2008年02月29日

ある兵士の支那事変6

陣中の身嗜み

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は行軍途中のひとときと第一線から送られてくる負傷兵を見ての感情。
写真は傷つける戦友を担架にのせ山路を下る勇士
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引用開始
保定城外の民家だった。少し萎れてはいたが、支那兵のちぎり残した葡萄が沢山蔓に残っていた。永定河を渡ってから十日間、来る日も来る日も野菜をかじっては泥と弾の中を進み続けて来た私たちには、萎れていてもその小さな青い円味の果物が、世にも珍しい貴いもののようにさえ思われるのだった。
 半透明な粒を歯に噛むとプツ、とつぶれて、そのしみ渡る甘味は皮も種も吐き捨てるのが惜しかった。城内の住民たちは湯を持って来たり、粟粥を御馳走したりして盛んに私たちを歓迎する。石原上等兵が何処かから大きなカメを探して来た。これに湯を沸かして初めての陣中風呂に、まずまずと児玉少尉や荒木准尉をお入れ申した。・・・・

 児玉少尉や荒木准尉たちが「おい、あんまり汚くしていては、日本軍の不面目だぞ、少しは綺麗にしろよ。」と注意して廻られた。戦線に来て日が浅かったので、そんな余裕があるのだった。・・・
 晩は豚の御馳走に、舌鼓をうった。寝ようとすると部隊全部にはじめて千人力飴が配布された。小さな袋に入っていて朝鮮飴のように柔らかくて甘い。これを噛んで小林伍長と石原上等兵と三人で抱き合って寝ていると、久し振りで湯を浴びた快さも手伝って何か楽しさがゾクゾクと身内にこみあげて来た。
 昨日までやっていたあの激しい戦争なぞはすっかり忘れてしまっている。いや、たったいま、ヒュルヒュルヒュルと空気を裂く弾の音がすれば、それと同時に何が起らないとも知れない。しかしそんなことは一切忘れてしまっていた。戦場というものは飛びだすことも早いが忘れることも早い。一貫した想念というものが全部無くなって、ただ瞬間瞬間の想念の外にはなにも考えない――これが戦場だった。
 従って兵隊はみんな子供のように、その場その場の感情で動いている。十日間の洗礼で明日の命を考える馬鹿ものなどは一人もいなくなってしまった。この瞬間瞬間の行動が連続して、東洋の一転期を画するような大きな仕事が出来て行くのだろうか――と不思議な気もするが、そんな考えも一寸目の前を閃いて行ったかと思うと、次の瞬間には、もう別の途方もないことを思ったりしている。

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2008年02月28日

ある兵士の支那事変5

保定城壁突入

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は保定城突入前の兵士の様子です。
写真は決死の突撃を前に名残の一服
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引用開始
 私たちは保定への泥濘を進んでいた。永定河から保定まではいたるところに野菜畑があったので、部隊がちょっと停るとすぐ野菜を採りに行った。この日も部隊が停って炊事がはじまる前の寸暇に、四人の戦友たちと付近の畑へ出かけて行った。銃があっては、野菜を十分両手に持てないので、みんな銃なしだった。高粱畑の向こうの方にどうも立派な野菜畑がありそうだというので、散歩でもするような気持でブラブラと出かけた。空は晴れ上がってなにか鳥の声さえ聞える。長閑な北支の田園風景だった。高粱畑を抜けると果して見込みどおり見事な野菜畑が広がって、その向こうには小さな部落さえ見えている。畑には円くて一尺くらいの長さの立派な大根がニョキニョキ生えていた。

「しめた!」と口々に叫んで大根を掘りはじめた。「まだあちらにもある、こちらに白菜がある」といって私たちは下ばかりみて這いずり廻る間に、部落に近づいていたのを気付かなかった。瞬間、ダ、ダ、ダ、と機銃が部落の端で鳴って同時にピューッピューッピューッと弾が耳元をかすめて飛んで行った。ハッと思って伏せる。反射的に銃を構えようとして銃代りに白い大根を持っていることに気がついた。「しまった!」と思った。弾は連続的に飛んで来てプスップスッと畑の土に喰いいる。じいっと伏せている、とやがて機銃がピッタリ止んだ。ヤレヤレと思ってこの間に退ろうとじりじり二、三歩動くと、とたんに再び機銃が鳴って弾が傍の大根に突刺さった。二進も三進もゆかなくなった。しきりと軽率さが悔まれてきた。武器も持たないで、大根を抱いてはなんとしても死なれない。他の三人を見るとみんな、しまった、という同じ思いの顔つきをしている。それでも目を見合った拍子にニヤニヤと笑ってみせた。ジリジリ這って、やがてうまく高粱畑の中へ入った。高粱畑を抜けて、もう大丈夫、と思うとまた四人が期せずして顔を見合った。そして、四人ともワッハッハッハと笑った。・・・・

 部隊へ帰って「ひどい目に会ったぞ」とこの失敗の巻を披露に及んでいると、表から石原上等兵がノソリノソリと入って来た。左手で一人の支那兵の腕をつかまえ、右手に鶏を二羽ぶら下げている。みんなが呆れ顔で目を瞠ると、石原上等兵はニヤリニヤリ笑って二羽の鶏を突き出した。「それはわかっているよ、左手の方はなんだい」というと、石原上等兵は支那兵を振り返って胸を張った。
「鶏と一緒に分捕って来た。敗残兵の癖に生意気にこの『兄さん』を撃ちやがる・・・」と悠然たるものである。一言もなかった。私たちは大根を抱えてホウホウの態で帰って来るし、石原上等兵は敗残兵を従えて帰って来る――これだけの違いが私と彼にはあるのだろうかと惚れ惚れとして『兄さん』を眺めるほかなかった。
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2008年02月27日

ある兵士の支那事変4

捕虜を殺さぬ皇軍の情

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は永定河渡河の苦労の模様と、敵兵に対する処置の様子。
写真はベソかいて命乞い、敵110師の捕虜
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引用開始
演習と違わぬ感じ 
 一面の野菜畑だった。白菜や人参などが水々しい青さで炎熱の直射に照り映えていた。野菜畑を進むと永定河の長い土手がある。土手には野いばらが一杯生えていてゲートルに虫のように喰いついた。
 土手にたどりついてここで携帯してきた飯盒をおろして飯を喰った。野砲が盛んに対岸の敵陣地に射ち込んでいたし、友軍の飛行機がひっきりなしに飛んできて対岸を爆撃していた。にもかかわらず土手からちょっと頭を出すと対岸からダダ―ンと飛んで来る。この中へ飛び出すのか、とチラと考えてみないではいられなかった。

