2007年12月30日

石井ランシング協商

 いつも拙ブログをお読み頂いて有難うございます。本日で平成19年最後のアップとさせて頂きます。
新年が皆様にとってよき年となりますよう、陰ながらお祈り致します。

日米抗争の史実6

 今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は昭和七年に発行された引用本です
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引用開始
 日本政府は石井大使を特派使節として米国に派遣し、我が国に対する米国民の不信疑惑の感情を一掃し且つ独支方面よりする反間運動を阻止せしめんことを欲して、米国政府と会商させたのである。
 会商の結果両国政府に比較的好都合な覚書が交換されることになった。先ず国務卿ランシングから石井大使に宛てたものは
『支那共和国に関して貴我両国政府の共に利益を感ずる諸問題につき、本官は最近閣下との会談中、意見の一致したるものと了解する所をここに閣下に通報するの光栄を有する』と冒頭して下のように述べた。
『合衆国及び日本国政府は、領土相接近する国家の間には特殊の関係を生ずることを承認す。従って合衆国政府は日本国が支那に於て特殊の利益を有することを承認す。日本の所領に接壌せる地方に於て殊に然りとす』
『尤も支那の領土主権は完全に存在するものにして、合衆国政府は日本国が其の地理的地位の結果、右特殊の利益を有するも、他国の通商に不利なる偏頗の待遇を与え、又は条約上支那の従来他国に許与せる商業上の権利を無視することを欲するものにあらざる旨の日本政府累次の保障に全然信頼す』
合衆国及び日本国政府は毫も支那の独立又は領土保全を侵害するの目的を有するものにあらざることを声明す。且つ右両国政府は常に支那に於ていわゆる門戸開放又は商工業に対する機会均等の主義を支持することを声明す』
『将またおよそ特殊の権利又は特典にして支那の独立又は領土保全を侵害し、若しくは列国臣民又は人民が商業上及び工業上に於ける均等の機会を完全に享有するを妨害するものについては、両国政府は何国政府たるを問わず、これを獲得するに反対なることを互いに声明す』

 これは1917年11月2日の日付であるが、これに対して石井大使からも同意義の回答を発した。これが11月7日を以て発表されたいわゆる石井ランシング日米新協商である。・・・・
 支那が聨合国の勧説によって、1917年、聨合国の一員として参戦(第一次大戦)した動機には、種々魂胆があったことは勿論であるが、支那自身としては戦後の平和会議に発言権を得て、支那問題に対する列国の自由処分を妨げ、同時に戦利権の分配に与り国権恢復運動の機会を掴まんとしたのは当然であるが、其の背後に於てこれを操る主要人物は駐米公使ラインシュであったことは争われない事実である。彼は支那当路者に説くに支那は参戦の結果日本の圧迫より逃れ、同時に多くの利権を恢復し得るであろうと勧告して居ったのである。・・・・

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2007年12月29日

日本移民の排斥(下)

日米抗争の史実5

 今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は日比谷公園のポーツマス講和反対集会
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引用開始
 明治三十八年五月サンフランシスコに於て、市長シュミッツが公然日本人排斥協会を組織してから、米国に於ける排日思想は当初西部の一地方的労働問題に過ぎなかったのであるが、日本の満洲経営と米国の東洋政策とが交錯して、漸次全国的に瀰漫し、爾来四半世紀に亘って幾たびか日米外交の危機をもたらした。その間流言蜚語は絶えず流布し、『日本は台湾と一衣帯水のフィリピン群島を奪おうとする意志がある』とか『満州の戦場から引揚げた日本の装丁が争って渡米し、白人労働者の職業を蚕食しつつあり、今に於て何とかせなければ加州否ロッキー山脈以西は忽ちにして日本に併合される』などと狂気じみた怒号を始めたこともある。或は『ハワイは有事の日に於て米人のものではない、多数の日本移民は軍隊教養の済んだものである』『日米戦争が起れば歴戦の日本軍隊は忽ち無防御の米国太平洋岸地方を占領すること容易である』等の一種恐日的宣伝が盛んに流布され、東洋知識に比較的暗愚なる米人に異常のセンセーションを与えた。
 
 ホーマー・リーの『盲蛇』ヘクトル・バイウォターの『日米戦争』等の著書は更に薪に油を注ぎ米人対日憎悪の感情を煽った。然し是等は単に思想的方面に過ぎないが、其の真の利害関係に立って考えれば、米国の東洋貿易の増進、資本団の支那投資企業、支那に於ける米国政治的地歩の推進等は、門戸開放、機会均等主義と相俟って、日本の発展並びに対支政策と競争衝突の必然的経路に向かい合ったのであるから、そこに疑懼、憎悪の念を生じせしめたのもまた自然の勢いであった。かくの如く感情の変化が現れて行く際に、生憎支那人の日本に対する感情もまた漸く一変したのである。
 元来日本は北清事変以来清国のために尽したことは少なくないのである。殊に日露戦争の如きは、日本が支那に代わってその領土保全のために戦ったものであって、支那が今日尚満洲を保有し、且つ該戦役後に於て著しく列強の圧迫を免れ得たのは、全く同戦役の賜物であったにも拘らず、彼らは却って日本の行動を非難し、日本の野心を訴え、新米制日の政策を採って努めて日本を不利の地位に置かんとするようになった。
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2007年12月28日

日本移民の排斥(上)

日米抗争の史実4

 今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はポーツマス講和成立で満洲ロシア軍代表との会見
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引用開始
 元来日本移民に対する米国人の輿論特に太平洋岸に於ける輿論の反対は、半ば人種的反感からではあるが、他の一半は白人労働者が、有り余る東洋人との労働市場に於ける競争を恐れるためであった。・・・・
 当初日露戦争に対する米人の同情が、連戦連勝の結果漸次疑惧猜忌の感情と変って行って、日本人排斥熱も自然高潮し、明治三十九年(1906年)十月サンフランシスコ市学務局では、日本人学童を市内各学校より排斥し、一の隔離学校を設置して、すべてこれに通学せしむるようにしたのである。
 当時サンフランシスコは大地震のため市の大半を焼失したが、この隔離学校というのは、元支那人の子弟のために建てられたもので、焼失地域の中心に近い支那街に在って、附近は光景惨憺たるばかりでなく、市の秩序が乱れて兇賊出没して昼夜の別なく通行人を悩ますと云う有様であったから、遠隔の地に住む日本学童は到底通学することができない実状であった。・・・・

