2007年08月06日

ベルツの日記1

東京・加賀屋敷にて
 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿を引用してご紹介します。
写真は大名屋敷の門の一例(B・ジャポンより)
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引用開始
(明治9年)6月26日
 今日、きめられた家へ引越しましたが、さしあたり前任者ヒルゲンドルフ博士の客分としてこの家へ迎えられたのです。この住居はいわゆる『加賀屋敷』、すなわち旧加賀候の邸宅である大学の構内にあります。・・・ 将来わが家となるこの家は坂の上にあって、そのすその大きい『不忍』池には無数のハスの花と、かわいい朱のお宮があります。向うの丘の眺めもすばらしく、そこは古い美しい『上野』公園で、今をさる僅か8年(!)前に維新の役の決戦が行われたところです。
 この家の庭は、老樹の木立があって非常に美しいので、これを自分の趣味どおりにしつらえることのできる日を、今から楽しみにして待っています。・・・
 着いてから五日で、すぐ生理学の講義を始めましたが、学生たちの素質はすこぶる良いようです。講義はドイツ語でやりますが、学生自身はよくドイツ語がわかるので、通訳は実際のところ単に助手の役目をするだけです。・・・
 日本のドイツ医学は一種の伝統をもっていたのです。既に17世紀には、ドイツの探検家で医師の、ケンプフェルが、オランダの役人としてではありましたが、来朝しています。しかもかれの活動は、当時の非常に困難な事情にもかかわらず、ある程度の注目をひきました。それから50年前には、同じくオランダ人として(それ以外には入国の可能性がなかったので)ヴュルッブルクの医師フォン・シーボルトが来朝し、多数の門弟を出しましたが、そのうち若干のものは、自己の知識欲のため死罪にすら処せられねばならなかったほどです。・・・

11月7日(東京)
 今日、ミットフォード著『古い日本の物語』を読んだ。日本の事情に関する見解が、この本では、日ごろ在留ヨーロッパ人の口からよく聞くのよりも正しいこと、ことに女性にたいする見方が妥当であることを知って満足に思った。
 同時にまた、その中で語られている伝説と歴史上の出来事は個人的の勇気、極めて幼い時からの勇敢さを表明しており、われわれを心から驚嘆させるばかりである。志操の高潔な点も物語のすべてを通じて現れており、しかもそれが極めて純潔で堅固であるため、まるで美しい中世紀を眼前にみるような気がするのである。
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posted by 小楠 at 07:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B

2007年08月04日

日本人の敵朝日新聞

朝日新聞の不買を拡大しましょう

 朝日の捏造、虚偽報道はもう周知の事実でしょうが、このことが結局は外交への悪影響を与え、我々日本人の税金を、中国共産党や韓国に支払うことにつながっているという因果関係を明確に認識するべきではないでしょうか。これまでどれほど厖大な国民の税金がドブに捨てられてきたか、よく見直してみることです。
 戦後日本は、ことごとく朝日の主張の逆をやってきて今の日本があります。朝日の主張の逆が正論だということです。
安全な日本、健全な日本にするため、いつまでもこんな卑劣な、民主主義を衆偶政治に誘う(情報の隠蔽によって)マスゴミを許さないことが結局は「生活第一」につながります。もちろん自治労の解体もね民主党さんよ、
社保庁職員:年金着服1億3千万円 24人が12年間で【2007年8月3日、毎日新聞】
そしてその民主党比例代表の中でトップ当選を果たしたのが、自治労選抜の組織内候補・相原久美子だった。
なぜこれが「生活第一」なんだよ!!このこともはっきり説明したらどうだ。

J-CAST ニュースより抜粋
抜粋引用開始
NHKディレクター出身で現在、上武大学大学院教授を務める池田信夫さんはJ-CASTニュースに対し、1992年の朝日新聞による「従軍慰安婦」報道を踏まえたうえで、「孤立」した朝日新聞の社説について次のようにコメントした。

「慰安婦問題は、ほとんど朝日新聞の捏造した『非問題』だ。『軍が慰安婦を強制連行した』という朝日の誤報で騒ぎが起き、政府が『河野談話』で謝罪したため、これが『歴史的事実』として定着してしまった。
 その後、国内では歴史家の検証によって朝日の報道が誤りであることは広く認められるようになったが、そういう続報は海外に伝わらないため、欧米メディアまで慰安婦をホロコースト並みの戦争犯罪と信じている。
 これは『女性国際戦犯法廷』をめぐる誤報以上の国際問題だが、朝日は訂正もしないで『枝葉の問題だ』と開き直っている。
 今日の社説では、安倍首相に謝罪を求めているが、これは順序が逆だ。政府が謝罪すべき『軍の強制』という事実があったかどうかを検証するのが先であり、その責任は朝日にある」

