2007年11月30日

ロシア皇太子襲撃事件

新聞の外国人排撃煽動

今回ご紹介する「ドイツ歴史学者の天皇国家観」の原著者ルートヴィッヒ・リースは、東大から招聘を受け、明治二十年(1887年)二月に横浜に到着し以来、明治三十五年七月まで、今日の東京大学史学科で歴史を学を講じた人物です。
本書ではドイツ人を対象とした日本紹介のために書いた論文が中心となっています。
写真はロシア皇太子
rprince.jpg

引用開始
 明治二十四年五月十一日、訪日中のロシア皇太子を日本人巡査が襲撃した事件の概要は次の通りである。・・・・
 京都から二マイル半ばかりのところにある大津駅目指して出発したが、それは山並みに囲まれた大きな湖、琵琶湖の素晴らしい景色を大津から展望するためであった。五月十一日の正午、一行は最初用意されていた知事の車を使うのをやめて、人力車で湖に向った。・・・山間の道幅は狭く、また本道からそれた場所にある名所旧跡に立ち寄るためにも、この乗物のほうが便利であり、だからこそ皇太子はこの交通手段を選んだのであった。・・・
 警備の巡査が立ち並ぶ通りをこれらの小型蓋車の行列は大津の市街から郊外の美しい自然の中へと進んで行った。・・・数キロ進んだあたりで、道端に立っていた巡査の一人がサーベルを振りかざして皇太子の車に駆け寄り、左側から彼の頭上に一太刀くわえた。巡査の名は津田三蔵である。・・・
 機敏な車夫は向ってくる巡査の足に果敢にタックルし、サーベルが打ちおろされんとする刹那、彼を地面に押し倒したのである。サーベルは皇太子の頬骨と頬をかすり、ふた筋の浅い傷跡を残したが、骨にはなんら異常はなかった。この勇敢な車夫は倒した相手のサーベルをすばやく拾い上げると、急所をそらして彼の頸部に思い切り二太刀をくわえ、さらに背中にも傷を負わせて巡査を叩きのめした。・・・
 電信でこの凶行の知らせを受けた天皇は、ただちに特別列車をしたてさせて侍医を京都に遣わせた。・・・翌日の五月十二日朝六時、天皇は負傷したロシア皇太子を自ら見舞うため特別列車で京都に向った。・・・・

 以前から日本ではこのような狂信的な犯行によって多くの外国人が殺傷されてきたが、明治二十一年以来ふたたび排外的世論が勃興、明治二十三年九月十一日条約改正反対の列国声明が出されるに及んでそれは全国に広まった。学校の生徒や大学生の乱暴狼藉に始まり、公の集会における狂信的な演説、さらには新聞のしばしば声高な誹謗に至るまで、外国人排撃の運動はとどまるところを知らなかった。・・・・
 新聞を通じて人々の怒りはまさに爆発寸前であった。そして津田三蔵のような人物に対して、新聞のこのようなアジテーションがいかなる効果を及ぼしたかは想像に難くない。津田は生粋のサムライの生まれで、二十四歳にして西郷の反乱の鎮圧に当って功をあげ、勲章を得たほどの勇敢な兵士であって、その彼が悪意に満ちた新聞報道に煽動され、人気のない山間の警護地点で憂国の念に駆られて凶行に及んだとしてもなんら不思議はない。・・・・
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2007年11月29日

仏人の見た明治の長崎

門司から長崎へ

フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
 彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。
写真は当時の長崎港
nagasakiport.jpg

引用開始
 私たちは、まさに日が暮れようという時刻に、日本地中海のジブラルタルともいうべき下関海峡に着いた。門司港は煙の幕に覆われている。無数の帆船が、長く伸びた赤い水平線上に浮かんでいる。かつては名もない漁村に過ぎなかったところが、今や九州鉄道が通り、要塞を設けられた都市になった。
 汽車が出るまで時間があったので、私は日本人の旅行の仕方をもう一度観察した。ある程度の階層の日本人は、高価な荷物のように旅行をする。行先を告げる必要はほとんどない。下車すると、宿がたとえほんの数歩のところにあっても、そこまで運ばれる。宿では、茶、酒、料理が振る舞われ、芸者がまかり出る。彼は何にも気を遣う必要がない。彼の汽車の切符は彼の手の中に滑り込み、時刻かっきりに、車室に案内される。自分の夢想を中断されることなしに、下船し、町を通り、汽車に乗ることの出来るのは、世界で彼らだけである。信徒の手で移転する仏陀さながらである。

 しかし、異国の仏陀である私は、家族全員が私の周りに集まっている宿屋のござの上には坐っていない。僧侶の説教は、私の沈黙ほどには必ずしも多くの人を集めない。門司の人びとは、普通よりももっと強い好奇心を示す。私が口にする僅かの言葉、生活習慣についての私の試み、酒や生の魚に対する私の好みは、たちまち無数の微笑と丁重な挨拶を招くにいたる。
 突然、宿屋の主人が、その質問が私に通じないのを見て、頭を掻き、英和会話の手引きを探しに人を走らせる。彼はその手引きを、最初右から左に、次いで左から右にめくり、その顔は赤く充血する。・・・
 女中が入って来て、私に汽車の切符を渡し、主人には車夫が玄関に来ていると告げた。しかし、主人は下女を押しのけ、熱心にページをめくるのをやめようとしない。私は通訳がいないことを呪った。そして、不安は募るし、ここを立ち去りたい気持ちは強くなるしで、私はどうしてよいか分からなかった。その時、宿屋の主人は勝ち誇ったように拳を振り上げ、上体をすっくと起すなり、爪でしるしをつけた次の言葉を私に指し示した。
“I do not understand English”

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2007年11月28日

仏人の見た明治京都2

ベルソール、京都の魅力(下)

フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
 彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。
写真は当時の東本願寺東山別院
betsuin.jpg

引用開始
 私の住む通りの外れにカトリック教会が立っている。そこの司祭オーリアンティス神父は、伝統あるいは歴史の中でキリスト教に対する最も仮借ない敵の一人に数えられる大名の屋敷跡住んでいる。・・・・
 元の主がしつらえたままに残った庭には、珍しい樹木や奇妙な石などが配置されている。・・・・ほとんど毎日、私が訪れる時刻には、オーリアンティス神父は数人の日本人へのフランス語の授業を終える。これらの生徒は、既婚者、家庭の父親、軍人、公務員、あるいは外国語愛好者等さまざまだが、わが国の言語を学ぶことを望んでおり、大男で、ひげが半白になり始めているオーリアンティス神父は、わが国の子供たちが使う読本を彼らに使わせている。・・・・

