2007年07月31日

フランス青年の明治5

中山道から横浜へ
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は木曽福島の家並み
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引用開始
 中山道は、まずいくつかの山頂や人気のない小さな谷を見下ろす荒涼とした高原を通り、東海道のように活気のある村のある、両側が切り立った平地にたどりつく。少し先は静かな地域となり、人の住んでいる中心地は非常に広々して閑散とした所だ。人も周りの景色のように牧歌的な性格をしている。家は大きな石で葺いた平らな屋根が突き出ていて、スイスやチロルの山小屋のように木のバルコニーがついている。たくましく日に焼けた目鼻だちのはっきりした住民たちは、都市の技術革新を知らずにいる。大人たちは非常に愚直な表情をしていて、子供や若い娘たちは手に負えないくらい内気なのには驚かされた。

 この高地にはあまり外国人が来ないので、通りすがりに好奇の目で見られた。朝など、私たちが宿屋の玄関先で大きな靴の紐を結んでいたり、夕方、食事の際に私たちがフォークやスプーンで食べているのを見物しに来る人たちで周りに人垣ができるほどだ。ある茶屋では、女中さんが怖がって近づくことができなかったほどだ。またある宿屋ではある晩、人生で二度とないほどのアリガトの嵐にあった。宿屋のおかみさんがルイ(同行の友人)に直してもらおうと壊れたオルゴールを持ってきて、修理の様子を心配そうに見守っていた。彼女がぜんまいを回し、長い間眠っていた音色が流れ出すと、彼女は感謝の念を際限なく示した。・・・・

 湖の近くのシモノスワ(下諏訪)という村での休憩の後に、私たちは浅間火山に程近い和田峠の先の少し寂しい地域に着いた。少し先の、日本で最も寒い場所の一つと言われる追分では、また雨が降り出し、・・・・
 ここで私たちは三日間も足止めをくった。通過してきた道も、これから通る道も、橋が流されてしまい、川の流れは激しくなり、警察も船で渡ることを許可してくれなかった。・・・・
写真は下諏訪の宿で
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 この足止めは、日本語の勉強に少し役立ったが、この言葉は非常に難しく、そのうえ書いてあるとおりに読むには不都合に思えた。・・・
 十月十日、やっと警察の許可が下りて何里か進み、熊谷の百七十五人も旅行者がいる混んだ茶屋まで行くことができた。
 その日の夕、日が暮れてから、私たちは果てしなく広がった東京の町に入った。・・・・
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2007年07月30日

フランス青年の明治4

明治東海道の旅3
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は当時の奈良、春日大社
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引用開始
奈良は八世紀に首都だった人口二万人の町で、寺を囲む大きな森と、十八メートルもある巨大な大仏で知られている。この大仏はミカドの希望によって、何度か失敗した末、七四九年に造られた(正しくは七四七年鋳造開始、七五二年開眼)ものだ。・・・・
 坂の上にある、私たちの泊っている宿ムサシノから、大きな階段とカスガノミヤ(春日大社)へ通じる林道が延びていて、巡礼者たちが木や角でできたおみやげを売る店の前を通っている。近くでは、てなずけられた鹿が草を食べている。
 赤く塗られた回廊と礼拝堂は、緑の生い茂った背景に映える。暗い葉の茂った大樹林の間の巨大な杉の下を曲がり、数百メートルにわたって両脇にランタンと花崗岩の台座(燈籠)が並んでいる段々になった大通りを行くと、この神秘的な眺望の中で、少し離れた所にもう一つのシントーの社ワカミヤに着く。まるで墓の間を歩いているようで、恐れさせるような効果がある。
 ワカミヤでは、非常に興味深いカグラ(神楽)という宗教舞踊が九円で見られる。これはシントーの非常に古い勤行で、熱心な信者の希望でミサのように行われる。
写真は当時の奈良、春日大社の神楽
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 儀式の様子を説明しよう。社の庭に面して開け放した部屋に、三人のカンヌシと女が観客の前にひざまずく。右側の少し奥まった所に、四人の処女が舞踊の準備をして控えている。聖職者たちは短い白衣をまとっている。手にはそれぞれ笛、長太鼓、二枚の木の板を持っている。若い女たちは、顔を厚塗りして、白と金と薄緑色の長い服をまとい、それが下に着ている深紅の服と対照をなしてくっきり浮かび上がっている。ほどいた髪が背中に垂らしてあり、首の高さで金色の輪で結んでいる。額の上には人工の花の房が飾られている。
 楽器を演奏する女も同じ格好をしていて、目の前に長くて平らなハープ(琴)を置いている。この人たちはみな一言も喋らず、不動のまま合図があるまで待っている。合図と共に頭を床まで下げ、楽器がメランコリックな前奏をかなでる。若い女たちが立ち上がり、列になって進み、色とりどりのリボンのついた鈴の束や扇子を操りながら、優雅で息のあった間を取ったゆっくりした動作を始める。聖職者たちは長太鼓の音、板のパチパチいう音、笛のうなるような音、ハープのせわしない音階に合わせて、悲しげな連祷を歌う。・・・・

 奈良から大阪まで、途中、薬師寺と法隆寺の二つの寺に立ち寄ると一日かかる。・・・・
 街灯のない暗い町外れ、終わりのない道、同じ橋をまた渡っているのではないかと思うほど数多くの大きい橋や小さい橋を通り、十四日の夜大阪のジュテイホテルに到着した。
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2007年07月28日

フランス青年の明治3

明治東海道の旅2
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は浜松、通りの角の旅館
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引用開始
 数日後、浜松という人口一万二千人の小さな町で、今まで見たこともないようなきれいな旅館に出合った。部屋の羽目板は、漆を塗って磨いた違った色合いから成っている。女主人と息子と義妹が、夕食の間ずっと同席してくれた。義妹は優しくはにかんだ目をしたきれいな少女で、外国の食べ物を味見しようとしなかった。主人のほうは、既婚にしては珍しく歯も黒く染めず、眉も抜かず、人の良い女性だった。自然の美しさに恵まれた人が、野蛮な処置によってその魅力を失ってしまうとは、残念なことである!

