2007年10月08日

アサヒるの効用

着実に朝日新聞の不買を拡大しましょう。
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左から「朝日新聞の戦後責任」「朝日新聞の戦争責任」「朝日が明かす中国の嘘」

今日はネットで話題の「アサヒる」についてです。
9月25日以降、「アサヒる」という造語が物凄い勢いで話題になり、本日Google で検索すると、何とすでに60万件ものページに渡って使われているようです。
私もこの「アサヒる」を会社の勉強会で、雑談として話してみました。
今まで朝日新聞やTVアサヒの卑劣な報道は、何回となく話してきましたが、「アサヒる」という言葉ができたお陰で、先ず相手に興味を持たせるのに非常に便利になりました。

 「『アサヒる』って知ってる?」 と問うだけで相手は???と知りたがります。そこで、アサヒるの意味は、捏造する、虚偽報道をする。印象操作をする、歪曲する、などであることを伝えて、「Google で検索してごらん」、と仕向けますと、検索した人は先ず、余りにも件数が多いのに驚き、次々とページを見て行きます。そして出てくる言葉は「ふーん、やっぱりねー」がほとんどです。皆さん何となくは朝日の卑劣さを感じているのでしょうが、様々なページを見て、朝日の程度の低さを再認識するのでしょう。
 そこで、今朝日新聞を購読している人またはご家族に、毎日嘘を読まされているんだから即刻購読を止めた方がいいと進めます。
 先日の勉強会では、腹を立てて、すぐ止めると言った人が23人おりました。
 日本人の敵「朝日新聞」の部数をこうして減らせれば、私としても満足です。

 勉強会はグループに分けてやっておりますので、他の何組かのグループでも、このようにしたいと思っています。
 これは朝日に限らず、今の日本のほとんどのマスコミは、民意とは関係なく、自分達の思想の通りに国民世論を誘導しようとして、印象操作のために捏造、歪曲その他何でもありの横暴を続けています。それを鵜呑みにする国民にも大きな責任があるでしょう。その点ネットでは、マスコミが意図的に隠蔽している事実も数多く発表されておりますから、マスコミの報道をネットで検証してみる態度が大切でしょう。

 先日の沖縄問題について聞かれた場合には、平成18年8月27日の
照屋昇雄氏の証言
をプリントして渡すことにしています。
 今ではすでに「軍の命令」を「軍の関与」という言葉にすり替えることが行われていますので、これも昔からの朝日の「アサヒる」手口だということを知っておきましょう。
あッ、「アサヒる」は、嘘の上塗りという意味にも使えますね。
 それにしても「アサヒる」は便利な言葉ですねー。
posted by 小楠 at 10:56| Comment(10) | TrackBack(2) | ネットネタから

2007年10月07日

支那事変前の米中日7

元中国駐在米国公使のメモランダム7

 マクマリーの見解の正しさは、日米戦争後に描かれた世界の勢力図にそのまま現れています。おまけに欧米が守ろうとした植民地権益は全て無となり、英米は新たに、より強大な共産国をのさばらせる結果となり、防共の砦であった日本を無力にした結果、多大な犠牲を伴った朝鮮戦争が勃発する事態を自ら招くことになります。
 結局アメリカは戦闘に勝利しましたが、戦争目的では敗れたことになったため、「あの戦争は何だったのか」というようなことになったのでしょう。

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。最終回は対日戦の愚かさについての記述の部分です。
写真はパリで日本の満洲撤兵勧告可決の連盟理事会
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引用開始
 日本の徹底的敗北は、極東にも世界にも何の恩恵にはならないだろう。それは単に、一連の新しい緊張を生むだけであり、ロシア帝国の後継者たるソ連が、日本に代わって極東支配のための敵対者として現れることを促すにすぎないだろう。・・・・こんな戦争でアメリカが勝ったとしても、その成果は恐らくソ連が独占してしまうことになる。
 日本に対する米国の勝利は、極東での障害要素であった日本が排除されて、リベラルな路線での米中間の緊密なる理解と協力に役立つ機会が大いに開けていくと予測する平和主義者や理想主義者がいるかも知れない。しかしそれは思い違いである。中国人は、過去も現在も未来も、外国を野蛮な敵と常に見なしており、外国を競り合わせて利を得ようとしてきた。外国のうちで一番成功している国が尊敬されるが、その次にはたちまち引きずり落とされてしまうという始末である。最近における中国国内の政治の紛争と混乱の歴史に集約されるように、ある特定の指導者と組んで権力を握った連合勢力は、そのリーダーに忠実な少数派とそうでない多数派に分裂する。多数派は新しい勢力を結成して、指導者が力を持ち過ぎる前に彼を失脚させ、他の誰かと入れ替えるのである。・・・

