いたっていい――とみんなが思っていた。この生活に別れを告げて再び私たちは背嚢と銃をとって新しい戦場へと出発した。私たちが存えたこの生命を次に賭ける場所はどこだかわからない。ただ「某地に敵前上陸」を行うというだけだった。
 敵前上陸はすでに杭州湾で試験ずみだ。一切の勝手はわかっていたし度胸もついていた。こんどこそは、とみんな杭州湾でのことを思い合わせて、キャラメルだとか角砂糖、羊羹などあの当時一番痛切に欲しいと思ったものを一っぱい酒保で買って背嚢に詰めた。
 夕方五時、私たちは宿舎を発って船に乗った。蕪湖の街へ帰って来ていた支那の土民たちが、日の丸の旗を手に私たちを見送りにきてくれた。そして習い覚えた「バンザイ」を叫んで手に手にその小旗を振ったり、或は顔馴染みの兵たちと別れを惜んだりした。何か別れが辛い気持だった。ここでこんな熱烈な歓迎をうけるとは想像もしなかったし、この土地の人とこんなに別れが辛くなろうとは考えても見なかった。

「第二の出征」――とみんなが思う。船は揚子江の濁流の中に滑り出した。小旗が岸いっぱいに咲いている。「バンジャイ!」と叫ぶ。手を振り旗を振り、支那人と、そして攻めよせた日本の兵隊とが涙を流して別れ合っていた。陽が江上に沈もうとしている。
 夜が明けて突然船が停止すると、麦が一面に生い茂った岸と岸の五百メートルほど向うを走っている大きな軍用路とが見えていた。
「何処だろう?」「和懸の一里手前だ」とどこで聞いたか、誰かがそう答えた。軽機関銃が真先に鉄舟に乗り移って岸に進みながら射撃姿勢をとっている。その後から私たちはゆっくり降りて○○に乗り移った。岸からパンパンパンと敵弾が散漫に飛んで来る。弾道は高くて弾は頭上で雀のようにチューッチューッと鳴いた。岸に着いて散開すると麦は腰までもあった。パーッと伏せると全身麦に隠れて私たちの姿は敵の照準から消えてしまう。悠々麦を分けて敵の機銃座に近づいて行った。
 気にも十分ゆとりがあったし、敵もほとんど逃げ腰だった。二度目の経験――というのでこれだけ敵前上陸が落ち着いて易々と行われるものだとは知らなかった。二、三十メートルにも近づくと、敵は抵抗を止めてどんどん逃げて行く。これを追いに追いまくって進むと、早くもクリークをへだてて和縣の城壁が目の前に覆いかぶさってきた。城壁の上に歩哨らしい影が三つ四つ銃を持って往き来している。この影は城屋の上から近づく私たちを見ると、友軍が帰って来たものとでも感違いしたのか手をあげて、「来々」と言った。クリークの橋が爆破されている横に民家が一軒あったのでこの民家の壁を破って重機の口を出した。
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2008年03月15日

ある兵士の支那事変19

支那兵宿命の盗癖

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載しています。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回はノッポの李の盗癖を憐れむ谷口上等兵。
写真は嬉々として行糧を運ぶ捕虜
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引用開始
お正月に『ノッポの李』を私たちにあづけて行った衛生隊の隊長がきて、「僕達は明日寧国へ出発する。李を明日までに返してくれ」といってきた。・・・・
「谷口しゃん・・・」李が突然、顔のブクブクした筋肉をピリピリと動かした。「私、あなたと離れてどこへ行きます」
李の顔にポロッと涙が転がった。
大きな掌を真ん丸くして、大きな顔に子供のようにあてた。宿舎の空を友軍の飛行機が幾台か飛んで行く爆音が聞えている。荒木准尉が酒をさげて入ってこられた。
「いよいよ李ともお別れだそうだのう。今晩は李とこの酒でものむといいや」そして李の肩に手をかけて、「李、向うへ行ってもたっしゃで、しっかり働くんだぞ」といわれた。李は濡れた顔を黙って振って合点合点していた。そこへ坂本大尉が訪ねてこられた。荒木准尉は大尉と自分の室へ入ってなにか話していられたが、やがて私を呼んで「ビール一ダース買ってきてくれ」といって五円紙幣を渡された。私は早速ビールを買ってくるとおつりの一円八十銭を荒木准尉の机の上においた。夕方坂本大尉が帰って行かれたので、荒木准尉と私は宿舎の外まで送りにでた。再び室に引き返してみると、悲観しきってしまったのか、李は一人でグーグー寝ていた。しばらくすると荒木准尉が私を呼ばれる。

