2007年06月30日

郎坊事件特派員特電

郎坊の激戦

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。また、日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
 では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
写真は行進する鯉登(こいと)部隊
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引用開始
【豊台二十六日(七月)発同盟】河邊部隊発表
 二十五日午後十一時頃、通信隊保護のため天津より派遣されたる○○部隊が郎坊駅附近にて通信線を補修中突如第三十八師百十三旅二百二十六団の部隊より射撃を受けたるも部隊長は第三十八師を友軍と見て俄に交戦することなく郎坊駅より慎重敵状を偵察したるも、敵は不法射撃を止めざるのみか駅を包囲するに至ったので遂に二十六日午前零時過ぎ応戦を開始した。
 郎坊には元来第百十三旅第二百十六団の第一及び第二営があるが、我部隊を包囲したる敵部隊の兵力は迫撃砲を用いたる約十七個連で更に宛平より騎兵を有する約三個団、武清県より約一営の部隊が郎坊に向け前進中である。
 我軍は支那側のこの不信行為に極度に憤慨二十六日払暁鉄道輸送により○部隊を郎坊に急派する一方、二十六日朝六時五分爆撃機数台を現地に飛行せしめ爆弾投下を行った。支那軍は我爆撃に仰天退却を開始した模様だが、我部隊は依然郎坊駅によって敵状を監視中である。尚二十五日夜来の戦闘により我部隊は十数名の死傷者を出した。

頭上で砲弾炸裂!鉄兜は飛ぶ 
郎坊二十六日発・朝日特派員・岡部孫四郎

 二十五日午後十一時三十分、郎坊駐屯の張自忠麾下第三十八師の兵約一千名が我が郎坊監視隊五ノ井部隊に不法発砲すとの情報が川岸部隊にあり、続いて二十六日午前一時五分支那兵迫撃砲の砲撃を開始す。次いで同一時十分重傷者三名、一時半六名に増加、遂に二時七分無電不通となる。
 これだけの情報を耳にして郎坊救援に急行の鯉登(こいと)部隊に随伴、先発したのは本社記者二名、写真班二名だけだ。きのうに変わって沿線も殺気を帯びている。朝から勿論列車の運転は休止。
 沿道には警備兵の姿がチラホラと見える「こりゃ大きくなるぞ」ぐっと胸に直感、「今日こそ報道のために身を捧げるのだ」と決意して沿道の彼方此方に目を見張る。
 午前八時列車はまっしぐらに北平平原を突っ走っている。空に爆音が聞える。列車の窓口から顔を出すと真上に飛行機が戦場の方に快翔して行く、と間もなく耳をつんざく迫撃砲の炸裂する音が引っ切りなしに起る。敵か味方か同行の川岸部隊北川参謀が、「我軍の砲撃です」と教えてくれる。あと五分で郎坊だという地点で敵の大砲、迫撃砲、機関銃の弾丸が我等の列車を狙っている。
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2007年06月29日

盧溝橋特派員特電5

狡猾極まる南京政府

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
巻頭にある写真を掲載しておきます。
平漢戦線負傷兵の後送
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引用開始 
【南京朝日特電七月十五日発】
 南京政府は北支事変以来全く不遜極まる態度をもって望み和平解決を実行するが如き誠意を有していない。即ち政府当局者は公然と非は日本側にありと宣伝し、地方党部及び各機関に命令して計画的民衆運動を煽動し抗日商売の馮玉祥等は二十九軍および旧西北軍系軍隊に対し『抗敵英雄たれ』と歯の浮くような通電を発して得意になっていると云われ、抗日戦線の巨頭孫科は広東行きを中止し、上海にあって人民戦線一派と連絡をとり、政府部内の自重派を圧迫して民衆運動の指導に当って居ると伝えられて居るが、駐支英国大使ヒューゲッセン氏が北戴河より急に南京入りをするに至ったのは、本国政府の訓令によるよりも南京政府の懇望によったもので、飽く迄外国勢力に依存して局面を有利に導かんとする支那流の政策で、外交部当局者はしきりに南京在留の外交官及び外国記者を招致し、勝手な宣伝に躍起となっている。