 石原上等兵が元気な声を出して伝令に飛び廻っている。午後三時三十分! 部隊は一斉に土手から永定河の中へ飛び出して行った。
 土手を下りると、広い砂地が海岸のように広がって、そこを演習どおりに散開して進むと、対岸の土手から機銃弾が薙ぐように飛んで来た。その弾幕の中に飛び込んでいった瞬間、もう弾というものを考えなくなってしまった。「こりァ演習とちょっとも違わんじゃないか」と思ったりする。
 砂地を走り抜けると水が激しい勢いで流れていてズボズボと腰から胸までつかった。河底は泥になっていてちょっとも足に力が入らない。左足を踏み出すと右足がズボズボと泥の中へ入る。慌てて手をつこうとすると顔まで水の中へつかってしまった。一人流れそうになるのを助けるとこんどはその重みで自分が流れそうになる。すると助けられた戦友が、慌てて自分を助けてくれる。一つにかたまっては敵に射たれると焦るが、どうしても散開することができない。助け、助け合って四、五人が転がるようにしながら水を渡った。・・・・

「衛生兵!」と喘ぐように呼ぶ。「通訳だ、通訳がやられた」「なにッ通訳が?」と石原上等兵が憤って叫んだ。「隣の○隊の通訳だ!」と、叫び返してくる。ムカムカと腹の底から憤りが湧き上がって来た。「畜生! ここで目茶苦茶に敵をやっつけて死んでやろう」と思ってくる。
 焦ると足はますます泥にとられて進めない。喘ぎ喘いで高粱と泥の中を転げるようにして漸く土手にとりつくと、上から手榴弾が飛び、この下をかいくぐって土手に上ると、支那兵の死体につまづいてゴロゴロと土手の下へ転がり落ちた。もうなにも考えなかった。ただ訳もなくじいっとしていられなかった。もっとなにかしたかった。突き殺すとか、射つとか、走り廻るとか――すでに、とっくの昔に、あれほど考えていた「弾は私の体の何処へ当るだろうか」はすっかり忘れていた。
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2008年02月26日

ある兵士の支那事変3

初めて聞く敵弾の音

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は事件で有名な廊坊からの行軍の様子です。
写真は敬虔な墓前の祈り
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引用開始
「畜生!」で一貫した気持 眼を射た新しい墓標
 汽車が停って「下車」の命令が出たときはじめて天津へ来た、とわかった。私たちのしなければならない一切の目的がこれではっきりとわかった。目的がはっきりわかると、こんどはまだ経験しないその目的に対する新しい好奇心が勃々と湧いて来た。
「実際の戦争とは一体どんなものだろうか」とただそれだけを思ってくる。それが直接自分の生命と関係のある問題だとはちょっとも考えない。ただ好奇心で一杯になる。早く知りたい、とみんなが思ってくるのだ。
 天津で少し警備について再び汽車に乗った。乗ったと思ったらすぐ降ろされた。
『廊坊』と書いた駅標が目につくと同時に真新しい墓標が目を射った。きのう建てられたばかりだというこの墓標を兵たちはみんな眺めた。私たちがこれから生まれて初めて経験しようとするもの、私たちの好奇心を胸一杯に揺さぶっているもの――それとこの墓標とが、なんの関係があるというのだろうか。――誰もそれをいうものはない。それをいう前に、この墓標が私たちと同じ兵の上に建てられたものだということだけを、焼きつくような熱さで考えてくる。
 
 『同じ兵』――それは『戦友』といわれる。私たちは一年有余の軍隊生活でなんでも個人を超えて『兵隊』という概念でしかものを考えないようになってきた。この墓標は兵隊の墓標だ。それだけだ。同じ兵隊の墓標だ。ここに戦友が倒れている。ただそれだけをハッキリと考える。そして口惜しさが、名状しがたい口惜しさが、頭の中の一切を占めてしまった。
 これから知ろうとする戦争がなんであるか、死がなんであるか、すでに問題ではない。まじまじとこの新しい墓標を眺めて、ただ「畜生!」と心の中一杯に思った。これが私の戦闘経験の発端だった。私の戦争への経験は「畜生!」の字ではじまった。そしてこの「畜生!」が限りなく続いて、最後まで「畜生!」で一貫したことをここで告白しなければならない。

 駅に下りて憩う間もなく行軍がはじまった。陽は落ちて星が空に降っている。何という広い空だろうとしみじみ大陸の空の大きさを考えた。道がほとんどなかった。なにが植わっているのかわからぬような畑を通ったり、或は小さな山を通ったりして歩きつづけた。
 五里も歩いたろうかと思うころ、突然前方遠くの暗闇にカンカンカンという機銃の音が起って、深々とした夜の空気にビリビリビリと反響した。同時にヒューンと呻って頭上をなにか飛んで行った。またヒューンと飛んで行く。しばらくは頭の上を飛んで行くものをなにか気がつかないような気持だったが、やがて「あ、弾だ弾だ」と思った。生まれてはじめて敵からの弾の音を聞いた。弾だ――と気がつくと、つぎからはヒューンという音を聞くと、ちょっと反射的に首を引っ込めた。
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2008年02月25日

