2007年08月31日

洗練された日本精神2

礼儀作法の厳格さ

「誇り高く優雅な国、日本」という本をご紹介します。
著者は1873年グァテマラ市に生まれ1927年パリで亡くなった、エンリケ・ゴメス・カリージョという報道文学者で、父親はスペイン貴族の血筋に誇りを覚える保守的な人物ということです。
 大国ロシアとの戦いに勝って西欧諸国を唖然とさせた日本は、当時ヨーロッパ中の注目の的となっていました。
 来日は1905年8月末横浜到着となっており、確かな滞在日数は不明ですが、ほぼ二ヶ月後にはフランスへの帰途についたようです。帰路の旅先から、彼はパリにいる友人のルベン・ダリーオ(ニカラグアの大詩人)にあてた手紙の中で「もしあなたが私の葬式で弔辞を述べるようなことがあったら、私の魂が東洋の芸術家のそれであったということ、そして金色に輝く漆で大和の花や小鳥や娘たちの姿を描きたいと願っていたということを忘れずに人々に伝えてほしい」と書き送っています。
では「洗練された精神」と題する章から引用してみます。
写真は明治42年頃の上野駅の画
carrillo2.jpg

引用開始
 日本では農夫でさえ、モリエールの貴婦人たちと同じように慇懃な美文調で話す。詩人芭蕉の伝記の中に、興味深くまた含蓄のある逸話がのっている。数人の樵が山中でこの俳諧の創始者に出会ったとき、こう言う。「あなた様のご助言を乞う非礼を、あなた様の御令名に免じてお許し下さい」。これを、記録者が庶民の言葉を書きしるす際に誇張したものだなどと思ってはいけない。礼儀は、帝からクーリー(苦力)にいたるまで、だれもが細心の注意を払って行う国の宗教である。

 マセリエールが言及している室鳩巣の書を読めば、かの時代には礼法が民衆の間にまで浸透しており、いたって貧しい者でも相手を侮辱したり不作法な態度をとることはなかったことがわかる。労働者は、彼らの用語範囲内でできるかぎりの謙譲語を使用して丁寧に話をした。
 侍について鳩巣はこう言っている。「彼らの言葉はきわめて洗練されており上品なので、民衆にはほとんどわからない」。
 島流しになったある武士は、本土から遠く離れたその島で細工物を作る仕事をしていたが、いかに庶民の言葉を身につけようと努力しても、仲間の労働者たちに正確に理解してもらえず、気違い扱いされたという。
 上流階級の文法によれば、表現すべき尊敬の種類によって動詞の語尾が変る。“召使いは籠を持っていた” というのと“ご主人は刀を持っていた” というのは同じではない。各音節が尊敬や軽蔑、敬意や尊大さ、お辞儀やしかめっ面をあらわす。学者たちは何年でも飽きもせずに丁寧語や尊敬語の定義について議論をしている。洗練された習慣には、十分に洗練された言語が必要なのだ。あらゆるものが礼儀作法の厳格な法に則っている。・・・・・
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2007年08月30日

洗練された日本精神1

礼に始まり礼に終わる

「誇り高く優雅な国、日本」という本をご紹介します。
著者は1873年グァテマラ市に生まれ1927年パリで亡くなった、エンリケ・ゴメス・カリージョという報道文学者で、父親はスペイン貴族の血筋に誇りを覚える保守的な人物ということです。
 大国ロシアとの戦いに勝って西欧諸国を唖然とさせた日本は、当時ヨーロッパ中の注目の的となっていました
 来日は1905年8月末横浜到着となっており、確かな滞在日数は不明ですが、ほぼ二ヶ月後にはフランスへの帰途についたようです。帰路の旅先から、彼はパリにいる友人のルベン・ダリーオ(ニカラグアの大詩人)にあてた手紙の中で「もしあなたが私の葬式で弔辞を述べるようなことがあったら、私の魂が東洋の芸術家のそれであったということ、そして金色に輝く漆で大和の花や小鳥や娘たちの姿を描きたいと願っていたということを忘れずに人々に伝えてほしい」と書き送っています。
では「洗練された精神」と題する章から引用してみます。
carrillo.jpg

引用開始
 日本人が持つ社会的特性のうちでもっとも一般的な徳が礼儀正しさであることは、偉大な日本研究家でなくとも、またわざわざ観察する必要もないくらいすぐにわかることである。われわれは日本のどこの港であろうと下船するやすぐに、人々の深々としたお辞儀や頭を軽く下げる動作や微笑みを目にすることになるからだ。だれもが微笑み、だれもが平伏している。われわれに何かを教えてくれるときや質問に答えるとき、あるいは何かの説明書をくれるとき、とにかく何のためでも、いつでも、どこでも、日本人はいちいち微笑んでお辞儀をする。さらにこれが対話となれば、一句ごとに雅語を入れねばならないし、一言ごとに頭を下げることとなる。

 日本語には、侮辱語や粗野な言葉がないかわりに、人を誉めそやす言葉は山ほどある。そして彼らは誇りをまるで信仰のように培っている人々でありながら、もっとも謙虚に平伏することを知っている。「日本は微笑みとお辞儀の国であり」とロティは言う、「おびただしい数の行儀作法を有し、それをヨーロッパ人が復活祭のときにすら経験することのない熱心さで行っている」と。これがまさしく、どんなうかつな旅行者でも通りに一歩足を踏みこんだ途端に目にするものである。ましてや民族の魂の中まで入りこみたいと思っている旅行者なら、それがさまざまな形で日本人の生活の隅々にまで行きわたっていることをはっきりと知ることができる。
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2007年08月29日

性奴隷イメージの拡散

元朝日新聞記者松井やより氏の行動
西岡力著の「よくわかる慰安婦問題」から、抜粋しています。

引用開始
 2000年の6月、南北首脳会談で金大中が北朝鮮に行ったときに、金大中夫人が北朝鮮の女性活動家と会い、そこで慰安婦問題を南北共同で取り上げようという話をする。
 このような中で、平壌で南北の慰安婦問題の活動家のネットワークができ、さらにオランダ人や中国人も含めて慰安婦になった人たちのネットワークがつくられる。そして日本でもアジア女性基金に反対するもうちょっと左のグループが、「バウネット・ジャパン」という組織をつくる。
これをオーガナイズしたのが、松井やより氏という元朝日新聞の記者で、この人は新左翼的な思想の持ち主だった。高木健一氏らは、アジア女性基金でお金を配ろうとしたほうだったが、彼女は、それよりもうちょっと左で、慰安婦のことも含めて、日本の戦争中の行為を断罪することに血道をあげる。
 日本の犯罪行為なるものを挙げて、それがすべて天皇の責任だと言い、天皇を有罪にする国際法廷なるものを開く。「女性国際戦犯法廷」と彼らは呼んでいるが、法廷といっても、弁護側が誰もいないのだから、法廷ではなくて、革命のときに行われる人民裁判と同じものなのである。それは彼らが権力をとったときに、おそらくやるであろうと予測されるようなもので、人権というのを認めない独裁政治そのものである。

