2007年09月04日

南京攻略特派員特電2

南翔堅塁脆くも陥つ

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回からはその後編のご紹介をします。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
今回は主に、今では中国共産党の犬、反日新聞の代表といわれる朝日特派員の特電を引用
してみます。その当時との違いに驚くことでしょう。
写真は南翔へ進撃する戦車隊
nansho.jpg

引用開始
南翔にて十一月十二日
【朝日、園田特派員】

 かつては前敵総司令陳誠が駐在し江南戦線を指揮した敵の中央根拠地南翔は十二日完全に我が手に帰した。
 記者は和知、浅間両部隊の奮戦地である約8キロ余の新戦場を辿り占領直後南翔駅から鎮内に一番乗りした。つい先程まで前方で物凄い銃砲声が盛んに起っていたのにぴたりと止んだ、丁度南翔の南方4キロ余の地点姚家屯の部落に差し掛かった時だ。この一帯が敵の最後の陣地で頑丈な掩蓋壕と戦車の進行を防ぐ幅一間余の戦車壕が3キロ余に亙って掘られてある、それから進むともう陣地らしい陣地はない、この最後の線を抜かれてから敵は周章し其處此處に敵が陣地を築き掛けているが我軍の追撃が急なため壕も半分堀り掛けて潰走している有様で如何に両部隊の追撃が激しかったかが窺われる。
 戦いが終ったというので避難していたこの付近の農民は「支那兵は恐ろしいが日本兵は無茶をしない」と三々五々打ち連れ早くも我家に帰って来て進軍する我が将士を道端に土下座をして迎えていたが、中には住家を支那兵のために焼かれたり壊されたりして大声をあげ号泣しているものもあったのは哀れであった。・・・・・

 駅から南翔の市街までは石畳のモダンな並木道路が約100メートル、南翔の市街は北南2キロ、その中央より稍北寄りに東西両方に街が伸び飛行機型をなしている。人口は約五万といわれているところ、十字型に流れているクリークの橋は悉く支那兵によって破壊されている。北南のクリークに沿って鎮内を進めば爆撃と砲撃で町並の家屋が潰され支那人の姿は一人もない、・・・・目抜きの商店街に入れば足の踏場もないほどの乱雑さ、支那兵が敗走する行きがけの駄賃に手当り次第に掠奪して行ったのだろう、鎮内はまだ敗残兵が潜伏しているというので我兵が掃蕩に努めていたが天井や竈の中に潜んでいる敵兵が続々と発見されていた。鎮内には敵の陣地らしいものは全くないが一歩東方の街道に踏出すとこれが所謂南翔陣地で、幅20メートル余のクリークに鉄条網をズラリと張りめぐらし小南翔までの間は塹壕が三重四重と続いている、文字通り難攻の堅塁である。
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posted by 小楠 at 08:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変