ある兵士の支那事変2

支那事変戦場へ向う

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。支那事変に従軍した一兵士の手記から、当時の戦場の様子がよくわかる内容です。
写真は慰問品の製作に忙しい朝鮮女性
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引用開始
嬉しいあだ名『兄さん』『お母さん』『嬶』
「オーイ、うちの嬶(カカア)はいないか」と荒木准尉が呼ばれた。すぐ私が飛んで行く。○○に上陸して、再び汽車に乗って私たちは何処とも知れず運ばれていた。
 私は荒木准尉の将校当番だった。それで嬶なんである。汽車も幹部と一緒に二等車に乗って私は少々得意であった。石原上等兵も本部付のラッパ手でやはり二等車の嬶組だ。・・・・・
 小林伍長は新編成以前からの私の友達だ。色が白くて、丸顔で、優しい男振りの兵隊さんだった。小林伍長の任務は衛生兵だったので、これもまた本部付き、すなわち二等車の嬶組であった。
 小林伍長は顔が優しかったように性質も優しくて綿密だった。細かいところまで気がついて、私や石原上等兵の持っていないものは小林伍長のところへ行けば必ず持っているという風だった。だから私たちは小林伍長を『お母さん』と呼んだ。あまっちゃれた言葉で兵営内の言葉には似つかわしくないものだったが、それだけに『お母さん』というアダナを口にすることは、ホッと息を抜くような、なにか自慰的な気持で楽しかった。
『兄さん』とアダナされる石原上等兵は無遠慮で大まかで、そして『お母さん』は気が弱くて綿密で、この真ん中へ入って『嬶』と呼ばれる私は、温かい蒲団にでもくるまったように楽しかった。

 汽車は歓声と旗の波に埋められた駅をいくつも通過して走っていた。とうとうある駅で汽車が停った。歓声と旗が窓々から流れ込むように溢れている。洋服を着たり、綺麗な着物を着た人たちに混って、朝鮮の白い着物をつけた人々が一生懸命になにかを叫んで旗を振っていた。私はオヤ、と思った。白い着物を付けた人々は汽車が再び動き出すとドッと、堰を破ったように汽車の窓々へ飛んで来て、なにか口々に叫びながら汽車の中へ旗やいろんなものを投げ込んだ。私のところへも一つ白い布切が投げ込まれてきた。同時に、アクセントの強い癖のある語調で
「兵隊しゃん、しっかりやって下しゃい」
という叫びが耳を打った。
 汽車の窓を旗と人の波がさッさッと過ぎて行った。私は投げ込まれた白い布を拾った。立派に千の赤い糸で『尽忠報国』と縫いとった千人針だった。
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2008年02月23日

ある兵士の支那事変1

「征野千里」を読む

 今回から、昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。まずその序からです。
写真は中表紙の「最近の谷口上等兵(陸軍軍医学校にて)」
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引用開始
序 陸軍少将 桜井 忠温
 日露戦争後、ある兵士が作った戦争記録を読んだことがある。世間に発表しないですんだものだが、それには、玉子一個何銭、鶏一羽何十銭、といったようなことまで細かく書いてあった。
 戦争の記録もここまで来ないといけない。戦史にも何もないことが、あとになってどれほど役立つかわからぬ。
 こういう記録は、百年後を目標にして、始めて生きて来ると思う。
 谷口君のこの著は、細かい日々の生活がよく描かれてある。飾りも何にもないところが尊い。ヤマも何もないようなところに、何度も何度も読み返したいところがある。本人の気のつかない(だろうと思う)ところに何ともいえない味わいがある。
 支那事変が生んだ作品は幾多ある。しかし、この書の中に盛られているものは、その一つ一つが何の装飾もない、「ホントウの戦争」の姿である。
 この作品を世に送られるということは、谷口君が同時に二つの御奉公をなしたのである。剣とそして筆と、――
 これこそ、永遠に残る書であって、その一字一語に血と汗とが滲み出ている。われわれは深く谷口君に感謝しなければならぬ。

読者の皆様
 皆様の信頼こめた万歳に送られて祖国を発った私ではありましたが、僅かばかりの傷のため任務中途で再び銃とれぬ身となって、生きては二度と見まいと誓ったこの祖国に帰ってまいりました。皆様に申訳の言葉もなく、御詫び申上げる胸中、ただ腑甲斐無さへの自責の念で一っぱいです。この情けない私が今更戦場を語るもあまりにおこがましい次第とは存じましたが、私のこの微少な経験にしていささかなりとも銃後の皆様に戦場を偲ぶよすがともなれば・・・・と存じ、私が経験しました一切を読売新聞にお話した次第であります。幸いにして同社社会部の原四郎記者が、私が意図したことそのままに手記の形式にまとめるの労をとって下さいましたので、拙い言葉も実感溢れる文字にかえていただくことが出来ました。ここにこのおこがましき手記を世に送るに当って、護国の鬼と化した幾多戦友の英霊及び光輝ある軍旗の下に烈々として進軍をつづけつつある懐かしい戦場の戦友に深い感謝を捧げると共に、銃後の皆様の日夜にわたる支援と数々の御慰問に厚く御礼申上げておきます。一切を語り終えて今はただ銃執る身となって再起奉公の日が一日も早く来るのを待つのみです。
南京城の戦闘を思い起しつつ
中野部隊 歩兵上等兵 谷口 勝 昭和十三年十二月十日


以下本文からの引用です。
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2008年02月22日

明治日本人の熱中対象

蒸気船への熱望

 英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
 今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。

引用開始
 模倣の才と珍奇な物を好む性質の持主である日本人は、1870年(明治三年)頃には、ヨーロッパの製造品を、小児が玩具を欲しがるように、愛好品として所有したいという熱望が大変に旺盛であった。ヨーロッパの新しい物がこの国へ入って来た当時は、その所有欲は、実用品として利用したいというよりも単に珍しい物を所有したいという欲望が強かった。このような気質から全く馬鹿馬鹿しい事態がしばしば起った。

 例えば、当時の日本人は兎という動物を知らなかった。あるイギリス人貿易商が耳の長いこの動物を数匹日本に持ち込むことを思いついた。その結果は、日本人はすっかりこの可愛い動物のとりこになり、それを飼いたいという熱望が国中に広まった。商人はカリフォルニアやオーストラリアや支那で飼い兎を捜して買い集め、汽船が日本の港に入る度に数百の兎が舶載されて来た。それでも兎に対する需要は一向に衰えず、熱狂した買手は一匹の兎に100ドルもの値をつけた。政府も驚いて輸入を制限するため兎の輸入に重税を課した。この措置で、さしもの兎熱も短期間で冷却して兎の輸入は全く跡絶えた。

