2007年12月05日

はじめて見る日本1

明治四年七月・横浜

 オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
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引用開始
 日本にやってきた者は、誰しもわが目を疑う。歩みを進めるごとに、これはみんな夢ではないか、おとぎ話ではないか、千一夜物語の一挿話ではないか、といぶかることになる。それに、目にする光景があまりにも美しいので、雲散霧消してしまうのではないかと恐れるのである。
 私はむだな記述をするつもりはない。こんにちでは誰でもよく知っているように、日本の人々はおとなしくて感じがよく、礼儀正しくほがらかで、よく笑い、温厚で、とりわけたいへん子供っぽい。また下層階級の人々は、日焼けした赤銅色の顔をし、肌にはしばしば赤や青の刺青をしており、その模様や色からして、この国の古い漆器によく似ている。どんな階級の人でも、頭は額を刈り上げ、後頭部に楽しそうに揺れる小さい辮髪(丁髷)を飾っている。夏には窮屈な袴を脱ぎ、個人によって違うが、タフタ織か綿の簡単な浴衣をつけるだけで、家にいる時には褌をしている。この褌という腰巻は、上は天皇から下は苦力まで、対面を重んじる日本人なら誰でも心がける身だしなみの基本となるものである。

 階級制度の最下位にある商人は別として、みんな誰かに帰属している。しかし、農奴とか奴隷としてではなく、ある一つの藩の構成員として帰属しているのである。この藩というのは、いくつかの階級に分かれているが、つまるところはただ一つの大家族だけを形成しているものである。君主すなわち大名が、その長である。この君主に従うのは、重臣、家臣、侍つまり両刀を差した武士(一本しか刀を差していない者もいるのだ)、いろいろな階級の兵士である。みんな着物の背中と袖には、仕えている君主や団体の紋章をつけているが、この紋章は円の中に花とか文字が書き込まれたものだ。武士の刀や、墨壷、煙管、帯に結わえられた財布などは、いずれもよく知られている。
 ラザフォード卿の報告でこれも周知のことだが、君主に随行している侍連中とか、酒を何杯か飲んで興奮して茶屋つまり遊郭から出てきたばかりの侍連中に出くわすことは、好ましくないばかりか、死の危険すらある。
 ところで現政府が封建制度を解体している途上にあることは、一般にはあまりよく知られてはいない。しかし、この国の外見そのものは、まだほとんど変わっていないのである。さて、日本女性には、どんな記事や書物の筆者でも心を奪われてしまっている。正確に言えば、彼女たちはけっして美しくはない。顔立ちの端正さという点では、まだ申し分ないとは言えないのである。・・・・
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posted by 小楠 at 07:12| Comment(6) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B

2007年12月04日

明治の端午の節句

日本の歳事2

今回ご紹介している「ドイツ歴史学者の天皇国家観」の原著者ルートヴィッヒ・リースは、東大から招聘を受け、明治二十年(1887年)二月に横浜に到着し以来、明治三十五年七月まで、今日の東京大学史学科で歴史を学を講じた人物です。
本書ではドイツ人を対象とした日本紹介のために書いた論文が中心となっています。
写真は京都の町屋
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引用開始
 世界中で、日本ほど子宝に恵まれることを高く評価する国はほかにない。子供が生まれたと聞くたびに、誕生日から数えて三日目、七日目、三十三日目、五十五日目、そして百二十日目といった日を選んで、方々からお祝いの客がやって来る。また、贈物もたくさんなされる。これらの日に赤ん坊はおめでたい品物に囲まれ、古くから伝えられてきた礼式に則って祝福を受けるのである。
 特に男児が生まれたときは、親戚、知人を問わずその喜びようは際限がない。女性に優しい日本の男性も、結局は東アジア文化圏の、何事においても男の方が女より遥かに優れているとする男尊女卑的な考え方を隠そうとしないのだ。「男子は女子の七倍輝く」と日本の諺は言っている。なるほど、昨今では顔の方も本当は女房より自分の方がよいなどと勝手に信じ込んでいる御仁がいるくらいであるから、日本の男性諸氏の思い上がりも相当なものである。