 もう亡くなった人間に対して、それも裁判と言いながら、「被告」の実名を挙げて弁護士もつけずに、一方的に糾弾だけをやる。彼らにはまったく人権感覚がないことの証左だと思うが、こういうことを国際ネットワークを作って日本でやり、しかも、それをあろうことかNHKが番組「問われる戦時性暴力」において、松井らの「女性国際戦犯法廷」をそのまま放送することになっていた。

 そんなことが起こっていることを放送の直前になってやっとNHKの幹部が気づき、若干修正を加えて放送した。これは92年以降の論争の中身にまったく反した番組だった。NHKとしては、論争の結果、事実関係がどこまでわかったのかを踏まえて番組をつくらなければ、不偏不党とはいえない。
 ところが、もろに偏向しているプロパガンダのような番組がつくられていた。ぎりぎりのところで、自浄作用が働き、若干修正がなされたわけだが、それに対して朝日新聞が政治家の圧力で番組内容が変更されたかのように報道した。
 そのため今では政治家が番組に圧力をかけたという問題になっているが、それよりも問題の本質は、ひどく偏向し、事実にも反する、このような主張をNHKが一方的に流していいのか、ということなのである。そちらのほうが、はるかに重大な問題なのだ。
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2007年08月28日

事実を隠蔽する朝日

東京で家五軒買えるほどの貯金

 下記のような事実の隠蔽や虚報までして日本と日本人に多大な物的、精神的損害をもたらす朝日新聞は、すでに公平中立な新聞社という基準からはかけ離れています。これ以上こんな新聞を容認できますか?

西岡力著の「よくわかる慰安婦問題」から、抜粋しています。

引用開始
 1992年から93年にかけて、日本政府は政府機関に残る公文書をしらみつぶしに調べて、慰安婦動員の実態にせまろうとしていた。朝日新聞をはじめとするマスコミも、慰安婦強制連行を証明できる証拠をそれこそしらみつぶしで探していた。
 しかし、
第一に、挺身隊という公的制度は慰安婦募集とは関係ないことが確認された。

第二に、公文書をいくら探しても、先に見たように民間の犯罪的慰安婦狩りを取り締まれという善意の関与は出てくるが、公的機関が慰安婦強制連行を行ったことはまったく証明されない。

第三に、自分が強制連行に加担したと告白していた吉田清治と原善四郎参謀の「証言」にも信憑性がないことが判明した。それ以外に、強制連行したという側の証言は出てこない。

 最期に残ったのが、92年に入り続々と名乗り出てきた元慰安婦たちの証言であった。当然のことながら、私も彼女らの証言をできる限り集め、検討した。その作業をしながら、少し大げさに言えば、人間というものを考え、複雑な思いに陥ることも少なくなかった。
 92年3月、名乗り出た元慰安婦、文玉珠さんが訪日し、軍事郵便貯金の払い戻し請求を行ったという新聞報道があった。文さんは1942年から44年までビルマで慰安婦生活をしたが、その間に軍人からもらった現金などを現地部隊の軍事郵便局に預けた。通帳は紛失したが、6、7000円残っているはずだから、払い戻してほしいと下関郵便局に請求したと言うものだ。
 その後、郵便局側が調査したところ、92年5月11日に軍事貯金の原簿が発見された。原簿によると、1943年6月から45年9月まで12回の貯金の記録があり、残高は26145円となっていた。本来ならこの金額の大きさが大ニュースだった。なにしろ当時の26000円である。その頃、5000円あれば東京で家一軒買えたというから、彼女の貯金は家五軒分なのだ。
 しかし、新聞の扱いは大変小さかった。ちなみに、あれほど慰安婦問題に熱心な朝日新聞は残高がいくらだったかを報じなかった。

 1965年の協定で韓国政府に支払われた5億ドルにより、日韓両国は韓国籍者の貯金なども含む補償を解決させた。それを受け日本は韓国籍者の貯金などの権利を消滅させる法律を作った。
 また、・・・韓国政府は文さんのような貯金所有者に対して個人補償を実施している。通帳紛失のため韓国政府からの補償をもらえなかった文さんは、韓国政府と交渉すべきだろう。そのときに、日本は郵便局の原簿の写しを提供するなどの協力はできる。
 ところが、文さんは日本の郵便局に対して、「個人の請求権は消滅していない。当時日本人として貯金したお金だから、ただちに返して」とまったく理屈にならない要求をし、彼女の貯金払い戻しを実現しようという日本人らの支援組織が生まれ、そのめちゃくちゃな要求をまた、マスコミが批判せずに報じている。
 これらの報道を見て、私は、慰安婦問題の詐欺劇はついに行くところまで来たと、嘆くばかりだった。

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2007年08月27日

慰安婦裁判煽動者

慰安婦裁判をけしかけた日本人

本文の前に、慰安婦問題の火付け役朝日新聞がらみの事件がまた報道されましたので引用しておきます。

毎日新聞記事より
愛知女性殺害:金目的で面識のない女性を 逮捕の3人供述
 岐阜県瑞浪市の山林で25日夜、名古屋市千種区内から拉致、殺害された女性の遺体が見つかった事件で、愛知県警捜査1課と千種署は26日、自首してきた住所不定、無職、川岸健治容疑者(40)ら男3人を死体遺棄容疑で逮捕した。3人は女性から現金7万円やキャッシュカードを奪ったうえ、殺害したことも認めており、県警は特別捜査本部を設置、強盗殺人容疑でも追及する。3人は犯罪仲間を募る携帯電話サイトで知り合ったといい、金目的で拉致を計画し、面識のない女性を襲ったと供述している。
 ほかに逮捕されたのは▽愛知県豊明市栄町西大根、朝日新聞外交員、神田司(36)▽名古屋市東区泉1、無職、堀慶末(よしとも)(32)の両容疑者。殺害されたのは同市千種区春里町2、派遣社員、磯谷(いそがい)利恵(りえ)さん(31)。調べに対し、3人は容疑を認め「弱い女性ならやりやすいと思い、たまたま通りかかった女性を狙った。顔を見られたので殺した」と供述している。
引用終わり

それでは、西岡力著の「よくわかる慰安婦問題」から、抜粋します。
引用開始
 調べれば調べるほど、権力による強制連行は証明されていないことがわかってきた。それならなぜ裁判が起きたのかということになるのだが、ここにはさらにもう一つの仕掛けがあった。
 大分県に青柳敦子という女性がいる。私はこのときの調査で、大分の彼女の自宅まで訪ねて詳しい話を聞いた。お医者さんの奥さんで、在日韓国人のちょっと変わった宋斗会氏という差別反対運動家に私淑していた。青柳氏は宋氏と組んで、日本政府を相手に謝罪と補償を求める裁判を始めた張本人だ。その後、私は東京で、青柳氏を後ろで操っていた宋氏とも会って話を聞いた。その聞き取りから私が明らかにできたのが次のような事実だ。
 この種の裁判の最初は、実は、サハリン在住韓国人問題である。これも宋斗会氏が始めたものだ。しかし、宋氏は偏屈な人で、・・・・その上、弁護士も使わないから、書類が体裁をなしておらず、なかなか裁判所が受け付けてくれない。そこで高木健一という弁護士が出てくる。