 最近書いた手紙を出したのは名古屋の町からで、ここで一日半休んだ。名古屋は尾張の大名が昔住んでいた土地で、人口三十万人の栄えた工業都市であり、現在は愛知県の県庁所在地だ。・・・
 私たちの泊った宿屋は村や集落のものより劣っているが、大都市にありがちな新しいアイデアを取り入れていて、壁紙を張った食堂、テーブルクロスの掛かったテーブルがあり、じゅうたんが敷いてある。室内装飾の細かい点にもびっくりしたが、それ以上に、ヨーロッパの作法や道具をまねたり、使いこなそうと奮闘する日本人男性の格好とぎこちなさには驚かされた。・・・・
写真は名古屋、熱田神宮の祭
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 名古屋で最も注目に値する所は、間違いなく国内でも有名な城だ。・・・
五階建ての天守閣の最高層は、日本でも有名な芸術作品、対になった金のイルカ(シャチ)を載せている。その価値は、十八万円、つまり八十万フラン以上と言われている。二つのうちの一つは、1873年にウィーンの万国博に出展され、その帰途、蒸気船ニルは難破したが、幸にも釣り上げられ、不幸を免れて元の場所に納まった。
 五日前から京都にいる。熱病が治り、神戸経由で来たシャルルと落ち合った。・・・・
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2007年07月27日

フランス青年の明治2

明治東海道の旅1
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は旅の一行、フランス人の左からウーグ・クラフト、シャルル・ケスレ、弟エデュアール・クラフト、ルイ・ボーシャル。洋装の日本人が通訳のイトー。
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引用開始
 すでに八日間東海道を進んでいるが、一歩進むごとに新しい風景が現れる。・・・・一年のうちに春と秋との二つのきれいな季節を過ごせるとは、夢のような気持ちがする。・・・・
 もし自然の美しさが民族の容貌と性格に影響するとすれば、日本人はきっと勇壮な山やのどかな谷から、誇りを持った、独立的で優しく陽気な性格を養われたのであろう。中国人の皮肉っぽい表情や憎々しげな態度を思い出すにつけ、それほど遠い地ではないのに、全然違う性格で、礼儀正しく快い歓迎に魅了されてしまう。
 しかし我々外国人は、日本人の礼儀作法を正しく評価しない傾向があるようである。初めて見ると洗練されているがあまりにも儀式的な態度なので、彼らにとっては大切な慣習も、我々には間抜けて見える。どれほど西洋的な思い上がりや、無遠慮な態度や、疑い深い態度が彼らを傷つけていることであろうか。
ここでは日常的な礼儀として、人に話す時、自分自身を卑下して、相手を称賛とお世辞で満たさなくてはならない。これは私たちには考えられないことである。家の中で挨拶をする際も、ござに手と膝をついて、何度も額を床につけるのである。道で会った場合は、お礼やお世辞をささやきながら、またもや何度も体を曲げるのである。どの階級のどの部類の男も女も子供も、苦力から貧しい旅行者、乞食にいたるまで、出会いがしらと分かれ際に、私たちが下関で見た例のように儀式ばっているのである。
 この礼儀作法に対して、当然私たちは不器用で気の利かない対応をしてしまう。不慣れで戸惑っている私たちに代わって、ガイドのイトーに挨拶が集中する。だが冗談に関しては非常に気が合い、何を言っても笑う。私たちが単に「オハヨー」といっても笑い、たいしたことがなくても爆笑するのである。
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2007年07月26日

フランス青年の明治1

明治15年、日本到着
 『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
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引用開始
 上海を出発して二日後、三菱の船は外輪式でずっと振動しているから、あまり快適とはいえないたびの末、東京丸は長崎に寄港した。・・・翌朝、私たちは下関の海峡に錨を下ろした。・・・ここで外務卿の井上氏(井上馨)が乗客の一人として加わることになった。彼は下関に、朝鮮での出来事(壬午軍乱)のために来ており、東京に戻るところだった。・・・・・
 たくさんの人たちが大臣の見送りに来ていたので、私たちは、世界で最も追従的と思われる日本のマナーの数々を目の当たりにすることができた。
 それは数えきれないほどペコペコと頭を下げる動作の連続だった。それぞれが何度も何度も体を曲げ、地面に頭がつかんばかりに下げるのである。奇妙な口笛を吹きながら、手を膝の上で上げたり下げたりしながら、作り笑いを惜しみなく浮かべるのである。かわいそうな大臣とお付きの人たちは、お辞儀された分だけ挨拶を返さなくてはならないから、頭を下げ足をこすり合わせ続けていた。・・・・・

 八月十五日、神戸の外国人租界に到着、・・・日本はどこでも電信線が引かれており、何年も前から鉄道も走っていて、特に大阪経由の神戸・京都間、横浜・東京間は発達している。中国では、1876年にいち早く引いた上海・呉淞間の鉄道を破壊して、首都と地方都市を結ぶ線の建設許可の決断も下せなかったのである。隣国同士でこれほど違う民族については、書いても書ききれないほどである!・・・・
 神戸近郊の布引の滝は、旅行者にとっても住民にとっても、魅力的な散歩コースとなっている。私たちは狭い急流へと通じる坂道までジンリキシャ(人力車)で行く。・・・・私たちが頂上のチャヤ(茶屋)と呼ばれている茶を飲ませる店に近づくと、二人の気取った女たちがわざわざ出迎えにやってきた。さまざまな身振り手振りをしながら私たちを歓迎し、案内するために手を取った。ござに座らせ、小さな磁器の茶碗に、あまり色はないが香りのよいお茶を注いでくれた。ヨーロッパの同じ階級の娘たちと比較した場合、気取らず親切で、優雅で優しいこの娘たちに軍配が上がる。
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2007年07月25日

親日台湾人の中国観3

 今回ご紹介している著者は、ほとんどの日本人は、中国人の民族性を全く理解していないと嘆いています。日本国内、或は日本人同士では、日本人の
交際マナーはすばらしいものがあると思いますが、他民族を相手にする場合は、その民族性を十分把握した対応が必要でしょう。特に中国のような民族を相手の場合は、日本人の美徳がことごとく悪用、利用されているようです。
楊應吟氏の著「素晴らしかった日本の先生とその教育」という本の中から、氏の中国観が記されている部分を引用してみます。
写真は2005年9月知覧特攻平和会館にて
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引用開始
法の通用しない中国
 中国は今、「大国」になったと自負しているようですが、「大国」に相応しい内実かどうかはわかりません。賄賂の横行、貧富の差が激しいことなどで、人民の中には不満が渦巻いていると伝えられています。
 共産党の幹部は不正や汚職ばかりで、人民の信頼を失い。沿岸は金持ち、内陸は貧乏で、頻繁に地方では暴動のようなことが起き、内乱が起きかねない状態とも言われています。
 人民の不満は、当然、政府、中国共産党に向けられます。共産党は、そうした国内問題があって、その敵愾心をどこに持っていくかというと、「台湾と戦争をおこそう」と外に目を持っていきます。しかし、台湾と利害関係があって利益を得ている沿岸の人達が「起こすな」と反対します。 北朝鮮は仲が良いので攻撃する対象ではなく、韓国に対しては、最近は日本への攻撃で使える相手ですし、口を出し切りません。ロシアは強いから手を出しかねます。そうなると、日本は小さく、しかも日支事変をやった国で報復してやりたいという気持ちもある、そして日本は金持ちだから謝らせたら金を貰えると、これ程都合の良い標的はないわけです。