 ワシントン会議、北京関税会議および米中関税条約に関する我々の経験からすると、中国が、日本の拘束から解放されることについて米国に恩義を感じるとは考えられない。中国人は我々に何も感謝しないだろうし、我々の意図が利己的でないとは信じないだろう。そして、我々が果たすべき責任については、きっちりと我々に迫ってくるに違いない。
 よく見ても、日本との戦争は何の利益も得られないし、どう転んでも巨大な犠牲と危険を必ず伴う。したがってこのような戦争の回避自体が、我々の最も重要な目標であることを認識しなければならない。それは、我々が極東で行動するについて、単に付随的に考慮すべきことなどではない。・・・・
 日本は極東において我々とずば抜けた利害関係のある国の一つとなってきた。日本は我々の信頼を裏切り、中国の舞台から我々を追い出してしまったとこちらでは思っているのだから、これはあまり気持ちのよい関係ではない。我々が、そう感じるのにもはっきりした理由があるが、日本がそうなった状況を酌量して考えれば、もう少し寛大であってよいかもしれない。
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posted by 小楠 at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2007年10月06日

支那事変前の米中日6

元中国駐在米国公使のメモランダム6

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。今回は張作霖親子や中国人についての記述の部分です。
写真は左 長学良、右 蒋介
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引用開始
 長学良は、1928年に政権について以来、父の張作霖が長年やっていたことをまねて来たのだが、ソ連とのこの事件(ソ連を東支鉄道から追い出そうとした事件)においては、国際的な注視を引いただけ力の限界を越えてしまったようである。日本にとって死活的な利害関係のある満洲地域を私領として支配していた張老将軍は、頑固すぎて反感を買うと、いつでも表向きは抜け目なく善隣友好の政策を打ち出し、裏では譲った利益をそっと帳消しにするといったやり方をずっととっていた。
 張将軍の機略は抽象的もしくは理論的な性格のものではなく、極めて実践的なものであった。彼自身、北京から華北を支配していたころ、自分が馬賊の頭領時代に学んだずる賢さをむしろ機嫌よく自慢していたものだ。彼の部下たちは外国公使館の友人に、老元帥が日本人を手玉にとる利口さを、むしろあっけらかんと話していた。
 たとえば、鉱区使用料等について条件を定めた上で、日本のある企業に鉱山採掘権が与えられたとする。まもなく、既定の鉱区使用料以上の取引があるとわかると、使用料値上げの要求がなされる。そして日本側がこれを拒否すると、どこからとなく馬賊が近辺に出没して鉱山の運営を妨害し、操業停止に追い込まれる。そうなると日本企業も情勢を察知し、もっと高価な鉱区使用料を支払うと自発的に申し出る。双方が心底からの誠意を示し合って新しい契約が結ばれる。その後馬賊は姿を消すといった具合である。

 中国人自身の証言によると、満州における日本の企業は、事態を安定させておくという満足な保証すら得られず、次々と起こる問題に対応しなければならなかった。しかし日本人は、張作霖をよく理解し知恵を競い合った。そして西欧化した民族主義者タイプの指導者、例えば郭松齢のような人より、張将軍の方が日本の好みには合っていた。だから、1926年の郭松齢の反乱では、日本が張将軍の方を支援し、郭の反乱は鎮圧されてしまった。
 そこまでは理解可能である。分からないのは、なぜ日本人ガ、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ――、1928年に張作霖を爆殺したかということである。
(これは最近、ユン・チアンの著『マオ』によって、スターリンの仕業であるとされている。)
 なぜなら張作霖の当然の後継者は、息子の張学良であったからである。
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posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2007年10月05日

支那事変前の米中日5

元中国駐在米国公使のメモランダム5

日清、日露の戦争以後、植民地獲得競争に遅れをとっていた米国は、アジアに残された地域、満洲の権益獲得に照準を合わせていました。その障碍となっていたのが日本です。このことを前提としてマクマリーのメモランダムをお読みになると、当時のアメリカの政策と、平和が失われていく因果関係がより理解できるでしょう。

