2007年09月06日

南京攻略特派員特電4

無錫全市街掠奪狼藉の跡

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回からはその後編のご紹介をします。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
今回も例の浅海特派員の特電を引用してみます。
写真は上海から無錫、南京への地図
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引用開始
無錫にて十一月二十七日、東日・大毎、
【浅海、光本特派員】

 敵が頑強に抵抗した無錫はついに二十六日正午わが○○部隊の猛攻によって完全に陥落、○○部隊の入城を見た。同日午前八時われ等(浅海、光本両特派員)は無錫東北方一里の東亭鎮のトーチカを破って無錫一番乗りを敢行した野田部隊とともに無錫に入った。
 勇士の鉄兜と軍馬のたてがみを真白にした朝の霜も拭われて午前八時半最後の砲撃を加える。わが軍の気球が蒼空に浮び上った、忽ち砲声は地軸をゆるがしてわが軍は一斉に前進する、常熟、無錫の自動車路は殺到するわが部隊で一杯だ、怒涛の如く無錫東北方よりなだれ込む、街に入るとまだ生々しい敵の遺棄死体が至るところに転がっている、機関銃も自動小銃も手榴弾も街道に放り出されたままだ。街の交差点には全部両側にトーチカが築かれて市街戦に準備したらしいがこのトーチカの中にはどれもこれも敵兵の死体が一杯投げ込まれてある、死体を収容する遑もなく潰走した狼狽ぶりが想像される。

 街は一軒として完全な姿を残していない。わが空軍の爆撃と砲弾に射ち砕かれた上、どの家も支那兵が荒して丁度大震災の跡のようだ、住民は殆ど逃げてしまっている。街の主要街路の家は軒並に敵兵の軍服や銃弾が残っている、平服に着替えて敗走した兵が多いらしい。午前十一時、城内はまだ逃げ遅れた敵が街角で捕らわれている。無錫駅の転轍室には日本語の巧な敵将校が助川部隊に捕われた。○○部隊の専田中佐が取調べると彼は日本の士官学校を出た王張明(二十九)で、彼の語るところでは二十四日まで三万近い軍が蘇州、常熟からここに逃げ込んでいたが何れも常州に落ちのびた。支那軍は毎日逃亡兵が続出している一方負傷兵が多く、どの部隊もその半数以上を占めており、将兵に戦意なく夥しい兵が隊を離れている。無錫には市民の暴動が起りこれに続いて逃げ込んだ支那軍の大掠奪が行われるなど大変な騒ぎだったとのことで、街には最早一物も残さず死の街と化している。
ただ街の辻々には敗走の幹部が四散せんとする兵に伝える「○○部隊兵士の落伍者は常州○○に集れ、給料を渡す」というビラが貼られている。常州に給料の餌で集めているのだろう。
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posted by 小楠 at 07:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2007年09月05日

南京攻略特派員特電3

朝霧の中に焔の常熟

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回からはその後編のご紹介をします。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
今回は同盟や報知特派員の特電と例の浅海特派員の特電を引用してみます。

写真のキャプションは常熟へ前進
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引用開始
常熟にて十一月二十日、東日・大毎
【浅海特派員】

 敗戦支那軍が最後と頼む堅城の一つ常熟は十九日遂に陥落した。十三日揚子江岸に敵前上陸して以来辛苦を重ねた○○部隊の努力はついに報いられたのだ。十九日未明両三日来の雨で水は膝を没する塹壕から起ち上った各部隊は一斉に進撃に移った、蜿蜒(えんえん)十余キロにわたる常熟包囲陣の総攻撃だ。耳を裂けんばかりの銃砲声の中に佐藤、高橋、永津の各部隊は常熟東北方から背後、名山虞山めざして突撃、逃げ惑う敵を猛追撃、息もつがせず常熟城の北角をかすめて虞山の山麓に駆け上り輝く日章旗を揚げた。
 続いて血みどろの○砲の引揚げが敢行され雨の中に燃える常熟城に向って痛快極まりなき釣瓶撃ちに城内の支那軍は右往左往の大混乱に陥り、各所に火災さえ起って、さしもの名城も断末魔の喘ぎにのたうち廻るようだ。見れば城壁の西方には友軍○○部隊の勇士等が日章旗を翻して雲霞のように押寄せている。後方からの砲兵の掩護射撃はここから見れば百発百中、支那最後の抵抗線は虱潰しに破壊され、○○部隊の第一線は潮の充ち渡るように前進また前進して行く。
 午前七時半早くも城壁東隅には第一の日章旗が立てられ、つづいて第二第三の日章旗が城内深く突入するのが見える。わが○○部隊の勇士等は一本の日章旗を見る毎に万歳の絶叫だ。見れば城の南側は混城湖、虞山の西方には尚湖が朝靄の中に煙る。常熟城は炎の中に全くわが軍の手中に納められ、山上からも城内からも万歳の嵐が天地をゆるがすのであった。

