2007年08月07日

ベルツの日記2

岩倉公の死(明治16年)
 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿を引用してご紹介します。
写真は左から二人目、使節団時の岩倉具視(ロングフェローより)
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引用開始
 それは明治16年の初めのことだったが、ある晩、ドイツ公使館で一人の貴公子然たる青年にあった。あとで判ったが、それは岩倉公の令息だった。青年はわたしの方へ歩みよって尋ねた、
「お伺いいたしますが、先生、ひどい嚥下(えんか)困難を呈する場合は、危険な兆候でしょうか?」――「その方はお幾つです?」――「五十二歳ですが」――「それじゃあ、まあただ事ではありませんね」――「実はわたしの父なのですが」――
青年がさらになお二、三の症状を述べたとき、食堂癌の疑いがあると、わたしは告げておいた。

 それから半年あまりは、別に何事も耳にしなかった。するとある日、宮内省と文部省の役人から、至急面談したいとの知らせをうけた。二人の役人は勅令によりわたしに、次の船便で神戸へ立ち、京都で重い病気にかかっている日本の最も重要な政治家の岩倉右大臣を見舞い、出来れば東京へ連れ帰ってほしいと依頼した。すぐさまわたしは、助手を一人伴って神戸へ出発したが、神戸ではもう、わたしを迎える手まわしがすっかり出来ていた。
 公はひどく衰弱し、やっとの思いで少量の栄養をとり得るにすぎないような有様だった。六月の末、わたしたちは東京へもどった。――その時、公はわたしから包み隠さず本当のことを聞きたいと要求した。

「お気の毒ですが、御容態は今のところ絶望です。こう申し上げるのも、実は公爵、あなたがそれをはっきり望んでおられるからであり、また、あなたには確実なことを知りたいわけがお有りのことを存じていますし、あなたが死ぬことを気にされるようなお方でないことも承知しているからです」
「ありがとう。では、そのつもりで手配しよう。――ところで、今一つあなたにお願いがある。ご存知の通り、伊藤参議がベルリンにいます。新憲法をもって帰朝するはずだが、死ぬ前に是非とも遺言を伊藤に伝えておかねばならない。それで、出来れば、すぐさま伊藤を召還し、次の汽船に乗りこむよう指令を出そう。しかし、その帰朝までには、まだ何週間もかかる。それまで、わたしをもたさねばならないのだが、それが出来るでしょうね?」そして公は低い声でつけ加えた、
「これは、決して自分一身の事柄ではないのだ」と。
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posted by 小楠 at 07:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B