 それにしても日本人は子供が生まれた当初こそ何やかやと大騒ぎをするくせに、その後は、毎年巡ってくる誕生日をきちんと祝うということをしない。・・・・庶民のあいだでは、干支が一巡して六十一年目の誕生日を迎えてからでないと、いっぱしの人間として自分の誕生日を人さまから祝ってもらおうなどとは考えないのである。
 ちなみに、日本では年齢を満年齢では数えず、数え年で表す。したがって1930年12月に生まれた子供は、翌年の元旦にはもう二歳と数えられる。すなわち日本人は一月一日を期してみな、一歳年長になるのである。そういうわけで日本の子供たちは自分の誕生日を迎えても、年に一度の特別な、大切な日を祝ってもらえるという誇らしい気持ちがまったく生まれなくなっている。そこで彼らには、この日ばかりは単に小さな子供であるというだけで贈物やお祝い事をしてもらえる日が用意されている。まず女の子には一年の三番目の月の三番目の日、すなわち三月三日にこうした幸せに酔える日が設けてある。この日、彼女達は大人たちに並べてもらった雛人形や餅、菓子のたぐいを前に、うっとりとしてしゃがんでいることができる。そして、五月五日が男の子のお祝いの日となる。この日、各家庭は祝賀の喜びを内輪だけでかみしめるのではなく、家から出て路上の至るところに繰り出す。そして町中の屋根という屋根が、やがてこの「日出ずる国」をしょって立つ軍人となる自慢の「戦利品」を空高く抱え上げる姿でいっぱいになる。
 この十二ヶ月のあいだに跡取り息子が誕生した家庭には、祝賀の当日まであと数日という頃になると、もう親戚や友人が紙を貼り合わせて作った内部が空洞の鯉(鯉のぼり)を持ってやって来る。・・・・続きを読む
posted by 小楠 at 08:59| Comment(6) | TrackBack(1) | 外国人の見た日本A

2007年12月03日

明治の正月点景

日本の歳事1

 今回ご紹介している「ドイツ歴史学者の天皇国家観」の原著者ルートヴィッヒ・リースは、東大から招聘を受け、明治二十年(1887年)二月に横浜に到着し以来、明治三十五年七月まで、今日の東京大学史学科で歴史を学を講じた人物です。
本書ではドイツ人を対象とした日本紹介のために書いた論文が中心となっています。
写真はリース夫妻
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引用開始
 十二月という月は日本のビジネスマン、大小の商人にとって一年中で最も骨の折れる月である。誠実な人間として通りたかったら、古くからの慣習に則って、新年を迎える前に未清算の勘定書を一括して提示し、支払いを済ませなければならないのである。それで借金を翌年に持ち越さぬため、伝来の家宝を相当数売却するということがいまだに決まってなされている。それでも足らないとなれば、いつでも借金に応じてくれて、しかも返済にはうるさくない友達に無心をする。万策尽きたら、人目につかない宿に密かに引き移って、押し寄せる債権者を避けることとなる。従って、日本では一年の最後の日は重大な支払いの日であり、夜遅くまでお使いが請求書をもってやってくる恐怖の一日なのである。「ダンナサン キライ ナ オオミソカ」と手まり遊びをしながら歌う小さな女の子たちは、この歌詞に込められた奥深い真実を知らない。