 中国はアメリカに反感を持っていますが、アメリカを相手にはしません。なぜなら強いですから、下手をして、あまり強く言うと自分の立場が悪くなります。だから言えないのです。
 しかし、日本に対しては、潜水艦で領域を侵して、日本が「謝れ」といっても謝らず。日本も黙ってしまったので、「これは大丈夫」と見縊ったと思います。日本は戦争をしないと宣言し、憲法でも謳っているから、絶対安全だと思って吼えるのです。「吼える犬は噛まない」と言いますから、吼えても別に何ともないので放っておけば良いものの、日本は真に受けて、大人しくしています。こうして中国は益々図に乗ってきます。中国の増長は、日本自身にも責任があることです。
 また、中国は人に謝ってはいけないという観念が非常に強い国です。今まで謝ったことは恐らく一回もないでしょう。そして主張することだけは主張する、こじつけの理由を作って、絶対に謝ることはありません。それを日本人は知りません。
 先だっての「反日デモ」が良い例です。あのような大きな反日運動をやって、日本の領事館のガラス窓を割り、日本企業の看板は全部破壊し、傷害事件はそんなになかったかも知れませんが、駐在している日本人は、大っぴらに日本人であるということを言えなくなりました。・・・・・
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2007年07月24日

親日台湾人の中国観2

 今回ご紹介する著者は、ほとんどの日本人は、中国人の民族性を全く理解していないと嘆いています。日本国内、或は日本人同士では、日本人の交際マナーはすばらしいものがあると思いますが、他民族を相手にする場合は、その民族性を十分把握した対応が必要でしょう。特に中国のような民族を相手の場合は、日本人の美徳がことごとく悪用、利用されているようです。
楊應吟氏の著「素晴らしかった日本の先生とその教育」という本の中から、氏の中国観が記されている部分を引用してみます。
写真は著者(左)の高雄工業学校時代
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引用開始
日本の戦争は自衛のため
 そもそも日本が明治維新を起こし、近代国家への変貌を急いだのは、西欧列強のアジアへの植民地化から自国を防衛する必要があったからでした。当時のアジアを見ると、インド、ビルマはイギリスの植民地に、インドシナ半島はフランスに、インドネシアはオランダの植民地とされておりました。更に日本にとって衝撃的だったのは、アヘン戦争でアジアの大国、清国がイギリスの手に落ちたことでした。日本はいつ自国が列強に呑み込まれるかという強い危機感を抱き、考えたことは清国と朝鮮と共に列強に対して防衛を張ることだったのです。
 日本は両国に散々この危機を訴えて近代化を促しましたが、両国はかたや中華思想かたや事大主義に囚われ、新興の小国、日本に対して逆に敵意を表す始末でした。その間に列強の魔手は東アジアに伸び、中国、朝鮮がその手に落ちれば、次は日本という結果は免れず、そして終に日本は朝鮮の独立を求めて、清国に宣戦布告をしたのでした。これが日清戦争であり、結果は清の大敗となりました。
 漸く清国は近代国家の意義を認識しはじめ、一方日本は専門機関まで設けて大量の清国留学生を受け入れ、日本からも清国の要請を受けて多くの日本人が教師や軍事顧問として赴き、清国の近代化に協力しました。

 しかし、新国家が成立するや、中国は内戦状態に陥り、その隙間に欧米が日本を仮想敵国とし日本を締め出すという構図が出来上がり、更にソ連が共産化という手段で東アジアを制覇しようとして動きだし、内戦状態に一層拍車をかけることとなりました。その中で中国は反日政策を取り始め、故に日本は満州国の樹立と華北の防共のために親日諸政権を支え、中国の平和安定に乗り出したという経緯がありました。
 日本にとって絶対に列強に支配されてはならない地域は朝鮮半島でした。ハルフォード・マッキンダーというイギリスの地政学者は、日本のような島国が独立を守っていくには、その周辺の大陸に近い半島部分を、大陸の勢力によって支配されないことが重要だと主張しています。朝鮮戦争を戦ったマッカーサーも、マッキンダーや当時の日本人と全く同じ判断をしました。
 マッカーサーは東京に司令部を置き、そこから朝鮮戦争を指揮し、北から来る敵に対さなければならない立場にありました。皮肉にも彼は日本の大本営と完全に同じ立場に立たされた時に、初めて日本の立場が理解できたと言います。・・・・・
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2007年07月23日

親日台湾人の中国観1

 今回ご紹介する著者は、ほとんどの日本人は、中国人の民族性を全く理解していないと嘆いています。日本国内、或は日本人同士では、日本人の交際マナーはすばらしいものがあると思いますが、他民族を相手にする場合は、その民族性を十分把握した対応が必要でしょう。特に中国のような民族を相手の場合は、日本人の美徳がことごとく悪用、利用されているようです。
楊應吟氏の著「素晴らしかった日本の先生とその教育」という本の中から、氏の中国観が記されている部分を引用してみます。
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引用開始
中国の「軟土深堀」根性
 日本人は、あまりにも中国人の本質を知らなさ過ぎます。我々台湾人は半世紀にも亘る間、中国人と生活をしてきました。そして今日に至るまで対立し続け、彼らの根性を知り尽くしています。中国人は「軟土深掘」という根性を持っています。字義から見ても分かるように、「土軟らかずんば、更に深く掘れ」、つまり相手が弱いと見れば更に付け込んで噛み付いていけ、という汚い根性を持っているのです。・・・・
 今の日本の政治家は、一部を除きあまりにも中国に対する認識が無さ過ぎます。中国に対して遠慮し、大人しくしていれば全てがうまく行くならば問題は無いのですが、現実はそうではありません。中国への遠慮が、やがては日本を更に追い込むことになりかねません。

眠れるブタ、中国
 過去においては、1886年に、大清帝国は日本を威圧するために、北洋艦隊の四艘の新鋭戦艦を、予告も無く修理の為と称して長崎港に乗り入れました。上陸した数百名の清国水兵は、暴挙、強奪などさんざんに暴れ狂い、この長崎事件は当時の日本全土に一大ショックを与えました。そこから日本人の中に、支那に対する敵愾心が烈火の如く燃え上がりました。
 ただ、日本の外交手段の稚拙さには定評があり、なかでも史上「侵略国日本」の悪名を残したのは、「対華二十一カ条の要求」でした。しかし二十一カ条の中には山東問題など、日支交渉だけで解決出来ず、第一次大戦後のパリ講和会議やワシントン会議にまで持ち込まれたものもありました。結局、二十一カ条のうち、消滅したものを除き、中国側が承諾したのは四カ条に過ぎなかったのです。それにもかかわらず、中国は二十一カ条全部を呑まされたように世界に伝えました。・・・・

