2007年06月06日

幕末明治の英紙報道4

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
江戸からの回答
1855年1月13日号つづき
 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
 幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵はデューク・オブ・ウェリントン号
duke.jpg

引用開始
 オブニョウ[御奉行]は皇帝の回答を江戸から受け取っていた。それは解いてみると、長い一巻の巻物、もしくは一組の巻物であった。その内容が知らされた・・・・
 この回答には、丁重な言葉づかいでイギリス人が訪問し書翰のやりとりをした際示した敬意に謝意を述べ、偉大なるイギリス国民、女王、提督、その他に対して皇帝の胸に懐かれている高い配慮を表し、戦争[クリミア戦争]とそれに伴って恐るべき事柄が起ったため、窮迫した事態になったことを残念に思い、皇帝の臣民に対する義務の観念は厳正なる中立を彼に守らせるがごときものであることを説明してあった。

 「皇帝は、いずれか一方の側の怒りに自分をさらさずに、また多くの哀れな弱い国民に恐ろしい災厄をひき起さずに、このひどい争いのどちらにも加担することはできない」としたが、これらの点について述べられた考えは、極めて正当、賢明、かつ尊厳なるものであった。皇帝は「長崎の主なる役人に、わが帝国の法律と利害とが許すような条約を自分の名において締結するよう任命したが、皇帝はよろこんでオランダ・中国の両国民に限られた特別の商業特権だけは除くが、最恵国により享受せられるすべての便宜をイギリス人に譲与する」とのことであった。

 この皇帝の書翰は、とてもすばらしい産物と見なされた。それは、さまざまの義務と意向とを明白に、合理的に、かつ直截に述べたもので、期待され得ることはすべてこれを譲歩し、完全な信頼を示唆し、将来の行動を律すべき原理の数々を定義していた。・・・ 会見の進行中、多量の雨がふり始めた。このことは丁重で親切な心遣いを示す機会を与えた。五艘のボートの乗組員たち――その全員とこれを指揮する士官たち――はすべて宮廷内に雨宿りするよう案内された。もはや真暗だったが、雨はなおやまなかった。一行の各人に1本ずつ傘が贈られた。覆いのある屋形船が用意された。提督とその一行は7時半に日本の政府の小舟で無事にぬれずに旗艦に帰った。なお4、5日が条約起草のために費やされた。
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2007年06月05日

幕末明治の英紙報道3

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
長崎の知事(奉行)を訪問
1855年1月13日号
昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は長崎の上陸場所
landing.jpg

引用開始
(1854年)10月4日9時30分、5艘のボートが提督と約15人の仕官を乗せて旗艦ウィンチェスター号を後にした。
・・・上陸場は、横長で粗削りのみかげ石の石段から成り、セメントはつめてなかった。まず仕官たちが上陸し、2列になり、その間をジェームズ・スターリング卿が、石段より20ヤード先のところで彼を待ち受けている2人の肥った日本人の役人の方へと進んだ。彼らは丁重に彼を歓迎し、知事のもとに案内するためにやってきたといった。・・・・

 提督がただちに向う側の部屋に進むと、そこには知事が立っており、その右には検閲官[目付、永井岩之丞尚志]がいた。2人の背後には4人の若い役人が、手に手に鞘に納めた刀の先端を支えており、刀のつかは彼らの頭より上にあった。・・・知事は水野筑後守[忠徳]という名であった。彼は物静かで、聡明で、顔立ちのいい男で、36歳ぐらいだが、どちらかといえば中背以下である。彼は二言三言低いおだやかな声で彼の足許にいる卑賤の者に話しかけたが、その男は主君をほとんど見上げようともせず、けいれんを起したような「イチ、イチ」[はいっ、はいっ]という言葉で、一句一句理解したとの意思表示をし、知事が話すのをやめると、彼は数回畳敷きの床に接吻してのち、知事の言葉をオト(提督の通訳)に向って繰り返した。オトは提督に「知事は心からの敬意を表し、提督とその士官らにお目にかかれてうれしいといい、彼らが長崎で壮健かつ安穏ならんことを望む、といっている」と語った。

