2007年12月28日

日本移民の排斥(上)

日米抗争の史実4

 今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はポーツマス講和成立で満洲ロシア軍代表との会見
meeting.jpg

引用開始
 元来日本移民に対する米国人の輿論特に太平洋岸に於ける輿論の反対は、半ば人種的反感からではあるが、他の一半は白人労働者が、有り余る東洋人との労働市場に於ける競争を恐れるためであった。・・・・
 当初日露戦争に対する米人の同情が、連戦連勝の結果漸次疑惧猜忌の感情と変って行って、日本人排斥熱も自然高潮し、明治三十九年(1906年)十月サンフランシスコ市学務局では、日本人学童を市内各学校より排斥し、一の隔離学校を設置して、すべてこれに通学せしむるようにしたのである。
 当時サンフランシスコは大地震のため市の大半を焼失したが、この隔離学校というのは、元支那人の子弟のために建てられたもので、焼失地域の中心に近い支那街に在って、附近は光景惨憺たるばかりでなく、市の秩序が乱れて兇賊出没して昼夜の別なく通行人を悩ますと云う有様であったから、遠隔の地に住む日本学童は到底通学することができない実状であった。・・・・

 元来この学童問題は単に教育問題でなく、実に日本人全体に対する排斥が主眼で、学童問題は単に其の口実に過ぎなかったのである。
 最初サンフランシスコ官憲は小学校が日本児童で溢れるほどであるなどと大声疾呼したが、実は市の小学校全部で日本児童は僅かに93名居ただけであった。また彼らは成年の日本人が小学校に入ってきて不都合であると唱えたのであるが、これとて九十三名のうちの十名ないし十二、三名の生徒が交じっていたのみで、然もこれらは自分から小学校を退学することを承諾したから、サンフランシスコ官憲の云うところは少しも正当な根拠がなかったのである。・・・・
 かくて問題はますます紛糾を重ねて行く中にサンフランシスコの排日連中はいよいよ本音を吐くようになった。それは翌1907年(明治四十年)一月になって、日本労働者排斥法案が上院に提議された。サンフランシスコ市長シュミットも二月、大統領と会見して、日本人を排斥しなければならぬ理由を述べたのである。そして彼らの理由は、日本労働者が米国の文明に同化せず且その労働賃金低廉なるを以て、白人労働者の職業を奪うものであると云うのである。シュミットも日本学童隔離はむしろ枝葉の問題で、もし今後日本人の移住が禁止されるならば、日本児童を公立小学校に入れても差支えないと唱えるに至ったのである。即ち何時の間にか学童問題は日本移民排斥法と変形してその本音を暴露した。・・・・

続きを読む
posted by 小楠 at 07:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の戦争