 昨日、オーリアンティス神父は、ある職人の家で宵を過ごすのだと私に告げ、同行しないかと私を誘ってくれた。・・・
 われらが知人たちは、職人の住まいが両側に並ぶ狭い袋小路の奥に住んでいた。窓と引戸式の表口はまだ開いていて、二つか三つの小さい部屋の中を見ることができた。この種の家はたいていこんな間取りである。木蓮の大きな花のような白い角灯が投げる白っぽい光の下で、子供たちがひざまずいて勉強のおさらいをしていた。光の陰に隠れたいくつかの顔からは、穏やかな話し声や笑い声が洩れていた。
 われわれが入った家は大きくはなかった。一室とそれに板の間である。板の間は台所に使われている。父親、母親、それに四人の娘が、その部屋に人を迎え、食事をし、そして眠る。しかし、この人たちは貧民ではない。その部屋は、六人が住んでいるのに、わが国の屋根裏部屋の入口で感じる貧しい不潔感がない。その部屋は清潔で、魅力的ですらあった。部屋には、夏にはいっそう涼しい藤のござのようなものが敷かれていた。小さいたんすが二、三、奥に並んでいた。鏡の入ったごく小さい化粧台が、部屋の隅に見えていた。ニスか漆を塗ったごく低いテーブルが二脚あり、一つには茶道具と菓子が、他の一つには、元サムライで、今は扇子作りの職人である父親の刀が載っていた。
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2007年11月27日

仏人の見た明治京都1

ベルソール、京都の魅力(上)

フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
 彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。
写真は当時の八坂神社・四条通り
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引用開始
 すばらしい場所であった。寺院の名前はもう思い出せないが、いくつかの丘に囲まれた平地全体が見渡され、そこに京都の町並みがくすんだ黒っぽい干潮のように広がっている。大きな建物の屋根も浮き立っては見えない。緑がかった、大きな塊のように見えるだけである。・・・
 いくつもの丘の斜面のいたるところに、寺院の階段、仏塔、神社、叢林等が、朝の光が輝く青白い空気の中に、くっきりとそれぞれの輪郭を浮かび上らせていた。小川と小鳥だけが歌っていた。人間たちの住居も、神々の館と同じく静まり返っていた。
 かつて、帝位が盛んで、天皇が京都に都を置き、この都市の四十万の人口のうち五万人が僧侶であったという時代には、狭くて長く、上り下りの坂の多い大路小路は、耳に入るものとては、衣ずれの音に刀の触れ合う音、笛の音、舞踊の調べのみであり、朝な夕な、僧侶が鐘を打ち鳴らしていたのであろう。

 われわれは、寺院近くの、とある茶店の戸口に腰を下ろしていた。校旗を先頭にして、少女の学校生徒の群が通っていった。どの子も明るい色の着物を着て、生徒らの姉と見えるくらいの女教師たちに引率されていった。女生徒たちは山腹の神にお参りに行くところで、めいめいが枝葉模様の布(風呂敷)にきれいに包まれた小さい弁当を下げていた。少女らの、軽やかな、跳びはねるような一群は、たちまち木立の陰に消えた。・・・・
 あらゆる地方から、学校の教師たちは、生徒を引率して京都にやってくる。ほこりで真っ白になった履物を引きずり、ある者は日本風の衣服をまとい、他の者はヨーロッパ風の衣服を着こんだ生徒たちの群に会わぬ日はない。一見して、彼らの無骨な顔は、喜びも驚きも疲れも見せておらず、懸命な緊張の表情があるばかりである。私は好んで彼らのあとについて行く。とくに、彼らが宮殿や城館を訪ねるときにはそうする。この少年たちは、過つことのない嗅覚を備えていて、優れたもの、珍しいもの、極上のものの前ではぴたりと足を停める。
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2007年11月26日

明治仏人の京都への旅

ベルソール、京都への道すがら

フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
 彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。
taizaiki.jpg

引用開始
 一般的に言って、校門が開かれ、教師から白人への反感を植えつけられている生徒たちが路上に溢れる時には、ヨーロッパ人はそこに居合わさないことが望ましい。とはいうものの、生徒の群がヨーロッパ人にぶつかり、罵りの言葉が彼に浴びせられた時には、私は、日本人がどんなに親切で丁重かを思い出すよう、そのヨーロッパ人に勧告したい。最も無礼な子供をも静めるための妙策を、私はずっと以前から教えられている。誰でもよい、子供たちの一人に近寄り、道を聞くか、広場の名前を尋ねるかするのである。罵りを発していた口はたちまち微笑を浮かべる。挑むような姿勢をとっていた小さい体が前に傾いてお辞儀をする。そして、彼の仲間たちも、私が敵であることを忘れて、彼らの父たちが生活の掟としてきた愛想のよさをひたすら私に示そうとする。
 つい昨日も私は、一群の生徒たちにタバコ屋へ案内してもらった。この生徒たちというのが、その一瞬前には、私に石つぶてを投げたかもしれない連中だったのである。「タバコ屋はどこですか?」という私の単純な問いかけが、親切と丁重の伝統をたちまち彼らに思い出させたのである。・・・

 私の記憶に誤りがないならば、ラフカディオ・ハーンは心身を備えた生身の神、老いたる農夫を見た。その農夫は、ある夏の夕方、自分の住んで居る岬から、巨大な津波が押し寄せてくるのに気がついた。水平線の果てに現れたその大波はみるみる巨大に膨れ上がり、陸地に近づいてきて、村人全部をその波間に呑み込んでしまうかと思われた。農夫はためらうことなく自分の手で収穫したばかりの稲わらと穀倉に火をつけた。彼がどんなに叫んでも声の届くはずのない丘の上に、火の手を見つけた村人たちが駆け上がってくるのを願ってのことである。村人たちが感謝して彼のために建てた寺は、この農夫の家から遠くなかった。耕している田畑から、彼はそのわらぶきの屋根を、木立ごしに見ていた。日々の生活の中で、人びとがこの農夫に対して神としての敬意を表していたろうとは私は思わない。しかし、この土地の子供たちは、いつからかこの人物が神の魂を実際に宿したことを知っていた。ヨーロッパの人たちが日本の無宗教について語るとき――ある人びとはそのことを嘆き、他の人びとは、もっといけないのだが、それをほめそやすたびに――人びとは肩をすくめずにはいられない。神がその路上を歩んでおり、その屋根の下に住んでおり、神の誇りとする行為がその存在の目に見える閃光にほかならないと、こんなにも信じている国民を、私はかつて見たことがない。・・・・
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2007年11月24日