提督。知事に対し、私が彼の丁重な言葉に感謝していること、また彼が親切に送ってくれた物資のおかげでわれわれは壮健かつ安穏である、と告げよ。
知事は、提督の書翰に対する江戸からの回答をすでに受領していて伝達することをねがっていたが、まだ到着しないのが遺憾である、といった。しかし、彼は一両日中に到着することを期待した。・・・
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posted by 小楠 at 07:16| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B

2007年06月04日

幕末明治の英紙報道2

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
クリミア戦争の知らせを受ける
1854年9月16日号付録

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は長崎でのボートの配置
boat.jpg

引用開始
 英国軍艦ウィンチェスター号は、時あたかも女王陛下[ヴィクトリア、在位1837―1901]の誕生日に当る1854年5月24日、香港に入港、郵船の船長から女王の宣戦布告文(クリミア戦争)を読み聞かされた。ウィンチェスター号は上海に赴任するサー・ジョン・ボウリング総督を揚子江口まで送った。・・・南京と上海のほかに、サー・ジョンは日本をも訪問したいと望んでいる。
 ロシア人はすでに日本に到達し、なんらかの条約を結んだと伝えられる。ロシア人の朝鮮での殖民も近づき、彼らにとって日本との友好関係の樹立は、たいへん重要であろう。

 すでに宣戦のあった以上、われわれは、これらの地域からロシア人を駆逐しなくてはならない。アメリカ人はすでに日本人に説いて、彼らの排他的な反社会的慣習をいくぶんゆるめさせた。彼らは丁重に応援を受け、1マイルに及ぶ鉄道[実は模型]や有線電信を敷設し、幾千の観衆の目をみはらせた。アメリカ人のこうした精力的な活動は大いに信用を博するに値するが、だからといって彼らに貿易の独占を許してはならない。
 合衆国の快速警備艇ヴァンダリア号がこのほど日本から到着した。ペリー提督もいた。条約はかなりうまく進行していた。ひとつの港が開かれ、もうひとつも18ヶ月以内に開かれるはずである。・・・・
 
英国艦隊の日本到着
1855年1月13日号
 9月7日英国軍艦ウィンチェスター号、蒸気艦エンカウンター号、バラクーダ号およびスティクス号は、日本の長崎港外に投錨した。・・・
 数艘の小船が、おのおの12人の男たちを乗せてきて、港のはるか外で艦隊と遭遇したが、おのおのそのへさきにある木造の屋根の上に、2、3人の男が立って、竹を通したさまざまな白旗を振っていたが、それは艦隊を追い払いたがっているように思われた。・・・・
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2007年06月02日

幕末明治の英紙報道1

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
合衆国の日本遠征
1853年10月22日号(香港、1853年8月10日)

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介します。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、今回からその内容を抜粋引用してみましょう。
london.jpg

引用開始
 今月7日[嘉永6年7月3日]ペリー提督はその最初の日本訪問を終えて当地に到着した。彼の指揮下にあるアメリカ合衆国艦隊は、旗艦サスケハナ号(蒸気艦)、ミシシッピ号(同)、プリマス号(コルヴェット艦)、サラトガ号(同)およびサプライ号(運送船)から成り、去る6月琉球諸島に会し、7月2日にサプライ号だけを残して、すべて日本に向けて出帆した。
・・・8日に艦隊は江戸湾に到達し、浦賀と呼ぶ町の沖に投錨した。そこは江戸から30マイルのところである。
 2、3日にわたる交渉ののち、ペリー提督は300ないし400人の兵員を上陸させ、合衆国大統領の書翰とペリー自身の信任状を、皇帝[徳川将軍]の閣僚の一人で、これを受領するよう命ぜられた、なにがしの守(かみ)に贈った。