 同じような、しかしそれほど激しくない所有願望は、豚や羊を対象にしても起こった。豚も羊もそれまで日本にはいなかったのである。このマニアは少しくトラブルを惹き起こしたものの、短期間で消滅した。・・・
 1860年代(万延年間)、70年代(明治三年〜十二年)に起こった日本人の最初の熱中の中でも特に熱中させ、永く続いたのは蒸気船を持ちたいという熱望であった。幕府や封建諸侯、その他資本に余裕のある者は蒸気船を購入した。
 日本のような島国では蒸気船は単なる玩具ではなく、最も高価な実用品の代表でもあった。最初の購買者には不幸なことであるが、蒸気船の構造が複雑で、無知な者の手にかかると非常に危険な代物であった。

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2008年02月21日

日本最初の鉄橋架設

伊勢佐木町の吉田橋

 英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
 今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィス、の手になっています。

引用開始
 日本人を駆り立てた進歩の精神を象徴するいま一つの例は鉄橋の架設である。
 1870年(明治三年)に見た日本の橋の構造は、前に述べた住宅と同様に非常に原始的なものであった。橋脚は木の皮が付いたままの材木である。一番目の橋脚は日本の工法が許す限り岸から離れて地中に打ち込んである。橋脚と橋脚の間には二本の材木が渡してあり、それには日本の橋に特有のアーチ形を造るよう曲った材木が選んである。橋脚の上部には横に並べて厚い板が張ってある。これに粗雑に造った手すりをつければ橋は完成である。こんな橋は絶えず修理が必要で、また馬車などは通れない。橋は五年毎くらいにすっかり架け替えなければならない。

 横浜から東京への幹線道路にあるこの短命な※橋の架け替えを、寺島知事に求められた。彼は旧来の橋に代えて恒久的な橋の架設について私に相談をもちかけた。この架橋は一つの実験の意義を持つものである、と彼は私に説明し、ヨーロッパではどのようにして橋を架設するかを日本人に見せたいのだと言った。しかし寺島はこの架設工事に多額の経費を支出する権限は与えられていないので、ヨーロッパから架橋に必要な資材の輸入や、架橋専門の外国人技術者の雇れはできないことを表明した。

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2008年02月20日

明治初年の薩摩訪問

明治初期の島津藩で

英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
 今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。

引用開始
 このときの航海で最も興味深かった所は、有名な島津藩の城下町である鹿児島と薩摩の他の場所を訪れたことであった。
 鹿児島は、かつて横浜近くの街道で四名のイギリス人一行が薩摩の大名の家来に襲撃され、殺傷された事件の報復として1863年(文久三年)7月にイギリス艦隊によって砲撃されたことがあった。この砲撃の結果、薩摩人の間に、西洋文明を高く評価する気運が生じたのであるが、私が訪れたときにそれを証明するいろいろの事物を見た。

 薩摩の君主島津三郎(藩主島津忠義の父)はいまだに中央政府から独立した勢力を保持してはいるが、1870年(明治三年)頃では天皇の政府から不信視されていた。事実、井上は我々がどんな歓迎を受けるか心中で測りかねていたので、自分でこの地の当局の意向を忖度するまでは我々に上陸を見合わせるようにと言った。我々の船が鹿児島に着くと、彼はすぐに陸岸に向い、四、五時間たって四人の薩摩の役人を伴って帰って来た。役人たちは、我々を心から歓迎し、及ぶ限りの援助を惜しまないと言った。
 役人はまた、彼らが通常殿様と呼んでいる薩摩の大名が、次の木曜日の夕刻に我々と晩餐を共にしたいと願っており、我々がそれを受けることを望んでいると言った。殿様の親切に対し我々の感謝を伝えて戴きたいと役人に頼み、我々はこの歓待を喜んだ。
 彼らはまた「誠に言いにくいことであるが、遺憾なことに殿様はワインをお持ちにならないから船からいくらか持参して戴ければ幸いである」と言った。我々はシャンペン六瓶とシェリー酒六瓶を晩餐会への贈物とした。

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2008年02月19日

明治元年の長崎にて

明治元年の長崎で灯台設置調査

英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
 今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。

引用開始
 長崎の知事、井上馨に面会した。彼は若い男(井上馨は天保六年生まれ、当時三十三歳)で、彼は教育の一部を合衆国で受けた。彼は流暢に英語を話すので私は必要な仕事を容易に処理することができた。彼は私の依頼には快く応じて出来る限りの協力を約束してくれた。たまたま私がアルガス号での日本政府高官の突飛な行為を話すと、彼は大変に面白がった。そして「彼も良き日本人であるから、すぐにもっと分別をわきまえるであろう」と高官を弁護した。・・・・

 長崎は高い丘陵に囲まれた世界中で最も美しく、かつ安全な港の一つである。外国人の居留地も日本人の市街も丘の北東側に位置し、絵を見るようなたたずまいは殊更に興味深い眺めである。長崎では近代化を図る日本にとって重要な多くの計画が実行されている。大型船の造船台が設けられ、種々の工作機械を設備した工場が建っていた。ここでは日本人のみが働いており、工場は全部が稼動しているようであった。イギリス人※グロヴァー氏の商会は、近くの小島、高島に発見された石炭の採掘で日本政府との間に協定を結んでいる。彼は私が知る限りでは、日本でこの鉱物の採掘の許可を得ている唯一のヨーロッパ人である。

 私は高島の採炭作業場を訪れた。そこは毎日三百人の労働者を雇い、近代的巻揚機やポンプの設備があり、毎日約200トンの良質の瀝青炭を産出する。この石炭はトン当たり4ドル50セントで売られている。イギリスから輸入する石炭はこの頃1トン7ドル50セントもした。・・・・
 この第一回の視察航海が終り、いよいよ灯台建設推進の手順が出来上がると、灯台補給船の必要なことが改めて痛感された。私は東京の政府から、この目的に適う船が購入できる機会がくれば通知するように命ぜられていた。

