2007年08月09日

ベルツの日記4

大隈公暗殺未遂(明治22年)

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿を引用してご紹介します。
引用開始

10月18日(東京)
 センセーショナルな出来事――その場から、今帰宅したところだ。七時頃、イギリス公使館のナピーア氏のもとへ車をかり、そこから、夕食によばれていたチェンバレン氏のところへ行くつもりだった。ところが、ナピーア夫人は、熱に浮かされたように興奮していた。自分の顔を見るが早いか、有無をもいわせず、お説教だ。最初は何のことだか合点がいかなかった。そのうちに、ようやく事情が判ってきた――暗殺事件が起ったのである。それが大隈外務大臣に! 
 みんなが自分を探していたのだ。そこで、馬車に飛び乗り、外務省へ。どの門も、サーベルとピストルの警官で一杯だ。前庭には、数知れぬ馬車、人力車。自分の顔をみると、すぐ屋内へ通した。大隈氏は、自分がいつも氏夫妻を往診する時と同じ階下左側の部屋で、ソファの上に横たわっていた。意識は明瞭だ。仮包帯を施した右脚の激しい痛みは、モルヒネで和らげてあった。人々は、まだ橋本氏が来るのを待っていた。他のおもだった日本の医師たちは、もう集まっていた。かれらはすべて、甚だ冷静に事を処理した。だが、このような場所ですら、先生がたはあのばか笑いをやめることが出来なかった。

 右足内側のくるぶしの上方にある傷は、その個所で脛骨を完全に粉砕していた。その上方の第二の傷は、ひざ関節の内側下方にあって、該関節内への粉砕骨折を伴っていた。脛骨の中間部も同様に、全部粉砕されていた。下腿を動かすと、骨が、まるで袋にはいっているかのように、手の中でがたがた音を立てた。上腿切断手術よりほかに、施す手段がないことは明白だった。この手術を佐藤氏が行い、その際、橋本氏がある程度の指図をした。手術は順調にはかどった。治癒の見込みは十分ある。

 凶行は、明らかにダイナマイト爆弾を以て行われた。犯人来島恒喜は、その場で頸部をかき切って自殺した。
 凶行の原因――条約改正。大隈は、この国多年の宿願であった条約改正をなしとげようと思った。事実かれは、その目的達成の寸前にまでこぎつけ、ドイツ、アメリカ及びロシアとの新条約はもはや締結されたも同然で、ただ批准を要するのみという状態にあった。この時、突如として、多数の日本人は不安をいだき始めたのである。内閣まで、このことで確執を生じた。かつては日本人すべてが望んでいた宿願を、多大の労苦と手腕でついに達成することに成功した大隈は、今では、外人に国を売ろうとする国賊であるとか、その他のばかげた非難を浴びるにいたった。このような一般の感情が最高潮に達して、今回の卑劣な暗殺行為となって現れたものである。・・・・
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posted by 小楠 at 07:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B