2007年10月05日

支那事変前の米中日5

元中国駐在米国公使のメモランダム5

日清、日露の戦争以後、植民地獲得競争に遅れをとっていた米国は、アジアに残された地域、満洲の権益獲得に照準を合わせていました。その障碍となっていたのが日本です。このことを前提としてマクマリーのメモランダムをお読みになると、当時のアメリカの政策と、平和が失われていく因果関係がより理解できるでしょう。

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。今回は済南事件と、中国の日清条約廃棄宣言についての記述の部分です。
写真は済南の位置を示す地図
mac06.jpg

引用開始
 済南は当時日本の巨大な権益が集中していた所であり、重要な鉄道分岐点でもあった。この鉄道線路沿いに国民党の北伐軍が、北京ならびに華北の征服をめざして進軍していた。
 どれほど多くの口実や挑発があったにせよ、少なくともそこには、こうした予防措置を正当化するだけの有力な日本の利権が存在していた。日本政府は米英両国と異なり、国民党軍の進撃路から避難するようにと居留民に勧告はしなかった。日本は条約上の権利に固執し、米国にとっての上海・天津と同じように、日本にとって重要なこの地帯の居留民が攻撃されることは絶対許さないとの態度を決めていた。日本のこの姿勢は色々に解釈された。中国駐在の他の列強諸国の代表たちにとっては、自分たちができないことが日本にはできるという立場が羨ましい限りであった。また北伐中に外国の教会施設の財産を没収したり、外国人の生活を無視して理不尽な態度をあらわにしている得意満面の国民党軍を、日本軍が寄せつけないのも他の列強には羨望の的であった。・・・・

 最悪の事態がとうとう起きた。蒋介石軍の先遣部隊が日本軍と衝突し、小規模ながら激烈な戦闘が続いた。(1928年5月の第二次山東出兵となった「済南事件」)。このとき日本軍は、事態を局地戦にとどめて戦いを終結した。国民党もその戦略を変更し、済南を迂回して、北方への鉄道と連結している支線を使って北上した。中国側のこの作戦は成功して北京への進軍も軌道にのり、やがて国民党が華北の支配者となった。しかし中国はこの事態をきびしく受けとめ、日本軍の行動を敵対的干渉とみなして激烈な抗議の声を上げた。・・・・
 日本軍が、済南の居留民に適法な保護を与える過程で起こった事態は、神の恩寵がなければ、上海か天津で我々アメリカ国民に起こったかもしれないことと少しも変らないはずのものだった。・・・・
 この事件で最も現場の近くにいた外国代表団の人々は、米国の極めて有能な済南領事も含め、日本軍が自国居留民の生命・財産保護のために、その任務を達成するべく誠意をもって行動したものと信じていた。ところが、日本に対して新聞の報道はきびしく、特にアメリカではひどかった。・・・・アメリカ人は中国国民党を、自分の理想を具現する闘士のように、肩入れしていたのである。・・・・
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posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係