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2008年02月18日

明治灯台建設地測量航海

灯台建設場所測量航海の様子

英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
 今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。
写真はブラントン
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引用開始
 日本における私の主務は灯台の建設である。その第一歩は航海者たちが推薦した予定場所を検分して回ることから始まった。これらの場所を訪れる唯一の方法は海路の旅行しかなかった。・・・・
 早急に灯台の建設を始めることに最も熱意を持っていたハリー・パークス卿は、イギリス海軍の提督ヘンリー・ケッペル卿に、この事業のため彼の指揮下にある艦船の一隻を特派するよう慫慂した。公使の要請に基いてケッペル卿はジョンソン艦長の指揮するイギリス海軍のマニラ号を派遣してくれた。こうして私の最初の日本沿岸一周はこの軍艦によって実現した。・・・・士官室には三名の日本人が居住し、下甲板の水兵の間に十八人ないし二十人の随行日本人がいた。
 我々の旅行は1868年(明治元年)11月21日に始まった。未調査の湾を測量したり、灯台建設の予定地を訪れたりして、航海は1869年1月5日に終了した。・・・・・

 この航海において日本の紳士たちはヨーロッパ式の食卓につくのが始めてであったから、彼らの反応はかなり我々の興味をそそった。薬味入れのガラスの小瓶やナイフやフォークに皿などを見た彼らの珍しがりようは大変に滑稽であった。
食卓用具のそれぞれの使用目的について全く知識がなかったから、どれもこれもまともに扱えなかった。ケチャップや食用酢をなめてみて顔をしかめ、胡椒のふりかけ瓶を嗅いだときは大変なことになった。
 牛肉や羊肉は訝しそうに見詰めた。はじめ二、三回の会食の席ではヨーロッパ人たちはおかしさに吹き出すのを押さえることができなかった。それがどんなに口にあわない食物でも威厳を崩さず、静かにすました顔でもぐもぐと味わうので、なおさらおかしさを誘うのだった。馬鈴薯その他の野菜はかなり好む様子であった。
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2008年02月16日

明治最初のお雇い外国人

赴任の理由と日本最初の電信

英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
 今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。
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引用開始
 1865年(慶応元年)5月、オルコックの後任としてハリー・パークス卿が駐日英国公使として江戸に着任した。パークス公使が最初に手掛けた仕事は現行の通商条約の補足の約定の条項の速やかな実施を促進することであった。パークス卿は約定の条項のうち欧米人の安全に関する条項※の実施について特に熱心であった。・・・・

※・・・航海の安全のための条項、第十一条の「日本政府は、外国交易の為め開きたる各港最寄船々の出入安全のため、灯明台、浮木(ブイ)、瀬印木(障害標識)等を備うべし」があった。
 英公使が特にこの条項の実施に熱心で、しばしば幕府と折衝した事情は、日本が外国と貿易開始以来、日本沿岸で外国船の遭難事故が頻々として起こり、その都度多数の人命が失われたことによる。

 パークス卿は江戸幕府の閣老に対し、航海の安全の問題は可及的速やかに結論を出すよう圧力をかけた。・・・・これに対し幕府閣老から1866年12月7日次のような回答があった。
「灯台の設置場所については正確な実測を行った上でないと決定はできない。しかしその間にも我が方は要求された機器を発注する所存である。灯台の機器三箇所の分については既にフランスへ注文ずみである。それ以外の八箇所の分については装置一式がイギリス政府を通じて入手できるよう貴下の御尽力をお願いする。当方は購入代金の見積りが出来次第発注をする」
・・・・これに関した事務の一切をエジンバラのスコットランド灯台局のダヴィッド&トーマス・スチブンソン兄弟に委任することに決定した。・・・・
スチブンソン兄弟は、私がすべての要求を充たす者であると認めて、私を商務省に推薦し、1868年2月24日付で私は採用通知を受取った。・・・・
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2008年02月15日

イタリアの岩倉使節報道

欧米が見た岩倉使節団8

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。今回はイタリアでの新聞報道をいくつか抜粋してみます。
写真はフィレンツェ アルノ河の景(久米美術館蔵)
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引用開始
1873年5月8日〜6月3日 シルヴァーナ・デ・マイヨ
フィレンツェ『ラ・ナツィオーネ』1873年5月10日

 昨日未明2時40分、日本使節団がストックホルムからブレンナー経由でフィレンツェに到着した。・・・・使節団の到着に際しては、目下ローマに赴き不在の市長に代わって市会議員代表ガルツォーニ侯爵、警察署長、宿泊先の高級ホテル・ラ・パーチェ社主の代理として支配人チェーザレ氏らが出迎えた。
 一行はホテル専用馬車四台に分乗してホテルに向かい、ホテルの玄関では駐日イタリア特命全権大使(公使の誤り)フェ・ドスティアーニ伯爵とともに社主に迎えられ、豪華な客室に案内された。
 大使はじめ書記官と従者全員が洋服を着用し、英語とフランス語を流暢に操り、ヨーロッパ式の食事をして、両腕を交差させ体を二つ折に曲げて挨拶をする。この習慣とオリーヴ色を帯びた褐色の肌の色を手掛かりにする以外には、ヨーロッパ人とまったく見分けがつかない。一行の持参した荷物の量たるや膨大で、駅からホテルまでの運搬には、マンテッリーニ運送会社を頼まざるをえないほどであった。使節団は近くローマに向けて出発の見通しである。・・・・

ローマ 『ラ・リヴェルタ』1873年5月16日
 すでに報じたように、昨夕クイリナーレ宮殿で日本使節を歓迎して盛大な晩餐会が催された。
 国王陛下は司令官の礼服を召され、マルゲリータ皇太子妃と腕を組まれて大饗宴の間に入られた。皇太子妃はこの上もなく優雅で華やかな明るいバラ色の衣服をまとい、華麗なダイヤモンドで装いを凝らしておられた。
 大使たちの短い紹介の後、国王陛下はテーブルの中央に着席された・・・・
 宴会後、招待客は黄色の大広間でうちとけた会話のひとときを過ごした。日本の大使たちは外交官の礼装姿であったが、スウェーデンやその他の国での叙勲があったにもかかわらず、いっさい勲章を佩用していなかった。彼らは英語にきわめて堪能であるが、そのうちの最年長の者は例外であって、通訳を介して陛下や両殿下と言葉を交わしていた。
 日本人はマルゲリータ皇太子妃や女官たちと長いこと話をしていた。女官たちは全員英語ができたからである。日本人はイタリアの魅力のとりことなり、終始わが国を褒め称え、熱烈な賛美者である。・・・