「谷口、お前さっきのおつりをどこへ入れた?」
「ハッ、この机の上におきました」「机?・・・ない」私たちは眉をひそめて顔を見合わせた。
「さっき坂本大尉殿を送りに行ったとき李はいたかな」
「ハッ、李は室に一人残っていましたが・・・」
ハッと胸を突かれて荒木准尉を見る。准尉はうなづいて黙って大きく溜息された。
「いままでどんなことをさせてもそんなことは決してなかったがなァ、いよいよ別れるというんで、また昔の里心が出たかな・・・」
淋しい声だった。あれだけ教育して手なづけてもやっぱり李は支那兵でしかなかったのだろうか・
・・淋しかった。裏切られたと思った。
「荒木准尉殿! 私が責任をもちます!」
「いや、君が・・・」「いいえ、私が責任をもって李の黒白をつけます!」私はそういい切った。いっているうちに涙がポロポロでてくる―。・・・・

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2008年03月14日

ある兵士の支那事変18

敵の逆襲で失った戦友の仇討ち

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載しています。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は敵の意外な逆襲で戦死した戦友に怒り、仇討ちの戦闘です。
写真は敵弾に傷つく勇士をいたわる部隊長
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引用開始
廣徳、寧国の討伐をすまして帰ると、蕪湖には酒保が開かれていた。ドーッと歓声をあげて羊羹やキャラメルなど待ち焦れた甘いものを争って買い喰いしていると、間もなくこんどは蕪湖と寧国の間にある石キ鎮という小さな部落へ警備のため出動命令が出た。・・・・
 どうかすると、敵斥候が歩哨線を突破して私たちの陣地の中までウロウロと迷いこんでくる。そこで私たちは歩哨線の二十メートルほど前に鳴子をつくってこの迷子の斥候をつかまえることにした。 鳴子は木の枝を立て列べて垣をつくり、これに針金を引っ張って缶詰の空缶をさげて置いた。・・・・ある夜カランカランと空缶が鳴りだした。同時にパンパンと銃声が夜の静けさを破って聞えてきた。ソレッというので鳴子のところへ駆けつけて見ると、鳴子の針金を足に巻きつけて敵の斥候が二人射殺されていた。・・・
 二人の敵斥候は夜目にもまだ年若い兵隊だということがはっきりわかった。敵でさえなかったら、さぞ善良な少年だろうと思われた。・・・

 私は荒木准尉について蕪湖へ帰ることになった。一線に警備の戦友たちと別れて蕪湖に帰りつくと夜の十一時をすぎていた。久方ぶりで懐かしい蕪湖の宿舎の飾りたてた室に横になってウトウトすると、突然、荒々しい靴音がして「オーイ! 誰か来てくれッ!」と怒鳴る声が聞えた。私はハッと胸をつかれて飛び起きた、入口へ上衣なしで駆けて行くと、木村伍長が全身血まみれの姿で立っている。
「どうされましたッ!」「負傷者を連れてきた!」と木村伍長は、吐き出すように荒い息でいった。「負傷者?」私は棒立ちになった。
 私が発つまであんなに静かだった石キ鎮の一線になにか起ったのだろう。「石キ鎮の警備一線が敵の逆襲部隊に包囲されたんだ。まだパンパンやっとる。連れてきた負傷兵は十二名だ」と木村伍長が叫んだ。表の暗がりに片手を手拭でゆわえたまま立ったり、寝転がったりしている戦友の姿が見えた。「水をくれんかッ」と誰かが叫ぶ。「畜生めッ! やりやがった」とまた誰かが叫ぶ。「谷口ッ!」と木村伍長がまた叫んだ。そして私の肩に手をかけると耳に口を当ててささやきながら声を殺して泣いた。「千場大尉殿は戦死されたぞ・・・」
 みんなが黙っていた。声を出せば怒鳴らないではおれない気持だった。敵逆襲部隊のため友軍の警備一線が包囲されて十数名の戦友が傷つき、あるいは倒れ、そのうえ、人望を集めていた千場大尉までが戦死された――この憤懣の情をどう処理したらいいかわからなかった。・・・・