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。今回は済南事件と、中国の日清条約廃棄宣言についての記述の部分です。
写真は済南の位置を示す地図
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引用開始
 済南は当時日本の巨大な権益が集中していた所であり、重要な鉄道分岐点でもあった。この鉄道線路沿いに国民党の北伐軍が、北京ならびに華北の征服をめざして進軍していた。
 どれほど多くの口実や挑発があったにせよ、少なくともそこには、こうした予防措置を正当化するだけの有力な日本の利権が存在していた。日本政府は米英両国と異なり、国民党軍の進撃路から避難するようにと居留民に勧告はしなかった。日本は条約上の権利に固執し、米国にとっての上海・天津と同じように、日本にとって重要なこの地帯の居留民が攻撃されることは絶対許さないとの態度を決めていた。日本のこの姿勢は色々に解釈された。中国駐在の他の列強諸国の代表たちにとっては、自分たちができないことが日本にはできるという立場が羨ましい限りであった。また北伐中に外国の教会施設の財産を没収したり、外国人の生活を無視して理不尽な態度をあらわにしている得意満面の国民党軍を、日本軍が寄せつけないのも他の列強には羨望の的であった。・・・・

 最悪の事態がとうとう起きた。蒋介石軍の先遣部隊が日本軍と衝突し、小規模ながら激烈な戦闘が続いた。(1928年5月の第二次山東出兵となった「済南事件」)。このとき日本軍は、事態を局地戦にとどめて戦いを終結した。国民党もその戦略を変更し、済南を迂回して、北方への鉄道と連結している支線を使って北上した。中国側のこの作戦は成功して北京への進軍も軌道にのり、やがて国民党が華北の支配者となった。しかし中国はこの事態をきびしく受けとめ、日本軍の行動を敵対的干渉とみなして激烈な抗議の声を上げた。・・・・
 日本軍が、済南の居留民に適法な保護を与える過程で起こった事態は、神の恩寵がなければ、上海か天津で我々アメリカ国民に起こったかもしれないことと少しも変らないはずのものだった。・・・・
 この事件で最も現場の近くにいた外国代表団の人々は、米国の極めて有能な済南領事も含め、日本軍が自国居留民の生命・財産保護のために、その任務を達成するべく誠意をもって行動したものと信じていた。ところが、日本に対して新聞の報道はきびしく、特にアメリカではひどかった。・・・・アメリカ人は中国国民党を、自分の理想を具現する闘士のように、肩入れしていたのである。・・・・
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2007年10月04日

支那事変前の米中日4

元中国駐在米国公使のメモランダム4

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。今回は米国の国際協調放棄を記した部分です。
写真は昭和二年の南京日本領事館掠奪の跡
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引用開始
 結局のところ、南京事件全体の処理の仕方は、当時の状況や中国人の心理を我々が理解しての現実主義よりも、我々の寛大さを裏書きすることとなった。それは“帝国主義列強”を威嚇しその尊厳を傷つけるような暴力が正当化されるという、国民党の思い上がりに迎合する結果となった。
 国民党は、他の諸党派との散発的な戦闘や騙し合いをくりかえしながら、揚子江流域でその勢力を固めつつあった。外国人やその権益に対する暴行もしばしば見られた。一方では、北方党派がいままで通り国家としての政府機能を有すると自称して、条約締結国の法的地位について、国民政府とあまり変らない恣意的なやり方で論争を続けていた。

 1926年の秋、“1865年のベルギー条約”に、十年期限の一区切りが到来し、ベルギー政府は、形式的には一方通告できる片務条項に従って、改正のための交渉を申し入れることになっていた。ところが、当時北京を支配していた北方党派は、この機会に、本条約を直ちに廃止する権利があると勝手に主張していた。・・・・
 そこでベルギー政府は、この問題をハーグ国際法廷の調停にゆだねるよう提案したが、中国はこれを拒否した。この係争問題は、中国が「不平等条約」からの自由を得るための政治的な権利であり、司法判断になじむ問題ではないと主張したのである。この件に関し米国の北京公使館は、次のような意見を本国へ電信(1926年11月12日付)した。