蘇州城遂に皇軍の手に
【上海東日大毎特電十一月二十日発】

 わが軍は十九日午前七時遂に蘇州城を占拠した。
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posted by 小楠 at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変

2007年09月04日

南京攻略特派員特電2

南翔堅塁脆くも陥つ

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回からはその後編のご紹介をします。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
今回は主に、今では中国共産党の犬、反日新聞の代表といわれる朝日特派員の特電を引用
してみます。その当時との違いに驚くことでしょう。
写真は南翔へ進撃する戦車隊
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引用開始
南翔にて十一月十二日
【朝日、園田特派員】

 かつては前敵総司令陳誠が駐在し江南戦線を指揮した敵の中央根拠地南翔は十二日完全に我が手に帰した。
 記者は和知、浅間両部隊の奮戦地である約8キロ余の新戦場を辿り占領直後南翔駅から鎮内に一番乗りした。つい先程まで前方で物凄い銃砲声が盛んに起っていたのにぴたりと止んだ、丁度南翔の南方4キロ余の地点姚家屯の部落に差し掛かった時だ。この一帯が敵の最後の陣地で頑丈な掩蓋壕と戦車の進行を防ぐ幅一間余の戦車壕が3キロ余に亙って掘られてある、それから進むともう陣地らしい陣地はない、この最後の線を抜かれてから敵は周章し其處此處に敵が陣地を築き掛けているが我軍の追撃が急なため壕も半分堀り掛けて潰走している有様で如何に両部隊の追撃が激しかったかが窺われる。
 戦いが終ったというので避難していたこの付近の農民は「支那兵は恐ろしいが日本兵は無茶をしない」と三々五々打ち連れ早くも我家に帰って来て進軍する我が将士を道端に土下座をして迎えていたが、中には住家を支那兵のために焼かれたり壊されたりして大声をあげ号泣しているものもあったのは哀れであった。・・・・・

 駅から南翔の市街までは石畳のモダンな並木道路が約100メートル、南翔の市街は北南2キロ、その中央より稍北寄りに東西両方に街が伸び飛行機型をなしている。人口は約五万といわれているところ、十字型に流れているクリークの橋は悉く支那兵によって破壊されている。北南のクリークに沿って鎮内を進めば爆撃と砲撃で町並の家屋が潰され支那人の姿は一人もない、・・・・目抜きの商店街に入れば足の踏場もないほどの乱雑さ、支那兵が敗走する行きがけの駄賃に手当り次第に掠奪して行ったのだろう、鎮内はまだ敗残兵が潜伏しているというので我兵が掃蕩に努めていたが天井や竈の中に潜んでいる敵兵が続々と発見されていた。鎮内には敵の陣地らしいものは全くないが一歩東方の街道に踏出すとこれが所謂南翔陣地で、幅20メートル余のクリークに鉄条網をズラリと張りめぐらし小南翔までの間は塹壕が三重四重と続いている、文字通り難攻の堅塁である。
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posted by 小楠 at 08:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変

2007年09月03日

南京攻略特派員特電1

大山大尉の霊と脇坂部隊

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回からはその後編のご紹介をします。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
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引用開始
虹橋飛行場にて十一月(昭和十二年)九日
【朝日、平松、中村特派員】

 恨みの虹橋飛行場――大山大尉、斉藤三等兵曹が無念の最後を遂げた虹橋飛行場は遂に我軍の手に帰した。奇しくも大山大尉遭難の日、月はかわれど日は同じである。大尉らの命日だ。記者等はこの虹橋飛行場が陥落した直後今度の上海戦争の実に発火点となったこの大山大尉事件の現場を見、そうして両勇士の霊を慰めた。
 太い丸太棒と鉄条網から出来たバリケードが虹橋飛行場正面の広場一杯を埋めて居る。正門前に野菜白米その他いろいろな食糧が所嫌わず散乱しトラックが一台横倒しに倒れ黄包車も転がり書類、衣類が鮮血に染って凄惨な情景を見せている。
 記者等は暫く狼藉たる門前を徘徊して先ず大山大尉戦死の地を探し求めてその霊を弔う。あの頃は青葉で182号と書いた幌型の陸戦隊自動車が豆畑に頭を突込んで車体には蜂の巣のような弾痕、運転台は真赤な血の海、その傍に大山大尉が刃の跡も残虐を極め仰向けになって無残な最期を遂げていた。この眼で見た大山大尉憤死の場所、どうして忘れることができよう――日章旗の翻る飛行場区面を400メートル彼方に眺めながら大山大尉最後の場所に立ったのだ。