 某外国人記者などは余り露骨な宣伝振りに呆れて我が大使館に事実を確めに来る始末であり、一方南京政府としては、この機会に地方軍を整理せんとする腹黒い魂胆はいよいよ露骨で新聞を利用して二十九軍将兵慰労義金を募集し英雄扱いをし安価な憂国心をそそって、いやが上にも二十九軍及び韓復軍、山西軍をして日本軍と衝突せしめ、労せずして北支の中央化を図らんとする魂胆である事は明瞭であり、二十九軍その他の北支地方軍の南京弁事処をして常にニュースを放送させているが、この手段を選ばぬ老獪な国内政策に対して外人筋でも不愉快に思って居る。こうした重大時局に際し徒に小策を弄し民衆を欺瞞に陥れる抗日政策は益々時局を急迫に導くものであり、いよいよ和平解決を困難ならしめるものであって、支那を大混乱の渦中に投げ込む責任は南京政府が負うべきであるといわれて居る。
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2007年06月28日

盧溝橋特派員特電4

国民政府武力解決の最後案

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
 自分たちの違反行為を日本側の責任に転嫁して、それを世界に向け宣伝する。昔からのシナの卑劣なやり方です。
巻頭にある写真を掲載しておきます。
写真は永定河の敵陣地
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引用開始
【上海東日、大毎特電七月十二日発】
 十一日夜発表された国民政府の声明は国民政府としての北支事変に関する最初の公式意思表示として注目されるが、その内容において明らかなる如く事件の責任を悉く日本側の発砲に転嫁し、今日なお事態が緩和されないのは日本の違約に基くものであるとし、さらに最後に極東は危険に瀕するを免れないとして言外に日本側の行動に対する反撃政策をほのめかしていることは事件に対する南京側の強硬政策を明らかにしたものとして極めて重大視されている。
 この政策は今後の国民政府の動向を指示するものとして北支における協定成立の如きも全く無視され、両軍対峙のまま支那側が今後如何に積極的に出るかについて万全の策を講じつつある模様で、南京における政府首脳部の重要会議の結果をもたらして、軍政部長何応欽は十二日中に廬山に急行し、国民政府の最後案として蒋介石の決定を仰ぎ、直ちに具体行動にとりかかる模様である。右最後案として伝えられるところでは、
一、南京、冀察両当局を通じてあくまで日本の要求を拒否し、責任を日本に転嫁すること。

二、これが外交交渉の後楯として日本側派兵に対応して中央軍の精鋭を続々北上せしめて武力解決をも辞せざること。

三、国際的関心を喚起するため、事件の責任が日本にあること、日本軍の北支における行動は全く条約違反であることを欧米諸外国に向い宣伝につとめること。

であって、早くも王外交部長は在外各大公使に事件の経過とともに各国政府の注意を喚起するよう電命した。かくの如く今や国民政府は極度に緊張し最近帰任の予定であった許世英駐日大使にも在京命令を発して政府の諮問に応ぜしめている。

北平の邦人遂に引揚ぐ
【天津朝日特電十二日発】
 戒厳令下の北平は今不安のどん底にある。北清事変の苦い経験を思い起す古い在留民達はもとより最近の声ばかりの北支明朗の波に乗って押し出した多数の在留邦人達は一体どうなることやらと、何も手につかぬ有様だ。
 信義を無視する支那軍は幾度か約束を破って我が方に挑戦して来る。而もその兵力は刻々増大して何時如何なる重大事が勃発するかも知れぬ情勢にあるのだ。 この不安な北平の刻々迫りつつある不気味な空気を前に在留邦人は十二日以来続々引揚げを開始した。手近な天津の日本租界を目指す人達、天津から更に船で、汽車で満洲へ内地へと引揚げる人達の物凄いラッシュだ。十二日午後六時北平発津浦線は、夜の厳戒に先立って北平を脱出しようとする婦人子供を中心とした邦人の群で満載だ。かくて危機は刻々と迫ってきた。
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2007年06月27日