中国のベルギー条約の廃棄通告は、中国の条約履行義務拒否に対して、条約関係諸国が、どこまでこれを許容するかを測るための計算された試みである。・・・・この行為で我々は、重大な転機に立たされている。・・・・中国の対外関係を取り仕切っていると自称する人々は、義務拒否の政策の採用が自分たちの個人的利益につながっていると思っている。
 我々がいま直面している事実はこうである。中国を国際的に代表すると主張してきた組織は、実際には外国の認知を受けていた旧体制の残りかすに過ぎないのに、今回のベルギー条約の場合における行為によって、条約の拘束力を無視すると条約加盟諸国に通知してきた。
 我々は、公正な取り扱いと理解に基く中国の国際的発展を我々の利益であると考え、この点に真の共感を覚えるものである。こうした見地から、我が政府は機会をとらえて、中国の国際的無責任主義には同意できないと非公式に示唆するべきである。この国際的無責任は、我が国がロシア政府を承認していない理由と同じ性質のものである。このような趣旨の非公式示唆を国務長官自らがなさるなら、中国の暴走の抑制に大いに影響力を発揮すると、謹んで提案する次第である。中国の現在のような行動は、それほど遠くない将来に極東に新しい戦争を招くであろうと、私はそれを深く憂慮している
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2007年10月03日

支那事変前の米中日3

元中国駐在米国公使のメモランダム3

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。今回は中国の傲慢非妥協的な敵意についての部分。
写真は蒋介石(右)
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引用開始
 当時、国民党は極端に暴力的となっており、それは内部の抗争によって一層激しくなっていた。この内部抗争は、すぐ後に、ロシア人政治顧問団に対する不信任とその追放劇となり(国共分離)、また蒋介石将軍が実質的な独裁者となるに及んで、党内の抗争は最高潮に達した。この時の紛糾した抗争の歴史は、それ自体大きな問題であるが、ここでは、外国人の生命や権利に影響したり、あるいは脅威を与える場合に限って述べることとしよう。
 蒋介石は、妥協したり、巧みに説得したり策略を巡らしたりする中国人の伝統的能力はすべて持っていた。しかし、自分が欲するものを見分け、決断を下し、断固として行動する力においては、現代中国政治家の中ではユニークな存在であった。
 そのような彼の統率の下に、国民党政府軍は広東から揚子江流域へ向って進撃した。・・・
 この行軍に際し最も注目すべき点は、この軍隊には、政治局員もしくは宣伝部員がかなり前を先行し、進軍の行路に沿って農民の説得にあたっていたことである。北伐軍は、中国人の生計の道を奪ってきた外国人の桎梏から農民を解放し、自由にするためにやって来たのだと宣伝していたのである。孫文の論文が引用されて、中国の対外貿易は輸入、輸出とも、帝国主義者への貢ぎ物であり、中国人の長期にわたる貧困と苦難は、中国の意思に反して強制されてきた対外貿易の結果であるとされた。その底流には、中国民衆の外国人嫌いの心情が限りなく存在し、宣撫の効果は十分であった。
 今まで北伐軍に抵抗してきた地方がつぎつぎと制圧され、蒋介石軍は快進撃を続けて国民的救世主として歓迎された。
 1926年の暮れ、揚子江流域中部の漢口を首都とする政府が成立した頃(武漢政府の成立)、彼らは自らの成功に有頂天になっていたので、列強諸国の代表達を遇するのに常に厳しい態度で接していた。それはかつて、ロシアの共産党政府が最も頑迷だったころに似ていたが、民衆の暴発力を、外国人とその権益に向ってけしかける力を持っているのだぞと、公然と誇示する有様であった。
 このような傲慢にして非妥協的な敵意を前にすると、関係各国政府も状況判断に当り、どうしても「希望的観測」に陥りがちであった。関係各国の外交団は、“愚者の楽園”の日常からでてくるものは幻滅でしかないことを、自分たちの母国政府に理解させることの空しさに悩んでいた。
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2007年10月02日