 元来この学童問題は単に教育問題でなく、実に日本人全体に対する排斥が主眼で、学童問題は単に其の口実に過ぎなかったのである。
 最初サンフランシスコ官憲は小学校が日本児童で溢れるほどであるなどと大声疾呼したが、実は市の小学校全部で日本児童は僅かに93名居ただけであった。また彼らは成年の日本人が小学校に入ってきて不都合であると唱えたのであるが、これとて九十三名のうちの十名ないし十二、三名の生徒が交じっていたのみで、然もこれらは自分から小学校を退学することを承諾したから、サンフランシスコ官憲の云うところは少しも正当な根拠がなかったのである。・・・・
 かくて問題はますます紛糾を重ねて行く中にサンフランシスコの排日連中はいよいよ本音を吐くようになった。それは翌1907年(明治四十年)一月になって、日本労働者排斥法案が上院に提議された。サンフランシスコ市長シュミットも二月、大統領と会見して、日本人を排斥しなければならぬ理由を述べたのである。そして彼らの理由は、日本労働者が米国の文明に同化せず且その労働賃金低廉なるを以て、白人労働者の職業を奪うものであると云うのである。シュミットも日本学童隔離はむしろ枝葉の問題で、もし今後日本人の移住が禁止されるならば、日本児童を公立小学校に入れても差支えないと唱えるに至ったのである。即ち何時の間にか学童問題は日本移民排斥法と変形してその本音を暴露した。・・・・

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2007年12月27日

日米対支政策の衝突

日米抗争の史実3

 今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は満洲を疾走するアジア号
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引用開始
 ハリマンは最初の計画に一頓挫を来したが、中々その大望を捨てるような男ではない。彼が清韓旅行中、京城副領事の微官にあった二十七歳の白面の一英才ストレートを見出して、一見肝胆相照の仲となった。彼は帰米後ストレートを国務省に推薦し、一躍奉天総領事に栄転せしめて、自己の目的達成の参画者としたのである。
 ストレートは南満鉄道に平行して北端ハルビンに達する鉄道利権を得て、日露両国の満州に於ける地位を覆し、両国をして南満及び東清鉄道を放棄せしめて、ハリマンの目的を成就せしめようと企てたのである。たまたま英国ホーリング会社のロード・フレンチが奉天に来り、京奉線の延長線として、新民屯から法庫門に達し更に後日チチハルに延長せらるべき鉄道利権を得たのを聴いたストレートは、たちまちロード・フレンチと握手して、その獲得した鉄道を利用し英米二国の力を以て日本を動かそうと図った。しかし該鉄道は南満鉄道と平行する幹線となるから、日支密約中の条項に抵触するので、日本の抗議によってその契約は取消されたのであるが、ストレートは少しも屈することなく素志貫徹の妙案を考えていたのである。

 当時袁世凱は支那の要路に居って、先輩李鴻章が露を以て日を制した故智に倣い、米を以て日を制するため、腹心の徐世昌を東三省総督に、唐紹儀を奉天巡撫に任命し、ストレートと種々商議せしめた。彼等は米支共同で二千万ドルの満洲銀行を設立し、該銀行をして満州に於ける鉱山森林農業の開発及び鉄道の建設に従事せしめチチハルから愛琿に達する鉄道を造ることを協定した。・・・・
 米支提携の機縁正に熟せんとする頃、光緒帝及び西大后相次いで崩御し、袁世凱と仲の悪い醇親王が摂政となったので、袁世凱はたちまち排斥せられ、・・・ここに於て満洲銀行借款問題もまた立ち消えとなったのである。・・・米支親善を以て日本を制せんとする術策外交の種子もこの頃に於て深く播かれたのである。・・・・
 ハリマン死してその遺業を成就せしむべき後継者が無かったので、彼の一世の雄図もここに終焉を告げたのであるが、ストレートは尚もその遺業を大成せんと奮闘し、米国政府もまたこれを援助したので、爾後日米の衝突は種々の形において続出したのである。
 その最初に現れたのが,国務郷ノックスの満洲鉄道中立の提議である。これはハリマンの死後二ヶ月目の1909年11月、先ず英国に対しその意向を質したのであるが、英国政府は主義に於て該案に賛成するが、先ず関係諸国の意向を質さざるべからずと回答した。ノックスはこの回答により大いにその前途を楽観し、同年12月18日英独に送致したと同一の公文を、日露両国に送付しその同意を求めて来た。・・・・
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2007年12月26日

日露講和斡旋の意図

日米抗争の史実2

今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は日露講和交渉の模様
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引用開始
 日露戦争が始まって、我が国の連戦連勝に驚異の眼をみはったルーズベルト(セオドア)は、初めて日本の底力を意識し、日本海海戦後の七日目、即ち明治三十八年六月二日に、駐米露国大使カシ二―伯と駐米日本公使高平小五郎とに戦争調停の意を伝え、超えて六月八日正式に両国政府に向って一の照会文を送ったのである。その文意は、『今や人類一般の利益のために、目下の惨憺たる痛嘆すべき戦争をせしむることが出来るか出来ぬかを見るために努力すべきときが来た。合衆国は久しく日露両国と友好関係を保って来た。合衆国は両国の繁栄福祉を祈ると共に、この二大国民間の戦争により世界の進歩が阻害せられることを切に感ずる。故に予は両国政府に於て両国自己のためのみならず、また文明世界全体の利益のために相互に直接の講和談判を開始されんことを切望する』と云うのであった。
 これはルーズベルトの炯眼であって、よく日露両国の極東に於ける将来の関係を洞察し、米国の東洋政策遂行上の障碍を最小限に喰い止めんとした働きと観られるのである。

 当時米国の立場から云えば、日本にせよ、露国にせよ、一方が起つ能わざるまでに傷つくことは、とりもなおさず他の一方が非常に優勢になると云うことになるので、これは極東に於て恐るべき米国の敵を造るゆえんである。なかんずく日本が大局に於て疲れ果てて露国が極東にその羽翼を伸ばすようなことがあっては愈々以て米国の邪魔となる。だから米国はなるべく両方が余り負けない程度に、そして相当に疲れた機会に調停を試みなければならない理由があったのである。その活機を掴んだのがルーズベルトである。・・・・
 この講和会議に於て注意すべき事は、米国人の対日感情の変化である。ハリス以来常に我国に対して友好の感情を続け、むしろ欧州列強の横暴なる申出を掣肘してくれたくらいの米国であったが、日清戦争に於て日本の国際的勢力を認め、国務郷ヘイの宣明と、ハワイ、フィリピンの併合によって一層極東に関心を持った米人には、この日本の戦勝を単なる日露間の問題と考えるには余りにその権勢欲、膨脹欲が強かったのである。プライスの云った通り、米国の生活に於ては群集精神がその主力をなすものである。その交通網の拡張と資源開発の増進と商工業の発達と国富急進の趨勢に置かれた米国人に、どうしてこの東洋の大市場を閑過させよう。殊に上に立ってこの大勢を指導し、煽動するに最良の勇者ルーズベルトを得たのであるから、彼等こそ積水の堰を切ったような心持を以て、極東方面を観察していたに違いない。
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2007年12月25日

