2007年07月07日

支那軍上海爆撃の特電

数万の避難民に爆弾投下

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
写真は戦友の霊の弔い
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引用開始
【上海十四日(昭和十二年八月)発同盟】
 午後四時半支那側の連続的空爆でバンド北京路先の埠頭に落下した爆弾は、折柄午前中の空爆で虹口、楊樹浦方面から殺到した数万の避難民の真中に落下し、死傷者無数、上海随一の華麗街南京路上は死傷者の鮮血で真赤になり、或は片手を奪われ或は頭をやられた瀕死の重傷者が血の雨の中を這い廻り上海一の国際社交場カセイ、パレス両ホテルに宿泊中の外国婦人等がめちゃめちゃに粉砕された窓ガラスに傷ついて狂気のように泣きわめいて、道路いっぱい身動きのならぬような混乱の中から逃れようとして踏み殺された小児等、思わず目を蔽わしめる惨状である。

【上海十四日発同盟】
 支那軍の空爆によって最も惨劇を呈しているのは上海目抜きのカセイホテル、パレスホテル一帯で、南京路カセイホテル玄関前に二発落下し、避難民殺到中だったため死者百数十名負傷者百名を出し、街道は死の山、数十台の自動車は粉砕され名状すべからざる惨状である。未曾有の惨事といっても過言にあらず、その惨劇は語るに絶するものあり。目下各国の救護班が出動、死傷者を収容中である(以上十四日朝日号外)。

不法支那に各国憤慨

【上海十四日発同盟】
 血迷った支那軍は上海全市にところかまわず無数の爆弾を投下、外国人、支那人多数を殺傷しつつあり、この残虐行為に各国領事団は早くも活動を開始し、不法極まる支那の責任を厳重に問わんとしつつあり。

【上海読売特電十四日発至急報】
 十四日午前十時支那空軍重爆機三機編隊でわが陸戦隊本部を襲撃し、わが方は高射砲、高射機関銃で猛撃、同十五分虹口地帯に飛来、居留民密集地帯に爆弾投下、更に同二十分八機編成で虹口に飛来爆弾投下、目下高射砲で一斉射撃を加えている。支那飛行機の投下せる爆弾の一つはわが総領事館に隣接せる招商局碼頭付近に落下、目下火災中、右は総領事館○○を狙ったものである。支那空軍の爆弾投下の報に○○○○に待機中の我が空軍は直ちにこれを撃滅すべく出動し敵陣めがけて盛に爆弾を投下し北支事変以来最初の壮烈なる空中戦は茲に愈よ展開された。

爆音渦巻く上海!
上海十四日発・都特派員 原 勝

 在留邦人三万は日本人小学校、東本願寺に避難して、不安と恐怖の中に十三日の夜を迎えた。夜来台風のあおりを受けて雲行き怪しく、今暁四時ごろからは本格的の暴風雨と化した。籠城している避難の邦人は刻々の情勢に一喜一憂、蒼醒めた顔を見合って全く生きた心持もしない有様だ。
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2007年07月06日

大山事件特派員特電

大山海軍中尉上海で射殺さる

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
写真上は現場検証、下は事件現場
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引用開始
【上海朝日特電八月(昭和十二年)九日発】
日本海軍特別陸戦隊午後九時四十五分発表
 陸戦隊第一中隊長海軍中尉大山勇夫は一等水兵斉藤要蔵の運転せる自動車により本日午後五時頃上海共同租界越界路のモニュメント路(碑坊路)通行中、道路上にて多数の保安隊に包囲せられ次いで機銃小銃等の射撃を受け無念にも数十発の弾丸を受けて即死した。
 現場を検視するに頭部腹部には蜂の巣の如くに弾痕があり、自動車は前硝子が破壊せられ車体は数十発の機銃弾痕あり無法鬼畜の如き保安隊の行為を物語っている。右のモニュメント路は共同租界のエキステンションであり各国人の通行の自由のある所であるに拘らず、支那側は最近上海の周囲に公然と土嚢地雷火鹿柴などの防禦施設を構築し、夜間は兵力を以て勝手に通行を禁止し昼間にても通行人に一々ピストルを突き付けて身体検査するなどは明かなる停戦協定無視なるのみならず、共同租界居住各国人に対する侮辱である、支那側の無法なる抗日の公然たる挑戦行為である。なお同自動車の運転員一等水兵斉藤要蔵は座席に多量の血痕を残せるままいずこにか拉致されたものの如くである。
 帝国海軍陸戦隊は厳重に支那側の不法に対する責任を問うと共に厳正なる態度を以て徹底的解決を期せんとす。なお同中尉は軍服であったことを付記する。