盧溝橋特派員特電3

政府、中外に重大声明
 
 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
 今の朝日新聞とは正反対の論調ですが、これは当時の情勢そのままの記事として真に迫るものがあります。今の朝日の論調なら、シナ軍の暴挙は隠蔽し、日本軍のアラ探しをして報じることでしょう。しかし彼らの先輩記者は、事実をそのまま伝えていました。
写真は日支の衝突現場
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引用開始
【朝日七月十二日朝刊】
 政府は十一日の緊急閣議に於て北支事変に対する帝国政府の根本方針に関し廟議一決すると共に近衛首相より上奏御裁可を仰いだ後左の如く中外に声明した。
声明全文
 相踵ぐ支那側の侮日行為に対し支那駐屯軍は隠忍静観中の処、従来我と提携して北支の治安に任じありし第二十九軍の七月七日夜半、盧溝橋附近に於ける不法射撃に端を発し、該軍と衝突の已むなきに至れり、為に平津方面の情勢逼迫し我在留民は正に危殆に瀕するに至りしも、我方は和平解決の望を棄てず、事件不拡大の方針に基き局地解決に努力し、一旦第二十九軍側に於て和平的解決を承諾したるに拘らず、突如七月十日夜に至り彼は不法にも更に我を攻撃し、再び我軍に相当の死傷を生ずるに至らしめ而も頻りに第一線の兵力を増加し、更に西苑の部隊を南進せしめ中央軍に出動を命ずる等、武力的準備を進むると共に平和的交渉に応ずるの誠意なく、遂に北平における交渉を全面的に拒否するに至れり。
 
 以上の事実に鑑み、今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし。思うに北支治安の維持が帝国及び満州国にとり緊急の事たるは茲に贅言を要せざる処にして、支那側が不法行為は勿論、排日侮日行為に対する謝罪を為し、再び今後斯かる行為なからしむる為の適当なる保障等をなすことは、東亜の平和維持上極めて緊要なり。よって政府は本日の閣議に於て重大決議を為し、北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり、然れども東亜平和の維持は帝国の常に顧念する所なるを以て、政府は今後共局面不拡大の為、平和的折衝の望を捨てず支那側の速なる反省によりて事態の円満なる解決を希望す。又列国権益の保全に就ては固より十分之を考慮せんとするものなり。

銃火に孤立の北平
北平十一日発・読売特派員 村上知行
 北支那の杜の都、古都北平は今や硝煙のなかに孤立した。盧溝橋に暴戻二十九軍の銃声起るや布告された戒厳令は軍警の手によってますますその警戒をきびしくし、邦人といえば有無をいわさず訊問する、殴打する、というまったく人道を無視した敵対行為に出で、この戒厳令は今のところ日本人に対して布かれておるというような奇妙な印象を与えている。
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2007年06月26日

盧溝橋特派員特電2

シナ軍の梅津、何応欽協定蹂躙

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。日本が侵略したなどとの宣伝に惑わされないようにしたいものです。
写真は事件の発端盧溝橋tokuden01.JPG

引用開始
【天津十日発同盟】
 蒋介石が中央軍に河南省境出動命令を発出したことは梅津、何応欽協定を蹂躙するものに外ならず、且つ第二十九軍に対する断乎交戦せよとの激励電の如き南京の中央政府の態度は口に不拡大を唱えその誠意皆無なるを証明するものとして我軍当局はいたく憤慨している。

盧溝橋十日発・朝日特派員 奥村正雄 
 盧溝橋第一線の状況視察のため記者は八日(七月)午後一時四十五分天津発軍用列車で河邊部隊長、高見救護班長等と共に現地に急行した。午後四時三十五分豊台に到着、直に軍用トラックで兵士達と共に第一線盧溝橋駅に出発した。
 豊台市街に通りかかるとかねて我が軍によって守られる支那住民がしばしば手を打ち振って我々を見送る。平漢線踏切を越える頃豆を煎るような銃声が物凄く耳朶を打つ。幾度か銃弾に脅かされつつ漸く第一線盧溝橋駅に到着した。