 当時、北京、上海、南京には外国の租界がありました。上海には、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、スペイン、ポルトガルの八カ国、北京にも、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの五カ国がありました。
 東南アジアでは大東亜戦争が終わってから、ベトナム、ミャンマー、インドネシア、マレーシアが独立し、それまで植民地で搾取し続けていた宗主国のイギリス、オランダ、フランスは撤退して行きました。そして、今までの「眠れるブタ」は「目覚めた龍」に変身してしまったのです。
 日本は眠れる大国を刺激する名人だと言われてきました。・・・・・
 あの眠れるブタにもし支那事変という刺激がなければ、今日の中国は出来ていなかったことは誰もが認識できることです。ですから、中国は日本に感謝こそすれ、「反日」はもっての外のはずなのです。今日中国が近隣諸国に行っている数々の横暴を考えると、日本が「眠れるブタ」を起こしてしまったことは大きな間違いであったと言いたくなります。・・・・
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2007年07月21日

親日インドネシア人2

インドネシア人の証言2

 朝日やNHKをはじめ、反日マスコミや政党が言う「日本はアジアの国々で悪いことを・・」がいかに事実を隠蔽しているかが分かる調査が、2006年2月3日付けの米メリーランド大学の発表にありました。世界の約四万人を対象にした英BBC放送との共同世論調査で、世界に最も「良い影響」を与えている国は日本であるという結果がでました。
 調査を実施した三十三カ国中三十一カ国で、日本か世界に「好影響」を与えているとの回答が出ましたが、三十一カ国以外の二カ国は、勿論彼の特殊アジアの二国です。その中でも、肯定派が一番多かったインドネシアの人々の証言が書かれた、「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実」という本から、大東亜戦争が侵略戦争ではなかったことを、彼らの言葉から見てみましょう。
1927年生まれ、プロボ・S・スウォンド氏の体験
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引用開始
 私のオランダの友人である将校の息子たちは、みな日本軍など来ない(インドネシアへ)だろうと話していました。また、来たとしても自分たちが反撃すれば必ず勝つと息巻いていました。彼らはみなオランダのプロパガンダを信じ切っていたのです。
 しかし、戦争が始まると、日本がどんどん進撃していき、事実はオランダの話とは全く違っていました。
 これは後に軍事について学んで知ったことですが、ジャワ島の上陸に先立って行われた、スラバヤ沖海戦における日本軍の戦いは素晴らしいものでした。日本海軍は非常に高度な技術を持っていました。ジャワ海はオランダやアメリカ、イギリス、オーストラリアの連合軍艦艇で一杯でしたが、その中で日本海軍は連合軍艦隊を打ち破ったのです。艦から艦への攻撃は難しいものです。日本の攻撃は傑出していました。・・・
 日本はたったの九日間でインドネシアのオランダ軍を撃退しました。そのことを知って、私は軍隊の訓練などを受けるにはまだ小さかったので、戦争の戦術とか戦略といったものは全く分かりませんでしたが、どうも話が違うと思いました。・・・

 1942年に日本軍がインドネシアの学校を再開し、私はその学校へ通い始めました。先生はみなインドネシア人でした。
 そこで、私は真の民族主義者となっていきました。それは一つには、私たちはその学校に通わなければいけないとされ、そして、そこでインドネシア語を習ったからです。それで、私は初めて自分がインドネシア人だと実感したのです。それまで、私は一度もインドネシア語を習ったことがなく、日本の占領下で初めてインドネシア語を勉強したのでした。・・・
 私がPETA(郷土防衛義勇軍)に入ったのは、インドネシアの高校を卒業してすぐのことで、PETAの試験を受けた者の中でも年齢が一番下でした。・・・

 私はPETAの将校になるために、ほぼ一年間、郷土防衛義勇軍幹部教育隊で訓練を受けました。その時の私たちの中隊長のことを、生徒全員が尊敬していました。私も非常に尊敬していました。それは進藤一馬中尉殿のことでした。その中隊の指導者たちはみな実際に中国戦線で戦った歴戦の勇士たちで、・・・・また、中尉殿は私たちに対して一度も罵声を浴びせることもしませんでした。生徒たちと一緒に苦しみを分かつという教え方で、指導中は自ら率先して見本を示していました。・・・
私たちは彼のことを父と感じていました。彼は、私たちが良い将校になることを願っていました。・・・
日本が敗戦した後、私はインドネシア国軍に参加しました。そして、最後には中将にまでなることができました。・・・・
 インドネシア軍は、日本軍が持っていた武器を何とか手に入れようとし、地域によっては日本軍から略奪するところもありました。
 マランでは、大変うまくことが運び、私たちは武器を日本軍から譲り受けることができました。もちろん、公式にはそのようなことは出来ません。私たちは日本軍の司令官と密かに交渉したのです。日本軍は武器庫の鍵をどこかに置き忘れてしまい、私たちがそれを拾ったのでした。

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2007年07月20日

親日インドネシア人1

インドネシア人の証言1

 朝日やNHKをはじめ、反日マスコミや政党が言う「日本はアジアの国々で悪いことを・・」がいかに事実を隠蔽しているかが分かる調査が、2006年2月3日付けの米メリーランド大学の発表にありました。
 世界の約四万人を対象にした英BBC放送との共同世論調査で、世界に最も「良い影響」を与えている国は日本であるという結果がでました。
 調査を実施した三十三カ国中三十一カ国で、日本が世界に「好影響」を与えているとの回答が出ましたが、三十一カ国以外の二カ国は、勿論彼の特殊アジアの二国です。その中でも、肯定派が一番多かったインドネシアの人々の証言が書かれた、「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実」という本から、大東亜戦争が侵略戦争ではなかったことを、彼らの言葉から見てみましょう。

1919年生まれのM・ユスフ・ロノディプロ氏の体験
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引用開始
 オランダによってインドネシアは十七世紀以来、三百五十年も占領されていました。オランダの統治時代の生活は酷いものでした。というのは、オランダがこの地に来たのは、この国で生産されたものをヨーロッパに持っていくためだったからです。それが、植民地主義の始まりでした。・・・今私が住んでいるのはジャカルタ市の中心地ですが、オランダ時代は、インドネシア人は住むことが出来ない地区でした。・・・
 殆どの人々には教育の機会がなく、読み書きが出来ない子供たちも沢山いました。・・・それはインドネシア人を無知蒙昧のままにしておくというオランダ政策の一つだったのでした。オランダ人は原住民であるインドネシア人に対して、はっきりと下等階級という扱いをしていました。・・・・小さい頃の私をもっと傷つけたのは、町の中心地にあったスイミング・プールでした。プールの入り口には大きな看板があり、「犬とインドネシア人の立ち入り禁止」と書かれていました。・・・