眼を蔽う暴虐の現場
【上海大毎・東日特電十日発】

 大山中尉、斉藤水兵の死体引取りの一行は沖野海軍武官、陸戦隊山内参謀、重村大尉、総領事館服部副総事、工部局警察上原副総監、憲兵隊長塚本大尉など、支那側は市政府秘書張定栄以下警察局員数名、これに内外の記者団十数名が従い陸戦隊看護婦十名を乗せた救急車とともに九日午後十一時半わが総領事館を出発、深夜の上海をまっしぐらに現場に急行した。・・・・・
 大山中尉の死体は虹橋路を虹橋飛行場に突き当って右に折れ碑坊路(モニュメント路)を北行すること約七、八町鉄条網を張りめぐらした飛行場の北端に近い路傍、血の海の中に横たわっていた。案内役の支那巡警が差出すカンテラの光に死体の上を窺うと立会の支那側代表張定栄市政府秘書、朱英保安隊参謀主任でさえ見るに堪えず思わず眼を蔽う暴行の跡だ。
 午後七時半最初に死体確認のため現場を視察した陸戦隊重村大尉の談によれば、最初見た時は頭蓋骨粉砕、骨折や刺傷はなかったというから、これ等は何れもその後死体に加えられた暴行であることが明かで、その暴挙を敢てするのは全く鬼畜の仕業だ。傍に横たわる自動車を見れば一面の弾痕だ。車内は血に染まっている。斉藤一等水兵の死体はそれより東方十数米の豆畑の中に哀れにも仰向けに放り出されてあった。斉藤水兵は後から身に数弾を受け運転台から転げ落ちながらもなお敵に応戦したらしいが、幾つもの残酷な傷があり、両名とも身ぐるみ全部掠奪されている。四方から一斉に撃たれた模様で、あたり一面は文字通り血の海である。午前四時過ぎようやく詳細な検証を終えた。
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posted by 小楠 at 07:40| Comment(6) | TrackBack(1) | 書棚の中の支那事変

2007年07月05日

通州事件特派員特電

鬼畜も及ばぬ残虐

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、ここでは有名な通州事件関係の特電から一部掲載します。
また、日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
時は昭和十二年のことです。
写真は被害甚大の近水楼
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引用開始
【北平三十一日(七月)発・東日大毎特電】
 通州反乱保安総隊顧問、村尾昌彦大尉夫人が頭に包帯をして顔その他に傷を受け三十日深夜命からがら冀東政府長官秘書孫錯氏夫人(日本人)とともに北平交民巷に逃げ込んだ。身震いが止まず反乱隊の残虐ぶりをポツリポツリと語った。

 保安隊が反乱したので在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち二十九日の午前二時頃守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーッと近水楼や特務機関の前に殺到して来て、十分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。
 近水楼の前は日本人の死体が山のように転がっています。子供を抱えた母が三人とも死んでいるなど、二た目と見られない惨状でした。私達はこの時家にいました。二十九日午前二時頃保安隊長の従卒が迎えに来たので洋服に着かえようとしたところ、その従卒がいきなり主人に向ってピストルを一発射ち主人は胸を押え「やられた!」と一声叫ぶなりその場に倒れました。
 私は台所の方に出て行って隠れていると従卒がそこらにあるもの片っ端から万年筆までとって表へ行きました。そのうちに外出していたうちのボーイが帰って来て、外は危ないというので押入の上段の布団の中にもぐっていたところ、さっきの従卒が十人ばかりの保安隊員を連れて家探しをして押入れの下まで探したが上にいた私には気づかず九死に一生を得ました。
 家の中には主人の軍隊時代と冀東政府の勲章が四つ残っていました。それを主人の唯一の思い出の品として私の支那鞄の底に入れ、主人の死体には新聞をかけて心から冥福を祈り、ボーイに連れられて殷汝耕長官の秘書孫一珊夫人の所へ飛び込み三十日朝まで隠れていましたが、日本人は皆殺しにしてやるという声が聞え、いよいよ危険が迫ったので、孫夫人と二人で支那人になり済まして双橋まで歩きやっとそこから驢馬に乗ったが、日本人か朝鮮人らしいと感づかれて驢馬曳などに叩かれましたが絶対に支那人だといい張ってやっと三十日午朝陽門まで辿りつきましたが、門がしまっていたので永定門に廻りやっと入り、三十日夜十一時日本警察署に入ることが出来ました。
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2007年07月04日