慰安婦決議で新聞「猛反発」 朝日社説だけが「孤立」
旧日本軍のいわゆる従軍慰安婦について、米下院が「対日謝罪要求決議案」を本会議で採択した問題で、日本の主要新聞は社説やコラムの中で「事実誤認」「おろかな選択」「有害である」などと揃って批判論を展開した。しかし、朝日新聞だけは安倍首相が談話を表明して謝罪するよう要求しており、「孤立」が際立っている

朝日以外の新聞各紙が米「対日謝罪要求決議案」について批判や疑問をあらわにした。
米下院本会議は2007年7月31日未明(日本時間)、旧日本軍によるいわゆる従軍慰安婦問題で日本政府に公式に謝罪を求める決議案を可決した。決議案は1月末にマイク・ホンダ議員が提出したもので、2007年6月27日(日本時間)には米下院外交委員会で可決された。決議案は、旧日本軍の「強制集団売春制度」によって、「集団レイプ」「堕胎の強制」が行われたとするもので、「残虐性に前例がない」「20世紀における最大の人身売買の一つ」などと断じられている。さらに、本会議での可決が決まった翌日の米国では、ラントス下院外交委員長が、「(日本での)性奴隷の徴用を否定する試み」について「吐き気をもよおす」とまで批判していることなどが報じられている。
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posted by 小楠 at 07:18| Comment(6) | TrackBack(1) | 反日マスコミ

2007年08月03日

フランス青年の明治8

明治の相撲と鎌倉
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
 著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は相撲をまねてみる一行
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引用開始
 隅田川を両国橋で渡って少し行った地域の本所のエコイン寺(回向院)で、力士の戦いが行われた。・・・・
 この奇妙な興行は、私に今までだれも考えたことのないことを思いつかせた。力士たちが戦っている様子、壇上の様子を写真に撮ることだ。写真機を持って行って試みようとした時、新しいもの好きの人は好奇心を見せたが、力士たちの丁重だがきっぱりとした拒否にあった。
 たいへん礼儀正しく、礼儀に対して最も敏感な日本人は、習慣の定めた節度を越すと、その人間に対して冷たい軽蔑の態度で接するようになる。彼らが過敏であることは、それほど長く滞在しなくても分かる。・・・

 私は言われた手続きを踏み、どんなにつまらない交渉もすべて厭わないようにした。そのため、イトーと寺の隣の小さい家に、協会の会長の七十歳の紳士に会いに行った。・・・
 イトーが伝統的な丁寧なささやき声で、私には永遠と思える説明、ほめ言葉をささやき、お愛想を言い、それに対して相手も同じように応え、時々静かにお茶を少しずつ飲み、キセルをふかし続けた。嫁や子供が話し合いに加わり、ソオデスカ、ソオデスネ、エ、エ! の声をのんびり発しながら。それが会話の中に何度も出て来るのだ。
 全員が非常な驚きで私のことを見ていて、もし、通行人が外の壁を外すことができたら、ためらわずに仲間に入ったことだろう。結局私のほうが成功をおさめ、親方は私の希望を受け入れることを約束してくれて、巨人たちを閉会式の次の日、闘技場を取り壊す前に集めるようにしてくれた。
 私のために行われた興行は、短時間では済まず丸一日かかった。・・・
 とにかく細かい部分も手を抜かず、いつもの状態であるようにした。私が言わなくてもすぐに集ったのが群衆だ。観客が必要だという心配は、物見高い人たちが四方八方から集って来たのを見た時、すぐ晴れた。すべてが思うとおりにいった。スモウ(力士)たちは、全然威張らずに気持ちよく私の希望に応えてくれた。何度も、試合前、途中、後のポーズをとってもらい、最後にお礼のためにきちんと包んだお金を、頼み込んで会長に受取ってもらった。
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2007年08月02日