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2008年02月14日

後発の大国ロシア視察

欧米が見た岩倉使節団7

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。今回は視察以前の日露関係から始めたいと思います。
写真はサンクトペテルブルグの宮殿(国立公文書館蔵)
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引用開始
1873年3月29日〜4月15日 イアン・ニッシュ
 岩倉具視公率いる使節団が、折を見てロシア帝国を訪問することに疑問の余地はなかった。ロシアはおよそ7200万人の人口を有する(1857年)大国で、太平洋岸に国境を持っており、主として国境紛争と領土的な不安という形で日本との間に多くの緊張関係を保っていた。その一方で日本人は、ロシアやその制度をまねることにはあまり関心を抱いていなかった。実際、日本人は既にヨーロッパの政治家たちから、ロシアに対するきわめて辛辣な見解を得ていたのである。しかし、それにもかかわらず訪問は不可避だった。ロシアは1862年の幕府遣欧使節の旅程にも入っており、使節団の交換も頻繁におこなわれてきていて、日本人の留学生たちもその地で大学に通っていた。したがって、規模は異なるとはいえ、ロシアも他のヨーロッパ諸国同様に研究されてきたのだった。

 19世紀初めから日本はロシアを恐れてきた。日本とロシアの最初の出会いは1806〜07年ニコライ・レザーノフによるもので、おそらくロシア政府からの正式の要請は得ていなかっただろうが、彼はとりわけ日本北部との交易の開始を求めてきた。1853年海軍中将エフフィーミー・プチャーチンの海軍使節団は、徳川幕府に皇帝からの書簡を手渡し、その中でロシアは蝦夷(北海道)を通しての交易の開始を要請したが、結局1855年に日本はロシアと下田条約を締結した。いくつかの条項はアジア大陸の岸からやや離れたところにあるサハリン島(樺太)にかかわるもので、ここは世紀の変わり目以来ずっと紛争の種になった。両国ともその領土権を主張して、自国民(日本の場合にはアイヌ人)による移住を奨励していたが、どちらも自国に併合しようとはしなかった。
 条約はサハリンを両国の共有地とすることで合意された。しかし、ロシアはクリミア戦争で疲弊しており、自分たちは不利な立場で交渉したので、譲歩を余儀なくされたのだと後に主張してきた。この条約は1867年4月1日の新協定でも明らかに確認されているが、そこではまたあらゆる紛争は、ロシアの当局であれ、日本の当局であれ、一番近い当局で解決されるべきだと定められていた。このことはロシアによる島南部(アニワ湾)への公然たる侵略という事態を導いた。
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2008年02月13日

岩倉使節団ドイツ訪問

欧米が見た岩倉使節団6

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。
写真は国立公文書館蔵ベルリンのコーニングス宮殿
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引用開始
1873年3月7日〜28日、4月15日〜17日、5月1日〜8日ウルリヒ・ヴァッテンベルク
 日本使節団の来たるべき到着はいくつもの新聞で報じられていた。・・・
 プロイセン訪問の当初、以下のように新聞紙上に報道された。
「日本使節団は今朝ベルリンに到着するはずである。すでにハーグでカンツキー参議官が使節団に応接した。オランダ国境のベントハイムでは、陸軍第七軍団参謀長フォン・ライト大佐、レールダンツ陸軍中佐、L・クニッフラー――前長崎領事、現デュッセルドルフ勤務――などで使節団を迎えるであろう。これらの人びとは使節団のプロイセン訪問期間中、接待係の役割を果すことになろう。旅行に際しては、鉄道会社の特別室が使用され、全旅行費用は政府負担とされている。ベントハイムから使節団は著名なクルップ工場(製鋼)を訪問すべく、エッセンにおもむくはずである。ベルリンでは使節団は費用は政府負担でオテル・ド・ロームに宿泊し、一週間ベルリンに滞在するであろう。使節団一行の服装はヨーロッパ風である」。

 新聞記事では使節団員の氏名を以下のように挙げている。すなわち岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳と。さらに挙げられている氏名は、田辺太一、何礼之、栗本貞次郎、杉浦弘蔵、安藤太郎、久米邦武、田中光顕、富田鉄之助、医者として福井順三であり、そして氏名は挙げてはいないが、会計係、通訳(速記者を含む)、世話係などを掲げている。また新聞は、使節団が条約改定のために派遣されたが、しかしこれはすでにワシントン滞在中に断念し、いまは使節団は、日本において生じた情勢変化について説明すべく、ヨーロッパの主要な宮廷を訪問している、と報じていた。・・・・・

もちろん、宿舎にはベルリン最高級のグラン・オテル・ド・ロームが選ばれたが、それは滞在中の特別の配慮であり、久米が以下のように述べているように使節団を大いに喜ばせた。「其接遇の厚き、他の諸国に超えたり。」
 二日後の三月十一日、皇帝ヴィルヘルム一世の謁見がおこなわれた。新聞はすべて同日と翌日に公式コミュニケを報道した。日本使節団は四頭立て、六頭立ての馬車で送られたが、木戸は「今日のような美しい馬車をいずこの国においても見たことはなかった」と書いている。謁見は宮殿の「白の間」で行われた。そこは1862年にすでにヴィルヘルム一世が当時プロイセン王として竹内使節団を謁見した場所であった。皇帝以外に、宰相ビスマルクなどの高官が列席した。「皇帝は起立し帽子をとって使節団を謁見した。」と公式コミュニケは報じていた。挨拶は日本語とドイツ語でおこなわれ、日本語への翻訳は有能な学生青木周蔵によって行われた。青木はドイツ駐在公使に、最後は外務大臣になった人物である。
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2008年02月12日