 高木弁護士らは1975年、宋氏を排除して書類を整え、「終戦後サハリンに残された韓国人が韓国に帰国できなかったのは、日本政府の責任だから、謝罪し、補償せよ」と日本国を訴えた。
 この訴えは根拠のないものだった。そもそも、敗戦国日本はサハリン韓国人の戦後の処遇についてまったく関与していない。サハリンを軍事占領したソ連が、北朝鮮を支持する立場から、韓国人の韓国への帰国を認めなかったのが、悲劇の原因だった。裁判は道理にかなうものではなかったが、事実を歪曲してでも日本を非難すればよいという姿勢が、高木弁護士ら反日日本人の特徴だ。・・・・

 高木弁護士らにサハリン裁判を乗っ取られた宋斗会氏らは、今度は、韓国から原告を集めようとしたのである。
 当時、「朝日ジャーナル」という左翼雑誌があったのだが、宋・青柳グループは1989年5月19日号に「日本国は朝鮮と朝鮮人に公式に陳謝せよ」という広告を出す。この広告は12月まで隔週で合計15回掲載された。
 青柳氏がその広告を韓国語に訳して韓国を訪問したのは、89年11月19日から22日までだ。徴用被害者や元慰安婦などで日本政府を相手に謝罪と賠償を求める裁判の原告になってくれる人を探すのが訪韓の目的だった。青柳氏は、用意した資料を報道機関などに置くなどはしたものの、被害者に会うこともできず帰国した。
 そのとき、私の知り合いの日本のある新聞の支局にも彼女が現れ、原告募集活動をしていることを話したという。それを聞いていたので、私は彼女の活動を知っていた。日本人がわざわざ韓国まで出向き、日本政府を訴えましょうと韓国語で資料を配ってまわった。調べれば調べるほど話は胡散臭くなっていくばっかりだった。
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2007年08月25日

朝日新聞の悪質な捏造

朝日新聞の悪質かつ重大な捏造

 最近の論調は、朝日新聞だけが突出して中国共産党の機関紙の様相を呈してきました。勿論以前から変ってはいませんが、他の新聞各社が少し遠慮ぎみに或は日本の国益の上に立っての報道もある中で、なおさら朝日の反日姿勢が際立ってきたということでしょうか
 慰安婦問題だけに関しても、どれほどの税金が捨てられたでしょうか、しかも、日本と日本人を貶めるために。
 良識ある日本人は、もうこんな下劣な朝日新聞の講読はよしましょう。
 西岡力著の「よくわかる慰安婦問題」から、抜粋しています。

引用開始
 次に慰安婦だったことを最初に名乗り出た金学順さんを取材しようと思ったのだが、金さんは入院していて会うことができなかった。その代わり、韓国に日本のテレビ局などが金学順さんを取材に行ったとき現地の手配や通訳などをしている在日韓国人女性に会うことができた。
 彼女は通訳などを繰返すうちに金学順さんと親しくなり、その結果、軍による強制連行ではなく貧困のためにキーセンとして売られたという身の上を知ることになった。・・・・
 彼女は金学順さんの本当の身の上を知ったあと、記者らがいない一対一の席で、静かに金学順さんに話しかけたという。
「おばあちゃん、キーセンに身売りされたのですよね」
「そうだよ」
「結局、おばあちゃん、なんで出てきたの」
「いや、わしは寂しかったんだ。誰も訪ねてこない。そしてあるとき、テレビを見ていたら、戦時中に徴用で働かされていた人たちが裁判を起こすという場面が出たのさ。それで、わしも関係があるかなと思って電話をした」

 91年8月、金学順さんが元慰安婦として初めて名乗り出たのだが、そのとき、朝日新聞は先に見たとおり、「初めて慰安婦名乗り出る」と大きく報じた。これは韓国の新聞よりも早く、世界的なスクープだった。この記事を書いたのが、遺族会幹部を義理の母とする植村隆記者だった。名乗り出たところの関係者が義母だったわけで、義理の母親が義理の息子に便宜をはかったということだった。・・・・
 ここには、金学順さんが貧乏のためキーセンに身売りしていたという問題の本質に関わる重大な事実関係が書かれていない。・・・
 朝日新聞は同年12月25日付けで、植村隆記者が金学順さんから詳しい話を聞いたとして、「日本政府を相手に提訴した元従軍慰安婦・金学順さん 返らぬ青春恨の半生」と題する大きな記事を載せた。・・・
ここにも、キーセン身売りが書かれていない。
 調べていくと、植村記者が「初めて元慰安婦名乗り出る」という8月のスクープ記事を朝日に書いた数日後の8月14日、金学順さんは韓国の新聞記者を前に記者会見していた。その記事を韓国紙で探すと、韓国の新聞の中で最も左派系の「ハンギョレ新聞」にも金学順さんの記事が出ていた。
「生活が苦しくなった母親によって14歳のときに平壌にあるキーセンの検番に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れられていった所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊だった。私は40円で売られて、キーセンの修行を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」(ハンギョレ新聞1991年8月15日)

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2007年08月24日

慰安婦問題は朝日の放火

慰安婦問題をめぐる論争

 西岡力著の「よくわかる慰安婦問題」から、先ず経緯と現在の構図について書かれている『はじめに』の記述の抜粋から始めます。
nishioka1.jpg

引用開始
 この論争は主として92年ころから翌93年まで私(西岡)を含む一部専門家の間で激しく続き、「強制連行は証明されない」ということでほぼ決着した。・・・・
 その後、日韓の反日勢力は、「強制連行は証明されない」という論争結果を意図的に隠しながら、河野談話を利用して反日宣伝を続け、96年には日韓両国の中学歴史教科書に慰安婦強制連行が書き加えられてしまう。・・・・
 この段階で、朝日新聞や左派学者らは、連行における強制だけが問題でないとして、慰安所の生活などにおける強制性を強調しだすが、説得力が乏しく、2000年代に入り、日本の中学歴史教科書からは慰安婦強制連行の記述が削除される。・・・・・
 (現在)国内の反日勢力だけでなく、今度は国外の反日勢力のネットワークができつつある。つまり、国内の反日勢力が国外の反日勢力と結んで、日本包囲網をつくろうとしているということだ。とうとう、その魔の手がアメリカの議会にまで伸びてしまったということである。

 国内の論争ではこちらが勝っていたが、論争に負けた国内の反日勢力が外と結んで、逆噴射を仕掛けようとしているというのが全体の構図である。
 彼らにとって安倍政権は、国内の論争で負かされた相手なのである。その安倍晋三が政権を獲って、日本をいよいよ正常化しようとしていることに対して、外の力を使って、日本正常化の動きをつぶしにかかっているというのが現在の状況といっていいだろう。・・・・・
引用終わり

次に本文の中から抜粋します。
引用開始
 1983年に慰安婦に関する日韓の認識を大きく歪める吉田清治著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房)が出版された。・・・
 日本の朝鮮史学者、朝日新聞に代表される自虐派メディア、反日運動家らは、吉田の告白を検証もせずに無条件で信じ、1980年代半ば以降、歴史書、事典などの記述に慰安婦の強制連行説が広がっていき、その結果、植民地時代を知らない世代の中で「慰安婦強制連行説」にむしばまれる者たちが増えてきた。この流れに乗って89年頃から、当時の社会党議員が国会で慰安婦問題を取上げはじめた。・・・・
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2007年08月23日