 第二次世界大戦前、アジアのほとんどの国は白人たちの植民地となっていました。それを、日本が白人たちと戦うことによって解放したということは間違いのない真実です。
 それは始まりからそうだったのです。つまり、それは1904年の日露戦争からでした。私は第二次世界大戦前から、日本がロシアに勝ったことを知っていました。そして、日本の発展していく様を見てきました。
 当時私は、日本はアジアを代表する国だと思いました。日本のお陰で、白人だけが強いのではない、私たちもまた強くなれるのだと思うことが出来たのです。日本の日露戦争の勝利は私たちを非常に勇気付けたのです。
 日本は、当時アジアで唯一白人と対等だった国でした。私たちインドネシア人はきちんとした教育も受けられず、何の権利もなく、白人に対して自分たちは劣っていると考えていました。自分たちが白人と対等になれるとは思っていませんでした。
 そしてまた、日本以外の一体誰がアメリカを攻撃しようなどと思ったでしょうか。それを実行したのは唯一日本でした。日本だけが、アジアを支配し続ける白人に立ち向かっていったのです。・・・・
 日本がインドネシア人に行った訓練は非常に重要なものでした。それは肉体的に鍛えただけではなく、インドネシア人を精神的にも鍛えたのです。そして私たちは大きな成長を遂げました。・・・
 もし日本がいなければインドネシアの独立までには、さらに百年かかっていたかも知れません。それを、日本はたったの三年半に縮めたのです。
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2007年07月19日

ギメの明治日本散策4

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
今回もギメの「東京日光散策」から。
画像はかっぽれの踊り
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引用開始
踊りと宴会
 一人は三味線sa-missenを弾く。蛇の皮で飾られた、長くて細いギターで、その耳障りな短い音は、まったく音楽的ではない。控えの三味線弾きは、たえず誤って演奏する。彼女は楽器に合わせて歌うから歌も狂ってくるれのだ。少なくともわれわれにはとらえがたく、その調べは音程が短か過ぎると私には思える。
 他の演奏家は、小さな太鼓[鼓]を鳴らす。左手で肩に支え、右手で打つのだ。太鼓の皮を張っている絹の紐は左手に集められ、打つごとに締めたりゆるめたりする。したがって、音は怒っているあざらしの怒号のように、ほえたり、叫んだりする。
 弱々しそうにみえる娘が、斜めに置いてある太鼓の前の席に着き、うつべき棒を長い間振り上げたままで入る。突然振り下ろして、恐ろしい音を発する。このような激しい音を出す力は、彼女のどこから出てくるのか。芸とたゆまぬ研究、才能と音楽的な感覚とが、こうした結果をもたらすのだ。美しいものだ、音楽は。・・・

 彼女は夢中で、押しつぶされた猫の叫びを発しながら歌う。三味線は活気付き、胸を引き裂くような音を発する一方、小太鼓は最善を尽してほえたてる。
 音が急に止んで気付くのだが、その曲が終ると演奏者に酒を勧めるのが慣習である。酒はこの国のブランデーで、発酵させ蒸留させた米から造られる。
 踊り子が一人やって来た。繊細な目鼻立ちの女の子で、われわれの前にひれ伏し、挨拶の文句を大げさに言う。その文句はたびたび息を吸う歯音で区切られるが、それは敬意のしるしである。吸えば吸うほど礼儀正しいのだ。
 オーケストラが再び楽器の調子を合わせる。踊り子は立ちあがり、ポーズをとる。彼女が演じるのは劇の踊りであり、日本の古いデッサンにみられる持って回った姿勢がその挙動の中に見出せる。彼女は無言劇の中で、顔の表情を変えない。身振りだけの魂のない冷たい哀歌なのだ。・・・
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posted by 小楠 at 07:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B

2007年07月18日

ギメの明治日本散策3

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
 明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
今回もギメの「東京日光散策」から。
絵はレガメの油絵、浅草の射的屋
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引用開始
仏教の市
 ガイドの松本さんは、浅草公園の飾りと名誉とになっている記念建造物をわれわれに見せるだけでは満足しない。
 彼はわれわれを連れて、売店とか軽業師の小屋とか弓の射撃場[矢場]とかを通って歩き回る。これらの施設はすべて、かつては異教の寺院を取り囲んでいたし、現在でもなお、日本の寺院を活気付けている。
 おもちゃ屋が一番多い。花や書物や絵巻物も売っている。古本屋があり、古い写本は珍しくない。
 茶屋、アメリカ風の冷たい飲物の居酒屋、日本料理屋、これらは物質的な面である。囲いの中では、花や珍しい植物や非常に美しい陶器の植木鉢を売っている。・・・
 手拭はそれぞれ一枚のハンカチである。――ポケットには決して入れず、風邪をひいても日本人は決してそれで洟をかまないし、かまないように気を付けている。そんな布切れをハンカチと呼ぶことが出来ればの話だが。(フランス語では、ハンカチは洟をかむものという意味)・・・
 こっちには動物の見世物、あそこには喜劇を物語る講釈師。もっと向うには操り人形、そばには大きい鳥籠のあるにぎやかな小鳥屋。その隅では手品師がいて、群衆が見とれている。・・・

芝(増上寺)
 人力車は上野公園を通って、芝公園にわれわれを連れて行く。
 それは真直な行程ではないが、松本さんは用意周到で、今夜はわれわれに日本式の夕食をさせようと約束していたので、われわれの胃はヨーロッパ風のランチであらかじめ腹ごしらえすることを遺憾に思わないだろうと彼は考えている。
画像は精養軒
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 ところで上野には、もっとも文明化したレストランの一つ[精養軒]がある。そこには、椅子やフォークや本物の羊の背肉がある。そのレストランは日本人が経営しており、公園の中にある。・・・

 教育を受けた日本人が、自分の国で認めている信仰を恥に思うのは、奇妙なことである。
 日本がヨーロッパの思想に関心を寄せるようになったとき、先駆的役割を果たした日本人は、私の考えでは、うわべだけをみて劣等感に陥るという誤りを犯したのだ。確かに彼らは、まだ蒸気を使用した工場も理工科学校も持っていなかった。しかし何とすばらしいものを彼らは持っていたのか。それらを理由なく放棄しているのだ。日本は日本の風習をあまり信用していない。日本はあまりにも急いで、その力と幸を生み出してきたいろいろな風俗、習慣、制度、思想さえも一掃しようとしている。日本は恐らく自分たちのを見なおすときがくるだろう。私は日本のためにそう願っている。・・・・
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posted by 小楠 at 08:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B

2007年07月17日

ギメの明治日本散策2

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
今回もギメの「東京日光散策」から。
画像はエミール・ギメ
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引用開始
日本人の家で
 われわれの友人、松本さんMatsmotoはこう言ってくれた。
「東京に着いたら会いにいらっしゃい。町をお見せしましょう。浅草の寺院やその神聖な庭を見物させましょう。そこは小売店、軽業師、見世物師、花屋、小鳥屋、きれいな娘たちが開いている弓の射的場[矢場]、劇場、墓地、茶屋、お堂があり、にぎわっています。
 また、金の漆で塗られた寺院や巨大な樹木や将軍たちの青銅のくすんだ墓が見られる芝Shibaにも案内しましょう。町には古道具屋がたくさんありますから、それも案内しましょう。日本の料理屋の秘密を明かしましょう。そこではときには食べる相手が、そして常に優れた女の演奏家や魅力的な踊り子が見つかります。」