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2008年03月13日

ある兵士の支那事変17

鉄鎖に繋がれた支那兵機関銃手

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載しています。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は鎖で足を繋がれた機銃座内の支那兵からの攻撃です。
写真は山麓の部落に突撃する我が部隊。
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引用開始
 チェコ機関銃や水冷式重機など一ぱい分捕って山岳地帯の討伐戦から蕪湖へ帰ると『ノッポの李』が「飛機来々」と叫んだ。空を仰ぐと高く雲の間を重爆八機が翼を連ねて飛んでいる。カモフラージュのしてない真白な文字通り銀翼がキラキラと陽の光に輝いていた。揚子江上から軍艦「○○」が○○砲を射ちだした。爆撃機は心よいエンジンの音を空一ぱいに響かせて私たち頭の上を旋回した。やがてすさまじい轟音が街はずれに起って、大きな地ひびきと共に街々の家が地震のように震えた。爆弾は飛行場に落されたらしい。銃を射っても弾はとどかない。私たちは荒木准尉と一緒に双眼鏡を目に当ててこの高くて小さな敵爆撃機の姿を眺めた。やがて敵機は私たちの頭上を横切るとそのまま揚子江に出た。ここで鳥の糞のように爆弾を落して姿を消した。

「来やがったなァ!」とみんなが顔を見合わせてつぶやく。ここにはまだ高射砲もなければ友軍の飛行機も一台も来ていなかった。ただ目で迎えて目で送るよりしかたがなかった。私はふと気がついて「李ッ!」とよんだ。どこにも姿は見えない。ハテ? と思って屋上から階下へおりた。階下の奥の間で李は寝台の下へもぐってちぢこまっていた。
「李ッ! なにをしている」、「飛機来々飛機来々」という。そして大きな円い顔を青くさせて寝台の下から動こうとしなかった。・・・・
 ふたたび寧国、廣徳に向って大討伐戦に出動の命令が出た。いくつもの部隊が続々と蕪湖を発って行った。一寸ほど延びた麦畑はカラカラに凍って風が鼻を削ぐように吹いて行った。線路を伝って寧国に向うと、例によって鉄橋が一つ爆破されていた。鉄橋はたいして大きなものではなかったが、対岸には立派な掩蓋機銃座が二つ、鉄橋近くに現れた友軍の道路斥候を見てけたたましく鳴りわめき、一歩も河を渡らせまいとした。○砲が河岸まで出て直射でこれを射った。が、どんなに射っても二つの機銃座は鳴りを沈めない。強行渡河以外にはないので、燃え残った橋脚を伝わって対岸に突撃、敵機関銃座を通り過ぎて左へ廻っても敵の機銃は平気で鳴りつづけている。半分呆れ顔で後方から機関銃座へ躍り込むと、全身血まみれとなった敵が二人、ただ前方を視て死骸の中で重機の押し鉄を握っていた。二人とも固く鎖で足をつながれている

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2008年03月12日

ある兵士の支那事変16

支那敗残兵の従卒

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載しています。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は支那敗残兵との戦場交際の様子です。
写真は雪中の猛攻撃
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引用開始
 この楽しいお正月は、私たちにもう一つ素晴らしい春の贈り物をもってきた。それは『敗残兵李君』だった。南京から遥々とやって来た衛生隊が、二人の敗残兵をつれてきた。一人は南方人らしい面がまえで丈は小さかった、ピチピチ動いてよく気の利く悧巧ものだったし、他の一人は北方人のように丈は恐ろしく高くて見るからに力のありそうな巨大な体をしていたが、どこを風が吹くというような顔で少しボーッとしていた。・・・・
「大きい方がいいな」というと、衛生隊は「じゃ、この大きいのを一時貸してやろう。君の隊へくれてやるんじゃないぞ、貸してやるんだぞ」と馬鹿に念を押して、この大男を私の隊において行った。大男は名を『李』といって、とって二十三歳、支那の軍隊に三年いたという。背丈は五尺七、八寸もあって、暮れに餅を搗いた大きな石臼を一人で持ち運んだ。アッと部隊の連中は驚いていまさらその大男を眺めかえした。・・・・たちまち『ノッポノッポ』と部隊の人気を集めた。この『ノッポの李』を私の従卒にして、荒木准尉の当番の用を手伝わせた。・・・・
 『ノッポの李』は毎晩私と一緒の室で、おなじ寝台で寝た。私は李に室の隅に机を一つ与えてやった。すると李は、どこから探してきたものか布でフキンを沢山作って、ボロ屑屋の帳場のようにこれを机の上いっぱいに列べたてた。フキンはまだいい、こんどはどこをどう堀りだしてきたものか、卓上電灯やラジオなどいくつも持ち込んできて、これをフキンの間へ古道具屋の店先のように列べて得意である。