米国の極東進出

日米抗争の史実1

 今回引用する書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもって状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はポーツマス講和会議時のルーズベルトと日本側全権小村
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引用開始
 既に1898年ハワイを併合し、フィリピンを割取して、極東進出の前哨線と足溜まりを獲得した米国は・・・・
 大統領マッキンレーはフィリピン獲得に対する内外の非難を緩和するため、政治、商業、人道上の三個の理由と二千万ドルの支払金とを以て、天下の耳目を掩いまんまとその目的を達した。
 その政治上の理由というのは『合衆国はもはや西半球内にその勢力を制限することが出来ぬような発展の舞台に到着したのである。近世交通機関の発達に伴い距離が縮小せられて合衆国は漸次フィリピンに近くなってきた。従ってアジア方面に於て優勢なる権力を獲得するのは合衆国にとって当然であるのみならず、その将来の繁栄のために必要欠くべからざる事件となった』と云うのである。が、この『必要欠くべからざる』など云うことは、米国建国の精神と従来採り来たれるモンロー主義とに決して一致するものではなく、即ち米国が帝国主義になったということを意味するのである。

 また商業上の理由というのは『米国の生産品と輸出貿易とに於ける莫大なる増進は、新たなる販路の大拡張を必要とする。商業上活動の根拠地を得ると云う欧州人の常套手段に倣わずしては、到底欧州諸国と競争することが不可能である。合衆国の政策は門戸開放であるが、この主義は先ず米国の政治上の勢力を確立しなくては維持することが出来ぬ。殊に最大市場を有する東亜の方面に於て米国の勢力を確立するの必要がある所以である』と云うのである。この議論は剣とドルの併進を慫慂するものであって、第一の政治的見地に基くものと同一なる、否もっと露骨に帝国主義的意味を表明していることは明らかである。
 最後に道徳上の論拠はスペインの植民政治の残酷をとなえ群島の無秩序状態を叙し、米国政治の根底をなす自由、平等、自治の精神を群島に普及せしむるは単にフィリピン人の利益なるのみならず、また人類一般の利益である。従ってかかる手段を採ることは合衆国が世界人類のために尽す義務であると云うのである。かかる道徳的理由は古往今来の外交的常套語で、別段大した意義をなすものではない。もし衷心よりかかる義務を感じているとすれば、世界至る所その手を貸すべき場所がある筈である。また自己の便宜からこれを言うも、ともすればこれまた無恥の広言となるに過ぎぬ。

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2007年12月22日

宮中のお雇い外国人7

新嘗祭(米の収穫祭)

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は東京のモール邸
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引用開始
 毎年、米の収穫に対して感謝し、神に供物をささげる大祭が十一月二十三日に行われる。これは国家神道の首長としての天皇の伝統的な地位が、特別にはっきりと表わされる古来からの日本の宗教的な祭儀である。
 この祭儀は皇居内宮殿近くに建てられた、天皇家の宗教である祖先崇拝つまり神道のための神殿賢所の中で常に行われてきた。部外者はけっして入場を許されない。この文章の執筆者であるわたしが祭典のいくつかに見学者として参列することができたのも、もとはといえば、私が宮中勤務者の一員であったからだ。
 これらの宗教的祭典の中でもっとも重要かつ盛大なのは、毎年十一月二十三日に行われる米の収穫感謝のための祭典、新嘗祭である。米は日本人の主食である。したがって以前からこの祭典は重要視されてきた。祭典は二部にわかれて行われ、第一部は、夕方おそくなった午後六時に始まり、午後十時に終了する。次に第二部は、午前零時頃から翌日の午前二時までつづけられる。

 古代日本の伝統ある白羽二重の神主の衣裳をまとわれた天皇は、帽子がやや単純という点だけは違うものの、天皇と同じような白羽二重の衣服を着た宮中の神主たちをまわりにめぐらされた。天皇が加わられた行列は荘重に、一フィートばかりの高さの燭台でぼんやり照らされた宮殿の長い回廊を進む。行列の先頭には、神鏡、神剣、それに国の印章あるいは神聖な曲玉が担われてゆく。ついで行列は皇居内神殿に向かい、柔らかい畳敷きの特別の廊下を進む。天皇がお供の神官たちといよいよ神殿に到着されると、すだれが垂れ下がる。宮家の各親王、閣僚、将軍、高位高官、宮中の官僚は、百年もの樹齢をもつ御苑の古木の下に建てられた露天の行廊に、神殿と相対して立つ。――洋服の制服、軍服姿の一同は盛装している。
 木造の神殿を取り巻く四本のきらめく燭台の火によって側方から照らされている芝生の上で、宮廷音楽師たちは、いずれも古式ゆかしい色彩豊かな衣裳に身をかため、あるときはするどい音、またあるときは太鼓をたたくような鈍い音を奇妙に長々と演奏していた。色とりどりの絹の上着、ひだの多いあざやかな赤い袴をはいた宮中の女召使や神殿の巫子たちは、白木の器の中に、米をはじめ祭儀の供物に定められた食品を入れ、私たち部外者にはけっしてうかがい知ることのできない神殿内部に運んでいった。

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2007年12月21日

宮中のお雇い外国人6

最後の将軍と天皇誕生日

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は鍋島侯爵と夫人
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引用開始
 (静岡から箱根へ)
 広い安倍川にかかる橋を渡ったあと、私たちの一行は、空の人力車をあとに従え、別当という名の先駆の車夫が引っ張る三輪の人力車には絹製の日除け帽をかぶり、驚くべきほど優雅に洋服を着こなした紳士が乗っていた。彼は確かに私たちを見たはずだけれども何の注意を払う様子もなかった。
 政府秘書官にたずねたところ、この人物こそ元将軍であったことがわかった。誤って世俗的皇帝といわれた将軍が、往時の日本では五百人の武装したお供を従えずに国内の街道を移動することなどなかったことを考え合わせると、こんどの巡り合いは全く驚くべきであった。伝えられたところらよると、彼の生活ぶりはまさに田舎の貴族そのものであった。 彼はおのれの領地に住み、毎朝、日本の大新聞のすべてに目を通し、あらゆる事情に通じていたが、実際に政治に介入するようなことはなかった。午後、彼は運動のために、夏は自転車に乗り、冬は狩に出かけた。彼の精神的能力はたいしたものらしい。彼は日本の親族法と慣習に従い以前のすべての権力を完全に放棄し、隠遁生活をしていた。

