2007年10月01日

支那事変前の米中日1

元中国駐在米国公使のメモランダム1
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「平和はいかに失われたか」という本からの掲載ですが、「はじめに」の部分を要約しておきます。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。
 マクマリーは若い頃中国に勤務し、ワシントン会議(1921〜22年)にも参加して、1920年代前半のアメリカでは、中国問題の最高権威の一人と考えられていた。ところが、1925年に中国駐在公使として着任以来、ワシントンの本省としばしば衝突し、1929年に辞職し、その六年後に書かれたのがこのメモランダムです。
写真はジョン・アントワープ・マクマリー
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引用開始
中国激動の期間
 ワシントン関税条約の諸規定を実施するため北京で開催された「特別関税会議」当時(1925年の秋)、中国人の気分は、ワシントン会議の精神に対してはかなり敵対的なものになっていた。中国における全政党各派に実際に浸透していた感情は、中国の急進的な代弁者ともいうべき陳有仁の最も辛辣な発言に代表されていたとしてもあながち間違いではないだろう。すなわち(彼の言葉を引けば)、列強諸国が中国の門戸開放と領土保全の原則を述べるのは、かつての偉大さで知られ、そしてふたたび新しい力を意識し始めた中国人民を、かえって侮辱するものであると公言したのである。

 関税会議は、中国の政治指導者たちがリードして討議が始まった。この指導者たち(例外的には高潔ではあるが無力な人もいる)は、拝金思想をおさえるほどの熱烈な理想主義者でもなかったけれど、おしなべて自国の国際的な義務を極端に無視し、激しい挑戦的な態度をとった(もっとも賄賂を峻拒するほどの熱烈な理想主義は欠けていたが)。
 この人々にとってこの会議は、外国人とその権利に対する侮蔑の念を派手に演出してみせて、自らの個人的な政治的運命を向上させる絶好の機会にすぎなかった。会議の議題そのものも、中国人議長の裁量によって会議招集の根拠となった条約を無視して進められる始末だった。ワシントン会議が、この北京会議に決定を委ねていた「調査委員会」設置の問題を、議題にのせることも拒否してしまった。それでいて中国は一方で「関税自主権」(これによって、当然のことながら列強諸国は関税率並びに通関管理に関する特権を完全に放棄することになる)を主張していた。
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posted by 小楠 at 07:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係