2007年09月29日

ヤポニカ、銀座

新橋付近の火の見の梯子
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今回ご紹介している『ヤポニカ』は英国人の詩人、ジャーナリストで、『デイリー・テレグラフ』の編集者サー・エドウィン・アーノルド著で、アメリカからこの本の挿絵を描くのにR・フレデリック・ブルームが派遣されています。アーノルドが来日滞在したのは1889年(明治二十二年)末からで、二回目の来日時に仙台出身の女性、黒川たまと結婚。彼には三回目の結婚で、滞日時の年齢は58〜60歳でした。
写真はアーノルド像
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引用開始
 次に「銀座」、日本の首都の「ブロードウェイ」に立ち寄る――実際すばらしい往来で,舗装された歩道と中央に市街電車、有名銘柄の店がある。ここでは町の商売は衰え、他と調和して、母や姉妹が赤子を背負ってペチャペチャおしゃべりをし、子供たちは凧を揚げている。商人たちは炭の真赤に燃えた火鉢の脇に座っている。
 魚の行商人、たくあん、菓子、柿、おもちゃ、パイプ、凧、旗、重荷をかつぐ苦力、盲目の老三味線奏者、仏教僧侶、黒大理石のような髪をし、鳩の足のようなかわいい娘たち、落ち着いて動じない細い眼の赤子、道での知人との出会い、おおまかなお辞儀とあいさつ、日本の役人は、別当を伴って馬に乗ってくる。花の行商人、去勢男、鳥屋、茶屋、少しおかしな家の入口、開かれた屋内、風呂場、寺院、石庭、籠細工、きしむ米舟――なにもかもが実際に、日本のすばらしい常に興味のある首都である。

 あるいは城を横切って多くの入口、出口から銀座に入っていたのかもしれない、たとえば「虎の門」「桜田門」あるいは「半蔵門」は皇居に通じている。この城は都市の大きな特徴であり、広大な要塞化した城郭であり、あらゆる所が非常に高い土手で囲われ、古木の松が植えられ、巨大な石造りの壁、その足下には静かな幅広い堀、冬期においては野性のあひるとがちょう、ごいさぎ、あおさぎでいっぱいになる。首都の装飾として、これらの重厚な城壁と草の緑の傾斜、ふしのあるもみの木で影がつくられるという外見で、これ以上のすばらしいものはあり得ない。
 石垣は海の絶壁のように堅固で、鋼鉄艦の衝角のように石の巨大なかたまりで、すべての角にはめ込まれ、曲線の突き出た外観をしている。それゆえに大きな石のかたまりはその場所をうしろに移動しない、地震さえも石垣にはほとんど影響を与えないだろうと思える。皇居において日本の大工や建具師がなしえたものの完全な例をみてきた、そのうえ高度な芸術作品がある天井のどれも、濃い褐色の漆により、非常にみごとに飾られた羽目板に分割されているにもかかわらず、もっとも高価な絹やもっともすばらしい彫刻がまわりのすべてに惜しげもなく使われている。・・・

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posted by 小楠 at 07:14| Comment(2) | TrackBack(1) | 外国人の見た日本A

2007年09月28日

ヤポニカ日本の人々

飴 屋

今回ご紹介している『ヤポニカ』は英国人の詩人、ジャーナリストで、『デイリー・テレグラフ』の編集者サー・エドウィン・アーノルド著で、アメリカからこの本の挿絵を描くのにR・フレデリック・ブルームが派遣されています。アーノルドが来日滞在したのは1889年(明治二十二年)末からで、二回目の来日時に仙台出身の女性、黒川たまと結婚。彼には三回目の結婚で、滞日時の年齢は58〜60歳でした。
この本の挿絵には訳者の解説がついていますので、それも部分的に引用します。
挿絵は飴屋です。
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挿絵解説の引用
 画家の解説によると、「本当にその手際は面白いものだ。きわめて単純な方法で、溶けたガラスに息を吹き込んでランプを作るように飴を形作るのだが、その仕上がりは美しく、とても真似できるものではない。確かに職人芸であるとともに十分芸術的だ」という。
 明治中期に大流行した市井の風俗が飴屋(飴細工)であった。管に息を吹き込み、器用な手つきで子供相手に飴で動物などをかたどる技術を間近にした子供たちの、手品でも見るかのような驚きの視線は、外国人も同じであった。彼らには、驚異の職人芸に見えたのである。
 ブルームは、来日前ヴェネツィアでガラスの工房を見たことがあった。その彼の目にも飴屋の技は驚きに映ったのである。
 日本で飴屋のテーマをたびたび描いたブルームは、アメリカに帰国後、それらを集大成し、油彩による『飴屋』を権威あるナショナル・アカデミー・オブ・デザイン展に出品し好評を受ける。この飴屋はブルームの生涯の代表作となった。
挿絵解説引用終わり

本文より
引用開始
 人々がいかにせっせと風呂堂に通うかに注目しよう。人々は世界中で「入浴」の最大の愛好者であり、疑いなくもっとも清いと知られているのである。日本の大衆はどんな臭味もないし、人力車夫は最小の気配りをしながら乗車料をとった後、やたらとたくさんの汗をかく。ほんとうに彼らは下着をつけないし、湯上りには着物、ふんどし、じゅばんを身に付ける。しかし、これらの衣類はまた常に洗濯されている。またすべての手や足がいかに手入れされているか、いかに完全によい状態に保ち、自然であるかに注目しよう。
 木の下駄、なわで作った草鞋によって、実際は足の両側と平にたこができ硬くなっている。ベルベットの糸や草の茎が足の力を保ち、親指を他の指と離して成長させている。しかしほとんどの男性、女性の足は美しく見える。西洋人の男性、女性の足にしばしばみられるいたましいねじれの様子はみられない。そのねじれはきつく尖った長靴や短靴の結果である。とくに日本女性のほとんどの手はいつも上品で、時には絶対的に魅力的である。・・・・・
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posted by 小楠 at 07:15| Comment(6) | TrackBack(2) | 外国人の見た日本A

2007年09月27日

ヤポニカ日本この国2

アーノルドの麻布の住まい

本文の前に、今回の福田内閣の支持率、毎日新聞では57%と発表していますが、ネット世論ではどうでしょうか。全く違う結果だとしか思えないのですが。

【タイトル】
9月26日発足の福田内閣について
【質問文】
9月25日、福田内閣の閣僚が決定し、名簿が発表されました。
この内閣に対する期待の度合について選択してください。

■結果画面へはこちらからどうぞ
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 今回ご紹介している『ヤポニカ』は英国人の詩人、ジャーナリストで、『デイリー・テレグラフ』の編集者サー・エドウィン・アーノルド著で、アメリカからこの本の挿絵を描くのにR・フレデリック・ブルームが派遣されています。アーノルドが来日滞在したのは1889年(明治二十二年)末からで、二回目の来日時に仙台出身の女性、黒川たまと結婚。彼には三回目の結婚で、滞日時の年齢は58〜60歳でした。
 19世紀後半の欧米の新聞・雑誌の隆盛普及は、挿絵に支えられていたといっても過言ではなく、以前にご紹介した『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』のような、紙面の50%以上が挿絵のものまで出現しています。この本の挿絵には訳者の解説がついていますので、それも部分的に引用します。
写真は麻布の自宅でくつろぐアーノルド夫妻
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では挿絵の解説から
引用開始
 明治二十二年(1889)十一月初め、来日直後のアーノルドは東京・麻布に居を構えた。家主は警視庁に勤務する麻生氏で、隣接する広壮な本邸には池と庭があった。麻布は当時は郊外とされ、外国人の居住は外交官、聖職者、教師をのぞいて認められていない地域であったが、家主が出版する本の英語訳と家主の娘たちの家庭教師を引き受けるとの名目で、住むことが許可された。
 直前の住人は日本政府の顧問の元イギリス陸軍大将パーマーで、寄棟屋根の日本家屋は、障子をガラス窓に替えられていた。アーノルドと同居した27歳になる長女キャサリン・リリアンは、日本の家屋になじめず、自室を洋風に改装する。しかし、アーノルド自身は畳の生活にとけこみ、この家に近隣の僧や著名人を招き取材を重ねていく。彼にとってこの家は、日本研究と執筆の中心であったのである。
解説引用終わり