 蕪湖の街はたちまち復興して物売りの数は一日一日と増えていった。女や男の子供が、玉子や葱などいっぱい籠に入れてしつこくつきまとう。ベラボウな掛値をいって、葱一束で「拾銭」という。「二つで拾銭」と指二つだしてみせても、首を振ってなかなかまけない。私たちは早速、李に十銭もたせてこれを買いにやる。李は「ウンウン」と合点してすぐ走って行く。しばらくすると真ん丸い顔の大きな鼻をピクピクさせながら葱を五束も六束も抱えてきた。「これで十銭か?」というと、平気な顔で合点いて煙草をスパスパふかしている。
十銭でも金をやったのがめっけもの、李は土民から金をやって物を買ったためしがなかったらしい。私はキャラメル一箱下給されればそれを半分に割って李にやる。煙草は私が少しも喫えないので、全部李にやる。するとしまいには、李は下給品を自分で勝手に半分に割って、フキンでいっぱいの机の上にならべたてた。李はフキンのほかに徴発してきた青や黒の服を沢山持っていた。
「李、それをどうした」ときくと、持っているのが当たり前のような顔をして黙って笑っている。李はなんでも持ってきた。どこをどう探すものか、私たちが知らぬ支那街の秘密でも知っているのか、馬糞と小便壷のほか何もない筈の小屋からも必ず綿入れの一枚、銀の水ギセル一つくらいは探し出してきた。
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2008年03月11日

ある兵士の支那事変15

逃げ場を失った敵大軍

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載しています。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は南京を後にして蕪湖へ向かう途中に見た支那敗残兵の様子と戦場のお正月です。
写真は皇軍の保護に浴する敗残兵の大群
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引用開始
 銃も捨て、帯剣もなく、青や黄色の軍服だけの着の身着のままの敵兵が百人、二百人と、軍靴もなく裸足で次から次へと道を進んできた。この場合「進んで来た」という言葉は当てはまらない。敗戦の打撃と、逃走の焦燥からきた絶望は一切を観念してふてぶてしさにまで変わって、逃げるのでもなく、進むのでもなく、一切の意志を捨てただ浪のまにまに漂う浮草のような動きでしかなかった。
 南京から蕪湖への街道はこの絶望的な敗残兵で一ぱいだった。しかも彼等が戦いの意志を捨てて漂泊するこの街道の左右には、驚くべき堅固な近代的銃座をもった防禦陣地で一ぱいだった。街道の両側、畑の中に掘られた蜿蜒たる塹壕、草をかむったトーチカ、無数に張りめぐらされた鉄条網。
「よくもこの陣地が抜けたもんだなァ!」と自分たちがやったことではないように思われて、いまさらながら驚嘆する。
 この堅固な陣地はいずれも蕪湖方面に向って構築されてあった。

 敵はわれわれの一部が蕪湖方面から南京へ向って進撃するものと考えていたらしい。ところが南京は他の側面を衝かれ、とっくの昔に陥落して、われわれはいま敵の陣地の裏を見ながら蕪湖へと進撃しているのだ。驚嘆すべきこの堅固な陣地は、一発の銃声を放つこともなくして街道の上へ武器を捨て困憊に打ちひしがれた敵兵を追い出す『敗残の陣』となっていた。自分たちが当面したところにしか戦争を感じない私たちは、いまここに大きな総合的な戦争というものの大局の一部を見てとったように思った。・・・
 逃げ場を失った敗残の敵部隊は、限りなく街道につづいていた。私たちもまたこれに一発の銃弾さえ用いる必要はなかった。二百人、三百人と集団をなした敵を素手で捕えてしまう。そして――私たちはハタと当惑したのだ。自分たちでさえ糧食の補給がつかない、蕪湖への進軍だけで手いっぱいだった。それだのにこの千に余る敵敗残部隊をどうして養い、そして処理したらいいのだろうか。私たちに抵抗した南京城内の幾万と知れぬ敵は、一瞬にして南京城内外の骸の山を築いてしまった。それだのにこれは――ハタと当惑したのである。