 我軍の猛撃により盧溝橋県城に後退した二十九軍はなおも城壁を利用して盛んに迫撃砲、機関銃を我が陣地に浴びせ、盧溝橋駅付近一帯は砲煙弾雨の巷と化している。記者は先ず戦況如何と盧溝橋駅構内に夕食中の北平牟田口隊長を訪問した。
 北平部隊幹部の面々が砲、銃声を他所に一升瓶に詰められたお茶を飲みながら大きな握り飯をむさぼるように頬ばっている。その間刻々戦況が報ぜられて来る。
 夕闇迫る頃あいより、我が方より猛烈なる砲撃が加えられ支那軍に多大の損害を与えた模様であるが、支那軍もかつて見ざる頑強な抵抗を行い我軍の意気を却って高らしめるものがある。

 午後八時平漢線に沿うて散開した我が歩兵部隊から敵の迫撃砲により重傷を負うた豊台部隊佐藤准尉が、小林軍医中尉以下看護兵数名に護られて盧溝橋駅に送られて来た。大腿部、足部、上膊部五ヶ所に盲貫銃創を負うているのだ。
 流れ出る血潮は純白な包帯を朱に染め小林軍医の手により応急手当が終ると「残念でした」と一言痛さを耐えてじっと眼をつぶって居るのは痛ましくも悲壮だ。折りしも戦線巡視から帰って来た河邊部隊長は、佐藤准尉の手を取って「傷は浅いぞ確りせい」と激励の言葉を与え、並み居る将兵を粛然とさせる。
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posted by 小楠 at 07:39| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変

2007年06月25日

盧溝橋特派員特電1

昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
jihensenshi.jpgjihensenshi2.jpg

引用開始
演習中の我軍に二十九軍不法射撃
【北平[北京のこと]朝日特電七月八日発】
 八日午前零時頃我が駐屯部隊が北平郊外盧溝橋付近において夜間演習中盧溝橋駐屯の第二十九軍第三十七師(師長馮治安)に属する二百十九団の一部が不法にも数十発の射撃を加えたため我軍は直ちに豊台駐屯部隊に急報して出動を求め支那軍に対し包囲態勢をとり対峙、我軍は支那側の不法行為に対し厳重謝罪を要求したところ午前四時二十分頃支那側は再び不法射撃を行いたるため我軍も遂に火蓋を切り双方機関銃、迫撃砲をもって交戦、銃砲声は暁の空を破って遥か北平城内まで伝わったが、遂に支那軍を撃退し龍王廟を占拠した。盧溝橋の支那部隊に対しては目下武装解除中である。

支那側の要請で一時停戦
【天津朝日特電八日発】
 八日午前九時半支那側の停戦懇願により両軍一先ず停戦状態に入ったが我軍は午前十一時までに付近一帯の支那軍が完全に撤退せざる限り全滅作戦を以て撃退すべしとの強硬態度を持しこの決意の下に目下現地交渉が進められつつある。

【北平八日発同盟】
 支那側の申出に依る停戦期限たる八日午前十一時に至るも支那側より何等の回答に接しないが我軍は事件不拡大の建前から正午頃迄右期限を猶予するに決し支那側の誠意披瀝方を督促しつつある。

【北平大毎、東日特電八日発】
 八日午前十一時を期限とするわが方の撤退要求に対し支那軍はこれに応ぜず宛平城内における彼我の交渉は遂に決裂した。よってわが軍は最初の決意に基づき断乎龍王廟及び宛平城内の支那軍を掃討するに決し午後三時まで彼の確答を待ったが遂に支那軍に対し再び応戦するに至った。ただ宛平城内には住民二千余名あり、これに損害を与えざるようわが方では砲撃に当り手心を加え右岸にある盧溝橋の一部隊をしてこれに合流せんとする永定河前方の散在部隊に向って主砲を浴びせているが敵は全面的に増援部隊を山岳地帯及び前線の各部隊に配置し乱射を続けており後退の模様なく夜の帳の近づくと共に最後の重大事は迫りつつある。
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2007年06月23日

年金問題と民主党

年金問題の原因は民主党の支持団体自治労の腐敗
職員の横領まで発覚!!