支那事変特派員の戦死

南苑の最前線で岡部特派員戦死

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、ここでは、「新聞報国」という今の朝日には考えられない活字も見え、朝日特派員の戦死を報じています。今ではゴロツキ新聞としか思えない反日朝日新聞ですが、当時には命がけで国家国民のため取材していた記者が多くいたのです。時は昭和十二年のことです。
画像は巻頭にある写真を紹介しています。
写真は大同占拠の我が軍
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引用開始
【天津朝日特電二十九(七月)日発】
 川岸部隊に従軍して去る二十六日の郎坊における戦闘に鯉登(こいと)部隊の第一救援列車に便乗し逸早く最前線の生々しき実況と皇軍の奮戦ぶりを伝えて銃後国民に報道の任務を果した本社特派員岡部孫四郎氏(二九)は引続き河邊部隊に従軍し二十八日第二十九軍第三十八師の本拠南苑総攻撃に当り、華々しき皇軍活躍の状況を報告すべく最前線に出たが不幸敵弾に当り通信職務遂行のため壮烈な戦死を遂げた。右に関し二十九日午後十一時支那駐屯軍参謀部より天津の本社支局に次の如き電報があった。
『川岸部隊長発電
 御社の記者岡部孫四郎氏は二十八日正午頃南苑の攻撃戦闘中危険を冒して第一線に駆足し、頭部に盲貫銃創を受けて遂に戦死を遂げらるる。誠に痛恨に堪えず謹みて哀悼の意を表す』

新聞報国史を飾る
【天津朝日特電三十日発】

 本社北支事変特派員岡部孫四郎氏は川岸部隊に従軍し、同部隊従軍の各新聞記者の中にあって特に同部隊の信頼を受け、同僚新聞記者と軍との間の連絡係りとして円滑な関係をはかり、同部隊並に同僚から尊敬を受けていた。
 同氏は従軍以来終始勤勉全く不眠不休で俊敏な活躍を続け川岸部隊の記事に写真に独特の機軸を示し、殊に同部隊の活躍を迅速正確に母国に報じていた。
 川岸部隊が天津から更に前進して暴戻支那軍を膺懲すべく二十七日午前二時半、まず鯉登部隊が急遽郎坊方面に出動を命ぜられるや、本社特派の同僚池内記者及び繁田、西橋両写真部員と共に出動、同夜一旦天津に帰府し最前線の従軍記を送るや直に再び川岸部隊の南苑出動の軍用列車に同乗を許されて南苑に赴き。第一線の将士と辛苦危険を共にしつつ勇敢にも第一線奮戦状況報告の任についていた。かくて二十八日正午頃ついに敵弾の犠牲となり壮烈な最期を遂げ報道戦線の尊き責務に殉じたのである。その死は軍人の精神と何等異ならず、新聞報国の強き信念と軍人と同じ御国のために誠を捧げて一身を賭したものである。新聞記者として同氏の如く第一戦にあって壮烈な戦死を遂げたのは恐らく最初のことであろう。
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2007年07月03日

支那駐屯軍声明特電

支那事変駐屯軍司令部声明

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、ここでは、不法射撃により何人もの犠牲者を出した支那駐屯軍が我慢に我慢を重ねた結果なお支那軍の不法が治まらず、遂に破局へと向わざるを得ない状況が報告されています。また日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
時は昭和十二年のことです。
画像は巻頭にある写真を紹介しています。
写真は大原城壁歩兵の万歳
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引用開始
最後態度決定
【天津二十八日(七月)発同盟】