 記者等は思わず帽子をとって暫し黙祷した、それから飛行場正面に入って脇坂部隊長を訪れると正門上の狭い部隊長の室には○○○が奉置されてあり、その横の壁に「謹弔大山海軍大尉の英霊」と大書してある。・・・・
 記者等は大山大尉等の英霊を弔ってから軍用飛行場として敵が一歩たりとも外来者の出入を許さなかった飛行場に行く、ここは上海戦争が始まるとわが飛行隊の活躍に先立って敵が租界爆撃を敢行したその重要な根拠地でもあったのだ。・・・・記者等の姿を見つけたのかヒューンと執拗い狙撃の弾丸が流れる。格納庫の間には緑色に塗った高さ5メートル長さ20メートル位の小屋掛みたいな大きな荷物が数個置いてある。
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posted by 小楠 at 07:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変

2007年09月01日

洗練された日本精神3

美徳としての克己

「誇り高く優雅な国、日本」という本をご紹介します。
 著者は1873年グァテマラ市に生まれ1927年パリで亡くなった、エンリケ・ゴメス・カリージョという報道文学者で、父親はスペイン貴族の血筋に誇りを覚える保守的な人物ということです。
大国ロシアとの戦いに勝って西欧諸国を唖然とさせた日本は、当時ヨーロッパ中の注目の的となっていました
 来日は1905年8月末横浜到着となっており、確かな滞在日数は不明ですが、ほぼ二ヶ月後にはフランスへの帰途についたようです。帰路の旅先から、彼はパリにいる友人のルベン・ダリーオ(ニカラグアの大詩人)にあてた手紙の中で「もしあなたが私の葬式で弔辞を述べるようなことがあったら、私の魂が東洋の芸術家のそれであったということ、そして金色に輝く漆で大和の花や小鳥や娘たちの姿を描きたいと願っていたということを忘れずに人々に伝えてほしい」と書き送っています。
では「洗練された精神」と題する章から引用してみます。
前回からの続きになります。
写真は武士道の記述に出てくる山岡鉄舟
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引用開始
 これを、諸君は優しさの欠如であると思われるであろうか。日本人の親ほど情愛深い親は世界でも珍しい。彼らが微笑むのは、口許に微笑を浮かべずに悲しいことを話してはならないという厳しい掟に従っているからだ。ハーンによれば、「この掟がある理由はさまざまである。怒りや悲しみはそれがどんなに大きなものであれ、じかに人に見せるのは無益で時には不作法なものであるという確信が、最下層の農夫の心の中にさえ根をおろしている。
 誰か村人が泣いているようなところに出くわすと、彼はあわてて涙を拭い、われわれにこう言うのだ、“非礼をお許し下さい”と。 このような道徳的な理由の他にも、かのギリシャ芸術が痛ましい表情を和らげて表現したのと同じ美的見地からの理由もある」。

 確かに、ハラキリの場面を描いた絵の中でも主人公はつねに微笑んでいる。拷問や末期の苦悶も武士の唇を歪めさせることはできない。ミットフォードは、滝善三郎自刃の厳かな場面で、居並ぶ者たちがみな深刻な顔をしているのに本人だけは微笑んでいると指摘している。
 ミットフォードは語る。「ゆっくりと、至極ゆっくりと、善三郎は微笑しながら歩を進め、居並ぶ人々に深々と頭を下げて挨拶し、次いで祭壇の前で礼拝し、赤い毛氈の上に座る。そこが腹を切り開く場所である。一人の友人が、剃刀のように研ぎ澄まされた短刀を差し出す。善三郎は“すべての罪は私にある”と言う」。そして悲劇的な贖罪の儀式がはじまる。「彼は従容として刀を手に取ると、左から右へ急ぐことなく腹を切り、最後に頭を深く前へ下げる」。 この崇高なる礼は、外国人たちが馬鹿にする軽々しいお辞儀と同じものである。大和の人間はどのような状況のもとでも態度を変えないのだ。挨拶をするときも人を殺すときも同じであり、人を殺すときも自分が死ぬときもまた同じである。彼らは物心がつくようになると克己の精神を養う。・・・・・
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posted by 小楠 at 07:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A