今回ご紹介する「ドイツ歴史学者の天皇国家観」の原著者ルートヴィッヒ・リースは、東大から招聘を受け、明治二十年(1887年)二月に横浜に到着し以来、明治三十五年七月まで、今日の東京大学史学科で歴史を学を講じた人物です。
本書ではドイツ人を対象とした日本紹介のために書いた論文が中心となっています。
写真はロシア皇太子

引用開始
明治二十四年五月十一日、訪日中のロシア皇太子を日本人巡査が襲撃した事件の概要は次の通りである。・・・・
京都から二マイル半ばかりのところにある大津駅目指して出発したが、それは山並みに囲まれた大きな湖、琵琶湖の素晴らしい景色を大津から展望するためであった。五月十一日の正午、一行は最初用意されていた知事の車を使うのをやめて、人力車で湖に向った。・・・山間の道幅は狭く、また本道からそれた場所にある名所旧跡に立ち寄るためにも、この乗物のほうが便利であり、だからこそ皇太子はこの交通手段を選んだのであった。・・・
警備の巡査が立ち並ぶ通りをこれらの小型蓋車の行列は大津の市街から郊外の美しい自然の中へと進んで行った。・・・数キロ進んだあたりで、道端に立っていた巡査の一人がサーベルを振りかざして皇太子の車に駆け寄り、左側から彼の頭上に一太刀くわえた。巡査の名は津田三蔵である。・・・
機敏な車夫は向ってくる巡査の足に果敢にタックルし、サーベルが打ちおろされんとする刹那、彼を地面に押し倒したのである。サーベルは皇太子の頬骨と頬をかすり、ふた筋の浅い傷跡を残したが、骨にはなんら異常はなかった。この勇敢な車夫は倒した相手のサーベルをすばやく拾い上げると、急所をそらして彼の頸部に思い切り二太刀をくわえ、さらに背中にも傷を負わせて巡査を叩きのめした。・・・
電信でこの凶行の知らせを受けた天皇は、ただちに特別列車をしたてさせて侍医を京都に遣わせた。・・・翌日の五月十二日朝六時、天皇は負傷したロシア皇太子を自ら見舞うため特別列車で京都に向った。・・・・
以前から日本ではこのような狂信的な犯行によって多くの外国人が殺傷されてきたが、明治二十一年以来ふたたび排外的世論が勃興、明治二十三年九月十一日条約改正反対の列国声明が出されるに及んでそれは全国に広まった。学校の生徒や大学生の乱暴狼藉に始まり、公の集会における狂信的な演説、さらには新聞のしばしば声高な誹謗に至るまで、外国人排撃の運動はとどまるところを知らなかった。・・・・
新聞を通じて人々の怒りはまさに爆発寸前であった。そして津田三蔵のような人物に対して、新聞のこのようなアジテーションがいかなる効果を及ぼしたかは想像に難くない。津田は生粋のサムライの生まれで、二十四歳にして西郷の反乱の鎮圧に当って功をあげ、勲章を得たほどの勇敢な兵士であって、その彼が悪意に満ちた新聞報道に煽動され、人気のない山間の警護地点で憂国の念に駆られて凶行に及んだとしてもなんら不思議はない。・・・・
続きを読む