こんな輩から票をもらう政党を支持しますか?

 年金管理の実際の作業を行ってきたのは、社会保険庁の職員。そしてその労働組合は、全日本自治団体労働組合(自治労)。自治労は民主党や社民党の有力支持団体です。このことがあまり大きく報じられていません。
 参院選を控えた最近の世論では、民主がかなり優勢のように報じられていますが、自治労が有力な民主党の支持団体であることを、どれくらいの国民が知った上での世論でしょうか、疑問に思います。
 社保庁労使のなあなあ体質が、年金加入者無視につながり、今の大問題となって顕在化したものでしょう。
 民主党は、このような団体から票を得てきたことを国民の前にはっきりさせた上で、これまでこの団体に適切な指導もできなかったことを反省し、今回の参院選に臨むべきです。
 また国民も、年金問題で政府批判をしている民主党が、この自治労の支持を得ているということを知っておかねばなりません。
政府与党への批判と歴代長官の責任論が浮上していますが、社保庁と自治労が、労働条件向上を優先する覚書などを何度も交わしていたことも明らかになっています。

土光臨調メンバーで「国鉄民営化」などを提言した評論家の屋山太郎氏は、
社保庁労組は自分たちの労働環境や条件が最優先で、年金加入者へのサービスは二の次だった。かつて国鉄労使がヤミ協定を結び、労働密度をスカスカにしていたのとそっくりだ。これだから国民の大切な年金記録をいい加減に扱っていたのだろう」
「社保庁改革法は非公務員型の「日本年金機構」を作って、6分割する主旨だ。国鉄の7分割・民営化をなぞった解決法だ。民主党の国税庁と一緒にして「歳入庁」を作れというのは米国式の発想だが、現実問題として大学に中学生を入学させるようなもので無理だ。民主党がやるべきことはまず支持母体の自治労に世間一般の常識を教育してやることだ。小沢一郎氏はこの自治労を選挙の手足にしているが、これではさながら「小沢自治労」だ」。
と憤っています。

 下記の覚書などを見れば、税金を支払っている側の人たちが日夜必死で仕事に取り組んでいるにも拘わらず、その税金から所得を頂いている自治労の公務員が、いかに仕事をしないように日夜取り組んでいるかが浮き彫りになってくるでしょう。
このような団体の支持を受けているのが民主党であることを、多くの国民は知るべきです。
 なお、民主党のなかには、自民党の媚中議員とは正反対の憂国の議員が頑張っていますので、正確には民主党左派や社民系の党員ということになります。
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2007年06月21日

国旗と国土

日の丸採用の経緯

追記:今朝書き忘れましたが、日の丸の簡素で美しい旗は、明治の文明開花期に各国大使の目を引き、なかでもフランスの大使は、すっかりほれこみ、正式に政府の代表を立てて「日の丸を500万円でわが国に売って欲しい」と頼みこんできました。新政府は財政難の時だっただけに、ノドから手が出るほどこの金がほしかったのですが、「国旗を売ることは、国家を売ることだ」と、きっぱりこの申し出を断ったということです。

 「日本のこころの教育」という本があります。著者の境野勝悟氏が高校生を前に講演された内容を記したものです。
 その中から、日の丸と国土についての部分を引用してみます。大変解りやすい内容なので、是非子供たちへの説明に応用されたらいかがでしょうか。
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引用開始
 国旗というのはわたしたちが住んでいる国土のマークです。日本の大地・自然のマークです。そのことをよく頭に置いて下さい。この日本の大地・自然のマークに、わたしたちの民族は太陽のマークを使ったのですね。実はわたしたちの国旗の日の丸は、太陽の丸です。日の丸は、国旗である前に、実はわたしたちみんなの命の原因のマークだったのです。「日」とは太陽のことです。
 では、日本の国旗は、いつ、だれに要請されてつくらなければならなくなったのでしょうか。そしてまた、国旗は初めから「日の丸」だったのでしょうか。