中国遺棄兵器処理問題

蒋介石秘録に見る日本軍兵器の行方

11月30日、防衛研究所で「化学兵器中国で遺棄」覆す文書見つかる の記事が出ましたねー

 我々国民の一兆円とも言われる莫大な税金が捨てられようとして今問題になっているにも拘わらず、マスコミがほとんど取上げない遺棄兵器処理問題について、蒋介石秘録に出てくる関連部分を引用して見ます。
 日本軍の降伏と同時に当然武装解除された日本軍の武器を最も欲しがったのが中国共産党であることがはっきり示されています。日本の政治家、官僚は、日本国民を食い物にしていると言っても言いすぎではないようです。
写真は武装解除でソ連兵に武器を引き渡す日本兵
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引用開始
 崩壊寸前となった日本に、ソ連が”分け前“を求めて参戦を急ぐことは確実であった。中国にとっての最大の問題は東北(満洲)であった。東北を軍事占領したあとのソ連は、必ず中国に難問を吹っかけてくることが予想されたからである。
 8月7日、モスクワで中ソ友好同盟条約の交渉にあたっている宋子文に次のように指示した。
『東北にある各種の工業施設および機器類は、すべてわが国の所有に帰し、倭寇(日本)のわが国に対する戦債償還の一部分とすべきものである。この点を(ソ連との)条約締結の際によく協議するか、あるいは声明するように』
 予想した通り、ソ連は8日夜日本に宣戦、ソ連は東北になだれこんだ。
『ソ連の対日宣戦は、投機と狡猾をきわめた行動』であった・・・・
『モスクワでの交渉で、我々は次のように国家権益に関して重大な譲歩をせざるをえなかった。

1、外蒙の独立自治を承認する
2、東北長春鉄路の共同経営
3、大連を自由港とし、長春鉄路によるソ連の輸出入物資は関税を免除する
4、旅順口を両国共同使用の海軍根拠地とする』

同時にソ連は、
a、国民政府に対する軍需品その他の援助、
b、中国の東北における領土と主権の完全性の承認、
c、日本投降後三ヶ月以内の完全撤去
を約束した。しかしスターリンは、これらの約束を一切守らなかった。・・・
 中国戦区の受降典礼は、9月9日午前9時、南京の旧中央軍校におかれた陸軍総部の大礼堂で行われ、日本の支那派遣軍総司令官・岡村寧次が降伏文書に署名、中国陸軍総司令・何応欽に提出した。・・・・
 長年の苦闘を経て、ようやく勝利を手にした中華民国にとって、ソ連と共産党は、“新たな国恥”の根源であった。
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2007年11月23日

GHQの日本洗脳工作5

米軍発表「太平洋戦争史」論、日米交渉2

江藤淳氏の著「忘れたことと忘れさせられたこと」の末尾付録1に、昭和20年12月8日大東亜戦争開始四周年を期して発表された、米軍司令部当局提供特別記事「太平洋戦争史」がいかに米国に都合よく、日本=悪の思想を日本国民に浸透しようとする意図のものであるかを批判する、総務局資料課の富枡嘱託の論が掲載されていますので、ご紹介しようと思います。なお、文中同文とあるのは米軍司令部当局発表の「太平洋戦争史」のことです。(旧漢字やカタカナの原文を読み易くしておきました)
写真は国務長官コーデル・ハル
haru.jpg

引用開始
12、米国政府の戦意決定
 同文は米国の対日最後要求を講評して、「十一月二十六日、日本側代表に手渡された回答には米国政府が将来の会談を通じて実現可能と思われる案の唯一の例であることも明示していた」となし、暗にむしろ明白に自己弁護を主張し且つ自発的ならびに継続的に日本が挑戦的なりしを指摘するに努めたれども、翻って委細に検討すれば事実は右発言と正反対なりしは次の三史実によりて例証せらるる所なり。即ち

1)十一月二十六日午後四時半「ハル」は野村、来栖両大使を招致し国務省に於いて該提案を交付したる直後、ホワイトハウスにて開催せられ大統領の参加せし重要会議に於いて「先刻米国通牒を日本大使に交付したるが、日本政府はこの提議を拒絶すべく、而して日本軍部はその伝説的開戦戦術により「パール・ハーバー」を奇襲すべきにより、陸海軍両長官(同席の「スティムソン」ならびに「ノックス」)は同地に於ける各自所轄司令官(ハワイ防備司令官「ショート」陸軍中将ならびに太平洋艦隊司令長官「キンメル」海軍中将)に右の旨通報警告せられたし。この警告は「戦時警告」なりと厳命せり。

2)その後十一月二十九日「ハル」は駐米英国大使「ハリファックス」と対日政策熟慮の際「日米関係中の外交的部面に関するものは事実終了を告げ、今後の事態は米国陸海軍官憲の掌中にて解決せらるるに至らん」と述べ、尚「太平洋情勢に関心を有する米国ならびに他の諸国に取り重大なる誤謬は日本が驚駭の有する要素を以て俄然出動し来るべきを予想せずしてこれを防御せん事を考量するに在り」と付言したり。
これ何たる日米危機洞察の至言ぞ。同時に戦争誘導外交家の胸中を吐露し得て寸毫の疑問を許さず。更に翌三十日「ハル」は米国新聞記者との会見談に於いて再び同様なる自己の確信を披瀝し居りたり。
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2007年11月22日

GHQの日本洗脳工作4

米軍発表「太平洋戦争史」論、日米交渉1

江藤淳氏の著「忘れたことと忘れさせられたこと」の末尾付録1に、昭和20年12月8日大東亜戦争開始四周年を期して発表された、米軍司令部当局提供特別記事「太平洋戦争史」がいかに米国に都合よく、日本=悪の思想を日本国民に浸透しようとする意図のものであるかを批判する、総務局資料課の富枡嘱託の論が掲載されていますので、ご紹介しようと思います。なお、文中同文とあるのは米軍司令部当局発表の「太平洋戦争史」のことです。(旧漢字やカタカナの原文を読み易くしておきました)
写真は大西洋憲章を発表するルーズベルトとチャーチル(プリンス・オブ・ウェールズ艦上)
taiseiyo.jpg

引用開始
10、日米交渉
 同文は「ハル――野村間日米交渉を論じて、「米国は東亜に於ける戦争回避に努力を続けた、三月ワシントンで開始された日米両国政府の会談は八月に入っても続けられた、然し日本が継続的侵略に依って獲得した領土を返還する事に就いては日本は何等の提案も行わなかった、而して侵略に対する米国の政策は、日本が1931年満州を略取した時以来常に明々白々であった。会談は何等の結論をも得ず又結論を得る見込みも無く永引いて行ったが、それにつれて米国の態度は次第に少しづつ強化して行った」。と表面頗る無難に述べ居るも、左記の事実に就いては何等言及せざりし所をここに指摘するの要ありとせん。

