2007年08月21日

ベルツの日記12

奉天会戦:明治38年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露戦中の日記を引用してみます。
写真は陥落直後の奉天(日露戦争古写真帖より)
balz12.jpg

引用開始
明治38年(1905年)1月5日(東京)
 今日、宮中の盛大な新年宴会。各国公使を除けば、またも自分は唯一の西洋人であり、しかも、金糸入りの大礼服姿の百官に混って、たった一人の燕尾服だった。なにしろ、勲四等以上の日本人はいずれも、けばけばしく刺繍で飾り立てた大礼服をもっているからだ。・・・
 天皇は、広間の一端の離れた壇上に、東面して着席される。その左右に、一段下がって、各皇族の席がある。・・・自分は、いうまでもなく当世の花形である東郷提督の筋向いに席を占めたので、その顔立ちをくわしく観察することができた。かれは面長で、頬骨はほとんど目立たず、上り下りのない真直ぐの眼、高くはない鼻だ。ゴマ塩の鼻下ひげがある。全体として、その顔はいささか日本人離れがしている。・・・
 宴会は純日本式で、紐飾りの付いた服装の給仕が銀瓶から注ぐ一杯の酒で、例のように始まる。それから、各自の前に黒い漆塗の盆に盛って並べてある料理に手を出す。皇室の紋章入りの酒杯は、もちろんのこと、誰もが大変ほしがるものである。マツ・ウメの花・タケに、長寿の表徴であるツルとカメを配した「幸福の山」(蓬莱山)の象徴的な飾物もまた、各自包んで帰って差支えない。・・・家では召使い一同が、この宴会の「幸福の山」のふもとに盛られている菓子の、よしんば小さいかけらの一つでも、各自にゆきわたれば、大変ありがたがるからである。

1月16日(東京)
 日本軍は、敗れた敵軍に対して、非常に騎士的な態度を示している。これには、おそらく打算的な気持ちも混っているのだろう。がしかし、事実は事実なのだ。乃木将軍は長崎の知事に一書を送って、ステッセルをしばらくの滞在中、特に鄭重に取扱うよう依頼した。乃木としては、これは確かに心底からの希望である。

1月22日(東京)
 アメリカは清国に、厳正中立維持の要求を突きつけた。そしてドイツ、イギリス、イタリアの三国と組んで、交戦国側にこの点を厳重に警告し、ことに門戸開放の原則をも強調しようと目論んでいる。門戸開放の点は、平和の暁には、特に日本への要求になるわけだから、今からすでに満洲を、外人に対して思いのままに振舞える日本の勢力範囲とみなしている。多数の性急な東京の連中のお気には召すまい。奇怪なのは、アメリカが何事にも出しゃばるのと、また日本がそれに対して「有難う」と礼を言っていることだ。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B