この挿絵は「通りを小走りに歩くむすめの、むすめらしい小刻みな足取り」です。
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解説抜粋
 都心からやや離れた自然の豊かな住宅地に住まいを求めたアーノルドに対し、ブルームは都心の商業地域に隣接した有楽町三丁目に住んでいたので、この情景は今日の銀座近辺と思われる。店先を被った大暖簾と人力車を引く車夫は、日本女性とともにブルームが好んだモチーフである。すれ違う人力車と女性の小走りの動きの対比が生き生きとし、銅板の線描が小気味いい。
解説引用終わり

では本文から引用します。
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posted by 小楠 at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A

2007年09月26日

ヤポニカ日本この国1

むすめ

写真は1891年刊の『JAPONICA』表紙
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 今回からご紹介する『ヤポニカ』は英国人の詩人、ジャーナリストで、『デイリー・テレグラフ』の編集者サー・エドウィン・アーノルド著で、アメリカからこの本の挿絵を描くのにR・フレデリック・ブルームが派遣されています。アーノルドが来日滞在したのは1889年(明治二十二年)末からで、二回目の来日時に仙台出身の女性、黒川たまと結婚。彼には三回目の結婚で、滞日時の年齢は58〜60歳でした。
 19世紀後半の欧米の新聞・雑誌の隆盛普及は、挿絵に支えられていたといっても過言ではなく、以前にご紹介した『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』のような、紙面の50%以上が挿絵のものまで出現しています。この本の挿絵には訳者の解説がついていますので、それも部分的に引用します。
まずは巻頭の挿絵「むすめ」の訳者解説から。
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引用開始
 アーノルドの詩や評論を通じ、「むすめ(日本の娘)」という言葉が英語圏に普及した。日本女性について一般に欧米人が思い描くエキゾティックで魅惑的な女性像は、アーノルドの謳いあげる唯美主義的イメージでより鮮明な像を結んだ。アーノルドにとって、「むすめ」とは優しく、麗しい日本の文化と風土すべての象徴であったといってよい。
 東洋思想や仏教の、主として文献・説話の西洋への紹介者であった彼は、日本では日本社会で出会った女性たちを媒体として、日本の精神を直感的かつ具体的に理解したのである。
 挿絵画家ブルームの優れた描写力は、日本女性の魅力をいっそう引き立たせ、アーノルドの「むすめ」のイメージを定着させた。ブルームは日本で、さりげなく「肩越しにふり返る若い女性」のポーズをしばしば題材に選んだ。水彩のきびきびしたタッチと逆光表現の技巧が、強い印象を生んでいる。
挿絵解説引用終わり
では、本文のすばらしい「序」をご紹介します。

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posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A

2007年09月25日

治安無視の冬柴国交相

治安を無視し中国人にサービス満点の政策

 今回の総裁選結果としての福田氏+自民党4役、中国共産党も韓国にも大変評判がいいようで、日本人としては寒くなってしまいます。これからは益々我々の税金がこれらの国に吸い取られるような政策が、簡単に通ってしまうでしょうね。

 日本の領土を虎視眈々と狙い、日本国内ではスパイ活動、日本人に対する凶悪犯罪を頻発させているこのような国に対して、我々日本国民の血税が使われることは、どんな名目であれ絶対に許すことが出来ません。
 自民は早急に公明との連立を解消する決断をして欲しいものです。そして民主党内の右派と自民党内の非媚中派による政界再編を最も期待しています。日本の安全を確保するため、今後は国民無視、国益無視の媚中派は、何党の人間であれ、絶対に国政に参与させてはならないでしょう。
青木直人著「中国の黒いワナ」(別冊宝島)から引用してみます。
写真のキャプションは「中国の国益にかなった政策を推進!?」
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引用開始
 六年半ぶりに日本を訪問した温家宝首相を歓迎した面々を見ると、日本におけるチャイナロビーの顔はほぼわかる。衆議院議長の河野洋平ら政治家たち、経団連の首脳、民間友好団体などがそうだが、異色なのは、温家宝との会見で「庶民の帝王」と自ら口にしたという、創価学会の池田大作名誉会長である。
 公明党は、言うなれば「創価学会政治部」の立場を運命づけられている。だから学会の意向、つまり中国の教育機関から100に迫る数の名誉学術称号を得ている池田名誉会長の意向抜きに、対中国政策は考えられない。
 昔、フランクな酒の席で、同席した中日友好協会のある幹部に公明党の話を振ったところ、「あそこは池田名誉会長だけ押えておけばOK、問題ない。何かあれば、池田先生に言うから」と話すのを聞き、みもふたもない話だなと思ったことがある。
 中国との関係では、公明党議員が、池田名誉会長以上に内外から評価されてはいけない。かつて日中国交正常化の下準備に、田中角栄の信書を持って周恩来と会見した竹入義勝公明党委員長(当時)は、マスコミから「和製キッシンジャー」と持てはやされた。それが池田名誉会長の逆鱗に触れ、やがて失脚に追い込まれた。

 その公明党で、近年、実力をつけてきたのが、冬柴鐡三国土交通大臣である。彼は政界において、公明党の対中政策のキーマンになりつつある。ただし、あくまでも池田名誉会長の手足としてだ。
 冬柴が中国要人との間に強い人脈を作るきっかけとなったのは、2000年に野中広務元自民党幹事長や二階俊博保守党幹事長(当時)らと、「与党三党訪中団」の一員として中国を訪問したことだった。
 また02年に、北京で開催された日中国交正常化30周年の記念イベントにも、日本から60人の国会議員と各界の12000人が駆けつけたが、この時冬柴は、橋本龍太郎元首相や二階、野田毅ら保守党幹部らとともに、与党連立政権の重鎮として中国政府要人と会見している。冬柴はこうして中国最高首脳とのパイプを築いてきた。
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posted by 小楠 at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2007年09月23日

全体主義既存マスゴミ党

既存マススコミの実態は全体主義

9月26日記、
 朝日はどこまでも安倍氏を苛め抜きたいようです。「安倍しちゃう」などと流行語でもないものを流行語にしようとしているようですが、本当にこの新聞を作っている人間は卑劣の集りですね。それじゃ、その前に「朝日る」(あさひる)という言葉を流行らせてしまおうではありませんか。
使い方は「朝日るな!」のようになりそうですが、その意味としては、
代表は、「捏造するな!」でしょう。その他 「日本を貶めるな!」、「中国によいしょするな!」、「嘘をばらまくな!」、「印象操作するな!」、「真実を隠すな!」、「偏るな!」など。そして意味深なものとしては「頬かむりするな!」、「偽者に同情するな!」にも使えそうです。
これらの意味をひとまとめにして「朝日るな!」というのはどうですか? 
しかし、どれもこれもろくな意味になりませんね。朝日だから、こんな意味にしかならないのでしょう。

では総裁選について
 今回の総裁選の異常さは、既存マスコミによる情報操作、思想統制につきると思います。日本の政治には、いよいよ巨大権力を持つ「既存マスコミ党」という全体主義勢力が台頭し、今回の総裁選で、自分達の思い通りの首相を作るという暴挙が顕在化してきたようです。
 普段は「自由」や「民主」を絶対的なもののように何かと利用する既存マスゴミの実態は、思想統制、言論封殺、印象操作など「全体主義者」そのものをやっています
 今後は「既存マスゴミ全体主義」と「民主主義」を守ろうとする国民の対立の構図が益々大きくなってくるでしょう。その魁がネット世論です。
 総裁選時、水間政憲氏の本部前現場レポートもご覧下さい。

