2007年07月06日

大山事件特派員特電

大山海軍中尉上海で射殺さる

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
写真上は現場検証、下は事件現場
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引用開始
【上海朝日特電八月(昭和十二年)九日発】
日本海軍特別陸戦隊午後九時四十五分発表
 陸戦隊第一中隊長海軍中尉大山勇夫は一等水兵斉藤要蔵の運転せる自動車により本日午後五時頃上海共同租界越界路のモニュメント路(碑坊路)通行中、道路上にて多数の保安隊に包囲せられ次いで機銃小銃等の射撃を受け無念にも数十発の弾丸を受けて即死した。
 現場を検視するに頭部腹部には蜂の巣の如くに弾痕があり、自動車は前硝子が破壊せられ車体は数十発の機銃弾痕あり無法鬼畜の如き保安隊の行為を物語っている。右のモニュメント路は共同租界のエキステンションであり各国人の通行の自由のある所であるに拘らず、支那側は最近上海の周囲に公然と土嚢地雷火鹿柴などの防禦施設を構築し、夜間は兵力を以て勝手に通行を禁止し昼間にても通行人に一々ピストルを突き付けて身体検査するなどは明かなる停戦協定無視なるのみならず、共同租界居住各国人に対する侮辱である、支那側の無法なる抗日の公然たる挑戦行為である。なお同自動車の運転員一等水兵斉藤要蔵は座席に多量の血痕を残せるままいずこにか拉致されたものの如くである。
 帝国海軍陸戦隊は厳重に支那側の不法に対する責任を問うと共に厳正なる態度を以て徹底的解決を期せんとす。なお同中尉は軍服であったことを付記する。

眼を蔽う暴虐の現場
【上海大毎・東日特電十日発】

 大山中尉、斉藤水兵の死体引取りの一行は沖野海軍武官、陸戦隊山内参謀、重村大尉、総領事館服部副総事、工部局警察上原副総監、憲兵隊長塚本大尉など、支那側は市政府秘書張定栄以下警察局員数名、これに内外の記者団十数名が従い陸戦隊看護婦十名を乗せた救急車とともに九日午後十一時半わが総領事館を出発、深夜の上海をまっしぐらに現場に急行した。・・・・・
 大山中尉の死体は虹橋路を虹橋飛行場に突き当って右に折れ碑坊路(モニュメント路)を北行すること約七、八町鉄条網を張りめぐらした飛行場の北端に近い路傍、血の海の中に横たわっていた。案内役の支那巡警が差出すカンテラの光に死体の上を窺うと立会の支那側代表張定栄市政府秘書、朱英保安隊参謀主任でさえ見るに堪えず思わず眼を蔽う暴行の跡だ。
 午後七時半最初に死体確認のため現場を視察した陸戦隊重村大尉の談によれば、最初見た時は頭蓋骨粉砕、骨折や刺傷はなかったというから、これ等は何れもその後死体に加えられた暴行であることが明かで、その暴挙を敢てするのは全く鬼畜の仕業だ。傍に横たわる自動車を見れば一面の弾痕だ。車内は血に染まっている。斉藤一等水兵の死体はそれより東方十数米の豆畑の中に哀れにも仰向けに放り出されてあった。斉藤水兵は後から身に数弾を受け運転台から転げ落ちながらもなお敵に応戦したらしいが、幾つもの残酷な傷があり、両名とも身ぐるみ全部掠奪されている。四方から一斉に撃たれた模様で、あたり一面は文字通り血の海である。午前四時過ぎようやく詳細な検証を終えた。
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posted by 小楠 at 07:40| Comment(6) | TrackBack(1) | 書棚の中の支那事変