 私たちに同伴した日本人諸君は、かつて日本の最大権力者であった将軍をまのあたりに見て、不安と動揺を隠さなかった。静岡県知事は元将軍の日常生活や態度に注意を怠らないよう命ぜられていた。その頃、元将軍自身が支援したり、激励したりした事は全くなかったけれども、彼を担ぎ出そうとひそかに策動している連中が日本にいたことを忘れてはならない。徳川家の当主で財産の相続者である彼の後継者は、東京在住の彼の甥、徳川公爵で、勅令により日本第一の華族となった。現代のヨーロッパ人で元将軍を見る機会に恵まれた者はだれもいない。そういうことからしても、偶然に彼と会ったことは、実際に私たちの滞日中のきわめて注目すべき出来事であった。
 かつての日本の支配者が隠居所に選んだすばらしい地域、青い海原、雪の冠をいただく雄大な富士、それに爽快な小都市静岡の姿は公園のただ中にそそり立っている浅間神社の丘から実によく眺められた。私たちは夕方、帰りがけにきわめて優雅ではなやかな庭園に囲まれ、色とりどりの提灯に照らされた多くの料亭を見物した。座敷では金色の襖を背景に青や赤の美しい衣裳を着た芸者や踊り子が身動き一つせず座っていた。まだ青年官僚といってもいい年配の知事が私たちを旅館まで案内した。夜は元将軍や時代の動きについて私たちは楽しく語りあった。
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2007年12月20日

宮中のお雇い外国人5

旧領主家訪問と名所見物

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は松平子爵
matsudaira.jpg

引用開始
 とりわけ光陽館クラブで、日本人の友人の世話で何度も開催されたこうした宴会に出たほか、私たちは再三、新富座見物に出かける機会に恵まれた。もちろん宮中の人々は、新富座での観劇などを極力避けていた。日本では俳優は民衆の中でも社会的地位は最低であり、宮中の人々がしばしば劇場に出かけることは不謹慎だとされていた。しかし外国人である私たちは、こうした日本人固有の偏見に与する必要はなかった。そこで私たちは、芝居の内容をどうにか説明できる友人を伴ってしばしば劇場を訪れた。すべての役は男優によって演ぜられた。あの頃、日本には女優がいなかった。出し物はほとんどが歴史劇で、上演には数時間かかった。芝居は午前中に始まり、一日中続いた。・・・・・
 当然のことながら、有名な歴史的行為あるいは伝説を表している古式ゆかしい衣裳を着た俳優たちの出る場面は、観客にとっては緊張感にあふれた興味深いもので、彼らは終日ドラマの進行に没頭していた。俳優の演技は意味深長かつ自然であり、とりわけ崇高な情熱の表現が巧妙であった。もちろん日本語の知識のないヨーロッパ人にとっては芝居に対する興味はさほどのことはなかった。・・・・

 六月の頃、東京では郊外の堀切のむすばらしい庭園のある茶屋を訪れるならわしがあった。それというのも堀切では群生したアヤメが咲きほこり、魅惑的光景をくりひろげたからである。この月は雨さえ降らなければ、木々の緑はいともあざやか、田園の風景はきらびやかですがすがしかった。いたる所で茎の長い菖蒲の先に花が見事に咲いている姿がみられた。私たちはこの日、堀切から俥(くるま)で隅田川の畔のこぢんまりとした庭園の中にある愛想のよい宮内省の若手官僚で侍従の松平子爵の別荘を訪れた。子爵は徳川家の一族の一人でかなり憂鬱そうに、しかし諦念の気持ちをこめた愛想のよさで時代の変化について語った。明治維新以前には彼の父は地方の領主で城を持っており、また江戸にも屋敷と大勢の家臣を抱えていた。ところがその子息は小さな夏むきの別荘をもつだけの宮内省の役人というしがない身の上となった。日本ならではの精密な大工仕事を示す一部漆塗りの木材で組み立てられ、柔らかい畳を敷きつめたこのいかにも日本的な別荘の中に、松平子爵は遺贈された家族のもろもろの記念品を保存していた。

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2007年12月18日

宮中のお雇い外国人4

皇后誕生日祝宴、宮廷音楽とお茶屋

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は長崎式部官
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引用開始
 毎朝十時頃、私は宮中内の前述の事務所に、あるときは馬、あるときは人力車でまた降雨の際は馬車で出かけた。するとただちに私の協力者、宮内相の個人秘書で宮内省式部官の長崎が、私と共同で作業をするために現れた。私たちはまず、「宮廷、国家ハンドブック」のうちプロイセンの宮廷ならびに国家制度について該当する章句に取り組んだ。私が英語に翻訳すると長崎が耳で聞き、望むらくは正しく理解したことを邦訳し、まとめて書きとった。・・・・・
 午後十二時三十分まで、ほとんどこの方式で仕事がつづけられた。そのあと気がむいたとき私たちが式部官食堂と呼んでいる宮中内の宮内省専用食堂へ昼食に出かけるのを常とした。この食堂の二つのテーブルで宮内省の役人全員にめぐりあった。一つのテーブルは勅任テーブルと呼ばれ、私たちのような高官用であり、もう一つのテーブルは奏任テーブルと呼ばれ、他のすべての官位の者が着席することになっていた。これら宮内官僚の上品で優雅な態度はまことに賞賛すべきであった。残念ながら日本語に通じないものは、食卓で交わされる有益かつ愉快な会話に、だれか親切な隣人がその内容を何らかのヨーロッパの言葉に通訳しようと申し出てくれない限り、加わることができなかった。私は常に多くの興味深いことがらが、そういう事情から私から逃げ去ってゆかねばならないことを遺憾に思った。・・・・