1、米国は四十年来歳と共に激甚となりつつありし太平洋上争覇戦の仮想敵なる日本をいわゆる「支那泥土中に雨足をつき込み困憊し居る」この際打倒すべしとする筆者のいわゆる「懲罰派」(「パネー」事件以来漸次顕著となり大統領付個人参謀総長「リーイー」海将を首領とせるが如し)が大統領「ルーズベルト」の周囲を取巻き暗中飛躍せる事。

2、圧倒的優勢物量を以て日本軍力を圧服せんとする米国戦略としては武器武装建造中「時」を得し事は必須条件なるを以て幸い日米会談を長期間に亙り継続せしめ以て其間所期目的の達成を企図したる事。

日米開戦前に於ける殊に三国同盟締結後、彼我国交破綻状態に入りて以来に於ける米国の対日態度は以上二個の観点より決定せられたるものとするを至当なりとせんか。右二点中後者は既に開戦後数次に亙る「ハル」声明「交渉遅延以てこの期間我方に必須なりし時を得るの利を得たり」に依って明白なり。
 尚1941年8月12日「ニューファウンドランド」沖に於て大西洋憲章作製中「チャーチル」は当時「タイ」国に於て日本が俄然優越権を確保するに及び、英国に取り極東政情が極度に危機に瀕したるを以て「米英は即時対日高圧宣言を発すべき」を以て渇望したり。其の際「ルーズベルト」は「米国戦争準備未だ完成せず、尚三ヶ月を要すべし」と言い更に「其の期間あたかも小児を操るが如く(「ベービー」)日本をあしらうべければ、暫時自分に任せ置くべし」と確信したり。更に付言すれば、かく一定方針の下に「ルーズベルト」は我国を(一字不詳)し来り、然も我方に対一歩も譲歩するの意志なかりしは12月7日深更陛下に奉りたる最後親電中に於ても(一字不詳)に11月26日、米国対日通牒に要求し置きたる「日本軍隊の仏印からの撤兵を要請し」続けたるにても明瞭なりとせん。
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2007年11月21日

GHQの日本洗脳工作3

米軍発表「太平洋戦争史」論、日支事変・三国同盟

江藤淳氏の著「忘れたことと忘れさせられたこと」の末尾付録1に、昭和20年12月8日大東亜戦争開始四周年を期して発表された、米軍司令部当局提供特別記事「太平洋戦争史」がいかに米国に都合よく、日本=悪の思想を日本国民に浸透しようとする意図のものであるかを批判する、総務局資料課の富枡嘱託の論が掲載されていますので、ご紹介しようと思います。なお、文中同文とあるのは米軍司令部当局発表の「太平洋戦争史」のことです。(旧漢字やカタカナの原文を読み易くしておきました)
写真は維新政府成立を祝う南京市民
ishinseifu.jpg

引用開始
7、日支事変
 次に米軍司令部発表同文は、1937年日支事変に論及したるも、数年に亙りて国民政府の(二字不詳)又は黙認の下に全支那に汪溢せし排日、抗日の極悪なる、遂には小学教材にも利用したる国民運動に言及する処皆無なり。然るに悪辣なる支那の排貨運動は我国対支貿易(二字不詳)を窮地に陥入れたるの結果、阪神地方の同業者は困憊の余り当局に対し対支積極的政策履行を哀訴するに至りたるとの噂ありたる程なり。
 従来、排日、親支を以て名声ある「コロンビア」大学国際政治教授「ナサエル・ベフアー」すら、昭和12年5月初旬上海に於て支那当局に警告して「目下支那人は(二字不詳)均衡を失いつつあり、今にしてこの誤謬を改めずんば、十年前満洲事変の(二字不詳)を再び繰返すの恐れあり。この際(一字不詳)るべきは果して日本なりや、支那なりやを(一字不詳)言する事難きも、余は敢えて後者なりと観ず」となしたり。

 尚米軍司令部当局の同文は、日支事変発端当初の状勢を述べ「其間一度二度妥協の機会はあったが、7月28日日本軍が北(一字不詳)に対して大規模攻撃を開始するに当りて解決の希望は遂に失われた」と書き流し盧溝橋事件突発後三週間に亙り我国が事変の「不拡大主義」を(二字不詳)し以て如何に局地解決に腐心したるかを(一字不詳)過し居れり。
 我方妥協政策は一(一字不詳)7月18日功を奏したるも、翌日北平地域第二十九軍(一字不詳)事王旅団長は国民政府軍の大挙北上援助を頼みて停戦取極を破棄するの暴挙に出で、遂に局面収拾の途なきに至りたり。
 ここに於て我政府は止む無く動乱解決のため出兵となりたるも依然として軍事的局地主義を取りたる結果帝国議会は臨時軍事予算僅か二億円を計上したるに過ぎざりしなり。尚伝えらるる所に依れば、当時御前会議に於て杉山陸相は御下問に対し事変は一ヶ月以内に終了すべきを以て御奏答申上たりと云うに於ても当初我方政策の如何に消極的なりやを覗い得べきなり。
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2007年11月20日

GHQの日本洗脳工作2

米軍発表「太平洋戦争史」論、排日移民法・満州国

江藤淳氏の著「忘れたことと忘れさせられたこと」の末尾付録1に、昭和20年12月8日大東亜戦争開始四周年を期して発表された、米軍司令部当局提供特別記事「太平洋戦争史」がいかに米国に都合よく、日本=悪の思想を日本国民に浸透しようとする意図のものであるかを批判する、総務局資料課の富枡嘱託の論が掲載されていますので、ご紹介しようと思います。なお、文中同文とあるのは米軍司令部当局発表の「太平洋戦争史」のことです。(旧漢字やカタカナの原文を読み易くしておきました)
写真は満洲皇帝即位のため龍袍を着用した溥儀
sokui.jpg