 アメリカのペリー一行が三浦半島の浦賀沖に現れたのは、嘉永六(1853)年六月三日のことでした。このとき、停泊していたアメリカの大型の蒸気軍艦四隻には、アメリカ合衆国の国旗・星条旗が堂々と舞っていたのです。当時の日本人は、あの星条旗が何であるか、まったくわかりませんでした。
 そのアメリカのペリー艦長が、鎖国をやめて通商・交易の開国をするよう、幕府に強く求めてきました。幕府は困惑しましたが、とりあえずその交渉を来春まで延ばしてほしいと切望してやっとのことで退去してもらいました。そのときペリーは、幕府の役人たちに、つぎのことを忠告しました。
「アメリカの黒船のまわりに、たくさんの小さい日本の船がやってくるが、旗をつけていない。日本には、ナショナル・フラッグ(国旗)というものがないのか。ナショナル・フラッグをつけていない船は、どこの国の船ともわからないから、大砲を撃ち込んで沈めてしまってもいいことになっている。来年来るときまでに日本の船には日本の国旗をつけて走るように・・・。もしナショナル・フラッグをつけていない船が近づいて来たら沈めます」

 薩摩藩主、島津斉彬は日本の旗をつくるように、幕府に願い出ました。そして、日本の将来は古代から日本人がいのちの恩として愛してきたかがやく太陽のようでなければならぬ。と考え、「日の丸」を日本全体の総船印とすることを幕府に提案しました。
ところが幕府では、大半の重役が「日の丸」に反対でした。彼らは中黒(白地の中央に黒の横一文字)にするほうがよいと強硬に論じました。
 この両論に対して、水戸の徳川斉昭は、最終意見を求められ、日本の総旗印は日の丸にすると断固決定したのです。
1854(安政元)年七月九日、江戸老中の阿部正弘から大小の目付へ「達」が渡され、七月十一日付で「日の丸」をナショナル・フラッグにするとの決定が天下に布告されることになったのです。
「日本総旗印は、白地に日の丸幟相用い候う様」(日本全体の旗印は、白地に日の丸の旗を使用する)という布告でした。
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2007年06月20日

ケンペルと元禄の日本5

二度目の江戸参府
 1690年(元禄三年)7月4日に日本にやってきたケンペルの「江戸参府旅行日記」の中から、1692年3月2日に長崎を出発して、二度目の江戸参府を行った時の将軍との謁見の模様を、少し引用掲載してみます。これは300年以上前の日本の姿です。
画像は本文と関係ありませんが道中での清水寺
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引用開始
4月21日
・・・われわれはぬれた靴下や靴をとりかえて、[本丸]御殿に入った。カピタン一人が将軍の座所の前に進み出て、献上品を捧呈したのは12時で、それが終るとすぐにわれわれのいる控えの間に戻ってきた。(長崎奉行の)十兵衛様は、それからわれわれも一緒に拝謁するように言い、献上品が並べてあった左手の広間の所を回って、・・・・
拝謁が行われる広間のすぐ近くにある長い次の間に入った。・・・

 われわれが坐りきりで長時間待っていて疲れるといけないので、他の廊下にさがらせ、そこで気楽に時を過ごすことができるようにしてくれ、終いには近くにある庭が見えるように戸をあけてくれた。
 そこで休んでいる間に、身分の高いたくさんの若い人々が現れ、われわれを見て挨拶したが、大へん親しみがこもっていた。宗門改めの奉行はわれわれに、金の輪を見せてくれたが、それには日本の十二の干支のついた磁石がはめこんであったし、またヨーロッパの紋章やその他いろいろな物を見せた。われわれがもとめられて、これらの品について説明しようとしたちょうどその時に、将軍に呼ばれた。・・・・