 午後は自宅にいるかあるいは遠足に出かけ、東京の市内や周辺で多くの興味深いものに巡り合う機会があった。来日早々、皇后が設立、保護されることになったベルリンのアウグスタ病院に模した日本の病院が開院した。そこへ皇后は宮中の人々とともにお出ましになった。皇室のお姫さまたちや多くの招待者が集合し、見学に先立って皇后にお目通りした。美しい宮廷馬車が行列をつくった。イギリス製で日本で漆を外側に塗り黄金の紋章をとりつけた皇后のお馬車はきらびやかであった。皇后が病院の中に入られると、ただちに馬は馬車からはずされ、ついで馬車全体の上に亜麻布のおおいがかけられた。それはひとつには馬車内にほこりが入るのを防ぐためであったが、ひとつには参集した群衆が不謹慎にも中をのぞいたりしないようにするためであった。天皇、皇后が降りられたあとの宮廷馬車を一時的におおいかくすしきたりはその後も随所でみうけられた。
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2007年12月17日

宮中のお雇い外国人3

西洋の導入で失われる日本の魅力に遺憾の念

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は右、高倉伯爵夫人と左、北島いと子女官
nyokan.jpg

引用開始
 宮中全員にとって皇后美子は、共感を呼ぶ誰からも尊敬される女主人であられた。才能が豊かで野心的、精力的な日本国民の宗教、世俗の両面での首長という難しい任務をかかえられている天皇にとっても、皇后はきわめて価値のある支柱であられた。
 その頃の天皇の男性の側近では、皇后のご兄弟にあたり、まったく旧日本の代表者のような祭式長九條公、さらにやはり保守的に侍従長のちの徳大寺候が、宮中の幹部職員であった。大膳頭(だいぜんのかみ)はヨーロッパで教育を受けた若い岩倉公爵で、彼は有名な右大臣岩倉具視の息子であった。国璽尚書にあたるのは三条実美であった。かれは維新後、太政大臣の職についた、まことに帝国宰相といった人物で、賢明で繊細な古い京都の宮廷貴族の出身であった。・・・・彼の名声、単に職務上の地位ばかりではなく彼の個人的な地位はその頃きわめて高く、国家の第一人者とみなされていた。
 しかし彼は次第次第にスターの座から姿を消し、天皇の臣下の中でももっとも名声のある地位は、その頃の伯爵のちの侯爵西郷従道に移行した。従道は兄西郷隆盛の指導下に発生した薩摩の反乱、つまり西南戦争にさいしても天皇側にとどまったために、末長く天皇政府の感謝の念を確保した。・・・・・西郷の長女は宮家の一人閑院宮載仁親王と結婚した。
 皇后に仕える高位の女官は、正四位室町伯爵と正四位高倉伯爵である。ともに親切で愛想がよく活発な女性だ。二人よりもずっと下位の女官には英語を話しかつ書く北島嬢と大山伯爵夫人の妹でフランス語を話す山川嬢がいた。二人とも、あらゆる行事に皇后に必ず同伴し、忠実な通訳の仕事を果たしていた。・・・・
 この頃、宮中で働く日本人同僚の家庭を訪れたとき、私たちは男性の多く、そして女性のほとんど全員が和服を着ているのに気がついた。彼らは勤務中は洋装をしているところを見られたい様子であったが、家庭内では好んで和服を着ているのだ。・・・・

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2007年12月15日

宮中のお雇い外国人2

明治天皇、皇后のことなど

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は美子(はるこ)皇后
kougo.jpg

引用開始
 五月二日、私たちは宮中の人々に紹介された。それが午後二時、赤坂仮宮殿で行われることを長崎氏によって伝えられた。・・・・ 天皇はじめ宮中全体が、1887年には一時的に赤坂仮宮殿に住まわれた。ここは外見上は人目をひくような点は一切なく、広々として起伏に富み池や樹木に恵まれた名園のある将軍の郊外の御殿の一つであった。・・・・
 私たちは助手の長崎氏と青い洋服のお仕着せを着た召使いに迎えられいくつか階段を上って大広間についた。この大変簡素な入口の大広間を出て、私たちは両側に白色と灰色の紙をはり黒わくをつけた襖が連なる長廊下をわたった。謁見の間の前室では、私たちを宮中勤務の多くの日本人が迎えてくれた。この人たちは、その後私たちの重要な知己となった。
 まず式部長官鍋島候は、当初から朝廷に忠誠を尽くし、明治維新で功績をあげた大名の一人。前肥前候で、かつてローマ駐在日本公使をつとめた。この時四十歳、黒々とした毛髪とひげの持主で、あっさりとした優雅な物腰の愛想のよい人物であった。鍋島候は初対面のときから私たちに好感を抱かせた人物で、多少英語を解した。彼は公卿出身の有名な美人の奥方とともに日本の社交界の中心となっていた。・・・・・

 だれしも小型の洋風の文官制服すなわち金ボタンのついたビロードの襟をもつ燕尾服を着ていた。ただわが国の習慣とはちがって帯剣していた当番式部官が赤坂の和風仮宮殿の中を私たちを謁見室まで導いた。ここで私たちは洋装の天皇、皇后両陛下に紹介され、御前に立った。私は天皇と、そして妻は皇后と向かい合ってそれぞれ立ったわけだ。
 ヨーロッパ人からミカド、公式には天皇、しかし宮中では常にお上すなわち高貴な支配者と呼ばれている日本の天皇は、その頃まだ四十歳にもなられていなかった。天皇は、イギリスあるいは以前、ブラウンシュヴァイクの陸軍が用いた黒い軽騎兵の軍服姿で菊花の勲章をつけ、帽子はかぶっておられなかった。天皇はやや黄ばんだ肌色ながら若々しく、髪やおひげは黒かった。天皇は、いかにも特徴的に睫毛を動かされたが、あとは身動きひとつせず直立されていた。
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2007年12月14日

宮中のお雇い外国人1

日本上陸当時の模様

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真はホルレーベンドイツ公使
holl.jpg

引用開始
 1886年、私はペテルブルグ駐在のドイツ帝国領事であった。ヨーロッパのもっとも美しい首都の一つで生活し、仕事も多く愉快なこの職場から、極東のミカドの宮廷という職場に転勤することなど、夢想もしていなかった。
 ドイツ外務省人事局の枢密顧問官フムベルトの半ば公式的な手紙は、日本の宮廷がヨーロッパの宮廷実情を学び、かつ改革に乗り出すために現地の宮廷事情にくわしいヨーロッパ人の顧問を数年、東京に招聘しようと願っているとの驚くべきニュースを伝えてきた。さらにこの手紙は(全く正しい方式ではないが)、式武官と呼ばれることになるこの顧問が、宮内相夫人の代理として活動できるほど、やはり宮廷事情にくわしい貴婦人と結婚していること、さらにこの顧問が侍従の位階をもっていることが望ましいと述べていた。