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2008年03月10日

ある兵士の支那事変14

南京への途、中華門めがけて殺到

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載しています。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は南京陥落時の谷口上等兵たちの動きです。
写真は我が軍に破壊されつくした南京城門
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引用開始
「南京中華門まで一里!」
 と声がかかった。ただひた押しの進撃だった。・・・・
十二月十一日朝、私たちは南京城の大城門を二千メートル目前にみて敵と対峙した。敵は城内と雨花台砲台と両方から猛烈に私たちを射ってくる。友軍の○砲も一せいに雨花台砲台に向って放列を敷き、彼我の○砲による大砲戦がつづけられた。晴れてはいたが寒かった。・・・
 すでに中華門は五百メートルの近きに聳えていた。南京城に夜が来る。城内から射ちだす敵の迫撃砲はいよいよ猛烈をきわめて、軍工路といわず、畑といわず、一面に灼熱した鉄片の花火が散りつづけた。砲撃の目標となるので火は絶対に焚けない。星が満天に散っていた。
「こごでは死ねねェなァ」と石原上等兵がいう。
「五百メートルづつ走って、あの城壁の上でなら死ねる」
「そうよ、だからここでは死んでも死ねねェ」

 にもかかわらず、間断なく射ち下される砲の弾片をかむって隣の○隊からは数名の戦友が倒れていった。黒々と目前におおいかぶさる大城壁の上には間断なくパッ、パッ、パッと一列に火が噴いている。シュルシュルシュルシュルと迫撃砲弾は休みなく頭上の夜気を震わせ、「衛生兵ッ!」と呼ぶカン高い声は遠く近くに夜を裂いて、大城壁の銃火のように私たちの感情を明滅させた。

 大南京の敵はただ私たちだけに戦争を挑まれ、ただ私たちだけに戦いかかっているかのようであった。おれたちが南京城を攻めている。おれたちが南京城を陥す。そして、おれたちだけを敵は射ちに射ってこの大城壁を盾に叩き伏せようとしている――そう考えられるほど私たちの戦いは激烈だった。夜が明けるまでにこの大城壁の前に幾人の戦友が残るだろうか、と思うほど敵は砲をベタ射ちに射ちつづける。やがて夜が東の空から白々と明けてきた。
 南京城に朝が来た。ふと、周囲を見廻してアッと驚いてしまった。私たちだけが戦争をしている、と思っていたのに、夜が明けて見たら、広い軍工路一ぱいに友軍の戦車と○砲がひしめきたって城壁に喰いついていた。当然のことだが、いまさら目を瞠る気持だった。戦車も、○砲も、もしできたら城壁を乗り越しかねまじい勢いでピッタリ一線に喰いついている。まったく「犇めきたつ」という感じだった。
 夜が明けるとすぐ城門への突入がはじまった。前方には城壁をとり巻いて幅三十メートルほどのクリークがあった。クリークの土手は三間ほどの道路になっていて、そこに塹壕があった。城門はすでにピッタリ閉されて、泥や砂が一杯積んである。クリークの土手の敵は、城内に逃げ込む道はなかった。堪えかねてバタバタバタと城門へ走って行くが、片っ端から友軍の重機に薙ぎ倒されて、山のように重なって倒れて行く。
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2008年03月08日

ある兵士の支那事変13

南京への途、クリーク突破

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回はクリーク渡河作業の工兵の苦労と足を鎖で繋がれてトーチカを死守する支那兵。
写真は仮橋を渡って突撃する我が部隊
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引用開始
工兵隊が架橋材料をもってクリーク岸の私たちのところへ這って来た。廣徳を出て山岳地帯を抜けた部落の端のクリークで、私たちは追いかけていた敵の尻尾をつかまえてしまったのだ。南京へ、と気は焦ったが、クリークがあってどうしても突撃できない。結局工兵の架橋を待つよりほかはないことになった。
 私たちは工兵の到着を見てその架橋の掩護のため、岸からクリークの中の三角州へ飛び出して行った。三角州には一ぱい葦が生えている。この葦の中へ踊り込む私たちを見て、対岸の敵は強行渡河されるものと思ったのか、対岸の一切の火器を動員して慌ててこの三角州を射ちまくった。それを見て真裸になった工兵が三角州から離れた下手へ材木をもって飛び出して行った。友軍の重機が岸から対岸めがけて猛烈に唸った。私たちは対岸の敵を全部三角州へ牽制して、ここから射ちまくった。弾は葦に当ってサ、ササササと大雨のような音をたてた。葦が切れて射たれた矢のように私たちの顔に刺さった。