 安倍氏の辞意表明が発表されたとたんに、時期総理候補として福田氏の名前が唐突に報道されました。この時まで、私の知る限り、周囲で総理候補として福田氏の名前など聞いたこともありません。ごく自然に次は幹事長である麻生氏が政策を引き継ぐべく総理になるであろうというのが、周囲から聞こえる多くの声でした。
 これについては24日の産経抄の冒頭で同じ事を言っていますので引用しておきます。

24日産経抄
 福田康夫氏(71)が、第22代の自民党総裁の座に就いた。本命麻生の声があっという間に、福田圧勝の大合唱にかき消された背景には何があったのか。いまだによくわからない。福田氏の考え方、政策がはっきりしないうちから、流れはできあがっていた。
引用終り

 ところが、マスコミからは突然福田氏という名前が報道され出したので、一体何を言っているんだ、どこから福田氏などが出てくるんだと、なんとも不思議な感覚になったものです。
 この時まで、福田氏がどんな仕事をしていたのか、国政にどのような信念で参画しているのか、全く分からない状態でしたから、まさか国民が福田氏をずっと待望していたなどとは、全く考えのなかにはありません。
 
 ところが、そんな疑問におかまいなく福田氏という名前を突然報道し出した既存マスコミは、福田氏の政策信条が国民に広く知れわたる前から、自民党内の福田氏擁立派(安倍氏の時には勝ち馬に乗って安倍氏を持ち上げた多くの無節操議員を含む)の権力闘争有利をもって、あたかも国民の待望であるような報道がなされ、しかも麻生氏にはイメージダウンになるような、事実を確かめもしないクーデター説などを垂れ流し、私から見れば、福田氏への世論誘導と思えるような報道をしつこく繰り返していました。
 クーデターと言うなら、正しくは自民党内媚中派議員が起こしたクーデターと言う方がよく分かりませんか?
 その結果、何人かの国民へのインタビューを聞いていても、福田氏支持と答える人たちの理由は、マスコミがTVなどを通じて報道している福田評と同じ理由の答えが多く見られました。

 一方、ネット世論では全く逆で、アンケートなどを見ても圧倒的に麻生支持となっています。
 おまけにマスコミが発表する結果発表の支持率では、ずっと福田氏優勢が続いていましたが、リアルタイムで集計を発表していた日テレの番組での視聴者投票は、7:3の大差で麻生氏支持の結果が出ています。

 結果として福田政権が誕生するのでしょうが、安倍氏を支持してきたような、本来の保守派国民は、福田自民党、ましてや幹事長候補に古賀氏の名前が出てくるような自民党とは、その政策上大きな隔たりが出来てしまい、受け皿が無くなってしまった感を強くしています。昔からの長年の自民党支持者もこんな内閣を作る今の自民党では多くの人々が自民党と敵対してしまい、多くの支持票を失うでしょう。(感情的に言えば、こんな気持ちの悪い自民党は初めてです)
 これを打開する道は、本来の保守正道を貫く今回の麻生氏支持派などが、民主党にいながら自民党議員以上の保守正道を唱える議員たちと、新しい政党として誕生し、社民党と変わらないようなことを言い出す福田自民とはっきり一線を引いて、国民に真正保守政党とはこれだというものを示すことではないでしょうか。
 そして今回から自民党も分かりやすいように名称を変えて「社会自民党」なりにすればどうでしょうか。
早速産経には以下の記事が掲載されていましたので、引用させて頂きます。引用開始
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posted by 小楠 at 10:30| Comment(31) | TrackBack(10) | 反日マスコミ

2007年09月22日

真の江の傭兵は誰か?

江沢民記念碑建設未遂事件

日本の首相はマスコミが作る??
今の総裁選について、国会議員多数にメール致しました。その中で返事を下さった方の中から、現職議員の偽らざる思いは、

『麻生さんはとても魅力のある人です。そして人気もあった。みんな次期総理と思っていたのに、数日であっという間に落とされてしまった。そして何より、なんで、あっという間に福田さん、という流れができてしまたのか。気持ちの悪い現象です。』
と言うものでした。

 日本の政治に関心を持つと思われる人々の自主的な投票行動は以下のアンケートに表われています。ここでは圧倒的に麻生支持です。
演説会でも麻生支持が圧倒的だったようですが、そのような報道は全くなされていません。
 ちなみに昨日9月21日の日テレの番組「緊急閣議『どうなる日本の総理』では、リアルタイムで集計していたものと見えて、麻生氏73%、福田氏27%で、やはり圧倒的に国民は麻生氏支持です。
 同じテレビという媒体でありながら、数字の違いどころか、支持が逆転してしまうとは、それまでの福田優勢を伝えたマスコミがいかに情報を操作しているかが分かります
 日本の首相はマスコミの偏向報道、そして勝ち馬に乗ることだけで、政策信条皆無の各派閥の議員によって作られてしまうのでしょう。国民の中の真の保守勢力は、このような卑劣な自民党議員を見放すでしょうし、新たな受け皿となる政策集団・新しい党を待望する人々が増えているようです。

【タイトル】
ポスト安倍決選投票!【麻生VS福田】

【質問文】
あなたは、麻生太郎幹事長と、福田康夫元官房長官のどちらを支持しますか?

【結果】  -2007年09月22日 07:08:36現在
・麻生太郎 2343票(86.94%)

・福田康夫 172票(6.38%)

・どちらも支持しない 133票(4.94%)

・白紙票 47票(1.74%)

■結果画面へはこちらからもどうぞ
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では本題へ
 現在まで、中国の「友好」も「反日」もすべての政策が、ジャパンマネーを狙ったものであることは自明の理です。また日本国内にも、その利権に群る輩が、様々な名目で中国への支援を作り出そうと暗躍しています。これは北朝鮮との国交正常化推進についても、同じ構図が見られることでしょう。
「中国の黒いワナ」(別冊宝島)から第二章、青木直人氏の「国民の敵」から引用します。
写真は大好きな江沢民との会見
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引用開始
いつの頃からか,河野洋平を「江(沢民)の傭兵」と呼び変えて、中国の“ポチ”ぶりを揶揄することが、ネット上で目立つようになった。
 河野の中国迎合ぶりは徹底しているし、年季が入っている。しかし、本当の意味で「江の傭兵」なのは、むしろ二階俊博ではなかろうか、というのが私の感想である。二階は売国奴、媚中派とののしられても、ひたすら江沢民前国家主席個人に忠誠を励み、文字どおり「江の傭兵」となった政治家だからである。
 忠誠ぶりは露骨なものだった。
 まず、江沢民の石碑建設事件である。場所は和歌山県田辺市。黒潮に面したこの町に、江沢民国家主席の石碑を建設したいと、「和歌山県日中友好交流推進協議会」から市当局に要請があったのは、02年8月のことである。中国山東省の石を使って、高さ4メートルもの「日中国交正常化三十周年記念碑」を建設し、そこに江沢民の書いた「登高望遠睦隣友好」の文字と重要講和を刻もうというものだった。
 このことが明らかになると、市民の間から不満と反対の声が噴出。「反日政治家江の記念碑など、なぜ作る必要があるのか」といった声に押されて、結局、建設は中止になった。この計画の裏にいたのが地元選出の二階俊博だった。

 記念碑建設の計画は、そもそも2000年に、二階が運輸大臣(当時保守党所属)として、5000人もの訪問団を結成して中国を訪れ、その後に決まったものだった。
「江沢民はちやほやされることが大好きで、彼の生まれ故郷の揚州にも、自分の記念館を建設させている」
 件の訪問団も、江沢のご機嫌とりだけが目的だったと、ある政界関係者は見ている。
「98年の江沢民の来日は、悪評ふんぷんで、日本人のアンチ中国感情を刺激するだけに終わってしまった。面子を潰された江沢民に、『日中文化観光交流使節団』と称して5000人もの日本人を訪中させて、会見させることで、自分の売り込みを狙ったんですよ」
 参加者には二階の後援会関係者も少なくなく、渡航費用も、ほとんどの人が自腹を切っていたらしい。なにしろ5000人である。数が数だけに、宿泊先も中心街から離れた不便な場所のホテルを利用せざるをえず、クレーム続出のツアーだったようだ。
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posted by 小楠 at 07:55| Comment(0) | TrackBack(2) | 書棚の中の日中関係

2007年09月21日

最大の媚中派河野洋平

国貿促(日本国際貿易促進協会)会長さま

総裁候補に突然福田氏の名が現れ、福田氏の政策が何なのか国民に広く知らされる前に、世論では福田氏優勢だという報道??
それなら何故ネットではこんな結果になるんだ!
【タイトル】
ポスト安倍決選投票!【麻生VS福田】

【質問文】
あなたは、麻生太郎幹事長と、福田康夫元官房長官のどちらを支持しますか?

