2007年08月15日

ベルツの日記7

北清事変(義和団の乱)の頃:明治33年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
義和団事件の頃の日記を引用してみます。先ずは楽しい事項から。
写真は京都円山公園の桜(モース100年前の日本より)
balz7.jpg

引用開始
4月9日(京都)
 けさ未明に、神戸からこの京都へ。一面に春の美しい装い。祇園のそばの公園内のにぎわいは、今すこぶる面白い。サクラはちょうど満開で、たくさんの人々をひき寄せている。にわか作りの茶店ないしは、燃えるように赤い覆いをかけた簡単なベンチに、時としては色とりどりの幕を張りめぐらしただけのものが、至るところにある。
 またここには、でかでかと広告した、鳴物入りの『百美人見せ物』もある。これは百人の芸者の写真を陳列したもので、入場料五銭。入場者はそれぞれ、どの芸者を一番美人と思うかを記入する――というよりはむしろ、記録係に口で伝えるのだ。これらの若い芸者のうちで、最多数の投票を得たものが六百円の賞金をもらう! すべて、東京にある類似の催し物のまねごとである。全く特異であり、しかも文化史的、民族史的にいってはなはだ興味のある点は、日本人の選んだ入賞者がヨーロッパ人の眼には賞に値しないものであり、またその逆も真であることだ。

6月6日(東京)
・・・・清国でも、おもしろくない模様である。ロシアは、暴動を鎮圧するために自国の軍隊を派遣することを、清国政府に申し出たそうである。フランスも結局、一緒に巻きこまれねばならないことになるかもしれない。よしんばそれがどんなに辛くとも。もしロシアの友情を傷つけたくないのなら、『やむにやまれぬ』ことだ。・・・・

6月13日(東京)
・・・・政情不穏、ますます不穏。清国では、ロシアが大沽に砲二十四門を有する四千名を下らぬ兵を、またイギリスが一千名をそれぞれ上陸させた。天津から北京への鉄道は破壊された。数名の西洋人が殺害された。ながらく気づかわれていた『大戦争』がここで始まらねばよいが――。

6月17日(宮ノ下)
 清国の政情は険悪である―険悪! 清国人は、暴徒ですら、決して一般に考えられていたほど『無視してよい存在』ではない。・・・
 英国のシーモーァ提督が1400名の各国連合軍を率いて、天津から北京に進軍した。恐らく誰も信じていただろう、提督が何の抵抗も受けず、間もなく首都に到着するものと――約140キロの行程。ところが、再三再四電信を破壊されながらも、とにかく届いた報道はといえば、その軍隊が前進していないことばかり伝えている。暴動及び外人に対する清国政府の態度は全く不明である。北京にいる外人の状態は危険きわまりない。

6月18日(宮ノ下)
・・・この場合、救援できる立場にあるのは日本とロシアのみである。両国だけが、相当大部隊の兵を出せるのだ。明らかに暴動は、清国全土に拡大する恐れがある。
 単独では今、ドイツは何もできない。ロシアの家来になりたくなければ、イギリスと日本に結びつくよりほかはないが、よりによってこの両国たるや、前者はドイツ国民から、また後者はドイツ政府から、それぞれ念入りに手ひどい扱いを受けていたのだ。
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posted by 小楠 at 07:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B