ベルツの日記14

対馬沖海戦(日本海海戦):明治38年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露戦中の日記を引用してみます。(最終回)
写真は降伏したニコライ一世を点検する日本軍係官(日露戦争古写真帖より)
balz14.jpg

引用開始
5月5日(東京)
 日本の新聞が、フランスの中立違反振りに興奮しているのも無理はない。ロゼストウェンスキーはインドシナの諸港を利用し、しかも外国の船舶までそこからの出港を差止めている有様だ! 
 典型的なのは、この危機に当って、『タイムス』その他の英紙のそらぞらしい態度だ――すなわちいわく「フランスがいかにデリケートな立場にあるかを、日本も顧慮すべきである!」と。得手勝手な話だ!
 フランスの態度により、日本の立場は極度に脅かされているのだ。ロシア艦隊としては、フランスの港に逃げこんでじっとしていることによってのみ、国外にありながら、日本軍の攻撃をうける危険を、一時は免れ得るわけである。しかも、事が死活に関する重大問題であるというこの場合、日本に感傷的な顧慮をせよと称するのだ。フランスは公然とその同盟国を助けているが、イギリスはきこえぬ風をしている。だが日本としては、それがどんなに辛くとも、平気な顔をしておらねばならない。なにしろ、やがて再び金が要ることはわかっているのだから、英人の機嫌を損じてはならないのだ。

5月10日(東京)
 東京在留の全外国人は大騒ぎだ。かつて永年にわたり東京のフランス公使館付武官を務め、今はフランスの大会社の代理店をやっている退役陸軍大尉ブーグァンが、義理の息子F・ストランジと共に、ロシアのスパイとして逮捕されたのである。・・・ブーグァンのように世間で知られ、ことに以前は日本の武官のあいだで非常に人気のあった男に対して、こんな手段をとる以上、政府は極めて確実な証拠を握っているに相違ない。・・・しかも、かれには財産がなく、収入はまことに微々たる有様であったから、家族の将来に見透しがつかなかったのだ。こうして、かれは誘惑に敗れ、危険と知りつつ破滅の一歩を踏み出したのであった。・・・

5月27日(東京)
 ロシア艦隊に関して、奇怪きわまる消息が伝えられている。あるいは、まだインドシナの領海内にとどまっているとか、あるいはまた、フィリピンの近海に居るとか。なおまた、戦艦五隻と輸送船三隻は上海に向って航行中であり、戦艦二隻は上海よりさらに北方へ進航しているとの噂もある。
午後――
 号外――ロシア艦隊は対馬の近海に現れ、海戦が行われていると。今し方、自分のところに居ったグリスコング米国公使の話しによると、この報道が真実である旨の情報を、公使はうけていると。
 こうしておそらく、自分が今これを書いている最中に、世界歴史の重要な一ページが決定されているのだ。
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2007年08月22日

ベルツの日記13

対馬沖海戦前の日本:明治38年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露戦中の日記を引用してみます。前回と前後するものもありますが、ロシアのバルチック艦隊が日本へ進撃中の国内の様子です。
写真は鎮海湾を出撃する連合艦隊(日露戦争古写真帖より)
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引用開始
3月16日(東京)
 午後、結婚式の後の日本式披露宴に出席。唯一の西洋人だった。長与又郎博士の令妹が、一青年医師と結婚したのである。そして今日、帝国ホテルで300人の客を迎えて、その披露宴が行われた。・・・
 新婦は、日本婦人の正式礼装である。白の下着に黒の絹服をつけていた。それには幸福の山「ホウライサン」の意匠が刺繍してあったが、この意匠は、結婚の贈物を包むのに用いられる「フクサ」という、金糸入りの四角い絹布片にしばしば見るもので、すなわち松と竹と梅の花である。会衆の男子をつくづく眺めたとき、その衣服が今ではぴったり似合っていること、かれらが洋服に慣れ切っていることが目についた。25年前、このような場合の日本人の様子とは、なんという相違だったろう――服はたいていだぶだぶで、下着類は汚れ、猫背で膝が曲っていた。・・・

3月21日(東京)
 日本の力が増大するのを、合衆国では邪推の眼でみる徴候が、いよいよ著しい。二週間前にはカリフォルニア州の立法会議が、ワシントンで日本移民制限の措置を提案することを決議した。一週間前には議会の一委員会の委員長が、アメリカは何時なりと日本にほこ先を向け得るよう、その艦隊を増強せねばならないと公言した。そして今度は移民委員会が、日本人はアメリカの公民になれないとの理由をもって、テキサスにおける日本人10名の帰化を無効と宣言した。・・・

3月27日(東京)
 目覚しい日本の財政――日本の内国公債は、おそらく五倍の申込み超過になるらしく、そして今度は、ロンドンとニューヨークで三億円の新公債を起したが、しかもその条件たるや、一割引発行で四分五厘の利子という、すこぶる有利なものである。・・・担保として、政府はタバコ専売の収益を提供している。
 こうして、自分が日本のためにいだいていた唯一の懸念、すなわち財政上の懸念は一掃された。
 遼陽の戦勝後においてすら、ロシアの公債はまだすこぶる高値を保ち、日本のは安値だった。ロシアは到るところで、たやすく金を調達できたが、日本は自己の同盟国から、最もひどい募債条件を甘受せねばならなかった。今はそれが逆である。ロシアにはもう誰も貢ごうとしない。反対に日本へは、われもわれもとひしめき合って、金を貸そうとしている。
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2007年08月21日

ベルツの日記12

奉天会戦:明治38年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露戦中の日記を引用してみます。
写真は陥落直後の奉天(日露戦争古写真帖より)
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引用開始
明治38年(1905年)1月5日(東京)
 今日、宮中の盛大な新年宴会。各国公使を除けば、またも自分は唯一の西洋人であり、しかも、金糸入りの大礼服姿の百官に混って、たった一人の燕尾服だった。なにしろ、勲四等以上の日本人はいずれも、けばけばしく刺繍で飾り立てた大礼服をもっているからだ。・・・
 天皇は、広間の一端の離れた壇上に、東面して着席される。その左右に、一段下がって、各皇族の席がある。・・・自分は、いうまでもなく当世の花形である東郷提督の筋向いに席を占めたので、その顔立ちをくわしく観察することができた。かれは面長で、頬骨はほとんど目立たず、上り下りのない真直ぐの眼、高くはない鼻だ。ゴマ塩の鼻下ひげがある。全体として、その顔はいささか日本人離れがしている。・・・
 宴会は純日本式で、紐飾りの付いた服装の給仕が銀瓶から注ぐ一杯の酒で、例のように始まる。それから、各自の前に黒い漆塗の盆に盛って並べてある料理に手を出す。皇室の紋章入りの酒杯は、もちろんのこと、誰もが大変ほしがるものである。マツ・ウメの花・タケに、長寿の表徴であるツルとカメを配した「幸福の山」(蓬莱山)の象徴的な飾物もまた、各自包んで帰って差支えない。・・・家では召使い一同が、この宴会の「幸福の山」のふもとに盛られている菓子の、よしんば小さいかけらの一つでも、各自にゆきわたれば、大変ありがたがるからである。

