2007年10月12日

仏大使と排日移民法

フランス大使から見た米国の排日移民法

 これも戦後GHQが日本国民に発表した「太平洋戦争史」では隠された部分です。
 話は代わりますが、Google で「アサヒる」は今70万件を越える検索結果になっていますが、「朝日 捏造」では150万件もあるんですねー。相当な数の人が朝日を信用していないということですか。やはり物事は多面的に見る習慣をつけないとだめということでしょう。

今回ご紹介する本「孤独な帝国 日本の1920年代」は、1921(大正10)年から27(昭和2)年まで駐日フランス大使を勤めたポール・クローデルの書簡を抜粋したものです。
 ワシントン会議以降の日本人の困惑とフランスから見る世界情勢の中の日本がよく分かる内容です。
写真は1924年5月の米国排日移民法の抗議デモ
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引用開始
1924年4月23日
 日本にとってアメリカは太平洋を挟んだ隣国であり、渡航しやすく、土地も肥沃ですから、日本人は大挙してカリフォルニアに移住しました。やがて彼らはアメリカ経済にとって重要な地位を占めるにいたり、それがかの地の政治家たちの憂慮するところとなりました。
・・・・日本人は畑仕事に専念しました。野菜を集約栽培するには根気が必要で、島国の帝国のなかでは、農作業はすべてたんねんに行われていますから、農業の分野では日本人は他の追随を許さないのです。・・・・
 この成功がアメリカの農家に嫉妬を呼び起こしました。アメリカ農民にもいいところはありますが、だいたいが節約家であるとか働き者であるとは言いがたいのです。・・・・・
 まもなく、州のなかで中国人に対してとられていた措置が、日本人にも適用されるようになりました。それだけでは不充分とみえ、この問題は国会に諮られました。こうした状況の下で、ルーズヴェルト大統領がこの問題に関心をもち、1907(明治40)年にルート国務長官と高平氏のあいだで覚書が交わされたのです。今日まで秘密裏に保たれてきた紳士協定ですが・・・・日本が自国に強いられた義務を立派に果たし、この協定の調印後カリフォルニアへの肉体労働者の移民がほとんどなくなったことには、疑問の余地がありません。・・・・

 それでもカリフォルニアの煽動家たちは攻撃をゆるめず、ハースト系の新聞が煽りたて合衆国全土で猛威を振っている反日感情を利用して、アジアの移民に対する一連の措置をとらせることに成功しました。その措置の影響がさまざまなところにまで及んでいます。日本人の子供たちが公立の学校から締め出されました。1920年11月2日の住民投票の結果、日本人はアメリカで土地の所有者となることができなくなりました。ついには最高裁判所までが、憲法に照らして、アジア人はアメリカ人になることはできず、優遇措置の適用は白人と黒人に限られるとの判断を下したのです。・・・・・
以上が現在の情勢です。
・・・・日本に対してアメリカ人が感ずる友好的な感情は、軽蔑の混ざった寛容さなのであり、これとはまったく逆に、すべてのアングロサクソンの心のなかに、機会さえあれば爆発しかねない激しい感情があるとすれば、それは皮膚の色に対する偏見なのです。・・・・・
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posted by 小楠 at 07:12| Comment(2) | TrackBack(1) | 書棚の中の国際関係