2008年01月12日

軍備制限と軍備競争

軍備制限の真相1

今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はウイルソン28代米大統領(wikiより)
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引用開始
 所詮、抽象的正義の観念は、国際間の一致、世界の平和、国家的の親善関係を保つ上に、どれだけ寄与するであろうか。・・・・
 かかる情勢の間にあって、すでに三回も軍備制限会議が開かれ、いわゆる人類の福祉と世界の平和に貢献する一大工作が実施されたのである。然しこの工作は果して崇高なる道義的目的に適ったものであったであろうか。名は実の賓とか、これ程道義的観念から見て名実相沿わざるものはない。・・・
 当時露国は、極東において頻りに平和を撹乱し、その野心を逞しゅうせる折柄であったので、その回章は正に鬼の念仏に等しき感想を与えたのであるが、それでも英国の提議によって問題を海陸軍の膨脹制限に止めることとして、第一回平和会議は1899年五月十八日オランダ首都ヘーグで開かれるこことなった。

 当時欧米の各国は、その国土の状勢に応じて、何れも軍備拡張に鋭意し、露独墺のごときは、主として陸軍に主力を注ぎ、英米のごときは海軍に主力を注ぎ、仏西伊のごときは陸海両軍に平均せる力を傾注するというていたらくで、欧米各国を始め全世界は何れも軍備拡張のため苦しんでいたのであるから、鬼の念仏も一種の興味を以て迎えられた。開会後軍備縮小問題については、種々異論が続出したので、委員付託となり漸く六月二十三日に至って、第一委員総会を開き、露国陸海軍委員より軍備拡張制限案を提出した。・・・・
 まことに不徹底な案であったが、それでもドイツ委員の猛烈なる反対に会い、露国委員また大いに反駁を加えたが、大勢は軍備制限に反対の傾向を呈して露国側の主張は豪も容るる所とならなかった。或る者のごときは、露国の提議を称して『露国が平和を説かんとするのは、強盗が警察費の過大を理由として、巡査の数を減ぜんとするに等しいものである』と冷笑した。かくして、平和会議の主要目的は全然失敗に終ったが、国際紛争平和処理条約にて、周旋、居中調停、仲裁裁判の手続きを一定したことは副次の収穫であった。その後1907年六月、時の米国大統領ルーズヴェルトの発企にて、第二回平和会議をヘーグに開き、強制仲裁裁判所設置のことを可決し、海戦法規を確定した。これら二回の会議は国際聯盟創設に対して有形無形に相当の寄与をなしたのである。

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posted by 小楠 at 09:52| Comment(0) | TrackBack(1) | 書棚の中の戦争