 さらにこの手紙はくわしい条件などは、原則的に就任を受け入れてくれれば、ベルリン駐在の日本公使館と口頭ならびに契約文書に基づいて協議決定されることになろう、そしてこうした条件を具備していると思われるフォン・モール夫妻が適任とされたと伝えていた。最後にこの手紙は、日本の外務次官青木子爵と、東京駐在のフォン・ホルレーベン公使が、東京にいながらすでにわたしたちに関心を寄せていたと述べていた。
 説明のためつけ加えておきたいが、私は1873年から1879年までドイツ皇后兼プロイセン王妃のアウグスタ陛下の下で枢密顧問秘書をつとめていたことから、ベルリン駐在日本公使であった青木氏と昵懇の間柄であった。それに私はプロイセン王国の少年侍従をしたこともある。またフォン・デア・グレーペン伯爵家出身のわたしの妻ヴァンダは、プロイセンのフリードリヒ・カール王子ご夫妻の年かさの王女たち、すなわちオランダのハインリッヒ王子と結婚された(今は亡き)マリー王女、それにやはり今は亡きオルデンブルグ世襲大公夫人エリーザべト王女におつかえした宮廷女官であった。・・・・

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2007年12月13日

はじめて見る日本8

琵琶湖から宇治へ

オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は当時の石山寺
ishiyama.jpg

引用開始
 夜明けに、参事と補佐が私の部屋に入ってきた。別れの挨拶を述べにきて、和服を着ていた。二人が誰だかほとんど分からなかった。それほど殿様然としていた。私はその点を指してお世辞を言ったが、全然気をよくしてくれなかった。というのも、二人はヨーロッパ人に似ていることを自慢していたのだから。
 出発は八時。我々は儀礼兵と目付という嘆かわしい護衛に先導されたり、取り囲まれたり、後続されながら加茂川大橋を渡り、町の東の渓谷に入った。・・・・・いま辿っている東海道のこの部分は人口の多い町の幹線道路と似ていた。路上はこの上ない賑わいだ。通行人、旅人、日本の使者にあたる飛脚、琵琶湖からか北の海(日本海)からか、走りながら運ぶ魚でいっぱいの駕籠を背負う人たち、長い竹竿を持つ苦力、女たち、遍路さんに、牛に曳かれた多数の車駕。道路は完備されていた。・・・・
 とくに我々の関心をすっかり惹き付けていたのは、ヨーロッパ人がごく稀に目にしたにすぎない神秘的な琵琶湖だった。この地方の市邑である大津県は、湖に注ぎ込む山の斜面に鎮座していた。・・・・

 湖の出口から程遠からぬところで、川に小島ができており、東海道の二つの橋が横切っている。・・・・我々は橋の下を通り、瀬田川の魅力のある岸辺に沿いながら、嶮しい岩山の麓に小奇麗にうずくまる小さな村に着いた。村は巨木に囲まれており、峰には、花崗岩の山で古くから名高い寺、石山寺が鎮座する。・・・・・
 寺の前で、上品な服装をした、貴族の家柄の出の娘さん三人に出会った。我々のそばを通る際、彼女らは頭を逸らせ、扇子で顔を隠した。これは帝国の役人の話によれば、まだお歯黒をしてなく、眉毛を抜いていない娘さんにとっては、しなくてはならない用心とのことだ。慎みの上から、彼女らのまばゆいばかりの美しさは、向こう見ずな異人の視線に会うことのないように要求されていたのだから。・・・・
 今日、我々はヨーロッパ人は誰もまだ訪れたことのないと言われる地方を横切ることになるだろう。大津出発は八時二十分。方角は南東。九時に追分村に到着。ここで東の方へ、日本中の名茶で名高い宇治地方へ向うために、我々は東海道を後にした。私は馬に乗って旅行をしていて、雨が土砂降りだったけれども、気温は温和で快かった。我々は大きな市場町、醍醐寺を通り過ぎた。・・・・

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2007年12月12日

はじめて見る日本7

無理やり要求した京都御所内部見学

 オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は京都の賀茂(葵)祭り
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前回からの続き引用開始
 六つの門のうち閉まっているものが若干あり、半開きになっているものもあった。私がこの聖域に入るようなふうをしていると、参事の哀願するような眼差しが私を引き止めたのだった。エンズリー氏(英国副領事)が参事の懸念を取り去るのにふさわしい理屈をあれこれ並べていたが無駄だった。その答えは判で押したように同じだった。曰く「御所の管理は行政の管理ではない」。曰く「御所の管理官は、新政府や進歩派やとりわけヨーロッパ人を毛嫌いする宮廷内の守旧派に属している」云々。最後の妥協案として、参事は我々を御台所門まで連れて行き、若干のちっぽけな殿舎の低い屋根の上から御所の大御殿の切妻を垣間見せてくれた。彼は作り笑いをしながらこう叫んだ。「それでは、これでご満足いただけたでしょうか。ヨーロッパにご帰国の際には、貴殿らは誰もが目にできないもの、つまりは天子の御所をご覧になったし自慢話がおできになることでしょう」。そして、もう遅いし、府知事が我々を屋敷で待っておられるし、道程は長いし、暑い盛りだし、昼食のこともそろそろ考えなければならない時間であると付け加えて、彼は急いで引き返そうとした。

 私はこう切り返した。

「そうはいきませんよ。私は貴殿らの態度に満足していません。なんということなのです。あなたがたは我々の習慣の真似をし、我々の服装を変に着込み、文明の全き途上にいると思っておられるというのに、我々を天子の住みかから閉め出そうとなさるほど迷信深いとは。天子の台所を一瞥するお許しが貴殿らの文明の極みだと分かったら、ヨーロッパではさぞかし物笑いになることでしょう」。エンズリー氏がこれらの言葉を訳し終わらないうちに、我々の周囲に沈黙ができた。参事は、蒙古人種の肌色のぎりぎり一杯まで、赤面した。彼と補佐との間で、低い声での短い会話が始まった。彼は我々に言った。「おっしゃる通りです。我々は笑い者になることでしょう」。彼は御所の管理官に会いに行こうと申し出たけれども、この交渉からなんら良い結果も期待できない、と言った。・・・・・
 程よい距離を保って我々の周囲には、人の群ができた。公家の侍女なのだった。我々は彼女たちの独特の服装と艶やかな髪型に気付いた。・・・
 こんな調子で、半時間が過ぎた。やがて、我々の使者らが喜々として駆けつけてきた。我々は中に入ることが許されるのだ。管理官と補佐は、宮廷の正装を羽織る時間だけをくれと要求した。二人はやってきた。彼らはかなり無愛想な様子をしていたけれども、とうとう決断してくれて、我々に禁じられた一画の敷居を越えさせてくれた。我々は公家門から入った。・・・・