フランス青年の明治7

明治、東京にて
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は大森の梅屋敷
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引用開始
・・・最も活気のあるのは大通りで、交通量の激しい往来で遊ぶ子供たちが問題になっている。小さい子供から、子供(あるいは代わりに巨大な人形)を背負っている子たちも、みんな道の真ん中を走り、注意されているにもかかわらず、平気で車夫たちの足元にまとわりついている。
 それに加え、盲目の人が杖をつきながら歩いていたり、下駄をはいた女性たちが不器用に小股で歩いていたり、全速力で走るジンリキシャ、荷物が重くてかがんでいる苦力などがいて、事故が起きないのは奇蹟としか言えない
 だがこの民族の冷静さと落ち着きが、事故を防いでいることは認めなくてきならない。イライラしたり喧嘩する人がいないし、車夫たちも他のクルマとぶつかりそうになると、非常に巧みに止まるのだ。その上笑いながら邪魔したことを詫びるのだ。どこでも洗練、礼儀、それに暗黙の了解が存在している。我々も見習わなくては!・・・・

 浅草への散歩道は、東京で最も人出の多い所で、観光客にとって興味深いものだ。・・・・
 トリイをくぐると、両側には店がぎっしり並んでいる。大通りはもっと活気づいている。写真館や床屋、おもちゃ売り、服、靴、茶や米、ハトのための豆売りがいてお祭りのようで、この露店の前を町や田舎からやってきた家族連れが、カンノン(観音)に向ってぞろぞろと散歩している。
 赤い柱の下にあるお金を投げ入れる木の箱に近づくにつれて、混雑が激しくなってくる。ここで祭壇の前を通り一列になり、寺の見せ物の彫像と、六世紀に川の岸辺で、ある貴人が釣り上げたという女神の聖遺物にたどりつくためだ。これは病気の救世主のビンツル(お賓頭廬)を表したものだ。いつでもこの偶像に、体の治したい部分を触れている熱心な人々を見かける。あまりにこすられるので、彫像はすっかりすり減っている。・・・
 坊さんたちによる祈祷が終わると、人の流れは寺の周りの露店の並ぶ娯楽や遊びのある広場に向かう。軽業師、手品師、学者犬、玉突き、弓、芸を仕込まれた鳥やてなずけられた猿、画廊、茶屋やお菓子屋。通りのそこら中に写真屋があり、陳列棚には人気のある俳優のさまざまなポーズのもの、有名な芸者、よそゆきの顔をした市民の写真が飾られている。
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posted by 小楠 at 07:55| Comment(2) | TrackBack(1) | 外国人の見た日本B

2007年08月01日

フランス青年の明治6

明治、横浜にて
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は当時の横浜、弁天通り(?)の松飾り
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引用開始
 私たちの住んでいる別荘からは、一年の半分以上雪に覆われた、頂が砂糖の塊に似た富士山や海、山手の坂の素晴らしい景色が見える。一階には食堂と大きなサロンが、二階には寝室がある。ヨーロッパ式の住居の作りと同じで、小さな別棟には、台所と使用人の部屋がある。スタッフはウィ
ル、イトー、ボーイ一人と料理人の四人だ。・・・・・
 この日紹介してもらった数人に、秋の競馬で出会った。先おとといやっと終わったが、この競馬は三日間続き、その間はまさにお祭りだ。香港や上海でもそうだったが、皆にとって競馬はホリデーで、この間、銀行も会社も店も、馬場に行くか、郊外で休日を過ごして息抜きするために休業する。日常的な流れはすべて中断され、現地の人たちも多かれ少なかれ、お祭りの明るい気分を楽しんでいる。
 すでに何週間も前からコースは馬主や調教師の集会場になっており、選抜の名目で走らせている。彼らの馬は、中国のポニーか日本のポニー、または掛け合わせたポニーで、居留者はみな大会のずっと前からずっと後まで、どの馬が勝とうが負けようが、競馬に夢中になる。馬場は私たちの借家から車で十五分のところの山手にある。・・・・

 この日に座を沸かせたのは、朝鮮の使節団だった。・・・・
 公式のレセプションからレセプションへと出席し、新しいものを見る機会に恵まれて非常に喜んでいるようだ。使節団は、愉快で天真爛漫だが、やや粗野な八人だ。競馬には通訳に連れられて羊のようにゆっくりとやってきて、人々のいるスタンドの真ん中にぎこちなく固まっていた。彼らの着ている緑、紫、白や青の服は、あまり清潔とはいえず、針金の大きな被り物(サラダの水切り籠か携帯用食器籠のような形)は、皆の視線を集めていたが、そんなことには一向にお構いなしのようだ。競馬には非常に関心が高く、乗馬への情熱を呼び覚ましたようだ。こらえ切れなくなって、彼らのうちの一人がミカドに走る許可を請うた。
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posted by 小楠 at 07:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B