【参考URL】
http://news.google.co.jp/news?q=%E9%BA%BB%E7%94%9F%E5%A4%AA%E9%83%8E&hl=ja&rls=GGLD,GGLD:2004-04,GGLD:ja&um=1&ie=UTF-8&sa=X&oi=news_result&resnum=1&ct=title
http://news.google.co.jp/news?q=%E7%A6%8F%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%A4%AB&hl=ja&rls=GGLD,GGLD:2004-04,GGLD:ja&um=1&ie=UTF-8&sa=X&oi=news_result&resnum=1&ct=title


【結果】  -2007年09月21日 10:11:58現在
・麻生太郎 2061票(86.05%)

・福田康夫 162票(6.76%)

・どちらも支持しない 128票(5.34%)

・白紙票 44票(1.84%)


■結果画面へはこちらからもどうぞ
http://www.yoronchousa.net/result/2854

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衆議院議員戸井田とおる氏のブログにも現場の様子が書かれていますが、おかしいと思いませんか? 自民もマスコミも、国民をばかにしたようなこの騒ぎは、確実に意図して作られたものとしか判断できません。下記のような政策がやり易くなるのは目に見えていますがね。
今、こんな記事もありました。家族が一番さん北朝鮮の走狗、福田康夫は議員辞職せよ

では今日の本題を
 現在まで、中国の「友好」も「反日」もすべての政策が、ジャパンマネーを狙ったものであることは自明の理です。また日本国内にも、その利権に群る輩が、様々な名目で中国への支援を作り出そうと暗躍しています。これは北朝鮮との国交正常化推進についても、同じ構図が見られることでしょう。
「中国の黒いワナ」(別冊宝島)から第二章、青木直人氏の「国民の敵」から引用します。
写真は来日した温家宝と
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引用開始
 目下、最大の媚中派政治家と揶揄されるのが、衆議院議長の河野洋平である。河野は昨年12月に中国を訪問し、最高指導者である胡錦濤国家主席と会見した。
 中国共産党の機関紙『人民日報』は、第一面の右肩を使って、この会見の模様をカラー写真付きで紹介している。このスペースは普通、前日に中国首脳と会見した海外の賓客が紹介される「指定席」であり、中国の対日外交にとって、今も河野が有力なキーマンであることを暗示していた。もっともこの記事では、河野のことを「日本の衆議院議長」としてだけでなく、「日本国際貿易促進協会」(国貿促)会長としても紹介していた。
 国貿促とは、1954年、中国を中心とした当時の社会主義国との貿易を目的にして、日本共産党の指導の下に誕生した経済団体である。当時、主要幹部はいずれも共産党員であり、日中貿易に関係する、中小のいわゆる「友好商社」を傘下に収めていた。
 国貿促の隠れた設立目的は,友党である日本共産党に、中国共産党から合法的に資金援助を行うことだった。貿易を通じて得た利益やコミッション料などが、同協会に恒常的に流れる仕組みになっていたのである。
 しかし、やがて中国で文化大革命が起こり、中国共産党と日本共産党の間で対立が始まると、それにともなって国貿促も、日本共産党から日本共産党の分派・中国派勢力の影響下に入り、そのまま72年の日中国交正常化を迎えたのである。
 その後、中国が改革開放経済にシフトすると、日本財界のトップ企業も参入しはじめて、近年では、会長に橋本龍太郎元首相が就任するなどして変貌を遂げてきた。とはいえ、中国政府に忠実な点では一貫しており、現在でも「日中友好七団体」のうちのひとつに入っている。チャイナロビー団体としてのカラーに変化はない。
 橋本元首相が昨年七月に物故し、その後を継いだのが、現役の衆議院議長である河野洋平である。
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2007年09月20日

日中利権トライアングル

ODA大復活に向けて暗躍開始

 突然出てきた福田氏総裁への担ぎ出し。そして急に国民の支持が福田氏に優勢との報道。演説会では圧倒的に麻生氏支持にもかかわらず、この報道はいったいなんなのだという思いをしている方も多いようです。
 マスコミの異常な安倍叩きに続いて、突然の福田氏の持ち上げからは、マスコミによる世論の誘導が明白です。このまま行けば、国会は媚中議員の巣窟。いよいよ自民の崩壊が近づいているように見えますが、みなさんはどんな思いでしょうか。

 現在まで、中国の「友好」も「反日」もすべての政策が、ジャパンマネーを狙ったものであることは自明の理です。また日本国内にも、その利権に群る輩が、様々な名目で中国への支援を作り出そうと暗躍しています。これは北朝鮮との国交正常化推進についても、同じ構図が見られることでしょう。
 日本の領土を虎視眈々と狙い、日本国内ではスパイ活動、日本人に対する凶悪犯罪を頻発させているこのような国に対して、我々日本国民の血税が使われることは、どんな名目であれ絶対に許すことが出来ません。
「中国の黒いワナ」(別冊宝島)の巻頭にある、青木直人氏の序文から、今後我々の税金がどのように日中間の利権に流れようとしているかを見てみましょう。
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引用開始
2006年8月、北京で外交政策に関する最重要会議「中央外事工作会議」が開催された。最高指導部9名の政治局常務委員全員が出席し、胡錦濤共産党総書記と温家宝首相が演説した。この会議では、それまでの反日外交を転換し、靖国神社参拝などの「歴史問題」では譲歩しないが、今後は「国内の経済建設安定のため」に、日本との関係改善を進めていくことが決議された。
 国力の増強を通じ、東アジアで覇権を確立しようという中国の戦略に変りはないが、中国経済が必要とするモノとカネの多くは、今後も日本から手に入れるしかない。ゆえに、日本との不必要な摩擦は避けて、「友好」を再演出していく――これが会議の結論だった。
 それまで中国は、「歴史問題(日本の戦争責任)を始終強調し、(日本とは)永遠に話していかなければならない」(江沢民前国家主席)と言いつつ、同時に厖大なジャパンマネー(ODA=政府開発援助)を「改革開放経済」の起爆剤として利用し続けてきた。しかし、小泉前首相の靖国神社参拝と、それに反発した中国の反日デモを契機に、中国の“タカリ外交”の実態が広く日本人の間で知られることとなり、日本国民の間に「なぜ中国支援を続けなければならないのか?」という根本的な疑問と不審が広がった。その結果、ODA(円借款分)の中止(08年度以降)が決定したのである。
 中国は焦った。日本からのODAは、政府の予算計画にまで組み込まれているのである。従来のように、歴史問題を楯に恫喝すれば、日本が膝を屈し、自動的に援助額が引き上げられることなど、もう期待できない。加えて、反日デモの影響から、日本企業の対中投資はガタ減りし、中国の実務担当者が熱心に押していた日本企業の「北京――上海新幹線」工事受注も、国内の反日感情ゆえに暗礁に乗り上げてしまった。このままでは、経済に致命的な影響を与えかねない・・・。
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2007年09月19日

