2008年01月09日

日支関係の変遷

支那をめぐる日英米2
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は本書第二節日支関係の変遷の部分です
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引用開始
 日清戦争は朝鮮を中心とした日本と支那との争覇戦であった。この戦争の結果『眠れる獅子』の正体が暴露されて、欧州列国は獅子の分け前に群り立って支那に押寄せた。然し日本の厳然たる存立は兎も角も支那の分割を食止めて、支那自身に自国改造の覚醒を促したのである。
 その後日露戦争から第一革命が起るまで十四、五年の間は、日本は日英同盟を基幹として支那の保全に努力し、支那は日本の顧問や教師を招聘して専ら日本の先進振りに学ばんとして、日支両国は善隣輯睦の状態を続けたのである。
 然るに清朝の末年から革命の勃発当時に於て悪辣なる袁世凱の外交方策により、日支国交に越ゆべからざる溝渠が穿たれた。彼は日本の満洲経営に対する列国の猜忌に投じて、巧みに遠交近攻の術策を弄して、自己の地位を固めんと図った。これがためには努めて親日分子を排除して、代えるに親米分子の登用を以てした。

 当時革命党の勢力次第に勃興し、その主力中には日本留学生出身と共に、米国系の人物も少なからずあったのである。殊に米国系統の新進が外交部の要部を占むるに至って、排日親米の気運を助長することになった。それに何と言っても支那は国権を維持するだけの実力を持っていないのであるから、兎角、以夷制夷の策略を以て当面を糊塗する慣習を捨てないのである。ここに欧州戦によって日本が一時的ながらも未曾有の成金国となって、他の列強が支那を顧みるにいとまなき間に、参戦借款を始め種々の政治借款を一手に引受けることとなったのであるから、支那からいわすれば、日本はその財力を以てどこまで支那を圧迫し来るかも知れない恐るべき国だと思っても無理はなかったのである。そこに持って来て、1915年の日支二十一か条の交渉が始まり、さなきだに日本の禍心に疑惧の念を抱いていた支那側には、一層恐るべき侵略主義と映じて極力これが否認に努めたのである。
 元来日本の要求は、日本としては山東問題の善後処分を図り、兼ねて従来の日支懸案を一掃し、日支両国の親善関係を増進し、東洋永遠の平和を根本的に保持せんとする、已むを得ぬ要求であったが、既に其の以前に於て青島税関に対して慣例を顧みず、日本の意向を無視し、ほしいままに税関官吏を任命したばかりでなく、その交渉中またまた交戦区域の撤廃を声明し、日本の即時撤兵を要求するなど、頗る不穏当なる態度を示して居ったので、已むを得ざる行きがかりもあって同年一月十八日駐支公使日置益をして支那政府に要求せしめたのである。・・・・
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posted by 小楠 at 07:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の戦争