『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は木曽福島の家並み

引用開始
中山道は、まずいくつかの山頂や人気のない小さな谷を見下ろす荒涼とした高原を通り、東海道のように活気のある村のある、両側が切り立った平地にたどりつく。少し先は静かな地域となり、人の住んでいる中心地は非常に広々して閑散とした所だ。人も周りの景色のように牧歌的な性格をしている。家は大きな石で葺いた平らな屋根が突き出ていて、スイスやチロルの山小屋のように木のバルコニーがついている。たくましく日に焼けた目鼻だちのはっきりした住民たちは、都市の技術革新を知らずにいる。大人たちは非常に愚直な表情をしていて、子供や若い娘たちは手に負えないくらい内気なのには驚かされた。
この高地にはあまり外国人が来ないので、通りすがりに好奇の目で見られた。朝など、私たちが宿屋の玄関先で大きな靴の紐を結んでいたり、夕方、食事の際に私たちがフォークやスプーンで食べているのを見物しに来る人たちで周りに人垣ができるほどだ。ある茶屋では、女中さんが怖がって近づくことができなかったほどだ。またある宿屋ではある晩、人生で二度とないほどのアリガトの嵐にあった。宿屋のおかみさんがルイ(同行の友人)に直してもらおうと壊れたオルゴールを持ってきて、修理の様子を心配そうに見守っていた。彼女がぜんまいを回し、長い間眠っていた音色が流れ出すと、彼女は感謝の念を際限なく示した。・・・・
湖の近くのシモノスワ(下諏訪)という村での休憩の後に、私たちは浅間火山に程近い和田峠の先の少し寂しい地域に着いた。少し先の、日本で最も寒い場所の一つと言われる追分では、また雨が降り出し、・・・・
ここで私たちは三日間も足止めをくった。通過してきた道も、これから通る道も、橋が流されてしまい、川の流れは激しくなり、警察も船で渡ることを許可してくれなかった。・・・・
写真は下諏訪の宿で

この足止めは、日本語の勉強に少し役立ったが、この言葉は非常に難しく、そのうえ書いてあるとおりに読むには不都合に思えた。・・・
十月十日、やっと警察の許可が下りて何里か進み、熊谷の百七十五人も旅行者がいる混んだ茶屋まで行くことができた。
その日の夕、日が暮れてから、私たちは果てしなく広がった東京の町に入った。・・・・
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