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2007年12月11日

はじめて見る日本6

大阪から京都へ

オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は道頓堀中座
nakaza.jpg

引用開始
 この都市(大坂)は日本の商都である。(日本)帝国の中央部向けの外国産の商品すべてはここを経由する。・・・・ここでは蒸気が役割を果たしはじめており、この点で、日本人は中国人を凌駕した。後者は機械の動かし方や蒸気船の運転の仕方をまだ習得していないのに、そうしたことができる日本人を見出せるからだ。
 土佐候は、大型の蒸気船を何隻か所有しており、その船長や機関士は現地人なのだ。我々は、この町の外に、美しい三隻の蒸気船が投錨しているのを見た。それらはこの大名の所有になるものであり、横浜と瀬戸内海の小さな港との交易をしている。船賃はアメリカの船会社の料金よりかなり安いので、船はいつも乗客で超満員だ。
 外国から輸入された商品は大坂から淀川を伏見まで遡り、そこから陸路で京都へ運ばれる。この川を遡り、琵琶または近江という名称で知られる大きな内陸の湖に入る他の船もある。・・・・
 私が(英国)領事館の敷居をまたぐまでもなく、岩倉(具視)の書簡により私の旅行を予め知らされていた府知事が来訪を知らせてきた。数分後、副知事と通訳に伴われて、府知事がやって来た。彼は日本の高官の典型というべき人で、礼儀正しく、立派でこの点は彼に十分ふさわしいことながら、少々ぎこちがなく、場合によっては顔が引きつり、顔の表情は考え深げな様子になったり、少々間が抜けたようになる。・・・
 ありきたりの文句の交換が終るやいなや、彼の顔の表情は和らぎ、もともと陽気でしばしば好意に満ちた彼の本性が勝ってしまい、暇乞いの時に再度仮面をつけることにしておいて、公的な仮面をはずしてしまうのだ。・・・・

京都御所の内部見学を要求
 我々は四時に伏見に到着した。華々しい式典が我々を待ち受けていた。船着場では、正装の当局者たちが我々を出迎えてくれ、花々や絨毯で飾られた美しい部屋に案内されたが、そこにはこの日のために机と椅子が置かれてあった。我々が自由に使えるように府知事が気をきかせてくれた、これらのありがたい家具は、旅行中ずっと我々のお供をしてくれることになった。・・・・

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2007年12月10日

はじめて見る日本5

明治天皇に謁見

オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は向島の庭園
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引用開始
 明治四年九月十六日、今朝、侍従が四人乗り無蓋軽四輪馬車のような馬車に乗って我々を迎えにやって来た。・・・・
 外門に到着したとき、我々は武装した軍隊に気がついた。これは中門でも、城の近くでも同じことだった。ヨーロッパ風の服装をした者も中にはいる。こういう武装した兵士たちは、見た目にはなかなか立派だった。ただ彼らは少々こういう仮装に当惑しているようではあった。そのかわり、役人や、その他の文武に携わる騎兵たちは、日本古来の服装をし、武器を持っており、堂々としてほんとうに立派だった。城の大きな堀に架けられた最後の橋を渡ってから、我々は馬車を降り、ごく稀な例外を除いては絶対誰も入ることのできない天皇専用の庭園に通された。・・・・

 我々は五分ほど歩いたころ出迎えを受けた。太政大臣三条、岩倉、木戸・大隈・板垣の三参議、それから長州・肥前・土佐三藩の代表者たちが我々を迎えてくれたのである。この三藩の代表者たちは、この時は姿を見せなかった薩摩藩代表の西郷とともに、明治維新を成し遂げたのであった。
 つまり我々は、ある観点から見るならば日本の改革者とも破壊者ともいえるような人物たちの前にいるのだった。・・・・
 少し話しをしていると、天皇は謁見の準備がおできになったと知らせがあった。我々は大礼服を着たこういう高官貴顕に付き添われてふたたび歩き、瀧見茶屋と呼ばれる建物の開いた扉の前に着いた。私は天皇の御姿を一目拝見したいと好奇心を燃やしていたのだが、自分の回りに視線を投げかけて、この場所の詩的な美しさにただもう感嘆せずにはいられなかった。・・・・
 我々は中に入り、神々の子孫の前に出た。その部屋は奥行約二十四フィート、間口十六から十八フィートであった。床は極上の畳で覆われていた。天皇が腰かけている高さ二フィートの台座の他はまったく家具はない。入口のところは暗かったが、幸い偶然にも太陽の光が鎧戸と障子の隙間から射しこみ、天皇の御体の上に強い光を投げかけたのであった。
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2007年12月08日

はじめて見る日本4

明治四年九月・江戸の店舗

オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は当時の呉服店舗
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引用開始
 今朝、江戸の主な店をいくつか訪問。横浜の日本人地区にはヨーロッパ市場向けにわざわざ製造された品物があるが、ここ江戸ではそれとは逆に、物はすべて日本人の好みに合わせて作られている。こういうさまざまな数々の品物をつぶさに眺めることほど面白いことはない。・・・
 美術品と工芸品を比較して言えば、ここ日本では、芸術家は職人に極めてよく似ており、また職人はある程度まで本質的に芸術家なのだ。ヨーロッパにおいても中世はこれと同じ状況だったのである。
 玩具を売っている店には感嘆した。たかが子供を楽しませるのに、どうしてこんなに知恵や創意工夫、美的感覚、知識を費やすのだろう、子供にはこういう小さな傑作を評価する能力もないのに、と思ったほどだ。聞いてみると答えはごく簡単だった。この国では、暇なときはみんな子供のように遊んで楽しむのだという。私は祖父、父、息子の三世代が凧を揚げるのに夢中になっているのを見た。・・・・

 私はごくわずかなお金でたくさん珍しい品々を買い込んだ。そのうちのいくつかは本物の美術品といってもよいものだ。たとえば、小さな青銅品、さまざまな動物が描かれた文鎮、亀の群像といったものだ。滑稽さをねらっている意図は明らかだ。他の店でも同じような群像、同じモティーフを見つけたが、しかし複製ではなかった。これは機械的に同じ型が再生産されるのではなく、発想が同じなだけなのだ。職人は、というか芸術家は、模倣しつつも自分の創意工夫を盛り込むのである。
 それから、柔らかく光沢のある紙で私の買った品物を包んでくれる女性たちの華奢で綺麗なほっそりした手にも私は感嘆したのだった。
 我々は最も有名な二軒の絹織物店も訪れた。我々は顧客でいっぱいの二階の大広間に通された。顧客の中には身分の高い婦人も数人いた。男も女もみんな一フィートほどの机の後ろに正座し、その上に薄手の縮緬や、無地あるいは模様入りのずしりと重い厚手の織物など商品を広げていた。着物の色は目を見張るほど鮮やかだ。値段さえあまりに高すぎなければ、喜んで家具や壁掛けの織物として用いられるところだろう。教会の壮麗な装飾にも使うことができるだろう。ここ日本ではこういう織物で男女の正装用の衣装を作るのである。・・・・・
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2007年12月07日

