2007年06月21日

国旗と国土

日の丸採用の経緯

追記:今朝書き忘れましたが、日の丸の簡素で美しい旗は、明治の文明開花期に各国大使の目を引き、なかでもフランスの大使は、すっかりほれこみ、正式に政府の代表を立てて「日の丸を500万円でわが国に売って欲しい」と頼みこんできました。新政府は財政難の時だっただけに、ノドから手が出るほどこの金がほしかったのですが、「国旗を売ることは、国家を売ることだ」と、きっぱりこの申し出を断ったということです。

 「日本のこころの教育」という本があります。著者の境野勝悟氏が高校生を前に講演された内容を記したものです。
 その中から、日の丸と国土についての部分を引用してみます。大変解りやすい内容なので、是非子供たちへの説明に応用されたらいかがでしょうか。
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引用開始
 国旗というのはわたしたちが住んでいる国土のマークです。日本の大地・自然のマークです。そのことをよく頭に置いて下さい。この日本の大地・自然のマークに、わたしたちの民族は太陽のマークを使ったのですね。実はわたしたちの国旗の日の丸は、太陽の丸です。日の丸は、国旗である前に、実はわたしたちみんなの命の原因のマークだったのです。「日」とは太陽のことです。
 では、日本の国旗は、いつ、だれに要請されてつくらなければならなくなったのでしょうか。そしてまた、国旗は初めから「日の丸」だったのでしょうか。

 アメリカのペリー一行が三浦半島の浦賀沖に現れたのは、嘉永六(1853)年六月三日のことでした。このとき、停泊していたアメリカの大型の蒸気軍艦四隻には、アメリカ合衆国の国旗・星条旗が堂々と舞っていたのです。当時の日本人は、あの星条旗が何であるか、まったくわかりませんでした。
 そのアメリカのペリー艦長が、鎖国をやめて通商・交易の開国をするよう、幕府に強く求めてきました。幕府は困惑しましたが、とりあえずその交渉を来春まで延ばしてほしいと切望してやっとのことで退去してもらいました。そのときペリーは、幕府の役人たちに、つぎのことを忠告しました。
「アメリカの黒船のまわりに、たくさんの小さい日本の船がやってくるが、旗をつけていない。日本には、ナショナル・フラッグ(国旗)というものがないのか。ナショナル・フラッグをつけていない船は、どこの国の船ともわからないから、大砲を撃ち込んで沈めてしまってもいいことになっている。来年来るときまでに日本の船には日本の国旗をつけて走るように・・・。もしナショナル・フラッグをつけていない船が近づいて来たら沈めます」

 薩摩藩主、島津斉彬は日本の旗をつくるように、幕府に願い出ました。そして、日本の将来は古代から日本人がいのちの恩として愛してきたかがやく太陽のようでなければならぬ。と考え、「日の丸」を日本全体の総船印とすることを幕府に提案しました。
ところが幕府では、大半の重役が「日の丸」に反対でした。彼らは中黒(白地の中央に黒の横一文字)にするほうがよいと強硬に論じました。
 この両論に対して、水戸の徳川斉昭は、最終意見を求められ、日本の総旗印は日の丸にすると断固決定したのです。
1854(安政元)年七月九日、江戸老中の阿部正弘から大小の目付へ「達」が渡され、七月十一日付で「日の丸」をナショナル・フラッグにするとの決定が天下に布告されることになったのです。
「日本総旗印は、白地に日の丸幟相用い候う様」(日本全体の旗印は、白地に日の丸の旗を使用する)という布告でした。
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posted by 小楠 at 07:34| Comment(10) | TrackBack(2) | 書棚から真実を