1月16日(東京)
 日本軍は、敗れた敵軍に対して、非常に騎士的な態度を示している。これには、おそらく打算的な気持ちも混っているのだろう。がしかし、事実は事実なのだ。乃木将軍は長崎の知事に一書を送って、ステッセルをしばらくの滞在中、特に鄭重に取扱うよう依頼した。乃木としては、これは確かに心底からの希望である。

1月22日(東京)
 アメリカは清国に、厳正中立維持の要求を突きつけた。そしてドイツ、イギリス、イタリアの三国と組んで、交戦国側にこの点を厳重に警告し、ことに門戸開放の原則をも強調しようと目論んでいる。門戸開放の点は、平和の暁には、特に日本への要求になるわけだから、今からすでに満洲を、外人に対して思いのままに振舞える日本の勢力範囲とみなしている。多数の性急な東京の連中のお気には召すまい。奇怪なのは、アメリカが何事にも出しゃばるのと、また日本がそれに対して「有難う」と礼を言っていることだ。
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2007年08月20日

ベルツの日記11

旅順の陥落:明治37年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露戦中の日記を引用してみます。
写真は第三回旅順総攻撃の決死隊(日露戦争古写真帖より)
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引用開始
10月23日(日光)
 北海における珍しい出来事が、イギリスを極度の興奮に陥れた。バルチック艦隊が、罪のないイギリス漁船を砲撃し、二隻を沈没せしめ、多数の人々を殺傷したのである。まだ公表はないが、強いて説明をつければ、露艦が盲目的な対日恐怖症から、(理性のある者なら、どうして日本の軍艦がそんな場所に現れるか、想像もできないはずなのに)罪のないイギリス漁船を日本の水雷艇と誤認したものと解釈するよりほかはない。・・・・・

10月28日(東京)
 バルチック艦隊は、フランスの港湾そのものの中で、石炭の供給をうけている。これは、明白な中立違反だ。・・・・
 「ロイター電」によれば、イギリス全土は、ハル港漁船事件で激怒しているものと信ぜざるを得ない。もちろん、それはもっともなことだが、しかしイギリスは、バルチック艦隊をやっつけることまでは考えていない。なぜなれば、イギリスの計画におあつらえ向きなのは、日本もまた、あまり強大にならないことであるからだ。かくてこそイギリスは、東アジアで思いのままに振舞えるのだ。イギリスの政策のこんなねらい所は、元来、だれにだってわかるはずなのだが、日本の新聞はわからない――否、それを知りたくないのだ。・・・・

・・・午後、女子学習院の運動会へ。これは、年に二回催される。六百人の女生徒全部が参加した。数々の体操や遊戯は、全く申分なく、その出来栄えも同様に結構だった。徒手体操は、身体のあらゆる筋肉を鍛錬するよう、適当に選んである。二十五年前を回顧する時、女子の体育方面における進歩は、確かに驚異的である。しかし、自分の傍におった外交団主席ド・アネタン氏は、それと共に、日本の女性独特の優雅な点が害われることをおそれている。あるいはそうかも知れない。氏のいわく「これらの少女たちは、もう今までの日本婦人のように、優しくしとやかな女ではなくなるだろう」と。しかしながら日本も、上流階級に壮健な婦女子を望むとすれば、結局、一つくらいの代償は払わねばなるまい。

11月26日(東京)
 報道によると旅順総攻撃が開始されたそうだ。
 日本とアメリカ――サンフランシスコのアメリカ労働総同盟は、合衆国とその領土より完全に日本人を閉め出すことを一致で決議し、この趣旨を国会に陳情する件を可決した。これはもちろん、ワシントンでのルーズベルト大統領による伏見宮の歓迎を機会に、先日、日本の新聞がアメリカを謳歌したあの気勢をそぐものだ。・・・しかしながら、こんな経験すらもなお、日本人のアメリカ盲信の迷夢を覚ますにはいたらない。日ごろ、ドイツの対日敵性を証明するためには、いかなる機会をもとらえてのがさない『朝日新聞』は、相変わらず確信していわく「アメリカの太平洋沿岸地方でも、もっと日本人を知るようになれば、必ずや日本人を排斥しないようになるだろう」と。ところが、同地方こそは現在すでに、日本人を一番よく識っているのだ。
 フランスに対しても、その中立違反事件では、穏やかな応対振りである。ただドイツのみが、しかも近ごろのその態度には、非難の余地がないにもかかわらず、はなはだしく憎まれているのだ。・・・・

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2007年08月18日

ベルツの日記10

宣戦布告:明治37年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露開戦時の日記を引用してみます。
写真は旅順港閉塞報告丸乗組員前列右から三人目が広瀬武夫少佐(日露戦争古写真帖より)
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引用開始
2月11日(東京)
宣戦布告――今日は「紀元節」といって、2564年(!)の昔、日本最初の君主、神武天皇が即位した日であるとか。この日を利用して天皇は、対露宣戦を布告した。それは中庸を得た布告文で、どこでも好印象をもって迎えられることだろう。
 旅順沖の大海戦はまだ相変わらず、公式に確認されていない。
午後――
 今なお東郷提督の公報が出ない。非常な憂色がみなぎり始めた。
幸いにして――パリ経由で――アレキシェフ(総督)のペテルブルグ宛の報告が伝わってきた。それによると、日本軍の勝利は、昨夕伝えられたほど圧倒的ではないが、それでも極めて著しいものがある。
 旅順沖の第一戦で戦艦二隻、巡洋艦一隻が甚大な損害をこうむったことは、アレキシェフ自身も認めている。「然れども、これら諸艦はなお水面上にあり」と称するのだ。アレキシェフの第二報によれば、二日目(すなわち九日)戦艦一隻、巡洋艦三隻が水線部に損傷を受け、従って戦闘力を失った由で、しかもこれは、ロシアが極東にドックをもたぬため、決して一時的のものとはいえない。だがしかし、アレキシェフの報告は、日本側になんらかの損害を与えることができたとは、一言も述べていない。
夜――
 ようやくにして東郷提督の報告があった。それははなはだしく控え目のものである。事実その報告によれば、日本側の戦果を、ロシア側の自認しているよりも僅少に推定することすら、あえて不可能ではないくらいだ。
 九日の夜から十日にかけて、大暴風雨があった結果、東郷は自軍の艦艇と、ボートによる連絡がとれなかったらしい。とにかく、今までに露艦九隻が戦闘不能となったのに反し、日本側では著しい損害をこうむったものは、一隻もないことだけは確実だ。・・・・