 この計画のすべてをわれわれは夢見ていた。
 横浜に到着してからというもの、われわれは松本さんに一日でも早く会いに行くことばかり考えていた。
 この若い日本人は、サンフランシスコから日本まで、われわれと一緒に船旅をしてきた。海上での二十三日間は、人間を結びつけるのに十分である。たまたまわれわれと同じ船室に入られたこの外国人が、友人となったのは当然である。彼はアメリカで真面目に勉強し、アメリカの技師の免状を持って帰国する。
 彼の家を見つけるのは、簡単ではなかった。幸いにも人力車夫たちが聡明で、話して説明しなくても、身振り手振りで十分であった。われわれをまず銀座の大通りに連れて行き、ついで橋を渡り、運河沿いにある倉庫を通って、探していた住居まで連れて行ってくれた。

 松本さんは家にいた。彼は門口にわれわれを出迎えにくる。しかし最初の言葉を交わしたときから、彼の顔には当惑の色がありありと浮かんでいる。われわれもかなり戸惑ってしまった。船の上で示してくれたあの友情は、陸地では消えることになっていたのか。悪い時間に不意に彼を訪れたのか。それとも・・・
 そんなことではなかった。松本さんはわれわれが短靴を脱がずに家に入るには、どのようにしたらよいのかと、思案にくれていたのだ。もっと問題をはっきりさせれば、自分の家にわれわれを迎えるために、どのようにして靴を脱がせたらいいのかわからないのだ。
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posted by 小楠 at 07:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B

2007年07月16日

ギメの明治日本散策1

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
 明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
今回からはギメの「東京日光散策」から。
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引用開始
江 戸
 それぞれの地方には、将軍の指図のままに動く領主や大名Daimioがいたが、これらの首長をとおして、日本は征夷大将軍――第二位の主権者――からたえず下される命令で治められていた。
 外国人、特にヨーロッパ人が、帝を法王と思い、将軍を実際の皇帝であると考えていたのは、この点であった。朝鮮人とオランダ人は、それを大君Taikounと呼んでいたが、これは大大名を意味する。・・・
 京都はもはや役に立たない首府でしかなかった。古い首都は首都としての地位を降り、どのように活用するかということだけが問題となった。江戸は帝国の新しい都市となり、これら二つの都市の運命と変遷がよくわかるように、勅令によって江戸の名は廃止され、帝の居所は以後布告によって、東京と呼ばれることになった。・・・

日本の鉄道
画像は三代広重画の蒸気車
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 汽車は非常に快く小ぎれいである。職員は白の雲斎布[厚手の綿布]を着用していて、優美で上品である。車両は少々狭いが、便利で、アメリカと同じように次の車両に通じている。どこも清潔で、手入れが行き届き、サロン風の鉄道である。
 この路線の開業式の日は大騒ぎであった。まだ誰も垣間見ることができなかった帝が自ら、住民の前に姿を現わしたのである。現人神が、列車に乗るために、わざわざ天から下りて来たようであった。・・・
(この日は開業後、天皇が初めて汽車にお乗りになった日で、開業日は明治五年九月十二日。天皇ご臨席で行われています)
 鉄道の沿線は非常に単調である。ほとんど海沿いを走っていく。沿線は豊かに栽培され、数百年を経た樹木におおわれた神聖な丘が点在し、藁葺きの家のある小さな部落や多くの竹林によって彩られた地方を横切っている。・・・
 田畑には、きびしい太陽の暑さから大きな麦藁帽子で身を守った、裸同様の労働者がいる。道には、青い長い着物を着て、油紙でできた大きな日傘をさしている人がいる。日傘のレンズ型の黄色い鮮かな色彩[蛇の目]が、景色から浮き出ている。
 海に目をやると、漁師の小舟が行き交うのが見える。至る所活気に満ちている。
 駅ごとに、多くの土地の人が、急いで車両に乗ってくる。群衆は騒々しく、陽気である。日本人はいつも旅が大好きであったし、また巡礼という口実で、自分の国を完全に知ることができるが、その日本人が即座に鉄道を採用したのだ。・・・
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posted by 小楠 at 10:05| Comment(8) | TrackBack(1) | 外国人の見た日本B

2007年07月14日

年金問題の責任

 民主、社民、マスコミは年金問題の真の原因をほとんど言わず、現政権批判をしていますが、民主、社民こそ、この真の原因である自治労の組員が支援する政党です(他に日教組の組員も支持母体)。彼らに、他を批判する資格など全くありません。我々の税金がこのような国賊公務員共に好き勝手に使われているのです。
 年金関係だけでなく、隠しておきたいのか知りませんが、国民に知れ渡っていない民主党の政策は、日本人にとって危険極まりないものです。
 民主党に信念があるなら、現政権との違いが明確なこれらの政策こそ、大々的にアピールするべきです。それとも何か都合が悪い?
以下に加賀もんのブログ様からお借りして例を挙げます。
a)「永住外国人の地方選挙権」
b)「旧日本軍による『慰安婦』問題の解決を図るための『戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法案』
c)「選択的夫婦別姓の導入」
d)「人権侵害救済機関の創設」
e)「教科書検定および採択について」には、「教科書採択にあたっては、保護者や教員の意見が確実に反映されるよう」
f)沖縄で「地域主権のパイロットケースとして『一国二制度』を推進」

またこれについては、アジアの真実様でも掲載されています。

さて、年金問題について、
以下は屋山太郎氏が雑誌「WiLL」に書かれた内容の抜粋です。
以下抜粋引用
社会保険庁の年金問題はキャリア官僚のことなかれ行動原理と官公労働者の組合運動の本質を象徴する事件だ。・・・・
 責任があるのは実務を担当する役割の歴代、社保庁長官、それをとり巻く厚労省(旧厚生省)官僚及び職員だ。
 社保庁の職員が今年四月まで加入していた組合を「自治労国費評議会」という。自治労(全日本自治体労働組合)というのは、大阪市の職員への背広現物支給や何十もの特殊手当てをつけさせた組合などを含む地方自治体の職員組合の連合体をいう。八日勤めただけで五年分の給与をぶん取った奈良市の職員も自治労の組合員だ。・・・・
 社保庁は全国十三ヶ所に「グリーンピア」という大規模保養基地を作った。・・・・轟々たる非難の中で全部売払った。グリーンピアは1953億円かけて建設したのに、損失ばかり。国の売却命令で売り払った金額はわずか48億円だった。厚労省キャリア、社保庁職員の乱脈、無責任さには声をのむばかりだ。
 当時先進国ではとっくの昔に導入されたオンライン化が遅れたのは、まさに自治労国費評議会のせいだ。今頃、残業代なしで問い合わせを受けるという偽善をやっているが、格好をつけるなといいたい。まともな勤務をやっていれば五年も前に照合は終っているはずだ。・・・・
 民間が必死に合理化に励んでいる時になぜ反合理化なのか。73年末、国労の富塚三夫書記長にインタビューして「国鉄解体論」を書いたことがあるが、そのさい富塚氏はこう答えたものだ。
「国鉄が円滑に運営されないことが、国力を弱め資本主義解体のために役立つ」
 この倒錯した論理に社保庁の組合員も染まっていたのだろう。・・・
 国労は座敷で乱暴狼藉を働いたから目だったが、自治労は床下に時限爆弾を仕掛ける趣きだ。いずれにしろ反国民的労働運動であることは間違いない。
引用ここまで
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posted by 小楠 at 09:47| Comment(7) | TrackBack(4) | 日本人の独り言

