2008年02月14日

後発の大国ロシア視察

欧米が見た岩倉使節団7

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。今回は視察以前の日露関係から始めたいと思います。
写真はサンクトペテルブルグの宮殿(国立公文書館蔵)
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引用開始
1873年3月29日〜4月15日 イアン・ニッシュ
 岩倉具視公率いる使節団が、折を見てロシア帝国を訪問することに疑問の余地はなかった。ロシアはおよそ7200万人の人口を有する(1857年)大国で、太平洋岸に国境を持っており、主として国境紛争と領土的な不安という形で日本との間に多くの緊張関係を保っていた。その一方で日本人は、ロシアやその制度をまねることにはあまり関心を抱いていなかった。実際、日本人は既にヨーロッパの政治家たちから、ロシアに対するきわめて辛辣な見解を得ていたのである。しかし、それにもかかわらず訪問は不可避だった。ロシアは1862年の幕府遣欧使節の旅程にも入っており、使節団の交換も頻繁におこなわれてきていて、日本人の留学生たちもその地で大学に通っていた。したがって、規模は異なるとはいえ、ロシアも他のヨーロッパ諸国同様に研究されてきたのだった。

 19世紀初めから日本はロシアを恐れてきた。日本とロシアの最初の出会いは1806〜07年ニコライ・レザーノフによるもので、おそらくロシア政府からの正式の要請は得ていなかっただろうが、彼はとりわけ日本北部との交易の開始を求めてきた。1853年海軍中将エフフィーミー・プチャーチンの海軍使節団は、徳川幕府に皇帝からの書簡を手渡し、その中でロシアは蝦夷(北海道)を通しての交易の開始を要請したが、結局1855年に日本はロシアと下田条約を締結した。いくつかの条項はアジア大陸の岸からやや離れたところにあるサハリン島(樺太)にかかわるもので、ここは世紀の変わり目以来ずっと紛争の種になった。両国ともその領土権を主張して、自国民(日本の場合にはアイヌ人)による移住を奨励していたが、どちらも自国に併合しようとはしなかった。
 条約はサハリンを両国の共有地とすることで合意された。しかし、ロシアはクリミア戦争で疲弊しており、自分たちは不利な立場で交渉したので、譲歩を余儀なくされたのだと後に主張してきた。この条約は1867年4月1日の新協定でも明らかに確認されているが、そこではまたあらゆる紛争は、ロシアの当局であれ、日本の当局であれ、一番近い当局で解決されるべきだと定められていた。このことはロシアによる島南部(アニワ湾)への公然たる侵略という事態を導いた。
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posted by 小楠 at 07:17| Comment(1) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A