2007年07月02日

廣安門事件特派員特電

入城の廣部部隊包囲さる

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年
のことです。
写真は廣安門、円内は廣部部隊長
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引用開始
【北平東日、大毎特電二十六日発】
 北平邦人保護の重責を帯び、二十六日午後軍用トラック○○台で豊台より北平兵営に向った廣部部隊は事前に冀察首脳部と諒解の結果午後四時、廣安門より入場の予定であったところ、城門の支那軍は約に背いて開門せず交渉のため廣安門に赴いていた二十九軍顧問桜井少佐は支那側の不信を怒り直ちに戒厳司令部に赴き厳談した結果、再び午後六時に開門する旨回答を得たが支那軍は依然開門せず、三度折衝の結果午後八時に至り漸く城門を半開したので約三分の二程入城したところ、はからずも門を閉鎖しすでに廣安門の内側には高々と土嚢を築き、突如支那兵は小銃、機関銃、手榴弾、迫撃砲をもって城壁上より攻撃の暴挙に出で、わが軍も遂に応戦火蓋を切った。
 城内の支那軍は続々廣安門に増援しつつあり、支那軍の射ち出す迫撃砲の音は殷々と城内に轟き同八時半に至り二十九軍は遂に城壁上より山砲の乱射をはじめ、わが部隊には死傷相当ある見込み。【註】北平の城門は二重になっている。二十九軍は外門廣部部隊の一部を入れ内門を閉ざして四方の城壁の上から乱射したもので、内門外門の間には約三町四方の空地がある。

宋哲元に期限付最後通牒
【天津都特電二十六日発】支那駐屯軍二十六日午後三時半発表
 七月八日盧溝橋事件以来、支那駐屯軍は不拡大、現地解決の方針の下に第二十九軍と協定を結び、支那軍隊の数回に亘る不法不信行為に、努めて隠忍自重し以て支那側の協定実行を厳重監視せり。然るに支那側は協定の実行に言を託して遷延せるのみならず、遂に二十五日郎坊の支那軍隊は我通信隊掩護の僅少なる部隊を侮り、不法射撃を実施し我軍に損害を与えたり。斯くの如きは支那軍が単に侮日抗日の挑戦的行為たるに留まらず、我軍との協定実行に全然誠意を欠くものと断ぜざるを得ず、茲に於て軍は其の使命に基づき公正なる態度をとり断然支那側の協定実行の誠意を糺し、之が敏速確実の実行を望み、左の如き最後通牒を特務機関長松井大佐をして第二十九軍長宋哲元に本日午後三時半手交せしめたり。
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posted by 小楠 at 07:06| Comment(2) | TrackBack(1) | 書棚の中の支那事変