2月16日(東京)
 戦争の第一報――もっともそれは、誇張されてはいたが――によってヨーロッパのうけた深い感動が、だんだんと判って来た。今度という今度は、さすがのドイツも、無敵ロシアのもろさ加減が、こうも暴露されたのを見ては、いよいよ目を覚まさざるを得ないだろう。なかんずくこれは、あからさまに日本人を軽侮し、一途にロシアを賛美してはばからなかった、東洋におけるわが海軍と役人連中によい薬だ。おそらく今ごろ、かれらの中の若干の者は、昨年の夏、自分と語ったときの話を思い出していることだろう。
 あのとき自分は、日本の方からロシアを攻撃するが、しかもその際、十分勝算があるとの意見を述べたところ、素気なく笑殺された。そして、さすがに日本人を観る点にかけては、かれらの中の誰よりも勝れていると賞められるどころか、反対に、盲目的な日本びいきとして、ヨーロッパ式に物事を量る尺度をなくしてしまったのだといわれた。だが、こんな非難は、友人や親戚の者からもうけて、もう慣れっこになっている。そしてこれは、自己が世の中で観たり覚えたりしたことを、祖国のために役立てようとすれば、誰でもつねにうける非難なのだ。
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2007年08月17日

ベルツの日記9

日露開戦直前:明治37年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露開戦直前の日記を引用してみます。
写真は仁川上陸の第一軍(日露戦争古写真帖より)
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引用開始
1月2日(東京)
 五時のお茶の時、英国公使館付武官ヒューム陸軍大佐並びに、ジャーディン海軍大尉とエー・バナーマン卿の両英国士官と共に政局を語る。この両士官は当地駐在を命ぜられて、まるで通訳になるかのように日本語を勉強している。だが、ジャーディン大尉は素直に断言した「要するにわれわれは、この戦争だけが目的でやって来たんですよ」と。この言葉は、英国が四ヶ月以前において、既に戦争を必至とみなしていたことを、十分に表明している。

1月3日(東京)
 予想されたとおりロシアは、少なくとも清国に向っては、日本の隠忍を恐怖だと示唆している。こうなってはもう、断の一字あるのみだ。いつのことだ――いつ、日本は馬山浦を占領するのだ! 京城駐在のパウロフ露国弁理公使は、折もあろうに今この時に、馬山浦の土地を韓国に要求するという、高慢な態度に出た! 日本に対する歴然たる侮辱だ!
 一般には、日本側から戦端を開くのも間近いことと観ている。日日新聞ですら、今では結局戦争を、しかも即時の開戦を促す有様である。恐らく日本も、宣戦を布告することはなかろうが、戦端は開くだろう。もしやらなければ、本当にばかだとののしられても仕方がないはずだ。

1月6日(東京)
 日本の強硬な態度は、ヨーロッパに感動を与えた。『ヤパンポスト』紙の一電報によれば、ドイツの新聞も今では、ロシア側の完全な譲歩によってのみ平和を保ち得る旨の見解らしい――これは久しい以前から当地のわれわれが抱いていた見解だが。但しこの譲歩は、文字通り完全なものでなければならんはずだ――というのは、ロシアがこんな譲歩をした場合ですら、それは後日戦端を開くため、単に好機をうかがっているにすぎないことを、日本は余りにもはっきり知りすぎているからだ。従って現在の事態では、ロシアが最後に至って譲歩することは、決して日本の歓迎するところではなかろう。・・・
 現内閣の過度の隠忍振りをあれほどしばしば、しかもあれほど猛烈に攻撃したジャパン・タイムスは、今日突如として、その内閣が、しかもその隠忍自重により『全世界の絶賛』を博した!と、書立てている。
 フランスが、清、韓両国内で政治的の煽動を始めた。北京駐在仏国公使は、速やかにロシアと協調するよう清国側に勧告し、また京城駐在の同国公使は韓帝に、フランスの保護を受けられるよう進言したとか。これは、直接日本に対する敵性行為を意味する。・・・・
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2007年08月16日

ベルツの日記8

日露戦争前年:明治36年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露戦争前年の日記を引用してみます。
写真中央はクロパトキン将軍、右が寺内正毅陸軍大臣(日露戦争古写真帖より)
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引用開始
9月15日(東京)
 二ヶ月この方、日本とロシアの間は、満洲と韓国が原因で、風雲険悪を告げている。新聞紙や政論家の主張に任せていたら、日本はとくの昔に宣戦を布告せざるを得なかったはずだ。だが幸い、政府は傑出した桂内閣の下にあってすこぶる冷静である。政府は、日本が海陸共に勝った場合ですら、得るところはほとんど失うところに等しいことを見抜いているようだ。・・・・

10月20日(宮ノ下)
 外交上は相変らず何の決着もない。・・・だがしかし、もし日本が本当に韓国を占有する意志なのであれば、行動に出るのは今だ。ロシアが永住的に満洲に腰をすえるのを黙って見ておれば、韓国も失ってしまうだろう。こんなことは日本の誰にも判っているのだ。だから、何のために依然として談判を続けているのか、全く不可解である。一日一日がロシアにとっては有利、日本には不利となるのだ。・・・

12月14日(東京)
 ローゼン男(爵)は困難な時局に当面している。・・・男は非常に親日的と見られており、事実またその通りである。だがその男も、今ではやはり日本の主張に腹を立てて、英国が同盟の力を認めることにより日本人の頭を狂わしたものと称している。「われわれは徹頭徹尾平和的で、決して侵略的ではない」と男はいった。そこで自分は一言さしはさましてもらったのである。――とにかくロシアは、他国の眼にはすこぶる侵略的に感じられる、満洲占領は日本人から大いに侵略的な行動と見られていると。すると男は沈黙し、ただ肩をすくめるばかりで、何だか口の中でつぶやいた。

12月21日(東京)
 政治的に一向からっとしない空模様である。戦争はますます不可避だ。ロシアは日本をなめてかかっている。戦備は整えるし、韓国と清国では勝手気ままのし放題という有様で、しかも一方ヨーロッパには、極めて平和的な報道をばらまいているのだ。
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2007年08月15日

ベルツの日記7

北清事変(義和団の乱)の頃:明治33年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
義和団事件の頃の日記を引用してみます。先ずは楽しい事項から。
写真は京都円山公園の桜(モース100年前の日本より)
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引用開始
4月9日(京都)
 けさ未明に、神戸からこの京都へ。一面に春の美しい装い。祇園のそばの公園内のにぎわいは、今すこぶる面白い。サクラはちょうど満開で、たくさんの人々をひき寄せている。にわか作りの茶店ないしは、燃えるように赤い覆いをかけた簡単なベンチに、時としては色とりどりの幕を張りめぐらしただけのものが、至るところにある。
 またここには、でかでかと広告した、鳴物入りの『百美人見せ物』もある。これは百人の芸者の写真を陳列したもので、入場料五銭。入場者はそれぞれ、どの芸者を一番美人と思うかを記入する――というよりはむしろ、記録係に口で伝えるのだ。これらの若い芸者のうちで、最多数の投票を得たものが六百円の賞金をもらう! すべて、東京にある類似の催し物のまねごとである。全く特異であり、しかも文化史的、民族史的にいってはなはだ興味のある点は、日本人の選んだ入賞者がヨーロッパ人の眼には賞に値しないものであり、またその逆も真であることだ。