引用開始
3、排日移民法
 次に同文は、近代世界政局に於て、日米両国間相互離隔又は離反の契機として重大意義を有するに至りたる1924年7月1日排日移民法を全然黙殺せり。同法規定特に「重大なる結果」(「最後通牒」用語にして出先官憲に依る使用厳禁を犯したる埴原大使の明白なる過失)用語を口実として同案通過(筆者は三日前に用語の危険性を指摘し且つ爆発後善後策に関し大使の相談を受けたり)に関連したる米国上院の横暴は、痛く我国朝野の識者を刺戟したり。然も我が政府が隠忍、自重ただ善処せんとの努力も遂に水泡に帰するに至りたるを以て、爾来我国政府当局は勿論国内一般識者は移民問題、支那問題、比率問題其の他を網羅する広義の「太平洋問題」に於て日本は遺憾ながら一切の重要争議事件を米国と商議、談合の下に善処するの到底不可能たるを(一字不詳)得し、一度時期到来し国力充実するに至らんか、米国の好むと好まざるとに拘らず単独行動を以て解決せんと決意するの止む無きに至りたり。是を以て日米外交史上一大回転契機となす。今ここに太平洋戦争覇史を通観し、日露戦争以来歳と共に漸次加速度的に深刻の度を増加したる米国の対日圧迫政策が事ごとに我国の進路を阻害し其の進展を阻止するに在りたる事、益々明瞭たりしを想起すれば、這般(しゃはん)日本の決意は当然たりしというを得んか。・・・・
 要するに今日米軍司令部当局が「太平洋戦争史」を叙述するに当り「日本大陸政策の原動力」としての米国排日移民法に関し何等言及する所なかりしは、同文が所論の公正を欠き且つ如何に我田引水に終始せるかを例証するものとなすべし。

4、満州国
 満州国建国に関する一連の日本政策は、少なくとも従来米英両国が各々自国発展の過程として世界政局史上に印跡し置きたる国際慣例に準拠したるものというべし。即ち米国の「テキサス」国独立ならびにハワイ合併は其の先例に外ならず。但し右慣用手段に表われたる国際道義面に於ては筆者が米国に於てよく弁証、弁護し得たる所なるも、然も我国軍部に取りここに銘記すべかりし点は其の国際実行面に於ては米英両国が相互協力の下に、日独両国の如く「持たざる」後進国をして自己と同一なる国際道義を以てしても既に今日となりては発展、膨張するを許容せざる決意と武力とを有するという重大事実なりしなり。
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2007年11月19日

GHQの日本洗脳工作1

米軍発表「太平洋戦争史」論、奉天事件・比率建艦

江藤淳氏の著「忘れたことと忘れさせられたこと」の末尾付録1に、昭和20年12月8日大東亜戦争開始四周年を期して発表された、米軍司令部当局提供特別記事「太平洋戦争史」がいかに米国に都合よく、日本=悪の思想を日本国民に浸透しようとする意図のものであるかを批判する、総務局資料課の富枡嘱託の論が掲載されていますので、ご紹介しようと思います。なお、文中同文とあるのは米軍司令部当局発表の「太平洋戦争史」のことです。(旧漢字やカタカナの原文を読み易くしておきました)
写真は奉天事件、今ではスターリンの命令と言われる張作霖爆殺現場
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引用開始
 昭和20年12月8日大東亜戦争開始四周年を期し在東京米軍司令部当局は都下各新聞紙に其著述せる「太平洋戦争史」なる長文の記事を発表し[「パールハーバー」奇襲より「ミズリー」艦上無条件降伏に至るまで]の太平洋外交関係、特に日米支三国関係に関する外交を論評したり。
 其の目的とする所は「日本国民は是に依って如何にして敗れたか、又何故に軍国主義に依ってかかる悲惨な目に遭わねばならぬかを理解」せしめ、更に「是に依ってのみ日本国民は軍国主義的行為に反抗し国際平和社会の一員としての国家を再建する為の知識と気力とを持ち」得せしめんというにあり。

 然るに同文はワシントン会議以来過去ニ十余年に亙るいわゆる「極東問題」に関係する日米外交、日支状勢ならびに戦争突発の推移を叙述するに委細を極め従来唱導せられたる米国観点に準拠し、一応前掲目的達成に努めたる形跡歴然たるものあれども、然も精読検討すれば、第一次大戦終了より第二次大戦開始に至る日米支三角関係を基調とする一連の「原因結果」順環を正視せず、国際政局上に現出する不断の連鎖中に於て、専ら自己に有利なる観点に従い特殊事件のみを断片的に論過し去りたるの弊あり。即ち米支両国が「能動的」に執りたる政策に関し日本が対応策として「受動的」に執りたる所を「単独的」又は「孤立的」に指摘、特記し居れり。且つかくの如く日本の「結果的」政策を米支の「原因的」政策より分離せしめたるのみならず、是を誇称して一に日本の「自発的」なる「侵略政策」なりとする誤謬に陥れる所少なからず。
 是を要するに、高所に立ちて国際政局の全面的運行を鳥瞰眼的に洞察するの公示を欠き、前掲の如く従来米国に於ける極東問題観察の通弊たりし「原因結果」なる一連不離の連鎖を無視し、徒に日本誹謗を目的とする独善的過失を繰返したるの非難を免れざるなり。
 今同文中主要なる適例を列挙考察すれば、左の如し。
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2007年11月17日

明治初年の家庭生活

ブスケ 日本見聞記2

「ブスケ 日本見聞記(フランス人の見た明治初年の日本)」の中からご紹介しています。ブスケは1872年[明治五年]に日本政府の法律顧問として四年間滞在しました。

引用開始
 日本の家には召使いが大勢いる。そうだからといって、ひとがよくかしずかれているわけではない。「モン・バン」(門番)は道路に面した「ヤスキ」(邸)の門を守っている。男女の「コスカイ」(小使)が家内の仕事を労を惜しまずつとめている。「ベット」(別当)すなわち馬丁が馬の世話を一人一頭の割で行い、乗り手の前を全速力で息も切らずに走る。これらの者はいずれも妻子をもち主人と同じ屋根の下に住んでいる、従って最低のサムライでも自分の家の付属家屋のなかで増えてゆく人々を養っているのである。
 奉公人であることは権威を失墜することではない。奉公人は家に属するものとして扱われ、また自分もそうだと考えている。奉公人は主人に、特に子供に親密に結びついている。彼は臆せず意見を述べ、それを求められるのを待たずにすら意見を言う。彼は膝ずりして茶を進め、額を地につけて命をうける。しかし一瞬後には、荒っぽい冗談をとばし、その上それが見事に受けとめられる。あるいは陽気な会話に加わるが、静粛を命ぜられることはない。全階層別のなかで小物はその割当てられた領域では大物よりも一層気楽に動いているように見える、だから彼らはそこから抜けだそうなどとは夢にも思わないのだ。
 皆が彼らを重んずる。またそうしなければならないのだ。上の者は下の者次第だからである。密告が一般的である国では、主人の評判、秘密、生活は常にその配下の意のままとなる。柔和であることは一つの必要なのである。これはさらに一つの習慣化した上品さなのである。