「ヨイ、ソレ、ヨイショ!」という勇ましい工兵の気合いが聞えて来る。射って射って射ちまくる友軍重機の音で、空気がすっかり熱くなったような感じだった。「いいか、大丈夫か!」と叫んで衛生兵の小林伍長が三角州と土手の間を走り廻っている。まだ「小林ッ、衛生兵!」とよぶ声は一つも聞えて来ない。「伝令!」と呼ばれて私は荒木准尉のところへ駆けよった。私は○隊本部との伝令もやることになっている。葦の中で命令を復誦していると、その声が弾の音で吹き飛んで自分の耳にも聞えないほどだった。三角州を出て土手に登る。土手のところに小林伍長が伏せていて、私を見てニッコリうなづいた。「本部へ行ってみい、兄さんが御馳走しているぞ」といった。『兄さん』の石原上等兵は、きょうは本部にいるらしい。弾の中でも食物の話だけは忘れなかった。・・・
 本部に飛び込んで命令を復誦して伝えると坂本大尉が、「よろしい、御苦労だった。あそこで何か温かいものでも喰って行け」といわれた。隣室で石原上等兵が上着を脱いで鉢巻をしていた。「サァサァサァ」と手を叩いて、「ゼンザイ、支那酒、御飯にニワトリ、菜ッパはお汁で、ガチョウの漬物なぞいかが・・・」といった。
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2008年03月07日

ある兵士の支那事変12

南京への行軍を知らされる

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は南京へ向うことを知らされて喜び勇む部隊の様子です。
写真はクリークを距てて機関銃隊の猛射
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引用開始
崑山を出るとまた爆破された鉄橋があった。この鉄橋を渡って前進をつづけていよいよ蘇州へ入るんだ、と誰かがいいだした。おぼろげながらも伝え聞いている『蘇州』――そこへ行く、ちょいとした感慨だった。この感慨にふけりつつ鉄橋を渡っていると、「前進停止」の命令が来た。「ハテ?」とみな首を傾げる。私たちの不審には一切おかまいなしに部隊は鉄橋の近くに集結した。そのまま崑山に二日泊まって再び行軍を起こして気がついてみると、私たちは崑山を抜け、あの苦戦の鉄橋も過ぎ、さきに来た道をまたどんどん逆もどりしていた。・・・・

 一体私たちは何処へ進むのだ。なにもわからなかった。蘇州を攻めるのをなぜ他の部隊にゆずった。腹がたって来た。黙りこくってただ下を向いて歩く。お得意の饒舌はもう何処にもなかった。時々どうしても喋らなければならない時にはプンプン腹をたてたように怒って喋る。なにを見てもなにを考えてもただわけもなく腹が立ってきた。石原上等兵など大ムクレな顔をして何をいっても、「知らん」といって河豚のようになっている。おかしくて笑い出すと、石原上等兵もプンプンしながら笑ってしまった。
 
 雨に打たれてクタクタになって嘉善へ着くと、「南京に向け前進する!」といって来た。「アー」とみんな目を瞠る気持だった。南京――敵首都の南京、これを私たちが攻める。もう腹などはたてていられない。それ飯を炊け、しっかり炊け、うんと腹を作れ、と大変なはしゃぎようだった。みんなが立ったままで葉書を書いたりした。どうしてもこれを故郷へ知らせないではおけない気持だった。私たちが北から中支の戦線に廻ったとき、誰が南京を攻めると考えたろうか。石原上等兵が飯盒を持って水でも汲みに行くらしかった。「オイ、何処に行くんだイ」と私が声をかけると、石原上等兵は「南京だイ」と言って昂然と肩を聳やかした。こうして前進の準備をはじめていると荒木准尉が来られた。准尉は情けない顔をして、「われわれの部隊は南京へ前進する。・・・が、わが部隊は○○の予備隊となった」と告げられた。戦友たちはまたみんな腹を立ててしまった。南京戦に予備隊とは何だ。それでは戦争がすんでも故郷へは帰れない――という。

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posted by 小楠 at 07:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変