中共のチベット侵略9

共産軍による民族抹殺・文化の破壊

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜、粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はつるし上げされる前カム省長ハル・シャペ
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引用開始
1959年6月、約二万人がインドに脱出した。それも法王と一緒に生きてゆくのだという思いの人びとばかりだった。法王は大きな精神的支柱であった。人びとは死中に活を見出したのである。後から後からと押し寄せる中共の“改革”という大波に呑み込まれないで済んだからだ。
 1959年以前六千あった僧院は1960年にはわずか三百七十にまで激減した。
 中共は僧院制度を破壊したばかりか、チベット文化の根幹、チベット人全体の息の根を止めるようなやり方を推し進めた。一切の私有地は没収され、底辺チベット民衆に分け与えられた。といえばいかにも徹底した平等主義の実践のように聞えるが、中共はチベットの新しい土地所有者を“改革”以前より一層の貧困状態に捨ておいたまま、土地からの収穫物は飢えた本土の中国人に向けて輸出したのである。中共は貧富の差をなくしたと嘯いたが、現実はチベットの誰もが一層の飢えに晒されたに過ぎない。・・・・・

 中国本土から漢民族の移民が増大し、チベット人は自国にあって少数民族になってしまった。タムジン(公開懲罰)で有罪とされた人々は牢獄に入れられ、実にしばしば計画的飢餓、遺棄、病気の放置などで生命を奪われていった。新企画の拷問、殺人が導入され、銃の台尻で頭蓋骨を打ち砕かれたり、鉄箸で眼球を抉り出されたりした。僧侶は毛布でぐるぐる巻きにされ、灯油をかけられて焼き殺されていった。公開去勢や、バーベキュー用棒杭にくくりつけて焼く、尼僧を素っ裸にしてむりやり性交させる、というのもあった。特に中共軍兵士の間で人気があったのは、チベット人を“文明化”“浄化”すると称する兵士たちによる集団レイプであった。彼らはそれを“地上の楽園”と称して楽しんだ。・・・
“地上の楽園”のもう一つはラサ人口の四分の一に当る一万人市民の投獄である。その中で最も有名だった囚人の一人は、1950年中共侵略の直前、アポによって更迭されたカム省長ハル・シャペである。彼はそれまでずっと中共の侵略に抵抗しつづけていた。
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2007年09月18日

中共のチベット侵略8

大嘘報道は共産党の常道

国民党も共産党も、世界に向けては平気で嘘八百を報道してきました。日本はこの中国の嘘をその時々に徹底否定してこなかったことで、未だにその嘘が政治の道具に使われています。
ところで、今回の総裁選について、突然出できた福田氏の優勢報道は、マスコミの国民誘導であり、演説会などでの支持は圧倒的に麻生氏であったことをジャーナリスト水間政憲氏戸井田とおる議員がアピールしています。
マスコミの世論誘導も共産党の虚偽報道も、国民には正確な判断をできなくさせる思想統制という点で瓜二つです。強大な権力を利用する本当に卑劣な手法です、議員の金の問題どころではない巨悪です。注意しましょう。

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真は1959年ラサ反乱で逮捕される2人のチベット人官吏
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引用開始
 ラサの反乱は二日間続いた。肉弾戦がいたる所で繰り広げられた。・・・
 しかし22日(1959年3月)の朝には戦局は中共側に傾いていった。圧倒的な兵力と火器、絶え間ない砲撃と相まって、チベット側は食糧、弾薬ともに底を尽き始めていた。
 ノルブリンカに残っていたわずかなチベット抵抗軍は今や徹底的に叩き潰された。屍体は山と築かれ、動けない重傷者は仲間が止めをさしていった、という。悪臭は耐え難く、もはや人間のいる場所ではなくなっていた。ポタラもついに陥落した。三つの僧院は見る影もなくなっていた。“鉄の丘”の医学校は文字通り跡形もなくなっていた。
 残る最後の砦はジョカン寺だった。今やこれまでと押し寄せる信者の群で境内、寺院の隅々まで埋められていった。人々は建物の周りを次第に広がる台風の目のようにぐるぐると回り始めた。“チョラの勤行”が始まったのだ。その数は優に一万人を超え、中共軍にとっては悪夢のようであった。戦火が収まっても、人びとを無事町の外へ連れ出すには二日はかかったであろうと彼らは踏んでいたという。
 しかし相手はそんなに甘くはない。夜明けとともにジョカン寺の美しく飾られた屋根に銃弾が雨霰と降り注いだ。寺院の前に屯していた群衆は機関銃で薙ぎ倒され、カンパ軍も機銃と騎馬隊で応戦した。三時間の激闘の末、双方におびただしい死傷者が出、ついに昼頃になって轟音を響かせながら戦車が登場した。戦車は一度も止まることなく、ジョカン寺の大門を押し倒し、人間を轢き潰し、内庭で急停止した。こうなることは初めから分かっていたが、“ジョホ・リンポチェ――大仏”の目の前でそれがついに現実となってしまった。
 その後、何万人ものチベット人が捕えられ、男女、子供の屍体が道路を埋め尽した。
 マッカーシーによれば(『蓮華の涙』)、無差別攻撃後、中共軍は屍体の中にダライ・ラマがいるかどうか探して回り、負傷者はその場で射殺、死にかけている者は放置したまま調査をつづけた。中共はもちろんこの国民的蜂起を一部地域の騒動に過ぎぬとごまかし、北京は一人のチベット人も死ななかったと嘯いた。それどころか、“解放”された市民は大喜びし、出遭った中国人にカタを差し出し笑顔で迎えて“チュシデライ――おめでとう”と声をかけたと報じた(「北京レビュー」1959年5月5日号)。・・・・
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2007年09月17日

中共のチベット侵略7

ダライ・ラマのラサ脱出

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜、粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はポタラ宮殿の麓で中共に抗議するチベット国民
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引用開始
 1955年3月17日,ノルブリンカの庭に砲弾が炸裂したのと同時刻、「ラサの騒動に関するニュースはまったく当てにならない。チベット問題はむしろ人びとの心と心の衝突であり、武力衝突ではない」などとネール首相はインド議会で喋っていた。彼の答弁は翌日、内外の新聞を飾った。が、それがネールのチベットに関する嘘っぱちの最後となった。三日後の3月20日、中共軍の大砲はラサのど真ん中にあったインド領事館を吹き飛ばしたのである。
 一方、3月17日の脱出組は幾つかに分かれて出発した。第一陣は法王の母、末弟のテンジン・チョイギャルと姉のツェリン・ドルマ。・・・第二陣は上級職員のグループで、防水布で覆われたトラックに分乗し脱出した。最後はダライ・ラマ、パーラ侍従長、僧院長、法王の義兄の親衛隊長クスン・デポン一行だ。・・・・ダライ・ラマは国璽をしっかりと握ったまま出発の準備を調えた。・・・・
 歴史家の中にはダライ・ラマのラサ脱出を計画し、実際に手を貸したのはCIAだという者がいるが、ロジャー・マッカーシーは強硬に否定する。それが真実でないからというだけでなく、もっと大事なこと、あの最も困難な、中共を騙し通すという離れ業をやってのけたのがチベット人なのだと主張した。・・・・

 チベット軍兵士だったキルティ・ルンドプ。彼のいた軍は何年か前に解散させられたため、ミマン(チベット語で“人民代表”の意。反中共活動組織)に加わっていた。
「ラサ市民は自分たちの無知に気づき始めていた。この何年かミマンはラサ市民に、中共に協力していればいつか必ずチベット全土を破滅させられると警告しつづけてきた。今やっと人びとはその意味を理解してくれた。法王の行方が分からないのが一番の理由であった。法王なしではラサ市民も他のチベット人と少しも変らないからだ。以前、彼らはカンパやアムド、ゴロク族たちを見下していたが、今になって同胞たちがどんな道を歩いてきたのかを知ったのだ」と彼は語った。・・・・
 中共側とてダライ・ラマの消息がつかめないでいらいらしていた。譚将軍は外国領事館に逃げ込んだのかもしれぬと、インド、ブータン、ネパール領事館に家宅捜索を申込んだが、体よく断られた。・・・・
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2007年09月15日