 「日本は子供の天国である」と英国の旅行者サー・ラザフォード・オルコックが巧みにも言った。子供たちを見ると最もしかめ面をした顔もほころび、子供たちに対しては最もいかめしい顔もゆるむのである。子供たちに人生の初期の苦さを味わわせないように、すべてが計算されている。離乳ということは知られていない。子供たちは、彼らが走り回り、とび回り、他の食物を一層欲しがるようになる年齢まで、乳を吸うがままにされている。母親はいつでも子供たちの渇きと同時にその泣声を鎮める用意をしており、稀には乳母に助けを求める。しかし、多くの子供が、賢明な心配りが欠けているために、死んでゆく。だが献身が欠けているからではない。彼らは、生まれたその日からすでに一生涯彼らが着ることになる着物を着るので産衣の責苦を知らず、その小さい寝床の上で気楽に足をばたつかせている。  人々は子供に対しお菓子を与えないようにするすべを知らず、両親は幼いときからしてすでに将来のきつい試練に馴らそうなどという心づかいはほとんどしない。
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2007年11月16日

明治初年市井の生活

ブスケ 日本見聞記1

「ブスケ 日本見聞記(フランス人の見た明治初年の日本)」の中からご紹介します。ブスケは1872年[明治五年]に日本政府の法律顧問として四年間滞在しました。
 先ずその緒言の一部で「この好機を逸せず、まだまだ知られていないこの国民の外的及び内的生活を事実に基いて知ることができた。私は、我々の文明よりもはるかに古く、同じように洗練され、これに劣らず成熟した文明が私の眼前で花を開いているのを見た。私は、その文明の花と我々西洋文化の花との違いに心をうたれ、根元まで探り、この国の芸術的・精神的表現をこの国の構造に基いて尋ね、その国民の心理をその作品の中に求めようとするに至った。私は利害に捉われない・良心的な観察者として、この調査を体系的でもなく、また成心もなしにつづけてきた。私は自由な証人として語るのである・・・」と述べています。
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引用開始
 大川は大商業活動の舞台であるばかりでなく、大衆の娯楽の舞台でもあり、この娯楽は呑気で陽気な一国民の大きな行事であるらしい。
 最も凝った行事は両国橋のたもとで毎年6月28日に行われる大花火である。川の両岸には、夕方6時から早くも、派手な着物をきた大勢の人々が集ってくる。赤づくめの着物をき、鳥の羽で作った一種の帽子をかぶった何人かの子供が通行人の前でとんぼがえりをうってみせる。橋は人で一杯であり、左岸の本所から流れでてきた水路は船で一杯である。好奇心をそそるような仕掛けをしたアーチがつぎつぎと空に描かれるのを見るのはすばらしい。

 これらの大勢の人々を見るだけでもかくも強い喜びの印象を生むのは、この多くの人々の上にどんな不思議な威力が働いているのだろうか。日が落ち、見世物の場所が変わり、舞台はもう河岸ではなく河自体の上である。船がひしめき合い、各船は上機嫌の市民を満載している。こちらには、昨日は商売に用いられまた明日も商売に用いられる船の中に、真面目な商人一家が質素に化粧もせずに見せるためでなく見るために乗っているかと思うと、あちらには非のうちどころのないほど化粧をし素晴らしい着物をきた婦人たちが夫と共にいる。彼女らは静かに楽しんでいる。もっと遠くには、「ゲシヤ」(芸者)――舞妓――が数名きわめて優雅な無言劇を演じており、楽人が三味線で彼女らにあわせている。
 隣の船には白絹の長いマント(羽織?)を着た一人の若い男が悠々と横になり、そばでは三人の女が坐り、代わる代わる彼をあおいでいる。彼はすでに「サキ」(酒)に酔っており、目は輝き微笑をたたえ、やっと立上がって岸にある鯨幕と吹流しのはためいている茶屋に入ってゆく。夜になるとすぐに、一万か一万二千の船が、暑い夜のそよ風の下で各種各様の図柄をみせまた無数の蛍のようにゆらぐ、あらゆる形の、あらゆる大きさの、あらゆる色の提灯をかかげる。
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2007年11月15日

東京裁判弁護資料13

ローガン弁護人 最終弁論・自衛戦論「日本は徴発挑戦され自衛に起った」その3

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和23年3月10日のもので、この「自衛戦争論」は通俗の「東京裁判史観」に対する最も効率的且つ強力な反措定をなしていると解説されています。今回は最終弁論の最終部分です。
写真は起訴状朗読時の被告人席付近
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引用開始
136:日本が挑発されて、又事実自衛の為め昭和16年12月7日に行動を起したのだという主張を重要視するに当っては、被告等のかかる主張が後から考えた思案に依るものではないと云うことが留意されねばなりません。是までに述べて来た事柄は、要するに昭和13年(1938年)に始った日本に対する経済封鎖並に軍事的包囲に対して、日本の責任ある代表者により、其の都度記録された抗議に関して書かれた数多くの文書の内容に帰着するのであります。
 枚挙し得ない程の頁数に亙る証言が多くの証人に依て数多くの閣議や連絡会議や重臣会議や枢密院会議並に軍事会議に就いて為されております。而してこれ等は総て経済封鎖や軍事的脅威の及ぼしつつある結果、日本が事態を緩和すべき何等かの手段を採るにあらざれば将来も継続して生ずべき結果を中心として行われたものであります。
 しかも其の手段を日本は辛抱強く外交交渉に依て試みたのでありますが失敗に終ったのであります。輸入禁止は最初日本を憤激せしめたが、漸次苛烈き頻発及び範囲を増大するに従て苦慮の状態に陥らしめ、遂に日本は己の頸に架けられたこの締道具を外交交渉に依ては最早断ち切れる希望が断たれたと覚り、自尊心を持つ他の如何なる国民も採るに相異なかった行動に出でざるを得なかった様に仕向けられたのであります。其の発生の都度記録せられ、充分に立証されているこれ等の事実は、昭和16年12月8日に煥発された詔勅に要約され、日本が自衛のために採った行動なることが示されているのであります。
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2007年11月14日

東京裁判弁護資料12

ローガン弁護人 最終弁論・自衛戦論「日本は徴発挑戦され自衛に起った」その2

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和23年3月10日のもので、この「自衛戦争論」は通俗の「東京裁判史観」に対する最も効率的且つ強力な反措定をなしていると解説されています。
写真は空母赤城から出撃する真珠湾攻撃隊
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引用開始
8:検事側は連合国は日本に対して専ら軍用品供給の削減を目的とする経済封鎖を行ったと申立てて居りますが、証拠はこの経済封鎖が、日本民間のあらゆる種類の物品や貿易、更に追て明らかにします如く、食物にまで影響しいた事実を物語って居ります。

9:これは一国家を圧倒的優勢の船舶を以て包囲しその貿易の自由を奪う従来の封鎖の方法以上のものでありました。即それは経済的に有力、且つ非常に優越せる諸強国が、その存立並びに経済を世界貿易に依存する一箇の島国に対して採った行動であったのでありました。