2007年07月13日

レガメの明治日本見学3

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
 明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
レガメは明治三十二年に再来日していますが、今回はそのレガメの「日本素描紀行」からの引用です。
画像はレガメ画の本所の家
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引用開始
日本の家屋
 今日は女の子の祭りである。数えきれないほどの店が、昔風に華美に着飾った小さな人形を陳列する。そして、いたるところに赤味を帯びた明かりがあって、この妖精の小さな世界のきらびやかな色の衣装を、玉虫色に光らせている。
 また、私にとっても祭りである。日本の旧友に再会したのだ。
 一昨日、その友人は、新聞で私の名前を読んで昨日、私のホテルに来て、名刺を置いていったのだ。そして今朝、私は答礼の訪問をしに出かける。彼は留守で私より英語を上手に話す奥さんに迎えられる。彼が戻り、率直に感動し合う。われわれは、1881年にパリで別れた。彼は法律の勉強のためにパリに来ていたのだ。一別以来、われわれは会っていなかったし、文通もなかった。一般に、日本人は、容易には文通に応じないのだ――少なくとも外国語では――これは不思議な性格だと見てもよいかも知れない。それでも良い友人でなくなったというわけではないのだ。彼は、私に、自分の家に来て住むように勧めて、その友情を示してくれる。私は少しもためらわずに承知する。

 明日から家財道具を移すことになる本所という地区で、私は間近から日本を見ることになるのだ。私は日本人の生活を送り、その秘めた魅力を味わうことができるだろう。そしてそれは、漆を塗った盆の上に置かれたいくつもの小さな皿で出される食事で始まる。この盆は、純然たる日本の二つの道具である、火鉢Chibachiと、長い燭台(行灯)の間に置かれる。
 私の新しい住所は、本所、両国橋、元町十八番地(今の墨田区両国一丁目九番地)である。これは快く響く。家は川の左岸に建てられていて、二階建てのいくつかの棟があり、それらは互いに連結している。石垣で囲まれた庭先は水に洗われ、その小さな庭には木が植えられていて、そこから、お茶を飲みほしながら、舟が通るのが眺められるのだ。さらにすばらしいことには、ちょうど真向かいに、富士山がある。はるかな靄の中に、雪の頂きがそびえ、決して飽きることのない景観である。・・・
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posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B

2007年07月12日

レガメの明治日本見学2

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
 明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
レガメは明治三十二年に再来日していますが、今回もそのレガメの「日本素描紀行」からの引用です。
画像は川鍋暁斎画のレガメで、彼が暁斎の肖像を描いている様子
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引用開始
西郷侯爵公式訪問
 内務大臣、元帥西郷侯爵[西郷従道]が、彼の秘書官の上品な大久保利武氏[大久保利通の三男]を通じて、私を元帥の邸に喜んで招く旨を昨日、伝えて来られた。
 強風にもかかわらず、私は、誠実なS氏と共に、約束の時間に着く。風は嵐のように吹き、一人引きの車を二人引きにしなければならず、車夫たちは、自然の力に逆らってたいへんな苦闘をしなければならなかった。
 私は、電灯で照らされ、ヨーロッパの家具や日本の品々を備えた一階の客間に案内される。二枚の油絵、元帥と彼の父である大西郷[西郷隆盛は従道の父ではなく兄である]の肖像が壁を飾っている。

 待つほどもなく、大臣は侯爵夫人を伴って入って来る。握手やりとり、肘掛け椅子が暖炉の前の一本脚の二つの円卓の側に移される。一方の円卓は、葉巻と紙巻きたばこ用であり、他方は、干菓子とマロン・グラッセ、それに伴う日本流の砂糖を入れないお茶用である。私を暖炉の右側に座らせる。親切なS氏は客間の中央に立って、われわれのために通訳の労をとってくれる。離れたところに、大臣の個人秘書が座っているが、まったく無口な人物である。
 元帥は灰色の口髭を生やし、見たところ少し荒っぽい気性の大男である。

 慣例的な挨拶のやりとりの後、会談が始まり、私はいくつもの質問に答えなければならない。私はインターヴィユーは苦手で、何とかその難関を切り抜ける。西洋的な考え方の流行についてほのめかしながら、私は、元帥が専心している物の独特な様式について話す。その場合、外国の事物の採用が必要だと認められるとき、その外形をいささかも変えてはならないと考えるべきではないであろう。彼がまずそうであるように、自分の仕事に慣れるためには、事物の全体の調和の中に自分を入れさせるような外見を、急いで自分に与えなければならない。
 和服を着ている侯爵夫人が会話に加わる。夫人は三十歳を越えていて、聡明の誉れが高いことがその物腰から見てとれる。
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posted by 小楠 at 07:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B

2007年07月11日

レガメの明治日本見学1

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
レガメは明治三十二年に再来日していますが、今回はそのレガメの「日本素描紀行」からの引用です。
画像はS氏(杉田義雄)と家族
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引用開始
 日常生活には、その本質的なものの中に、昔からの習慣が残っている。家庭生活では、まだ何も変っていないのである。
 祖先崇拝、孝心、誠実さ、兄弟愛、夫婦間の貞節、老人を敬う心、子供や弱い者への思いやり、貧しい者への慈善、助け合う心、これらすべてが、家庭での教育でしっかり教え込まれ、僧侶と何の関係もない儀礼や、独自の儀式を通じて培われる。
 神棚は家の中にあり、父親には魂を導く責任があり、そしてその妻は、夕方になると家の女中たちを身辺に集め、自分は彼女たちの安泰と振舞の責任者であるという態度を保っている。――これはわれわれの国の中産階級でのような、七階の屋根裏部屋の召使いのあり方とはずいぶんと違う。
 日本の家では、家具はたいへん少なく、これが家の中での仕事の手間を省き、他の仕事をしやすくしている。余った時間には、糸を紡ぎ、絹を織り、また、家族用に必要な衣服を作ったりする。
 一つの例として、シカゴの博覧会[1893年の世界代博覧会]への、先の皇太后[英照皇太后]の出品が挙げられる。それらは皇太后の御所で織られた見事な絹織物であった。