 支那駐屯軍は最後通牒を発すると同時に左の声明を発表した。
七月七日以来盧溝橋付近に於て支那側の不法射撃に端を発したる日支両軍の紛争事件に関し、日本軍が飽迄事件不拡大の方針を堅持し和平解決に万全の努力を致したるは周知の処なり。然るに支那側は不信不法の行為を反覆し一旦我が要求を承認、調印したる後と雖も其後誠意の認むべきものなく而も通信交通を妨害し、計画的挑戦行為に出で、殊に一昨二十五日夜は軍用線修理のため郎坊に赴きたる部隊に対し、昨二十六日夕は北平廣安門付近に於て我が居留民保護に向える部隊に対し、偽瞞の手段を講じ不法の攻撃を敢てするが如き抗日侮日到らざるなし。
 加うるに梅津・何応欽協定を蹂躙して中央軍を北上せしめ、着々戦備を進むる等暴戻言語に絶するものあり。斯て今や治安は全く乱れ、我が居留民の生命財産は危殆に瀕するに至れり。素より北支治安の維持は日満両国の重大関心事たり事茲に至りては和平解決の万策尽きて、膺懲の兵を進むる外なし、真に遺憾とする処なり。然りと雖も日本軍の敵とする処は抗日挑戦の行為を敢てする支那軍にして河北一億の民衆に非ず。軍は速かに治安を恢復し東亜民衆の福祉を増進せん事を期するものなり。
 北平城内に於ては支那側が求めて混乱を惹起し、戦禍を誘発せざる限り武力を行使するが如き事はなく又、列国の権益を尊重しその居留民の生命財産の安全を期するは論を俟たざる処にして、況や領土的に北支を占領せんとするが如き意図は断じて之を有せざるものなり。右声明す。

総攻撃開始、平津各地に激戦
【北平朝日特電二十八日発】

 我が最後通牒において二十七日正午を期限とせる盧溝橋、八寶山第三十七師撤退は遂に支那側において何等の誠意を示さざりしため、我方は通告通り同日午後より敢然自主的行動を開始して支那軍に絶大の損害を与え、更に二十八日黎明に至り爆撃、砲撃の偉力を以て痛烈なる攻撃を加えた。最後通牒の第二段に示された北平城内及び西苑部隊の撤退並に移駐開始は二十八日正午を期限としてあるが、是亦遂に支那側の誠意ある実行を見るを得ず、却って市中に兵力を増大し抗日準備を厳にする等交戦の気構え明かとなったため、ここに我軍は二十九軍全軍に対し愈々総攻撃を行うべき最後の事態に到達、膺懲の火蓋を切った。
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2007年07月02日

廣安門事件特派員特電

入城の廣部部隊包囲さる

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年
のことです。
写真は廣安門、円内は廣部部隊長
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引用開始
【北平東日、大毎特電二十六日発】
 北平邦人保護の重責を帯び、二十六日午後軍用トラック○○台で豊台より北平兵営に向った廣部部隊は事前に冀察首脳部と諒解の結果午後四時、廣安門より入場の予定であったところ、城門の支那軍は約に背いて開門せず交渉のため廣安門に赴いていた二十九軍顧問桜井少佐は支那側の不信を怒り直ちに戒厳司令部に赴き厳談した結果、再び午後六時に開門する旨回答を得たが支那軍は依然開門せず、三度折衝の結果午後八時に至り漸く城門を半開したので約三分の二程入城したところ、はからずも門を閉鎖しすでに廣安門の内側には高々と土嚢を築き、突如支那兵は小銃、機関銃、手榴弾、迫撃砲をもって城壁上より攻撃の暴挙に出で、わが軍も遂に応戦火蓋を切った。
 城内の支那軍は続々廣安門に増援しつつあり、支那軍の射ち出す迫撃砲の音は殷々と城内に轟き同八時半に至り二十九軍は遂に城壁上より山砲の乱射をはじめ、わが部隊には死傷相当ある見込み。【註】北平の城門は二重になっている。二十九軍は外門廣部部隊の一部を入れ内門を閉ざして四方の城壁の上から乱射したもので、内門外門の間には約三町四方の空地がある。

宋哲元に期限付最後通牒
【天津都特電二十六日発】支那駐屯軍二十六日午後三時半発表
 七月八日盧溝橋事件以来、支那駐屯軍は不拡大、現地解決の方針の下に第二十九軍と協定を結び、支那軍隊の数回に亘る不法不信行為に、努めて隠忍自重し以て支那側の協定実行を厳重監視せり。然るに支那側は協定の実行に言を託して遷延せるのみならず、遂に二十五日郎坊の支那軍隊は我通信隊掩護の僅少なる部隊を侮り、不法射撃を実施し我軍に損害を与えたり。斯くの如きは支那軍が単に侮日抗日の挑戦的行為たるに留まらず、我軍との協定実行に全然誠意を欠くものと断ぜざるを得ず、茲に於て軍は其の使命に基づき公正なる態度をとり断然支那側の協定実行の誠意を糺し、之が敏速確実の実行を望み、左の如き最後通牒を特務機関長松井大佐をして第二十九軍長宋哲元に本日午後三時半手交せしめたり。
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