6月6日(東京)
・・・・清国でも、おもしろくない模様である。ロシアは、暴動を鎮圧するために自国の軍隊を派遣することを、清国政府に申し出たそうである。フランスも結局、一緒に巻きこまれねばならないことになるかもしれない。よしんばそれがどんなに辛くとも。もしロシアの友情を傷つけたくないのなら、『やむにやまれぬ』ことだ。・・・・

6月13日(東京)
・・・・政情不穏、ますます不穏。清国では、ロシアが大沽に砲二十四門を有する四千名を下らぬ兵を、またイギリスが一千名をそれぞれ上陸させた。天津から北京への鉄道は破壊された。数名の西洋人が殺害された。ながらく気づかわれていた『大戦争』がここで始まらねばよいが――。

6月17日(宮ノ下)
 清国の政情は険悪である―険悪! 清国人は、暴徒ですら、決して一般に考えられていたほど『無視してよい存在』ではない。・・・
 英国のシーモーァ提督が1400名の各国連合軍を率いて、天津から北京に進軍した。恐らく誰も信じていただろう、提督が何の抵抗も受けず、間もなく首都に到着するものと――約140キロの行程。ところが、再三再四電信を破壊されながらも、とにかく届いた報道はといえば、その軍隊が前進していないことばかり伝えている。暴動及び外人に対する清国政府の態度は全く不明である。北京にいる外人の状態は危険きわまりない。

6月18日(宮ノ下)
・・・この場合、救援できる立場にあるのは日本とロシアのみである。両国だけが、相当大部隊の兵を出せるのだ。明らかに暴動は、清国全土に拡大する恐れがある。
 単独では今、ドイツは何もできない。ロシアの家来になりたくなければ、イギリスと日本に結びつくよりほかはないが、よりによってこの両国たるや、前者はドイツ国民から、また後者はドイツ政府から、それぞれ念入りに手ひどい扱いを受けていたのだ。
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2007年08月11日

ベルツの日記6

暑中お見舞い申し上げます。
明日より14日まで休載させて頂きます。

ウタの死を知らせる手紙:明治29年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から今回は最愛の幼い娘を亡くした時の手紙を引用してみます。
写真はベルツ(Wikipediaより)
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引用開始
2月28日:東京永田町2丁目
 懐かしい皆さん!
 久しくお便りをしませんでしたところ、いま、悲しい知らせでこの手紙を始めねばならない次第です。
 かわいいウタがなくなりました。
 一昨日の朝、食事の時、まだウタは、生れつきの愛嬌を一杯にふりまいて、わたしの側にすわっていました。お昼に、わたしが大学から帰ると、ハナ(妻)は、子供がかぜをひいたようだと申しました。夜になって、重い腹膜炎を起こしたのですが、この病気は大抵は命取りになるのが常です。そして、今から数時間前に、ウタの明るく澄んだ眼は閉じられてしまいました―永遠に。
 子供が病気になった、ちょうどその日、ハナは『少女の祭り』への招待状を書くのにかかっていましたが、この祭りというのは、母上の誕生日である『三月の三日』に、この日本では毎年お祝いされるのです。しかも今回は、ウタも満三歳になる年にあたりますので、特に盛大に祝うことになっていました。初めてウタに洋装させるつもりで、かわいい服がすっかり取りそろえてありました。
 ところが今、わたしたちのするのはそのお祝いではなく、あの子の―お葬いです。


 このような花盛りの美しい子供を、急に失うということは、恐ろしい打撃です。何しろ、誰ともかけ離れて、ウタは、今までに見た子供の中でも、全く特別な存在でした。あの子は母親から、その気質の内面的な快活さと、同時にまた―子供ながらもある程度は認められるのですが―その堅固な性格と不屈の意志を受け継いでいました。特殊の魅力をもつ、あの子のとても大きい利口な眼には、誰もが驚嘆していました。そして、わたし自身がしばしば不思議に思ったのは、知合いの家庭のもう大人に近い令嬢たちが、ウタにまるで夢中だったことです。わたしがこの不審を口に出していうと、いつも与えられるおきまりの返答がこうです――
あの子は他の子供たちとは違いますと。
 トクは、臨終の時、妹の傍にひざまずき、涙にむせぶ声で絶えず祈り続けました「お助け下さい、どうか妹をお助け下さい」と。わたしはトクを、室外へ遠ざけねばなりませんでした、トク自身が病気になる心配があったからです。
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2007年08月10日

ベルツの日記5

日清戦争のころ

ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿を引用してご紹介します。
写真は箱根湯元街道(モース100年前の日本より)
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引用開始
明治25年8月27日(東京)
 ここ数日は、ヨーロッパ行きの用意をした。
 今日、荷造り。妻(ハナ)は無言で根気よく、しかも上手にやるが、全く彼女でなければできないことだ。三歳のトクには、『オトウサン』がとても永いこと『ドイツ・ノ・クニ』へ『オバアサン』をたずねて行くということが、どういう意味かまだわからない。

明治26年8月17日:太平洋上、汽船オセアニック号にて
 一年に近い不在の後、ヨーロッパや通過したアメリカ合衆国の旅からさまざまの印象を得て、いま帰るところだ。日本に近づけば近づくほど、ハナやトクやウタに会いたい気持ちが、いよいよ激しくなる。ことにウタには、生まれてから初めてだ。

8月21日(横浜):日本到着
 ハナ、トク、赤ん坊のウタが待っている、『山手』のネムブリニ・ゴンザガ方へ。ハナは脚気でまだ少し顔色が悪い。トクは大きくなっていて、意外に元気だが、これはまる一ヶ月、堀内の海岸で遊んでいたからだ。ウタは、生後四ヶ月にしては、上出来の子で、焦茶色の大きい眼をしている。髪は僅かに濃いブロンド。

12月24日(東京)
 クリスマス・イーヴ! だが、楽しいこの日も憂うつだった! トクの流行性感冒がすんだかと思うと、今度は、一週間このかた、かわいい盛りのウタが同じ病気で、重い肺炎を併発し、絶えず生死の境をさまよっている。妻の振舞は悲壮を極め、子供を昼も夜も、ほとんどその腕から離さない。それこそ全く『かの女の』子供といった形で、むしろトクの方がよけいに自分のことを案じてくれる。自分自身も流行性感冒にかかっているのだ。

明治27年7月25日(宮ノ下)
 東京では号外が出た――鎮台の一部に出動命令が下り、予後備召集の準備が勧められていると。戦争らしい。
 妻(ハナ)は子供たちを連れて、昨日こちらへ来た。われわれは山口の『別荘』(現富士屋ホテル)へ移った。みな元気で健康だ。ウタとトクは、この宮ノ下で大喜びだ。みなで一緒に木賀へ金魚を見に行く。
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2007年08月09日

ベルツの日記4

大隈公暗殺未遂(明治22年)