 前記の兵員は、半月形をした海辺に整列して、400ないし500人から成る日本の軍隊と陸上で対峙した。双方とも、ひとたび合図があれば会戦に及ぶ準備が出来ていた。というのは、日本人は信頼を裏切るかも知れず、アメリカ人もまた同じ状況にあったので、ともにそうしたことが起らぬように警戒していたからである。しかし、すべては平和裡に済み、艦隊は回答を受け取るため、春になってもう一度訪問するとりきめができた。非公式ながら、皇帝は、きっと大統領書翰に好意的な回答をよこすだろうとの暗示が得られた。この会見の翌日には、数人の日本の役人たちが旗艦を訪れて、多くの贈物の授受が行われた。

 書翰贈呈の儀式が済むと、艦隊は港をさらにさかのぼって、湾内の一部の全般的な測量を行った。江戸の町を見るところまでは至らなかったが、その前方2、3マイルのところにあるジャンク船の投錨地だけは見えた。日本人はこれらの帆船のことをさほど気にしてはいないように思われたが、それでも蒸気艦が自分達のまわりにあるあまりに多くのことを知りすぎてしまうのではないかと、いたく恐れ、また、蒸気艦が、風向きや潮流にさからってまで行動できることには明らかに納得がいかない模様であった。
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2007年06月01日

米国製憲法強要事情10

天皇最後のご聖断

児島襄著「史録 日本国憲法」をご紹介しています。奥付には昭和四十七年第一刷、昭和五十年第六刷となっています。
 続けてご覧頂き、有難うございました。今回で最終と致します。
この本の最後の部分に、著者は『どのような憲法論議を進めるにあたっても、先ずは「日本国憲法」の成立の事情を明らかにすることが、出発点と思われる』と書いています。
今回が最終の引用です。ここでは新憲法発表の経緯が記されており、このくだりの続きが、今回最初に引用した米国製憲法誕生事情1となります。
 現行の“翻訳憲法”は非独立国時代のものとして捨て去り、日本人の手で、日本語で作られた憲法をわれわれ日本人の憲法として制定するのがごく当り前のことではないでしょうか。

引用開始
 総司令部は速やかな公表を希望しているが、なにはともあれ、天皇に報告しなければならない。
 幣原首相は、“総司令部憲法案”前文と明治憲法の改正手続き、つまり、民意に基づく憲法だという宣言と欽定憲法との関係について質問した。閣僚たちの意見は、結局、天皇のご意思で発表するのであれば問題はあるまい、そこで、まず首相が憲法案を内奏して、こういう内容の憲法をつくるよう努力せよ、との勅語をいただけばよい、ということになった。・・・・・

「このときの内奏は、畢竟するに敗北しましたということの御報告のようになりました。こちらで多少抵抗したためによくなったところもありますが、そういうことはあまり申しませんでした」・・・・・
松本国務相は、「当時のことは今でも目の中にあるのであります」といいながら、その八年後(昭和二十九年七月七日、自民党憲法調査会総会に於て)、そう回想しているが、まことに、松本国務相の心境は、敗北の一語につきていた。
 松本国務相は、既述の如く、憲法改正業務をいわば「国体守護の勤め」とみなして、努力してきた。
「国体を守るために敗北を承知したのに、その国体を捨てるような憲法をつくって良いのか」――とは、松本国務相がしばしば口走った発言である。
 ところが、いまや、松本国務相からみれば、「途方もない」憲法を受諾することになった。

 主権という言葉がある。対外主権、対内主権などというが、対外主権すなわち独立であり、万事を自主的に決定する力をもつことを指す。ところが、いま受けいれようとする“総司令部憲法案”の前文は、日本国民の「安全及生存」は、「世界の平和愛好国民の公正と信義」に依頼する旨を、宣言している。・・・・
 自国の運命を自主的に決定するのが主権国、独立国である。他国の意思にゆだねるのは、非主権国、属国ではないか。

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posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(1) | 米国製憲法強要事情