2007年11月08日

東京裁判弁護資料7

ラザラス弁護人冒頭陳述「支那段階」

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和22年4月22日のもので、結果は部分却下(朗読禁止)です。
第一部門は盧溝橋に関するもので、これは以前に
当ブログでも詳細にしておりますので、裁判の焦点となるような部分だけにします。第二部門は共産党に関するものです。
写真は盧溝橋で凱歌を上げる日本軍
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引用開始
第一部門 盧溝橋事件及び日本の不拡大方針
 1937年7月7日午後11時40分、盧溝橋付近通称マルコ・ポーロ橋の地点にて演習中の日本軍一部隊は龍王廟に於て中国軍の射撃を受けました。当時日本軍及び現地中国地方官憲が事態を迅速に且つ局地的に解決せんと努めた事実は証拠により証明される筈であります。
 北支に於ける日本の駐兵は1900年の北清事変に関連する列国共同公文の第九条並に義和団事件議定書の第九条に基くものであります。而して日本軍がこの種の演習をなす権利は1902年の天津還付に関する日支間の数次の交換公文により認められております。これは大要次の如き趣旨のものであります。
「外国軍隊は教練、射撃又は演習をなすの自由を有す。但し、小銃又は大砲を発射する場合に於ては、事前通告を為す事を要す」。・・・・

 もし続いて7月25日に郎坊事件が起らなければ、事態はこれだけで解決したであろうと思われます。・・・・
 次いで7月26日いわゆる広安門事件なるものが起りました。・・・・
 証拠により明らかとなる如く、7月27日、日本駐屯群は事態の平和的解決にあらゆる方策を尽したが、ことここに至っては戦闘をなす以外に途がないという旨の声明をなしました。同日東京に於ても内閣書記官長が同様の声明を発しました。これら声明に於て、日本の敵とする所が中国軍のみであって、決して中国人民ではない旨が明らかにされました。
 更に、右声明は日本軍の意向が、迅速なる平和及び秩序の回復、第三国権益の尊重、及第三国国民の生命、財産の保護にあることを指摘しています。日本が北支に何ら領土的野心を有していなかったことも亦それによって明瞭であります。
 ここまでは、日本の行動は北京及び其の周辺の地域に限られて居ったのであります。7月2日に通州事件が勃発し二百名の邦人居留民が中国保安隊の手で虐殺されました。同日、塘沽及び天津所在の日本軍も亦、攻撃を受けましたことは証拠によって示さるる通りであります。右諸事件の結果、本事変は、はしなくも該地域にまで拡大されたのであります。七月を通じて、事変を局地的に止めんとする日本側の意向及び努力には何らの変りもありませんでした。7月11日の協定を再三蹂躙しましたのは実に中国側でありまして、日本側軍事行動は、追って立証されますように、さきに列挙せる何れの事件に於きましても、全て純自衛的性質のものでありました。
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posted by 小楠 at 07:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の東京裁判