中共のチベット侵略6

中共、約束事の大嘘

 福田氏の首相就任が優勢のようですが、安倍政権は政策の批判で倒れたのではありません。にもかかわらず、安倍氏とは正反対のような政策を打ち出すであろう福田氏を担ぎだす自民の面々は、政策無視、自己の権勢欲のための福田支持であることは明白でしょう。保守派国民の意志とはかけ離れた擁立ではないでしょうか。福田政権成立後の内閣支持率では、国民の中の真の保守勢力からの支持は大幅に減るように思えます。
 勿論このような選択をする自民党への支持も同様でしょう。
早い機会に政界再編の動きが活発化することを祈るのみです。

星野仙一氏のオンライン・レポートにいい記事がありましたのでリンクしておきます。

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はリタンのカンパ戦士
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引用開始
 1956年は、中共の約束事が耳をかす値打ちもない大嘘だったことがはっきりしたという点で、チベット人にとって忘れられない年だった。民主的改革? 土地改革? 援助? 進歩? それらはすべて暴力、脅迫、飢餓、死、にいい換えてみればずっと分かり易い。それが中共の共産主義への道だった。チベットを乗っ取り、完全にわが物にするのが中共側の目的だったのだ。これが毛沢東のいう「大家族の一員としてチベットを抱擁する」という意味であった。
 カム、アムド、ゴロク、どこの村でも中共の虐殺を経験しており、抵抗の狼煙を最初に上げたのは自分たちの村だったというだろう。誰も間違ってはいなかった。ほんの数週間のうちに東チベットの抵抗勢力は吹き荒れる嵐となって広がったのだ。

人類の敵共産党の非道
 中共側も負けてはいない。妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。特に尊敬されている僧たちは狙いうちされ、尼僧と性交を強いられたりもした。ある僧院は馬小舎にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。あくまでも拒否した僧のある者は腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴にほうり込まれ、村人はその上に小便をかけるよう命じられた。さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」と中共兵に嘲られ、揚句に全員射殺された。怯える子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。
 貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。僧院は馬や豚小舎にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されるかしてしまった。リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。何千人もの村民は強制労働に駆り出され、そのまま行方不明になっていった。僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、「仏陀はどうしたんだ?」と中共兵に嘲られた。

 国際法曹委員会報告書は、「1956年終わり頃までに、ある地域ではほとんどの男は断種され、女性は中共兵に犯され妊娠させられていった。ある村では二十五人の富裕な村人が人びとの前で生きながら焼き殺された。また別の村では二十四人の親が、子供を中共の公立学校へ行かせるのを拒んだ罪で目に釘を打ち込まれ、虐殺された」と記している。
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2007年09月14日

中共のチベット侵略5

大暴動と大虐殺

参照記事共産主義黒書アジア編もご覧下さい。
共産党の犯罪はナチス以上に厳しく告発されるべきです。
マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はチベット女性を公開懲罰にかけようとする中共兵
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引用開始
1955年リタン。
 チベット僧たちはついに中共軍の憎しみの鉾先をまともに食らうことになる。アタは語った。
「1955年、中共軍の指導者が何人かリタン僧院にきて、一切の武器を差し出せと通告してきました。私たちが大量の武器、弾薬を備蓄しているのを十分知っていたのです。そしていいました。“すべての財産は共産党のものである。チベットは今や中国の一部であり、中国人の生き方を学べ”しかし僧院は武器を手離しませんでした。
 ある日のこと、高僧たちは庭に引き出され、市民は銃を突きつけられ庭へ連れてこられました。そして奴らは高僧たちを大声で罵りました。心の師として敬ってきたラマ僧たちがそんな風に扱われるなんて、人びとは皆大変なショックを受けました。
“これまで五年間お前たちを文明化しようと努力してきたが何の効果もなく、動物と少しも変らない。今から白か黒か、二つの道のどちらかを選べ。おとなしく武器と財産を差し出すなら白い道。拒否して戦いを挑むなら黒い道を辿ることになる”
 すると一人の老僧が進み出ていいました。“何を決めろというのかね? 我々は自分たちのものは自分たちのものだ、といっているだけだ。お前さんたち中国人が我々に財産をくれたことがあるかね? 我々の財産は我々のご先祖から貰ったものだ。それをまるで初めから自分たちのもののようないい方をする権利がどこにあるかね”・・・・

 同じ頃、ゴロク地方ではもっと激しく反共の嵐が吹きまくっていた。
 毛沢東はラジオで一千万の中国人をチベットに移住させると約束していた。中国と国境を接するゴロクがその最初の犠牲にされた。毛はまず数千人の中国農民をゴロク族の牧草地帯に入植させた。しかしゴロク族はラサ市民と違ってデモなんかやらなかった。部族民も僧侶も一斉に武器を取り、移住してきた中国農民に情け容赦なく襲いかかったのだ。中共軍も直ちに反撃を開始した。ゴロク族の武装を解除させるため、三千の軍隊が注入された。あっという間に戦いのニュースがゴロクじゅうに伝わり、この地域の二千人のゴロク族が刀や口ごめ銃を振りかざしながら最寄の中共軍兵舎に馬を飛ばした。この時だけで約八百人の中国兵を血祭りに上げ、新しい銃などを分捕った。部族側の被害は軽微だった。が、勝利はそこまで。中共軍は大挙してゴロク族の居住地を襲撃、家畜の群を略奪し、人家を焼き払い、数千人の老若男女を殺戮しまくった。生残った者は山に逃げ込み、以後はひたすら中国人を殺すためにのみ生きつづけることを誓ったのだ。しかしこのゴロク族の惨劇も、他地域のチベット人は長い間知ることもなく、諸外国にいたっては何年もの間まったく気づくことはなかった。通信手段の貧しさ故である。
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2007年09月13日

中共のチベット侵略4

中国共産党の裏切り

安倍首相が辞任しました。反日朝日新聞やテレビの執拗で異常なまでの安倍叩きには憤りを感じますが、産経のアンケートを見る限り、朝日の安倍叩きが国民の真意だとは思えません。
 日本はこのような偏向マスコミの一方的報道で、進路を歪められてしまうことがよく判る事例でしょう。年金問題に関する直接責任が民主党の支持団体「自治労」であることなど、ほとんど報道されませんでした。結局被害を蒙るのは一般国民なのですが。
 以下のチベットの問題も、反日マスコミでは報道された覚えがありません。朝日などに対しては根本的に中国共産党の犬だという認識を持って、報道の意図を見抜くことが大切でしょう。

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はゴロク族の僧侶たち
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引用開始
 毛沢東はチベットの完全な植民地化にはダライ・ラマがなくてはならぬ存在であることを十分認識していた。彼を力ずくで屈服させることは無謀であり愚の骨頂だとも思っていた。ダライ・ラマは非常に賢明だが、何せ年若く感じ易い年頃だ。いっそのこと北京に引っさらって、チベット国民と引き離し、何千キロと離れた地に長く留めておけば、いつかは我々に靡くだろう。
 毛沢東はダライ・ラマを中国に誘い込む上手い口実を作った。新中国憲法発足祝賀会に賓客として彼を招待するのだ。ダライ・ラマはついに、四百人の随員を引き連れて中国の地に足を踏み入れることになった。ダライ・ラマはダライ・ラマで、たとえそれが罠であろうとこの企画に乗る決心をした。彼も必死だったのだ。・・・・・
 ダライ・ラマに同行した十四歳のパンチェン・ラマ――チベット第二の精神的政治的支柱――は毛沢東の操り人形であった。
“分離し征服せよ”政策は二人の聖なる存在にその通り適用された。・・・
 ダライ・ラマを北京に誘い出した本当の理由は、“PCART――チベット自治区準備委員会”という秘策によって、チベットを完全な支配下に置く道具に利用することであった。自立、自治などとは真っ赤な嘘であり、チベット人の独立心の抹殺を意図していた。・・・・
 ダライ・ラマは“委員会”を謀略ではないかと疑っていた。しかし毛沢東と個人的に接するうちに彼の誠意と寛大さに魅かれてゆき、少なくともチベットのために何かをしてくれるのではないかと信じるようになった。・・・・