10:メリカが採った行動は、起訴状に於て告訴せられております如く、日本の対中国侵略を抑制する手段であるとして正当化しようとする検事側の理論に対しまして、日本側は欧米諸国が東洋に於ける実状を理解することを拒んだのであるという声明を以て、断乎これに答えて居ります。
 一国の主張するところが正しかったか否かを論じますことは重要でなく且不必要であります。証拠としての実際の価値は次の事実にのみ存するのであります。即ち、日本と欧米諸国との間に正当な論争点が存立したという事――即国家主義的な考え方からでありましょうとも、そうでない考え方からでありましょうとも、何れにいたしましても日本が脅迫威圧せられて居ったという結論に到達せしめうる問題――が実際に存立した事を示すことに証拠の価値は存するのであります。もしこの敗戦国政府の指導者達が、日本は脅威せられて居るという概念を抱きました事に対し、その当時、正当な根拠があったのでありますならば、一国家が危殆に置かれた場合は、自衛の為の決定権を有するという諸国家一致せる国際的発言に従って、侵略という要素は消散するのであります。
 この点を念頭に置きまして、我々は一歩進んで聨合国の対日経済活動を指摘致し法廷の御参考に資したいと存じます。而して我々は独り彼等のこの経済活動に関して事実を明らかにしますばかりでなく、更に進んで同じく聨合国の対日提携軍事活動について明らかに致すでありましょう。
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2007年11月13日

東京裁判弁護資料11

ローガン弁護人 最終弁論・自衛戦論「日本は徴発挑戦され自衛に起った」その1

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和23年3月10日のもので、この「自衛戦争論」は通俗の「東京裁判史観」に対する最も効率的且つ強力な反措定をなしていると解説されています。
写真は日米交渉時の野村、ハル、来栖
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引用開始
1:日本が真珠湾を攻撃し、太平洋に於ける公然の戦争行為の開始を告げた時より13年前、アメリカに於きましては著名なる政治家の一団が、今は有名なケロッグ・ブリアン平和条約に対しアメリカがこれを批准することの是非を議する為にワシントンの国会議事堂に集まって居ったのであります。そしてこの一団中には同文書共同草案者の一人たる時の国務長官フランクB・ケロッグその人が交って居りました。

2:その時に行われました審議は議事録に収められ居るのでありますが、その審議の進行中、ケロッグ長官は「国家が攻撃されるのではなくって―経済封鎖を受けるとしたら――?」という質問を受けました。ケロッグ長官は「戦争しないで封鎖などということはありません」と答えました。その時一上院議員が「そういう事は戦争行為です」と云いますと、ケロッグ長官は「断然戦争行為です」と云ってこれに同意しました。

3:同じ会議中、ケロッグ長官は上院議員一同に対して次の如く述べました。「先にご説明申上げました通り、私は今日、或る国家にとって回避することの出来ない問題である、[自衛]若しくは[侵略者]という語についてこれを論じ定義する事は、地上の何人と云えども恐らく出来ないであろうと思うのであります。そこで私は次の結論に達したのであります。即唯一の安全な方法は、どの国家も、自国が受けた攻撃は不当なりや否や、自国が自衛の権利を有するや否やを自国の主権に於て自ら判断することであって、ただこれに就いては、その国家は世界の輿論に答えなければならないという事であります」
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2007年11月12日

東京裁判弁護資料10

ローガン弁護人冒頭陳述「太平洋段階第二部・日本に対する聨合国の圧迫」

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和22年8月4日のもので、結果は全文朗読です。
写真は日米交渉に政治生命をかけた近衛
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引用開始
 我々は法廷に対し次の如き供述を致し、これにより日本に対する聨合国側の圧迫に関する日本側の見解についての証拠を爾後我々が提出します時、これを法廷御一統が充分に御了解下さいます事を希望いたします。我々の第一の目的は、次の事実を証明することであります。即ち、先ず欧米諸国は、日本の権利を完全に無視して無謀な経済的立法を行う事、又、真珠湾に先立つ数年間、右の諸国は、故意に、計画的に、而して共謀的に、日本に対して経済的軍事的圧力を加え、しかも、その結果が戦争となることは充分に承知であり、そう言明しながら、彼等が右の行動をとったという事実であります。又肯定的弁護として次の事実が証明されるでありましょう。即ち、情勢はいよいよ切迫し、益々耐え難くなったので遂に日本は、欧米諸国の思う壷にはまり、日本から先ず手を出すようにと彼等が予期し、希望した通り、自己の生存そのもののために、戦争の決意をせざるを得なくなったのであるという事実であります。

 その結果から見て、かくの如き希望が果して正しかったか否かということは、将来の歴史のみが大局的に判定するでありましょう。今ここで我々が問題とするのは、日本を遮二無二戦争に駆り立てるために用いられた手段であります。・・・・・
 1911(明治44)年以来日米両国間に結ばれて来ました通商航海条約は1939(昭和14)年米国側の廃棄するところとなり、1940(昭和15)年一月を以て失効することとなりました。対日物資輸出禁止は米国の政策の一つとして採用されました。月を経る毎に益々多くの品目がこのリストに付加されました。かかる差別待遇に対して日本側からは厳重な抗議がなされました。米国軍部と国務省官辺とは日本に対する措置について屡々意見を異にしながらも協力して事に当りました。1941(昭和16)年7月26日の最後的対日経済制裁を米国大統領が真剣に検討していた時、彼はかかる措置の当否について軍部首脳の意見を求めました。これに対する軍部の答申は断然「対日貿易はこの際禁止すべからず、もし禁輸を行えば、恐らく極めて近い将来に於て日本はマレー及びオランダ領東インド諸島を攻撃するに至り、而して恐らく米国を近い将来に太平洋戦争の渦中に投ずることとなるであろうから」というのでありました。
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2007年11月10日

東京裁判弁護資料9

カニンガム弁護人冒頭陳述「太平洋段階第一部・三国同盟」

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和22年6月12日のもので、結果は全文朗読です。
写真はヒトラーと握手する松岡
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引用開始
 1940年9月27日、日、独、伊間に三国同盟が締結されました。
 検察側では、これが1938年及39年に右の参加国間に試みられたいわゆる「防共協定の強化」のための交渉の延長或は復活であり、この盟約はその本質において世界分割といわゆる「新秩序」の建設をめざす侵略国の計画の最後的発展を包含していると主張しました。若し許されるならば我々は、以下の事実を証明したいと思います。
第一に日本政府は「防共協定強化」の交渉を完全に打切った事。
第二に、独ソ不可侵条約が1939年8月23日締結され、これが日本にとって大きな衝撃となり、ために平沼内閣が倒れた事実であります。
 その結果日独関係は完全に打切られたのであり、ドイツのこの背信に対する日本政府及び軍部の非常な憤激と焦慮がこの関係破裂の原因でありました。日本と独伊二カ国との関係には検察側の主張されるような連関性はありません。これは決定的に証明されるでありましょう。

