2007年06月02日

幕末明治の英紙報道1

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
合衆国の日本遠征
1853年10月22日号(香港、1853年8月10日)

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介します。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、今回からその内容を抜粋引用してみましょう。
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引用開始
 今月7日[嘉永6年7月3日]ペリー提督はその最初の日本訪問を終えて当地に到着した。彼の指揮下にあるアメリカ合衆国艦隊は、旗艦サスケハナ号(蒸気艦)、ミシシッピ号(同)、プリマス号(コルヴェット艦)、サラトガ号(同)およびサプライ号(運送船)から成り、去る6月琉球諸島に会し、7月2日にサプライ号だけを残して、すべて日本に向けて出帆した。
・・・8日に艦隊は江戸湾に到達し、浦賀と呼ぶ町の沖に投錨した。そこは江戸から30マイルのところである。
 2、3日にわたる交渉ののち、ペリー提督は300ないし400人の兵員を上陸させ、合衆国大統領の書翰とペリー自身の信任状を、皇帝[徳川将軍]の閣僚の一人で、これを受領するよう命ぜられた、なにがしの守(かみ)に贈った。

 前記の兵員は、半月形をした海辺に整列して、400ないし500人から成る日本の軍隊と陸上で対峙した。双方とも、ひとたび合図があれば会戦に及ぶ準備が出来ていた。というのは、日本人は信頼を裏切るかも知れず、アメリカ人もまた同じ状況にあったので、ともにそうしたことが起らぬように警戒していたからである。しかし、すべては平和裡に済み、艦隊は回答を受け取るため、春になってもう一度訪問するとりきめができた。非公式ながら、皇帝は、きっと大統領書翰に好意的な回答をよこすだろうとの暗示が得られた。この会見の翌日には、数人の日本の役人たちが旗艦を訪れて、多くの贈物の授受が行われた。

 書翰贈呈の儀式が済むと、艦隊は港をさらにさかのぼって、湾内の一部の全般的な測量を行った。江戸の町を見るところまでは至らなかったが、その前方2、3マイルのところにあるジャンク船の投錨地だけは見えた。日本人はこれらの帆船のことをさほど気にしてはいないように思われたが、それでも蒸気艦が自分達のまわりにあるあまりに多くのことを知りすぎてしまうのではないかと、いたく恐れ、また、蒸気艦が、風向きや潮流にさからってまで行動できることには明らかに納得がいかない模様であった。
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posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B