 左には六人の老中・若年寄が、右の廊下には側衆が座に着き、その右手の御簾の向うに将軍が二人の婦人と一緒におられた。その前の所に実力者の側用人備後様が座を占めていた。彼は将軍の名において、よくぞ来られたと挨拶し、それから、正座しなさい、外套を脱ぎなさい、と言い、われわれの氏名や年齢を言わせ、立ちなさい、そこらを歩いてみなさい、向きを変えなさい、舞ってみなさい、などと命令し、特に私には歌え、と言った。
 われわれは互いにお辞儀をしたり、叱り合ったり、怒ったり、客に何かを勧めたり、いろいろの会話をやらされた。それからわれわれ二人を親友とか、親子とかいうことにし、互いに別れを惜しんだり、訪ねて来たり、互いに出会う二人の友人のしぐさをしたりした。また、一人の男が妻と別れる場面を演じたり、子供を甘やかしたり、腕に抱いたりする真似をした。

 その他われわれに向っていろいろな質問が行われた。すなわち私に対しては、其方はどんな職業についているのか、また特に、其方はこれまでに重病を治したことがあるか、と聞かれた。これに対して私は、捕虜と同じような状態にある長崎では、治したことはありませんが、日本以外の所ではあります、と答えた。さらに、われわれの家のことを、また習慣は違っているのか、と尋ねられた。私は、はいと答えた。其方どもの所では葬儀はどのように致すのか。答え。遺体を墓場へ運んでいく日で、それ以外の日には葬儀は行いません。
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2007年06月19日

ケンペルと元禄の日本4

各奉行屋敷への訪問

1690年(元禄三年)7月4日に日本にやってきたケンペルの「江戸参府旅行日記」の中から、1691年2月13日に長崎を出発して、江戸参府を行った当時の日本人との交際にあたる部分を、少し引用掲載してみます。ここは前回と同じ日の出来事から続けます。これは300年以上前の日本の姿です。
画像は謁見の広間の内部
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引用開始
 もう午後3時であった。・・・今日にも贈物を携えて、老中と若年寄を儀礼的に訪問しなければならなかった。そこでわれわれは将軍の御殿を離れ、大番所にいた主立った人々に、通り過ぎる時挨拶をし、歩きつづけた。
 贈物は、一つもわれわれの目につかなかったから、すでにわれわれが行く前に、めいめいの屋敷に書記役が持参し、たぶん特別な部屋に置いてあるのだろう。
・・・どの屋敷へ行ってもわれわれは書記役に丁重に迎えられ、短時間なので当然のことであるが、挽茶や煙草や菓子を出してもてなされた。われわれが通された部屋の簾や障子の後ろは、女性の見物人でいっぱいだった。もしわれわれが彼女たちにおどけたしぐさを少しでもやって見せたら、好奇心が強いから、大へん喜んで見物したであろう。しかし備後守の屋敷と、城内の北側にある一番若年の参政官[側用人柳沢出羽守吉保。当時33歳]の屋敷以外では、彼女たちは当てがはずれたであろう。備後守の屋敷では少しばかりダンスをお目にかけ、出羽守の所ではわれわれ一人一人が歌をお聞かせした。・・・

3月30日金曜日
 われわれは朝早く、他の役人すなわち二人の江戸町奉行、三人の寺社奉行、外国人や舶来品を監視する二人の宗門改めのところに、われわれの贈物を届けるため、馬で出かけた。その贈物は同じように日本人の書記役が、台に載せてあらかじめ指定された謁見の間にきちんと並べておくのである。
・・・一人または二人の家来の案内で幾つかの部屋を通りぬけ、四方八方どこの場所も見物人でぎっしりと詰っている謁見の間に連れて行かれた。席につくと煙草や挽茶が出された。それから間もなく用人か書記役が一人、時には同僚と一緒に出て来て、主人の名において挨拶を受けた。
 いつもわれわれは目に見えぬ婦人たちの視野の中にあるようになっていた。いろいろな焼菓子や砂糖漬の菓子をわれわれの前に出して、婦人たちのお気に召すように、われわれを引留めようとした。