1955年3月、ダライ・ラマは大きな不安を胸に抱きつつ北京を発ち、帰国の途についた。そして彼の儚い期待はすぐに打ち砕かれることになった。
 東チベットの生まれ故郷、アムドに足を踏み入れ、クンブム僧院に近づくにつれ、何かしら不吉な予感がダライ・ラマの心に忍び寄った。何かがおかしかった。東チベットにいったい何が起こっているのだ?
 道中中共の警備員が常時つきまとい、住民との接触を妨げた。それでも人びとの表情から、厳しい弾圧が始まっているのが感じ取られた。
「私が人びとに幸せかと問うと、“はい大変幸せに過ごしています。これも中国共産党と毛主席のおかげです”といいながら彼らの目は涙でいっぱいになるのだった。私に対してさえも共産党の決まり文句でしか答えられないのを知って、深い衝撃を受けた」(『チベットわが祖国――ダライ・ラマ自叙伝』)
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2007年09月12日

中共のチベット侵略3

脅迫下の協定署名

日本のマスコミ特に朝日は、安倍潰しのためには週間新潮で報道されているような、民主党に都合の悪いことはほとんど報道しません。またこのチベットの悲惨な事実も、中国共産党に都合の悪いことは報道しません。これが今の日本のマスコミの姿です。
こんなマスコミが政治を曲げたのが今回の参院選です。公平な情報を国民に隠蔽し、国民に偏った情報だけで判断させようとする卑劣なマスコミに我々の国が振り回されないようにしたいものです。

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はリウォチェから南へ移動する中共軍
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引用開始
「・・・・ その時はまだ中共軍は町を占領しようとはしていなかったにしろ、デンゴはじめ目障りな存在はすべて、つまりカム全体をその年の冬までに押える積もりだったのです」サイクロンはいった。
 一方、国際メディアにも邪魔をされず、自分たちの東チベットがどうなっているのかとんとご存じないラサ政府をいいことに、中共軍は続々とチベットに侵攻していた。・・・・
 1950年10月、中共軍は東チベットに襲いかかった。
 同時に三方から四万の軍隊が西へ向って進撃した。
 一方サイクロンは、リウォチェ僧院の屋上から中共軍が谷間に雪崩れ込んでくるのを見守っていた。・・・
「本当にびっくりしました。ちょっとした小競合はありましたが、町は直ぐ中共軍に制圧され、最後まで抵抗したチベット兵は捕えられてその場で処刑されました。中共軍はリウォチェには見向きもせず、蝗の大群のように襲来したかと思うと南の方へと去っていったのです」サイクロンはいった。・・・・
 国連は再度チベットからアピールを受け取ったが依然としてその扱いに戸惑っていた。
 ダライ・ラマは国際政治を理解しようとしたが、理屈でどうなるものではなかった。チベットのような無力な国を守ろうとしない国連なんか何のためにあるのだ? 若い君主は国連の奇妙な機構に幻滅を感じた。
「正義の支えとして国連を信頼していたのに、我々の問題がイギリスによって棚上げにされたと聞いた時には驚いた。インド代表の態度にも同様に落胆した。インド代表はこういった。“平和的解決がなされるものと確信している。そしてチベットの独立は守られよう。これを確かとする最良の方法は国連総会でチベット問題を議論しないことだ”これには、誰も我々を武力で助けてはくれないということを知った前回以上の無力感を感じた。今や、友人たちは我々の正義への訴えを代弁しようとさえしてくれないのだ。中共軍の大群の中に置き去りにされたように感じた」(『チベットわが祖国――ダライ・ラマ自叙伝』)・・・・
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2007年09月11日

中共のチベット侵略2

中共軍のチベット侵入開始

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
特に人権にやかましい日本のマスコミ等が、現在も行われているこのような事実をほとんど報道しないことで、マスコミがいかに信用できないか、あるいは故意の隠蔽が日常的に行われているかを知り、日本が歩むべき道を間違えないようにしましょう。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はダルツェドの大通りを行進する中共軍
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引用開始
1950年3月、チベット国境で数カ月間訓練を積み、満を持していた中共軍はついにカムに侵入を開始した。
彼らはまずダルツェドという商業の町で足を止めた。・・・・
4月中頃までに三万人以上の軍隊が町を通り抜けていった。彼らは第十八軍団の前衛部隊で、チベットの峻厳な地形の情報を収集しながら、次の目的地カンゼ――カムの有数な商業都市――へ向う道路建設の工作隊であった。・・・・
1950年8月までにダルツェドからカンゼまでの自動車道が完成し、この離れ業にチベット商人たちは憂えるよりむしろ大歓迎したのであった。・・・・
中共軍はカンゼで、“牝竜の城”という古いチベット人の砦に司令部を置いた。ニャロンの首長、領袖たちはそこに呼ばれ軍政官に会った。
「初めのうち彼はマルクス主義については余り喋らなかった。代わりに俺たちがいやというほど知っている国民党の腐敗、堕落を非難し、中共政府はそれらを一掃して一般庶民の生活を向上させることを願っている、と力説した。そのためには人民自らの統治が欠かせず、指導者諸君はこの改革の要だ、とね。我々はごもっともと頷き、けっこうなことですと口々にいった」(ジャムヤン・ノルブ)

 デァウポンの故郷、ジェクンドにも中共軍がやってきて、今回は町の下手に大きな陣地を構えた。
「最初、中共軍はジェクンド部族の好感を得ようと一生懸命でした。この地域を占拠する気のないことを散々に宣伝したのです。父はこの地方の行政官でしたから、私も中共軍の指導者たちに会いました。ジェクンドの中国人住民は昔から茶の交易に従事しており、国民党軍と仲良くしていたのですが、中共軍が入ってくるとたちまち彼らに靡きました。彼らは正当な値段で何でも買ってくれ、ずいぶん潤ったのです。女性をとても尊重し、住民は安堵しました」デァウポンは語った。・・・・
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2007年09月10日

中共のチベット侵略1

本文引用の前に9月5日付けの新聞報道をご紹介しておきます。
R.ギアさんが北京五輪ボイコット呼びかけ
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3日、ベネチア国際映画祭で新作映画をPRするリチャード・ギアさん=AP
 チベット仏教の熱心な信者として知られる俳優のリチャード・ギアさん(58)が、中国の人権問題を理由に来年夏に開催される北京五輪ボイコットを呼びかけ、波紋が広がっている。
 ギアさんはロイター通信に対し、「五輪は、チベットの将来を決め、中国にチベットの人々への人権弾圧をやめさせることを促す良い機会だ」と述べた。・・・・・

では今回ご紹介する本から。
中共軍チベット侵攻前夜

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
中共侵略前のチベット
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引用開始
「中共軍が侵略してくる前は、国民党軍とまあまあうまく付き合っていました。兵隊の数も取るに足らなかったしね。彼らと交渉している父親をずっと見てました。阿片を吸っている連中は大勢いたし、まったくの役立たずでした。役職についている連中は簡単に買収できたし、金さえ渡せば面倒はありません。ジェクンドは奴らの取引場所で、それ以外の町には住めなかったのです。ここでじゃこう、ヤク、羊皮、砂金を買い、私たちは中国茶を買っていました。何しろ我々チベット人は中国茶中毒でしたからね。
 もちろん、時々地方の部族と国民党との小競合はありましたよ。時には部族側が中国人兵器庫を襲って銃や弾薬を略奪することもありましたがね。なるたけ連中とは事を起こさないようにしていましたが、ちっとも奴らを怖がってなんかいませんでした」デァウポンはいった。・・・・
いつかはラサに巡礼しポタラ宮殿を見たい、というのが彼の最大の夢だった。