岩倉使節団の仏国の印象

欧米が見た岩倉使節団5

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。
写真は久米美術館蔵ヴェルサイユ宮殿のオペラ劇場
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引用開始
1872年12月16日〜1873年2月17日 リチャード・シムズ
 フランスは使節団にいかなる印象を与えたか。久米の『回覧実記』から判断するかぎり、結論から先に言えば、フランスは今もって強国とみなされており、その国威は最近の普仏戦争での敗北によっていささかも損なわれてはいないと日本人の目に映じたということである。1870〜71年のフランスの敗退は、久米によると、なんらかの根本的欠陥によるものでもなければ、たしかに一般兵士の戦闘心の欠如によるものでもない。むしろそれはドイツと比べて相対的に兵士の数が少なかったこと、そして将校団の質が劣っていたことによるのである。 これら二つの欠陥はいずれも取り返しのつかない類のものではない。そしてドイツから学ぼうとするフランス人の意欲が指摘されるのであるが、それはヴァンセンヌ訪問の途次、日本人が「かつてフランス人は他国から学ぼうなどとは思ってもいなかったが、きわめて残念なことだが、今やそうしなければフランスはフランスとしてとどまることはできないであろう・・・」ということをはっきり理解したときのことであった。こうした感想は使節団の心を強く打ったにたがいない。一行もまた日本固有の性格を維持しながら、西欧から知恵を借りる必要を痛感していたからである。

 フランスが今もって尊敬に値すると思わせたものは、フランスの順応の素早さへの期待ばかりでなく、その経済的地力にもよる。久米によれば、ドイツから押し付けられた戦争の賠償金が短期間にまた楽々と返済されたことにイギリスは驚き、ドイツは拍子抜けしたが、このことはフランスの財政的・商業的地位が健全であるとともに、フランスが特に経済学と商法の分野で有能な人材を豊富に備えていることをあらためて確認させることになった。別の箇所で久米はパリをロンドン、ニューヨークと並んで、商取引における世界の三大都市のひとつと書いているが、彼がフランスはイギリスに劣らないと主張しつづけたのは、主としてパリこそヨーロッパにおけるファッションと工芸技術の中心とみなしていたからである。イギリスが大量生産で一歩先んじていることを認める一方で、彼はそのイギリスも優雅さと繊細さの点でフランスに太刀打ちできないでいることを強調した。彼は使節団のフランス訪問記の「総説」で「イギリスの工業は機械に頼る。フランスでは人間の技能と機械が調和している」と書いているが、ここにも彼のフランスへの称賛の念がはっきり見てとれる。

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2008年02月09日

英国の岩倉使節団報道

欧米が見た岩倉使節団4

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。
写真は久米美術館蔵ウェストミンスター橋と国会議事堂
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引用開始
1872年8月17日〜12月16日 アンドルー・コビン
 一行がダービーシャーのチャッツワース・ハウスを訪ねたとき、そこで古伊万里焼の標本が復元保存されているのを見て、久米はヨーロッパの名家が優れたコレクションを何百年も保存している事実に注目し、このような良質の伊万里焼はもう日本でみつけるのは困難であるかも知れないと述べている。西洋のあらゆる習慣の中で、久米が無条件に称賛の気持ちを誘発させられたのが、この歴史的な古物保存の伝統であった。たとえば、ウォーリック州知事邸での晩餐会が終った時、その家の子供たちが、日本人の賓客の手をとって私的に募集された貴重品を見るよう案内した。これらのコレクションは値打ちのない唯の珍奇な品物であった。しかし、久米が感心したのは、西洋人の精神や態度のあり方であり、それは、彼がイギリス滞在中にこれまで見てきた、多くのさまざまな博物館や展示物などによって、育成された気風であると考えられた。

 久米の考えでは、イギリス人が、フランスの流行を模倣する悪しき習慣を放棄する必要をようやく自覚したのは、最近の万国博覧会の開催を通じてである。彼は『回覧実記』でこのテーマを用いて、時々、日本の西洋心酔ぶりを攻撃し、「読者は日本の教訓として何を学ぶべきか考えて欲しい」と公言した。
「現在の日本はヨーロッパの歴史において、ルイ14世時代のフランスの輝きに万人が魅了された状況に似ている。もし我々日本人が伝統を忘れ、ヨーロッパを発展モデルにして性急に突進するならば、ちょうど1851年のロンドン万国博覧会以前の欧州各国と同様の迷霧に陥ってしまうのではないか」。
 イギリスの国内旅行で、岩倉使節団は多くの人々と出会い、彼らの生活習慣を観察することができた。それは旅の途中で見た群衆の姿であったり、公式歓迎会の場であったり、あるいはまた、静かな環境に恵まれた田園の邸宅であったり、いろいろの機会を通じて経験することができた。
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2008年02月08日

岩倉使節の英国内視察

欧米が見た岩倉使節団3

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。今回のイギリスでは、国内視察に三人のイギリス人役人を伴っています。正式接待役として陸軍少将ジョージ・アレクサンダー、通訳としてウィリアム・ジョージ・アストン、そして休暇で帰国していた駐日公使のハリー・パークス卿が同行しました。
写真は本書表紙
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引用開始
1872年8月17日〜12月16日 アンドルー・コビン
 北部地方の旅行の始めに、岩倉と彼の随員はリヴァプールとマンチェスターで十日間過ごした。二つの都市では、彼らは視察や公式の歓迎会など苛酷なスケジュールで多忙な毎日であった。その残忍ともいうべき旅程のペースは、一週間もたたないうちに、すぐに彼らを疲労困憊させた。たとえば、彼らがマンチェスターに到着するとすぐ、一行はシェリダン・ノウル劇団が王立劇場で公演する芝居「恋愛ごっこ」(ラブチェイス)に招待された。久米はその時の模様を次のように回想している。
「我々一行が最大の善意で招待されたのは確かだと思うが、毎日、足をひきずりながら工場見学をすませた後で、しかも宿舎に到着して身体を洗い、漸くくつろごうとした途端に、再び身体をひもで締め付けるように窮屈な洋服に束縛されるのは耐え難いものであった。しかも私などまったく理解できない芝居を見なければならない苦痛を味わったのである」。