 結婚は、まったく民法上の[宗教儀式によらない]もので、簡単な登録によって認められる。贈物の交換のあと、儀式としては、親族の集まりが、新婦の家で行われるだけである。
 養子縁組は、古い時代に宗教上の理由から、祖先を崇拝する慣行を果たすのに、男の代表者を必要としたために生まれた習慣であると言える。今日では、この習慣の恩恵をこうむっているのは、もはや死者ではなくて、生きている者、特に低い階層の者たちである。 息子の義務は、年とった両親の必要に応じて援助することである。誰もこの義務を免れようと考えていないので、養老院を設立する必要は感じられないし、そして公共負担はそれだけ軽減されている。

 社会のどの階層でも、貧富にかかわらず、親族会議の諸権利は、今でも尊重されている。一個人にかかわる重要な事柄は、親族会議の判断にすべて委ねられる。親族会議の承認なしに農家の息子は、村を去って都会で生活しようとは考えないであろうし、同様に、上流階級の人間は、近親の承諾なしには自分の財産を抵当に入れることはできない。隠居Inkioつまり、ある年齢に達して、共同体[家族]の主人の地位を退いた者は、まだ元気いっぱいであり、公の仕事をすることはできる。だが私生活での役割りはまったくなくなる。その場合、一家の舵を取るのは長男である。
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2007年07月10日

支那事変海軍従軍記者電

長谷川司令長官声明

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
写真は戦跡視察の長谷川司令長官
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引用開始
【上海十四日(八月)発同盟】
 長谷川第三艦隊司令長官は本日午後次の重大声明を発表した。
 支那軍隊の挑戦的攻撃をうけたる我が第三艦隊は自衛のため必要とする処置を執るの已むなきに至れり、仍って支那軍隊の占拠する地域及びその軍用施設付近にある一般住民は直ちに右以外の適当なる地に転居せんことを勧告す。
昭和十二年八月十四日
長谷川第三艦隊司令長官

【上海十五日発同盟】
 (海軍武官室午後六時半発表)

(一)十五日午前十時わが海上航空部隊は銀翼数十機を連ね杭州を空襲、壮絶なる空中戦を演じ敵の戦闘機約十機を撃破し地上飛行機全部を撃破せり。
(一)正午ごろ海軍○○空襲部隊は猛烈なる悪天候を冒し暴風雨中の南昌を空襲し重爆弾数十個を投下、折柄地上に待機中の敵機数十機を撃破、何れも無事帰還せり。
(一)午後わが海軍○○空襲部隊は敵の首都南京の飛行場を空襲し多大の損害を与えた。敵は無電台を通じてSOSを発し各地に応援を求めていたが、情報によれば蒋介石は周章狼狽し首脳部と謀議中と伝えらる。なおわが飛行機は全部帰還(東日十五日号外)

首都南京を震撼し大空中戦展開
【上海十五日発同盟】

 十五日午後荒天の支那海を翔破し来った海軍航空隊により敢行された南京飛行場襲撃は壮絶を極めたもので、雲低く垂れた南京上空に爆音勇しく銀翼を連ねた海軍機が紫金山をかすめて現れた時は、南京全市を震撼せしめ、市内外に装置された高射砲、高射機関銃は一斉に火蓋を切られ、轟々たる砲声は我飛行機より投下する爆弾炸裂の轟音と相俟って首都南京の天地に轟き渡った。我空襲隊は約一千四百メートルの高度を保ちつつ見事に機翼を連ねて前後三回に亘り故宮飛行場、光華門外軍用飛行場格納庫及び多数の飛行機を完全に爆破し、数機は家屋の屋根をすれすれに低空飛行を敢行したとのことである。かくて応援にかけつけた支那軍飛行機約十台と壮烈な空中戦を演じ、その大半を墜落せしめた後、悠々長距離を翔破、我海軍空軍の偉力を思う存分発揮して無事根拠地に帰還。我戦史上空前の貴重な記録を印した。
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posted by 小楠 at 07:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変

2007年07月09日

支那事変海軍機の活躍

敵大編隊を果敢に射落す我空軍

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
海の荒鷲出発前の訓示
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引用開始
上海十五日(八月)発・読売特派員 田中幸利
 上海における支那軍空爆、しかも米国製飛行機の編隊爆撃は、日本軍、ならびに日本人が生まれてはじめて受けた空襲の洗礼ていってもよいであろう。そのうえ暴虐な支那飛行機は盲目滅法な爆撃をやって列強の憤慨を買った。それに対し大鷲に向う隼の如きわが少数の艦載機は入り乱れて壮烈な空中戦を展開し、みごとに敵機を射落した。
 国際人の監視裡、颯爽として軍門にふさわしき血祭りである。本社上海支局は敵弾雨飛する支局を上海日々新聞社に避難、田中支局長はその屋上より十四日の空中戦を親しく観戦した。以下田中支局長の手記である。

 十四日払暁二時ごろより天地を揺がして轟き渡っていた全線の砲声が夜明けとともに衰えたと思うと、七時過ぎ、天の一角から遠雷のような爆音が聞えてきた『それ! わが軍の出動だ!』と興奮と不安の一夜を明かした全邦人は慌てて飛出した。台風がはこぶ雨雲の間を縫って三機編隊の爆撃機だ。それと認めて女や老人までが『うれしい、うれしい』と歓呼の声をあげた。子供たちは雀躍して飛行機だ飛行機だと手に手に日の丸の旗をふった。ああ上海は救われる、われわれ日本人は救われるんだ。支那兵にいじめつけられていた憤懣がとけて喜びの色がサッと流れた。編隊はますます機影をひろげてわれらの頭上をかすめた。その瞬間陸戦隊本部方面に突如として砲声があった。わが高射砲や高射機関銃が一斉に火蓋を切ったのだ。あッ敵だ! あの飛行機は敵だ敵だと全邦人の安堵と喜びは忽ち恐怖と戦慄に変わり、土嚢の影のわが兵は一斉に銃口を空に向け、民家の上に散在する機関銃隊も一斉に火蓋を切った。だが雨雲低く垂れた悪天候は却って敵に幸いした。密雲を破って急降下して来ては爆弾を投下、忽ち急角度で上昇して雲中に逃げ込んでしまうのだ。わが高射砲隊が一斉猛射を浴びせる時にはすでに敵機は密雲の中に姿を消してしまっている。密雲の中の姿なき爆音を追いながら照準を定めるのだが、これでは如何に精鋭なるわが高射砲隊たりとも如何ともなしがたいではないか! 高射砲の弾丸は空中に空しく炸裂点々たる黒煙を天に印するのみである。
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posted by 小楠 at 07:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変