 右の事実は平沼内閣に次いだ阿部、米内内閣が外交方策の根本目標を日米関係の向上においた事実を示す書類を提出することにより確証されるでありましょう。彼等はこの目的達成のため全力を尽したのであり、日独関係はその間非常に冷淡でありました。合衆国はこの日本の努力に報いず、日本に対する合衆国その他諸国の経済的圧迫は日米通商条約の期限満了と共に強化されました。・・・・
 検察側は、三国同盟の目的が、いわゆる「新秩序」の建設、即ち世界から民主主義を消滅せしめ、侵略国による世界諸国の征服にあったと主張されました。
 この罪状の反証として、次の事実が証明されるでありましょう。即ち日本政府は、三国同盟を世界平和維持のため、自衛的、平和的目的を以て締結したという事実であります。日本の終局の目的は、世界各国、殊にアメリカ合衆国と、平等及び相互的尊敬の基礎の上に立つ友好関係を促進することでありました。日本は、この目的達成の第一歩として、当時日本が直面していた国際的孤立から脱却して、その外交的位置の退化を防ぐことが必要であると考えました。日本がアングロ・サクソン系諸国に対する接近政策に失敗し、アメリカの圧力増大の結果、完全な国際的孤立に陥る危険をみてとり、日本は、終局の目的、即ち日米国交の調節は、先ず第一に日本の国際的位置を改善する事なくしては、不可能であるという結論に達せざるを得なかったのであります。
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2007年11月09日

東京裁判弁護資料8

ラザラス弁護人冒頭陳述「対ソ関係」

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
 ここでは、検察側証人に対する弁護側の反対訊問の機会が全く与えられないこと、従って偽証を追及することが不可能であったことなどが記録されています。
これは昭和22年5月16日のもので、結果は全文朗読です。
写真はノモハンでの現地停戦交渉
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引用開始
 弁護団は今や本裁判の一部門たるソ連邦より提出された訴追に対する証拠を挙げようとします。その訴追は政治的並軍事的侵略に対するものでありまして、
 第一に政治的面としまして、防共協定締結が侵略であると訴えられて居ります。
 第二に軍事的面として1938年のハサン湖(又は張鼓峰)事件<1939年のハルヒン・ゴール(又はノモハン)事件及他の時期に於ける対ソ軍事侵略計画が挙げられて居ります。
 弁護は対極的に見て1928年より1945年までの日本の対ソ外交、軍事政策の流れは防御的であったと云うことであります。即ち国境不安に基づく軍事衝突は単なる偶発事件であり、計画的侵略の結果ではなく大流に反流する小波であるのであります。
 証拠の細部に入るに先立ち我々の立証すべき本件の非常に不満足ないわば無形な事件の性質を先ず指摘します。

 我々は自らでなく口供書によって証言して居る多くの証人の証言に直面して居ります。と申しますことは人類の虚偽に対する最も有力な武器である反対訊問の機会を全く与えられていないということであります。
 これ等証人の中の或るものは死亡したと言われるでありましょう。又他のものは証言をした時はソ連に対する「罪」を侵したと称せられて拘禁又は取調中であり、又他のものは通常の戦時俘虜であると言われて居ります。これ等俘虜は帰国させられて居れば反対訊問に付することが出来るのでありますが、終戦後二十一ヶ月経ったにも拘らず未だ日本へ帰国させられて居りません。一例に於ては証人を提出せよとの裁判所の直接命令に対し証人も回答も出ていない場合があります。・・・・
 唯の一回といえども裁判所は弁護団のためにソ連管理下の証人の出廷を求める呼出状を発しても成功したことは遂にありません。・・・・
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2007年11月08日

東京裁判弁護資料7

ラザラス弁護人冒頭陳述「支那段階」

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和22年4月22日のもので、結果は部分却下(朗読禁止)です。
第一部門は盧溝橋に関するもので、これは以前に
当ブログでも詳細にしておりますので、裁判の焦点となるような部分だけにします。第二部門は共産党に関するものです。
写真は盧溝橋で凱歌を上げる日本軍
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引用開始
第一部門 盧溝橋事件及び日本の不拡大方針
 1937年7月7日午後11時40分、盧溝橋付近通称マルコ・ポーロ橋の地点にて演習中の日本軍一部隊は龍王廟に於て中国軍の射撃を受けました。当時日本軍及び現地中国地方官憲が事態を迅速に且つ局地的に解決せんと努めた事実は証拠により証明される筈であります。
 北支に於ける日本の駐兵は1900年の北清事変に関連する列国共同公文の第九条並に義和団事件議定書の第九条に基くものであります。而して日本軍がこの種の演習をなす権利は1902年の天津還付に関する日支間の数次の交換公文により認められております。これは大要次の如き趣旨のものであります。
「外国軍隊は教練、射撃又は演習をなすの自由を有す。但し、小銃又は大砲を発射する場合に於ては、事前通告を為す事を要す」。・・・・

 もし続いて7月25日に郎坊事件が起らなければ、事態はこれだけで解決したであろうと思われます。・・・・
 次いで7月26日いわゆる広安門事件なるものが起りました。・・・・
 証拠により明らかとなる如く、7月27日、日本駐屯群は事態の平和的解決にあらゆる方策を尽したが、ことここに至っては戦闘をなす以外に途がないという旨の声明をなしました。同日東京に於ても内閣書記官長が同様の声明を発しました。これら声明に於て、日本の敵とする所が中国軍のみであって、決して中国人民ではない旨が明らかにされました。
 更に、右声明は日本軍の意向が、迅速なる平和及び秩序の回復、第三国権益の尊重、及第三国国民の生命、財産の保護にあることを指摘しています。日本が北支に何ら領土的野心を有していなかったことも亦それによって明瞭であります。
 ここまでは、日本の行動は北京及び其の周辺の地域に限られて居ったのであります。7月2日に通州事件が勃発し二百名の邦人居留民が中国保安隊の手で虐殺されました。同日、塘沽及び天津所在の日本軍も亦、攻撃を受けましたことは証拠によって示さるる通りであります。右諸事件の結果、本事変は、はしなくも該地域にまで拡大されたのであります。七月を通じて、事変を局地的に止めんとする日本側の意向及び努力には何らの変りもありませんでした。7月11日の協定を再三蹂躙しましたのは実に中国側でありまして、日本側軍事行動は、追って立証されますように、さきに列挙せる何れの事件に於きましても、全て純自衛的性質のものでありました。
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