2007年07月05日

通州事件特派員特電

鬼畜も及ばぬ残虐

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、ここでは有名な通州事件関係の特電から一部掲載します。
また、日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
時は昭和十二年のことです。
写真は被害甚大の近水楼
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引用開始
【北平三十一日(七月)発・東日大毎特電】
 通州反乱保安総隊顧問、村尾昌彦大尉夫人が頭に包帯をして顔その他に傷を受け三十日深夜命からがら冀東政府長官秘書孫錯氏夫人(日本人)とともに北平交民巷に逃げ込んだ。身震いが止まず反乱隊の残虐ぶりをポツリポツリと語った。

 保安隊が反乱したので在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち二十九日の午前二時頃守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーッと近水楼や特務機関の前に殺到して来て、十分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。
 近水楼の前は日本人の死体が山のように転がっています。子供を抱えた母が三人とも死んでいるなど、二た目と見られない惨状でした。私達はこの時家にいました。二十九日午前二時頃保安隊長の従卒が迎えに来たので洋服に着かえようとしたところ、その従卒がいきなり主人に向ってピストルを一発射ち主人は胸を押え「やられた!」と一声叫ぶなりその場に倒れました。
 私は台所の方に出て行って隠れていると従卒がそこらにあるもの片っ端から万年筆までとって表へ行きました。そのうちに外出していたうちのボーイが帰って来て、外は危ないというので押入の上段の布団の中にもぐっていたところ、さっきの従卒が十人ばかりの保安隊員を連れて家探しをして押入れの下まで探したが上にいた私には気づかず九死に一生を得ました。
 家の中には主人の軍隊時代と冀東政府の勲章が四つ残っていました。それを主人の唯一の思い出の品として私の支那鞄の底に入れ、主人の死体には新聞をかけて心から冥福を祈り、ボーイに連れられて殷汝耕長官の秘書孫一珊夫人の所へ飛び込み三十日朝まで隠れていましたが、日本人は皆殺しにしてやるという声が聞え、いよいよ危険が迫ったので、孫夫人と二人で支那人になり済まして双橋まで歩きやっとそこから驢馬に乗ったが、日本人か朝鮮人らしいと感づかれて驢馬曳などに叩かれましたが絶対に支那人だといい張ってやっと三十日午朝陽門まで辿りつきましたが、門がしまっていたので永定門に廻りやっと入り、三十日夜十一時日本警察署に入ることが出来ました。
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posted by 小楠 at 07:15| Comment(3) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変