はじめて見る日本3

明治四年八月・箱根・江ノ島

オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は箱根の関所跡付近
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引用開始
 昨日我々は江戸を離れた。私の旅の道連れは、英国代理公使アダムズ氏と英国公使館書記官兼通訳官サトウ氏である。富士山麓に行くときにとったのと同じルートを通って、我々は午後、湯本に到着した。宮ノ下へ向う北東方向の道はここから分かれるのだが、我々は東海道を進み続ける。急流に沿った東海道を辿っていくと、畑村に出た。これはその風光明媚なこと、茶屋とその庭とで有名な所である。・・・・
 読者諸氏にはこういういわく言いがたい幸福感を思い描くことがおできになるだろうか。つまり、しのつく雨が絶え間なく朝から晩までどしゃぶりに降って快い涼しさをふりまいているなかで、自分の力と元気を意識しながら、庭に向ってぱっと開け放たれた瀟洒な部屋で、とても綺麗な畳に寝転がっているという幸せを。その気持ちよい感覚を、私は幸せにもみんなと分かちあうことができたのである。・・・・
 宿を発つときの光景は、いつもながら賑やかだ。物見高い連中の立ち並ぶ二列の人垣の間を部屋から部屋へと通り抜けていくのである。宿の主人と女将が、両手で仲介人から勘定を受け取った。二人は何度も繰り返し繰り返し感謝と礼の言葉を述べた。姐さんたちはあとを追いかけてきて、笑いながら手を振って、道中ご無事で、またいらしてね、などと言う。家の出口の敷居のところでは、到着した時に脱いだ靴を探す羽目になった。そしてそこで、村のお偉方の市長と側近たちが我々にお辞儀をして、村のはずれまで先導してくれたのである。・・・・・

 日本人は自然が好きだ。ヨーロッパでは美的感覚は教育によって育み形成することが必要である。ヨーロッパの農民たちの話すことといえば、畑の肥沃さとか、水車を動かす水量の豊かさとか、森の値打ちとかであって、土地の絵画的な魅力についてなど話題にもしない。彼らはそうしたものに対してまったく鈍感で、彼らの感じるものといったら漠然とした満足感にすぎず、それすらほとんど理解する能がない有様なのである。ところが日本の農民はそうではない。日本の農民にあっては、美的感覚は生れつきのものなのだ。たぶん日本の農民には美的感覚を育む余裕がヨーロッパの農民よりもあるのだろう。というのも日本の農民はヨーロッパの農民ほど仕事に打ちひしがれてはいないからだ。肥沃な土壌と雨と太陽が仕事の半分をしてくれるのだから、あとはそっくりそのまま時間が残ることになる。この時間を、日本の農民は小屋の戸口に寝そべり、煙管をくゆらせ、自分の娘たちの歌声に耳を傾けながら、どこを見ても美しい周囲の風景に視線をさまよわせるのである。
 もしできれば、日本の農民は小川のほとりに藁葺きの家を建てる。そしていくつかの大きな石を使って、それを適当な場所に置き、小さな滝を作る。水の音が好きだからだ。

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2007年12月06日

はじめて見る日本2

明治四年八月・富士への小旅行

オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は山中湖のさかさ富士
mtfuji.jpg

引用開始
 オランダ公使ファン・デル・フーフェン氏が、自分の計画している富士山への小旅行に加わらないかと勧めてくれた。私はこの得がたい機会を利用して、その休火山のほとんど未知の北部・北東部地方を探検してこようと思った。旅行者は六名。・・・・いよいよ今朝(三日)五時、暑い一日を思わせるすばらしい晴天の朝、我々は腰掛付馬車に乗って出立した。馬車は我々を乗せて東海道に向う。東海道は日本の幹線路で、ここから一里あるが、この東海道に出ると、小田原の川(酒匂川)まで馬車に乗っていくことができる。そこからは徒歩や馬や駕籠で道を続けるのだ。我々の守護天使にして監視人である役人は、小さな痩せ馬に乗って、我々の車を取り巻いている。この原始的なつくりの乗物に腰をおろすやいなや、私以外の者はみんなそれぞれ自分の武器を点検しだしたが、私は武器を何も所持していなかった。となりの若者はポケットから恐ろしげな回転式連発拳銃を取り出した。彼がその拳銃をとり扱うさまを見ていると、これまでの世界周遊旅行ではじめて、自分の生命が心配になったのだ。

 東海道はいつもと変わらずたいへん賑わっていた。徒歩で旅する者、乗物(のりもん)をつかう者、駕籠に乗った者、女子供、両刀を差した人々、剃髪した僧侶などが、ほとんど途切れることなく続くのだ。・・・・
我々に付き添っている役人たちは、立派な若者だった。大きな鍔の黒い烏帽子をかぶり、絹のゆったりとした着物をつけて、結構上品なのだ。道の両側には家や店や木が立ち並んでおり、村々が隣り合っていた。・・・・
 一時頃、封建都市小田原の対岸に到着した。ここで馬車を降り、我々はそれぞれ一枚の板の上に横になって、指を小さな穴に通した。そうすると、四人の裸の男たちがその板を持ち上げて肩に乗せ、そして川の中に飛び込んだ。これは奇妙だが少し感動的な迫力のある情景だった。急流の中ほどまで来た時、水が板をかつぐ男たちのほぼ肩の高さまでになった。激しい流れに屈せざるをえず、男たちは流されるがままになったが、幸いにも背が立たなくなることはなかった。まるで我々が小船に乗って下っているかのように、岸辺が遠ざかっていく。そのうち海の怒涛の響きが苦力たちの拍子をつけた大声と混ざりあうのだった。彼らは荒波と闘いながらも時おり笑いながら我々の方を見やる。軽い板の上でさんざん揺さぶられつつも、我々は板に必死にしがみつく。やっとのことで川岸にたどり着き、我々は砂の上に降ろされた。
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