 たしかに久米がいうように、かれらが身に着けていた洋服はいかにも着心地が悪そうであった。イギリス人ジャーナリストは、いかに使節たちが「彼らにおよそ似合わない何の取り柄もない平凡な洋服」を着ていることかという記事を書いていた。そしてついに彼らの多くは、退屈な劇場へ行くよりも、むしろ「敗北」を認めて、宿舎のクイーンズホテルで静かな夜を過ごす選択をしたのである。
「英語を理解できる二、三の者だけが劇場へ行く決断をした。そして、私は宿に残ってその日の見聞記を書き止めた」と久米は告白している。
 岩倉使節団のランカシャー都市部視察の大きな特徴は、その集中的な工場訪問にあったといえよう。マンチェスターに向う列車の中で、パークスは岩倉や副使たちに「ランカシャーは世界のどこよりも沢山の工場があるといわれている」と明言した。彼はまた、「日本が将来、世界と交易し新しい産業を盛んにしていくのであれば、貴方がたがこれから視察する予定の地方と比べてもっとも重要な意義を持つものなのだ」と自信たっぷりに話した。
 しかしながら、数カ月前に、使節団がすでにアメリカで経験した産業視察のために、ランカシャー地方の多くの工場群がかれらに与える衝撃を、幾分、弱めることになってしまったことは事実である。・・・・

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2008年02月07日

文明開化探究の第一歩

欧米が見た岩倉使節団2

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。その中から興味深い部分を引用してみます。
写真は女子留学生
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引用開始
1872年1月15日〜8月6日 アリステイア・スウェイル
 使節団はサンフランシスコに上陸したが、この都市はアメリカの東洋諸国とのフロンティアであり、同時にまた中国人に対する嫌悪の中心でもあった。使節団の訪問に関するランマンの記録は、『アメリカにおける日本人』と題された大部な研究の最初の部分であるが、そこでは日本人の最初の訪問地で彼らに対する最大の好意が寄せられたことを強調している。同市の主要な市民たちが準備した大規模の晩餐会の前に、グランド・ホテルの外でウィリアム・アルヴォード市長の主宰のもとに正式の歓迎会が開催された。同市の芸能人によるセレナードの演奏に迎えられた使節団の指導者たちは、彼らの部屋のバルコニーから群衆に演説するよう求められた。このスピーチは暖かく迎えられ、何度か歓声によって中断された。使節団はまた、商業局の長R・B・スウェインや新聞業界の主だったメンバーに紹介された。使節団に惜しみなく与えられた歓待のクライマックスは、一月二十三日の夕、グランド・ホテルで開催された正式のレセプションであった。市長、アメリカ駐日公使チャールズ・E・デ・ロング、そしてさまざまな商業的・社会的利益を代表する大勢の人々が出席していた。主催者による乾杯の辞に応えて、伊藤博文と岩倉がスピーチを行ったが、拍手喝采によって中断され、「耳をつんざく」ような拍手でお開きとなった。・・・・

 使節団がアメリカの土を踏んだその瞬間から、異常ともいえる歓待を受けた理由を述べなければならない。たしかに、使節団が到着する以前から日本人は中国人とは別の国民であると考えられていた。サンフランシスコにおけるデ・ロングの演説からしても、平均程度の知識しか持ち合わせていないアメリカ人ですら、ペリー提督による日本開国はアメリカ外交の大成功だとみなしていた。そしてこの「啓蒙された」外交がついに1868年の「革新」(維新)に結実したというのである。
 五人の少女をアメリカで教育を受けさせるために使節団に加えたことは、「東洋」の女性に対する侮辱的かつ野蛮な仕打ちという一般アメリカ人の偏見を取り去る努力に、新明治政府がコミットしていることを示すものであった。「女性の文化のための優れた学校」への言及が、使節の日本出発まえに天皇の使節団への御言葉にあったが、ランマンはその使節団に関する記述の中で相当のスペースをこの問題に割いているのである。
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2008年02月06日

米国人の明治日本人観

欧米が見た岩倉使節団1

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。その中から興味深い部分を引用してみます。
写真は岩倉具視と四人の副使、左から木戸、山口、岩倉、伊藤、大久保
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引用開始
1872年1月15日〜8月6日 アリステイア・スウェイル
 アメリカ人たちが、これほど珍しい一行をどのように眺めたかというと、一行が受けた歓待はほとんど例外なしに暖かく熱烈なものであった。・・・・
 アメリカにおける日本人の待遇に必然的にかかわる要因は、それ以前に到来していた中国人との関係であった。アメリカと中国人との間には、日本人との関係よりも長い関係があり、一方ではアヘンと宗教(キリスト教宣教)の高圧的な輸出、他方では安価な中国人労働者のアメリカ西部諸州への移動にもとづいた関係であった。この初期の経験は「東洋人」についての一定の先入観をアメリカ人に植え付け、それがいくつかの重要な点で日本人の境遇にとって不利な結果をもたらしたのである。

 たとえば、一つの重要な点を挙げると、日本人は東アジアの貿易網に比較的遅れて参入したので、前もって警告を受け、またあらかじめ準備ができていたのである。1853年はペリー提督、1854年にはハリス総領事によるアメリカの開国要求に対応する責務を負わされた日本の指導者たちは、それに先立つ50年間の中国における国際関係の結末に精通しているという利点があった。とりわけ、アヘン貿易の破壊的な影響と、国際協定の侵害に対して西洋諸国が厳しい罰則を科する力をもっていることを日本の指導者は知っていたのである。日本は幕藩システムの弱体化にもかかわらず、中国と比べてはるかに強固に統合された国家であり、中国よりも一貫した、あるいは少なくとも建設的な対応をすることが出来たのである。当時日本国内の極端な排外分子は、(外国への)いかなる譲歩をも紛れもない裏切り行為とみなしていた。しかし、伊井直弼のような幕府の高級役人は譲歩しながらも、可能な範囲で国益を守るための重要な条項を外国に認めさせる術を心得ていた。関税率や治外法権に関して外国人に特権的な待遇を保証するという厄介な約款は、結局受入れることになったが、外国人が条約港を離れて旅行する権利は厳しく制限されたし、宣教師の活動は問題にすらされなかった。・・・・
 このような積極的な施策は、欧米の外交官サークルのあいだに日本に対する友好的なイメージをつくりだすうえで大いに影響があった。しかしながら、カリフォルニアで中国人とヨーロッパ系アメリカ人との間に生じた苛烈な相互作用の結果、中国人に関する否定的なステレオタイプが固定するにいたり、中国人に対する不安がほとんど自動的に一般市民の草の根レベルにおいて日本人にも向けられることになるのである。
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