中共は宗教にまったく敬意を払わない。“人民の敵”と称して寺院を目の仇にしていると父はいっていました。毛沢東は我々が心から寺院を大切にし、僧院を守ってきているのが分からないのでしょうか? あの連中の考えていることはさっぱり分かりません。仏教がなくなるということはチベットも共になくなることなんです。男子の四分の一は僧侶なんですからね。国民党ですらこのことは理解していて、宗教問題には手をつけませんでした」デァウポンはいった。
 多分その噂は中共軍に追われている国民党が流したデマだろうと、多くのチベット人は思っていた。国民党のデマは今に限ったことでないのだ。
 あの軍事的天才の毛沢東が、チベット人は仏教と僧院によって生きてきたということに気づかないはずはないと人びとは思っていた。たとえ宗教的な人間でなかったとしても、チベット文化と社会の現実を理解できないほど愚かだとは信じ難かった。・・・・

 思えば中共軍の侵略以前は比較的平穏でした。国民党の兵隊共は文字通り負け犬で、装備は劣悪、騎兵隊といっても痩馬が何頭かいるくらいで、兵隊の多くは阿片吸引者、チベット人と戦おうなんていう気は初めからありません。そもそも彼らはチベットになんかいたくなかったのです。いなくてはならない理由は誰にもなかったんですから。ただ給料がもらえるというだけで、買収にも簡単に応じるし、チャンスがあれば故郷に逃げ帰ろうと隙を窺っていたのです。・・・・
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posted by 小楠 at 07:44| Comment(2) | TrackBack(2) | 共産主義の実態

2007年09月08日

南京攻略特派員特電6

世紀の絵巻、南京入城式

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回はその後編のご紹介をしています。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
写真は入城する海軍軍楽隊
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引用開始
【南京にて十二月十七日 朝日 今井特派員】
 嗚呼感激のこの日、同胞一億の唱和も響け、今日南京城頭高く揚がる万歳の轟きは世紀の驚異と歓喜茲に爆発する雄渾壮麗な大入城式である。この軍中支に聖戦の兵を進めて四ヶ月、輝く戦果に敵首都を攻略して全支を制圧し、東亜和平の基礎茲に定まって国民政府楼上に翩翻と翻る大日章旗を眺めては誰か感激の涙なきものがあろうか、荘厳勇壮を極めるこの大入城式を目のあたりに実況を故国に伝える記者の筆も感激と興奮に震える。
 南京は日本晴れ、この日紺碧の空澄み渡って雲一つ浮ばず銃火茲に収まって新戦場に平和の曙光満ち渡る。中山門、光華門、通済門、中華門、和平門、太平門、日の丸の旗波打つこれら輝く各城門から午前早くも光輝燦然たる日章旗を捧持して、南京総攻撃参加の各部隊続々入城、中山門より国民政府に到る三キロのメーンストリート中山路の沿道に堵列の将兵は征衣に積もる戦塵を払って意気軒昂。見渡せば道の北側に上海派遣軍、南側に杭州湾上陸部隊、血と汗に汚れた戦闘帽に輝く両頬は今日この一瞬の歓喜に満ち満ちて日焦した満面が感激に燃えている。午後一時全部隊集結完了した。
 
 畏くも金枝玉葉の御身を以て親しく南京攻略戦に御従軍遊ばされた朝香宮殿下の召された御自動車が中山門に到着した。続く車は杭州湾上陸の○○部隊長、そして中山門に感激の瞳を輝かせつつ下り立ったのは上海戦の労苦を双頬に刻んだ軍司令官松井石根大将である。午後一時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り○○部隊長、各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された。
 東方紫の峰を横たえる紫金山の中腹にこの盛典を見守る中山陵、ああ、この日! この時! 新支那建設の父、孫文はその陵下に在って如何なる感慨があるであろうか。恐らくは抗日支那の末路をわが将士とともに哀れんで居るであろう。・・・・・
 此時下関に上陸した支那方面艦隊司令長官長谷川中将は、各幕僚を随えてこれに加わる。午後二時国民政府正門のセンター・ポール高く大日章旗が掲揚された。翩翻と全東洋の風をはらんではたはたと靡く日の丸の美しさ、嚠喨たる海軍軍楽隊の「君が代」が奏でられ始めた。空に囂々たる爆音を響かせて翼を連ねる陸海軍航空隊の大編隊・・・・・
 挙げる祝杯は畏くも将士を労わせ給う恩賜の日本酒立食の大卓に並べられた饗宴は、烏賊、かち栗、昆布の戦捷を祝う品々だ、肝に銘じしみ渡る美酒の味! 再び繰返される聖寿万歳の轟きだ。恐らくはこの一瞬祖国日本に一億の同胞が挙げる万歳もこの歓喜をともにするであろう・・・・
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posted by 小楠 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(1) | 書棚の中の支那事変

2007年09月07日

南京攻略特派員特電5

南京総攻撃

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回からはその後編のご紹介をします。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
写真は中山門城壁(上)、中華門(中)、光華門(左下)
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引用開始
無錫戦線に散る二記者
【上海朝日特電十一月二十五日発】

 堅塁を誇った無錫が遂に安達部隊及びその他によって完全に占領された。二十五日、第一線に従軍して皇軍の壮烈なる進撃状況をフィルムに収めていた本社映画班前田恒特派員(30)は同日午前十一時半敵弾を受けて壮烈な戦死を遂げ江南戦線における報道陣の花と散った。前田特派員の戦死と殆ど同時に読売新聞特派員渡邊峰雄氏(28)も同地で戦死した。

脇坂部隊決死の突入
【南京城外にて朝日前線通信本部十日発】

 九日午前五時半早くも南京城光華門前面に迫り城壁間近に到達した脇坂部隊は、爾来三十六時間城壁上から猛射を浴せる敵軍最後の抵抗に対し凄壮極まりなき迫撃戦を続けていたが十日午後五時決死的爆破が功を奏し光華門の一部は破壊されたので時を移さず突入、同五時二十分城壁高く日章旗を翻した。
 折柄西に沈む夕陽を浴びて我が一番乗の勇士が力の限り左右に打ち振る日章旗は敵首都南京陥落を力強く意義づけ、これを眺める吾等は感激の涙を禁じ得なかった。
 敵はこの城壁を首都防衛の最後の線と恃み九日朝我が軍が城壁下に達するや続々精鋭を繰り出し分秒の隙もなく機銃を以て撃ちまくり明故宮飛行場その他城内の砲兵陣地からは重砲や迫撃砲を釣瓶撃ちにして我軍を悩ました。我軍は敵のかかる死にもの狂いの抵抗を予期し将士は決死の意気鋭く背嚢をかなぐり捨て唯生の甘藷と弾丸を腰につけて敵と対抗、猛烈な機関銃戦を演じた。
 敵弾雨霰と降り注ぐため最前線と後方とは全く連絡を断たれ、弾薬、糧食の供給は全然不可能になったが、全将兵は城壁の下から一歩も退かなかった。
 かくて朝来薄曇りの空を衝いて飛来する我が空軍の南京城内爆撃と芹澤部隊の砲撃により城内の一廓が崩れ、敵膽を寒からしめたのである。光華門は鉄扉を以て固く閉ざされその上土嚢を積んで厳重に固められているので我砲弾を幾ら受けてもびくともしなかった。午後五時我が決死隊は敵弾雨飛の中を潜って城門口突入爆薬に点火するや轟然たる爆音と共に門の一角に穴が開いた。それッと貴志大尉の一隊、続いて葛野中尉の一隊が城門に突入し五時二十分土嚢伝いによじ登り日章旗を高らかに掲げた。城頭高く揚る万歳のどよめきこれと相呼応して脇坂部隊の全将士の万歳の声は四辺に谺して南京城を圧し直ちに機銃を城壁上に据え城内の敵兵掃討を開始し激戦中である。
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posted by 小楠 at 07:11| Comment(5) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変