 新年の本当の始まりは、夜中の十二時を境に、突き手が大きな釣鐘の前にぶら下げられた丸太を時々刻々引き寄せ、この日だけ特別に百八回打鐘することによって告げられる。しかし、これは大晦日を越す喜びを騒々しく呼び起すものではない。借金の取立てや支払いを終えたものは、床につく方を選ぶ。もう翌日の早朝には元旦の儀式が待っているからである。
 晴着をまとった家族全員が新年最初の軽い食事のために集る。畳に座っている各々の前に、さまざまの意味ありげな料理をのせたお膳が並べられる。祝い酒は最年少の子供がはじめに飲み、それから年かさの方へ順々に、そして厳かに盃を回していく。
 神棚の前には、子供たちの関心を一手に集めるお供えが置かれている。それは、丸型の分厚い塊(鏡餅)で、上下紅白の二段重ねになっている。・・・・てっぺんには、ゆでて殻が深紅色になった大きなロブスター(伊勢海老)がでんと構えており、裏白、昆布、藁等が幸福をもたらす飾りつけとして添えられている。・・・・
 母親が小さな子に破魔弓を与え、女の子には新しい羽子板の羽根と板を、年かさの男の子には凧と凧糸を与えると、この可愛らしい子供たちは大喜びで外に飛び出して行き、戸口の前に据えられた祝いの飾り付け――竹のまわりに松をあしらって藁縄でしばってある――を見てびっくりする。そうこうするうちに、早々と最初の訪問客がやって来る。日本ではわずかのつながりしかない者同士でも、新年には皆お祝いを述べ合うのである。やがてこの家の友人もやって来る。賀詞を述べるため、多少の時間留まっていなければならぬ者もいるが、そそくさと祝い酒だけをよばれていく者もいる。・・・・
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posted by 小楠 at 07:19| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A

2007年12月01日

明治の新聞と新聞記者

日本文化と精神基盤

今回ご紹介している「ドイツ歴史学者の天皇国家観」の原著者ルートヴィッヒ・リースは、東大から招聘を受け、明治二十年(1887年)二月に横浜に到着し以来、明治三十五年七月まで、今日の東京大学史学科で歴史を学を講じた人物です。
本書ではドイツ人を対象とした日本紹介のために書いた論文が中心となっています。
写真は帝国議会仮議事堂
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引用開始
 日本で現在ある九百もの新聞の記事の内容について批評を加えるのはかなり至難の業である。それらはどれも皆できるだけ多くのニュースを報道しようとしている。しかし本来の「新聞」として信頼のおけるのはせいぜい三紙か四紙にすぎない。すなわち『時事新報』『日日新聞』『国民新聞』、それにもしかすると『大阪朝日新聞』を加えてもよいかもしれない。
 だがつねに注意しなくてはならないのは、日本では個人的に偏った報道の真偽を見抜くセンスが、国民の間でまだあまり涵養されていないということである。さらに数字もまた曖昧であり、かなり名の知られた新聞記者でも数字に対する感覚はほとんど皆無と言ってよい。統計表が出てきても、各項目の総和にはかならず計算違いがあると思って差支えない。また日本の新聞の報道には、興味をかき立てるような中心、あるいは常識的な理性というものがしばしば欠けている。たとえば李鴻章が北京の宮廷に仮講和条約締結の電報を打ったというような、もう何日も前に分かりきっているようなことがわざわざ打電され、大見出しで報じられたり、あるいは香港から入港した客船に疑わしい病原菌が発見されたというような、専門家の助けを借りなくては読めないような記事が新聞に載ったりする。

 新聞を定期購読している通信社も、わざわざ手間をかけて顧客に提供するほどの材料をなんらそこに見いだせないことがある。また新聞記者は、外国大使館とか各省庁の門番などから、なんの価値もないネタを拾ってくることがよくある。たとえば「先週の木曜日、某国の大使が外務省を訪問した」というような記事であるが、日本の外務大臣あるいはその代理が毎週木曜日に外国大使と面会するのが通例になっていることを知っている者には、そんな記事は別に珍しくもなく、ましてやそれが単なる埋め草として掲載されているのであれば、なおさら馬鹿らしくて読む気はしない。しかしこのような気の抜けた同じ話の蒸し返しならまだ害はない。むしろ危険なのは、平気で嘘の報道をする新聞が以前から日本にあるということである。それは「ある種の勢力」の危険な意図に関する報道で、それを真実と思い込む者も依然としており、たいていロシアとの関係をほのめかしている。・・・・・
 あえて私がこう言うのも、日本では、生まれてまだ日が浅いにもかかわらず、すでにここ二十年のあいだに新聞が一つの大勢力にのし上がってきたからこそなのである。大勢力にのし上がってきたのは、政党の機関紙にとどまらない。そういったものから独立した新聞、さらには広い発行部数を誇る非政治的な新聞に至るまで一大勢力を形成しているのである。・・・・・
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posted by 小楠 at 07:26| Comment(4) | TrackBack(1) | 外国人の見た日本A