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿を引用してご紹介します。
引用開始

10月18日(東京)
 センセーショナルな出来事――その場から、今帰宅したところだ。七時頃、イギリス公使館のナピーア氏のもとへ車をかり、そこから、夕食によばれていたチェンバレン氏のところへ行くつもりだった。ところが、ナピーア夫人は、熱に浮かされたように興奮していた。自分の顔を見るが早いか、有無をもいわせず、お説教だ。最初は何のことだか合点がいかなかった。そのうちに、ようやく事情が判ってきた――暗殺事件が起ったのである。それが大隈外務大臣に! 
 みんなが自分を探していたのだ。そこで、馬車に飛び乗り、外務省へ。どの門も、サーベルとピストルの警官で一杯だ。前庭には、数知れぬ馬車、人力車。自分の顔をみると、すぐ屋内へ通した。大隈氏は、自分がいつも氏夫妻を往診する時と同じ階下左側の部屋で、ソファの上に横たわっていた。意識は明瞭だ。仮包帯を施した右脚の激しい痛みは、モルヒネで和らげてあった。人々は、まだ橋本氏が来るのを待っていた。他のおもだった日本の医師たちは、もう集まっていた。かれらはすべて、甚だ冷静に事を処理した。だが、このような場所ですら、先生がたはあのばか笑いをやめることが出来なかった。

 右足内側のくるぶしの上方にある傷は、その個所で脛骨を完全に粉砕していた。その上方の第二の傷は、ひざ関節の内側下方にあって、該関節内への粉砕骨折を伴っていた。脛骨の中間部も同様に、全部粉砕されていた。下腿を動かすと、骨が、まるで袋にはいっているかのように、手の中でがたがた音を立てた。上腿切断手術よりほかに、施す手段がないことは明白だった。この手術を佐藤氏が行い、その際、橋本氏がある程度の指図をした。手術は順調にはかどった。治癒の見込みは十分ある。

 凶行は、明らかにダイナマイト爆弾を以て行われた。犯人来島恒喜は、その場で頸部をかき切って自殺した。
 凶行の原因――条約改正。大隈は、この国多年の宿願であった条約改正をなしとげようと思った。事実かれは、その目的達成の寸前にまでこぎつけ、ドイツ、アメリカ及びロシアとの新条約はもはや締結されたも同然で、ただ批准を要するのみという状態にあった。この時、突如として、多数の日本人は不安をいだき始めたのである。内閣まで、このことで確執を生じた。かつては日本人すべてが望んでいた宿願を、多大の労苦と手腕でついに達成することに成功した大隈は、今では、外人に国を売ろうとする国賊であるとか、その他のばかげた非難を浴びるにいたった。このような一般の感情が最高潮に達して、今回の卑劣な暗殺行為となって現れたものである。・・・・
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2007年08月08日

ベルツの日記3

帝国憲法発布(明治22年)

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿を引用してご紹介します。
写真は当時の皇居桜田門(B・ジャポンより)
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引用開始
明治22年2月11日(東京)
 天皇の前には、やや左方に向って諸大臣、高官が整列し、そのうしろは貴族で、そのなかに、維新がなければ立場をかえて現在『将軍』であったはずの徳川亀之助氏や、ただ一人(洋服姿でいながら)なお正真正銘の旧い日本のまげをつけているサツマの島津公を認めた。珍妙な光景だ! 天皇の左方は外交団。広間の周囲の歩廊は、他の高官連や多数の外人のため開放されている。
 皇后は、内親王がたや女官たちと共に、あとより続かれた。長いすそをひく、バラ色の洋装をしておられた。すると、玉座の左右から、それぞれ一人の大官が一つずつ巻物を持って進み出たが、その一人はもとの太政大臣三條公だった。公の手にあった方が憲法である。他方の巻物を天皇は手に取ってお開きになり、声高らかに読み上げられた。それは、かねて約束の憲法を進んで国民に与える決定を述べたものであった。
 次いで天皇は、憲法の原本を黒田首相に授けられたが、首相はこれを最敬礼で受け取った。それが終ると、天皇は会釈され、皇后や御付のものを従えて、広間を出て行かれた。式は、僅か十分間ばかりで全部終了した。
 この間、祝砲がとどろき、すべての鐘が鳴り響いた。儀式は終始、いかめしく、きらびやかだった。ただ玉座の間が、自体は豪華なのだが、なにぶん地色が赤で暗すぎた。――皇后御付の女官たちの中に式部官として当地に在留する同国人フォン・モール夫人の上品な姿を認めた。

 東京で今日ほど、たくさん美しい娘を見たことがない。このみずみずしさ、このすこやかさ、このあでやかな着物、この優しい、しとやかな物腰。東京のいわゆる『山車』――宗教上のお祭に、人間や牛によって街路をひきまわされる行列の車――はことごとく街頭へ。多くは数階もある、こみ入った造り物で、上部には大きい人形や舞台面を取付け、前部には一種の音楽隊が控えていて、とてつもない騒音をかき立てるのだ。ある二、三の車ではその前方を芸者たちがいろいろな服装でねって行った。一番きれいだったのは『人足』(職人)に仮装した芸者の一団である。
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2007年08月07日

ベルツの日記2

岩倉公の死(明治16年)
 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿を引用してご紹介します。
写真は左から二人目、使節団時の岩倉具視(ロングフェローより)
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引用開始
 それは明治16年の初めのことだったが、ある晩、ドイツ公使館で一人の貴公子然たる青年にあった。あとで判ったが、それは岩倉公の令息だった。青年はわたしの方へ歩みよって尋ねた、
「お伺いいたしますが、先生、ひどい嚥下(えんか)困難を呈する場合は、危険な兆候でしょうか?」――「その方はお幾つです?」――「五十二歳ですが」――「それじゃあ、まあただ事ではありませんね」――「実はわたしの父なのですが」――
青年がさらになお二、三の症状を述べたとき、食堂癌の疑いがあると、わたしは告げておいた。

 それから半年あまりは、別に何事も耳にしなかった。するとある日、宮内省と文部省の役人から、至急面談したいとの知らせをうけた。二人の役人は勅令によりわたしに、次の船便で神戸へ立ち、京都で重い病気にかかっている日本の最も重要な政治家の岩倉右大臣を見舞い、出来れば東京へ連れ帰ってほしいと依頼した。すぐさまわたしは、助手を一人伴って神戸へ出発したが、神戸ではもう、わたしを迎える手まわしがすっかり出来ていた。
 公はひどく衰弱し、やっとの思いで少量の栄養をとり得るにすぎないような有様だった。六月の末、わたしたちは東京へもどった。――その時、公はわたしから包み隠さず本当のことを聞きたいと要求した。

「お気の毒ですが、御容態は今のところ絶望です。こう申し上げるのも、実は公爵、あなたがそれをはっきり望んでおられるからであり、また、あなたには確実なことを知りたいわけがお有りのことを存じていますし、あなたが死ぬことを気にされるようなお方でないことも承知しているからです」
「ありがとう。では、そのつもりで手配しよう。――ところで、今一つあなたにお願いがある。ご存知の通り、伊藤参議がベルリンにいます。新憲法をもって帰朝するはずだが、死ぬ前に是非とも遺言を伊藤に伝えておかねばならない。それで、出来れば、すぐさま伊藤を召還し、次の汽船に乗りこむよう指令を出そう。しかし、その帰朝までには、まだ何週間もかかる。それまで、わたしをもたさねばならないのだが、それが出来るでしょうね?」そして公は低い声でつけ加えた、
「これは、決して自分一身の事柄ではないのだ」と。
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posted by 小楠 at 07:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B