2007年12月27日

日米対支政策の衝突

日米抗争の史実3

 今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は満洲を疾走するアジア号
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引用開始
 ハリマンは最初の計画に一頓挫を来したが、中々その大望を捨てるような男ではない。彼が清韓旅行中、京城副領事の微官にあった二十七歳の白面の一英才ストレートを見出して、一見肝胆相照の仲となった。彼は帰米後ストレートを国務省に推薦し、一躍奉天総領事に栄転せしめて、自己の目的達成の参画者としたのである。
 ストレートは南満鉄道に平行して北端ハルビンに達する鉄道利権を得て、日露両国の満州に於ける地位を覆し、両国をして南満及び東清鉄道を放棄せしめて、ハリマンの目的を成就せしめようと企てたのである。たまたま英国ホーリング会社のロード・フレンチが奉天に来り、京奉線の延長線として、新民屯から法庫門に達し更に後日チチハルに延長せらるべき鉄道利権を得たのを聴いたストレートは、たちまちロード・フレンチと握手して、その獲得した鉄道を利用し英米二国の力を以て日本を動かそうと図った。しかし該鉄道は南満鉄道と平行する幹線となるから、日支密約中の条項に抵触するので、日本の抗議によってその契約は取消されたのであるが、ストレートは少しも屈することなく素志貫徹の妙案を考えていたのである。

 当時袁世凱は支那の要路に居って、先輩李鴻章が露を以て日を制した故智に倣い、米を以て日を制するため、腹心の徐世昌を東三省総督に、唐紹儀を奉天巡撫に任命し、ストレートと種々商議せしめた。彼等は米支共同で二千万ドルの満洲銀行を設立し、該銀行をして満州に於ける鉱山森林農業の開発及び鉄道の建設に従事せしめチチハルから愛琿に達する鉄道を造ることを協定した。・・・・
 米支提携の機縁正に熟せんとする頃、光緒帝及び西大后相次いで崩御し、袁世凱と仲の悪い醇親王が摂政となったので、袁世凱はたちまち排斥せられ、・・・ここに於て満洲銀行借款問題もまた立ち消えとなったのである。・・・米支親善を以て日本を制せんとする術策外交の種子もこの頃に於て深く播かれたのである。・・・・
 ハリマン死してその遺業を成就せしむべき後継者が無かったので、彼の一世の雄図もここに終焉を告げたのであるが、ストレートは尚もその遺業を大成せんと奮闘し、米国政府もまたこれを援助したので、爾後日米の衝突は種々の形において続出したのである。
 その最初に現れたのが,国務郷ノックスの満洲鉄道中立の提議である。これはハリマンの死後二ヶ月目の1909年11月、先ず英国に対しその意向を質したのであるが、英国政府は主義に於て該案に賛成するが、先ず関係諸国の意向を質さざるべからずと回答した。ノックスはこの回答により大いにその前途を楽観し、同年12月18日英独に送致したと同一の公文を、日露両国に送付しその同意を求めて来た。・・・・
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posted by 小楠 at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の戦争