支那事変前の米中日2

元中国駐在米国公使のメモランダム2

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。その中のアメリカの親中国感情を記した部分です。
写真は張作霖
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引用開始
 中国の関税会議への参加が不可能となり、列強諸国が、中国との関係改善の手段として折角利用しようとしていた意図が挫折してしまった事態は、中国の国内政治の新しい展開に伴ったものである。 数多くの小規模な権力妄執者の集団による全く無意味で混乱した闘争から、二つの主な集団が次第に形を現してきた。・・・
 中国北方では、粗暴で反動的な軍事独裁者――張作霖が権力を掌握していた。彼は元匪賊であり、粗野で無節操ではあるが抜け目のない有力な指導者であった。・・・・
 中国南方では、孫文の革命党内における仲の悪い諸派が、ロシア人政治顧問の働きかけもあって歩み寄り、その結果国民党がやっとまとまった政治勢力となって、統一された政治目標を中国全体にわたってアピールできるようになった。・・・
 北方派は、古い首都北京を引きつづき支配し、関税や塩税、郵便行政を管理していたが、それにもかかわらず外交的承認は与えられていなかった。これに対して南方派は、一般大衆の支持をうけて時流にのってはいたが、外国人とその特権に対する憎悪感を激しく煽って広く民衆の支持を得るというやり方をとっていた。・・・・

 しかしながら関係諸国の中でも、特に米国と英国では、中国と中国の要求への大衆的な同情が高まり、その主唱者である南方派あるいは国民党グループにその同情が向けられることとなった。イギリスでは、共産主義者の宣伝が運動の背景にあるのではないかと考える向きもあったようだが、アメリカでは、そんな懸念は見られなかった。アメリカ人は、中国が置かれている諸条件に関して、いくらかナイーブでロマンチックな想定に立っていたかも知れない。・・・・
 このような運動の高まりの背景には、中国に対する米国民の広範な親近感があった。この親近感は、米国政府が、利己的な国々から中国を守ってきてやったのだと信ずる若干恩きせがましい自負の念と、我国の教会組織が、中国での布教活動に支えられて、数世代にわたり中国との好ましい関係を育ててきた実績に負うところが大きかった。この時点で布教活動指導者たちは、自分たちの仕事は、中国の政治的要求を支持する政策によってもっと発展すると確信していた。だから米国政府が、条約上の特別の権利、――特に治外法権・関税制限および教会組織に関する特権――のすべてを放棄するよう、独自に主導権をとってほしいと期待していた。
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2007年10月01日

支那事変前の米中日1

元中国駐在米国公使のメモランダム1
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「平和はいかに失われたか」という本からの掲載ですが、「はじめに」の部分を要約しておきます。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。
 マクマリーは若い頃中国に勤務し、ワシントン会議(1921〜22年)にも参加して、1920年代前半のアメリカでは、中国問題の最高権威の一人と考えられていた。ところが、1925年に中国駐在公使として着任以来、ワシントンの本省としばしば衝突し、1929年に辞職し、その六年後に書かれたのがこのメモランダムです。
写真はジョン・アントワープ・マクマリー
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引用開始
中国激動の期間
 ワシントン関税条約の諸規定を実施するため北京で開催された「特別関税会議」当時(1925年の秋)、中国人の気分は、ワシントン会議の精神に対してはかなり敵対的なものになっていた。中国における全政党各派に実際に浸透していた感情は、中国の急進的な代弁者ともいうべき陳有仁の最も辛辣な発言に代表されていたとしてもあながち間違いではないだろう。すなわち(彼の言葉を引けば)、列強諸国が中国の門戸開放と領土保全の原則を述べるのは、かつての偉大さで知られ、そしてふたたび新しい力を意識し始めた中国人民を、かえって侮辱するものであると公言したのである。

 関税会議は、中国の政治指導者たちがリードして討議が始まった。この指導者たち(例外的には高潔ではあるが無力な人もいる)は、拝金思想をおさえるほどの熱烈な理想主義者でもなかったけれど、おしなべて自国の国際的な義務を極端に無視し、激しい挑戦的な態度をとった(もっとも賄賂を峻拒するほどの熱烈な理想主義は欠けていたが)。
 この人々にとってこの会議は、外国人とその権利に対する侮蔑の念を派手に演出してみせて、自らの個人的な政治的運命を向上させる絶好の機会にすぎなかった。会議の議題そのものも、中国人議長の裁量によって会議招集の根拠となった条約を無視して進められる始末だった。ワシントン会議が、この北京会議に決定を委ねていた「調査委員会」設置の問題を、議題にのせることも拒否してしまった。それでいて中国は一方で「関税自主権」(これによって、当然のことながら列強諸国は関税率並びに通関管理に関する特権を完全に放棄することになる)を主張していた。
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posted by 小楠 at 07:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係