 二人の宗門改めの奉行は、一人は西南で、もう一人は東北と、一里ほど離れたかなり遠い所に住んでいた。われわれが大へん彼らの愛顧をこうむっていたかのように、大仰な出迎えを受けた。すなわち10人ないし20人の武装した堂々たる服装の侍が、頑丈な棒を横に伸ばして町筋に立ちふさがり、詰めかけた群衆を前へ出ないように抑えていた。
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2007年06月18日

ケンペルと元禄の日本3

将軍[綱吉]に謁見

1690年(元禄三年)7月4日に日本にやってきたケンペルの「江戸参府旅行日記」の中から、1691年2月13日に長崎を出発して、江戸参府を行った当時の日本人との交際にあたる部分を、少し引用掲載してみます。これは300年以上前の日本の姿です。
オランダ使節謁見の広間
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引用開始
3月29日木曜日
 われわれは呼ばれて、二つの立派な門で閉ざされた枡形を通り、それから一方の門を出た所から幾つかの石段をあがって本丸に案内された。そこから御殿の正面までは、ほんの数歩の距離で、そこに武装した兵士が警備し、役人や近習などがたくさんいた。
 われわれはなお二段ほど登って御殿に入り、玄関の右手の一番近い部屋に入った。この部屋は、謁見のため将軍や老中などの前に呼び出される者の普通の控えの間で、金張りの柱や壁や襖でみごとに飾り立てられ、また襖を閉めた時には、それに続く右手の家具部屋の、かなり高い所にある欄間を通してほんのわずかな光がさすだけで、大変暗かった。
 われわれがここでたっぷり一時間ばかり坐っていると、その間に将軍はいつもの座所に着いた。二人の宗門改めと攝津守とが、わが公使つまりカピタンを迎えにやって来た。それから彼を謁見の間に案内して行ったが、われわれはそこに残っていた。彼が謁見の間に入って行ったと思われた時に、間髪を入れず、オランダ・カピタンという大へん大きな声がした。それは彼が近づいて敬意を表わす合図で、それに応じて彼は、献上品がきちんと並べてある場所と、将軍の高い座所との間で、命じられた通りひざまずき、頭を畳にすりつけ手足で這うように進み出て、一言もいわずに全くザリガニと同じように再び引き下がった。いろいろと面倒な手数をかけて準備した拝謁の一切の儀式は、こういうあっけないものであった。

 毎年大名たちが行う謁見も同じような経過で、名前を呼ばれ、恭しく敬意を表し、また後ずさりして引下がるのである。謁見の広間は、モンタヌスが想像し紹介していたのとは、ずっと違っていた。ここには高くなった玉座も、そこへ登ってゆく階段も、たれ下がっているゴブランの壁掛けもなく、玉座と広間すなわちその建物に用いてあるという立派な円柱も見当たらない。けれども、すべてが実際に美しく、大へん貴重なものであることは事実である。・・・・

 100枚の畳が敷いてある謁見の間は、一方の側が小さな中庭に向って開いていて、そこから光が入る。反対側には同じ中庭に面して二つの部屋が続いていて、最初の部屋はかなり広く、幕府の高官の座所で、比較的小さい大名や公使や使節に謁見する所である。しかし、最後のもう一つの部屋は、大広間よりは狭く、奥深く一段高くなっている。そこはちょうど部屋のすみで、数枚の畳が敷いてある高くなった所に将軍が、体の下に両足を組んで坐っていたが、その姿がよく見られないのは、十分な光がそこまで届かなかったし、また謁見があまりに速く行われ、われわれは頭を下げたまま伺候し、自分の頭をあげて将軍を見ることが許されぬまま、再び引下がらなければならないからである。
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2007年06月16日

ケンペルと元禄の日本2

元禄時代のオランダ人の旅行

1690年(元禄三年)7月4日に日本にやってきたケンペルの「江戸参府旅行日記」の中から、1691年2月13日に長崎を出発して、江戸参府を行った当時の日本人との交際にあたる部分を、少し引用掲載してみます。
これは300年以上前の日本の姿です。
挿絵はオランダ使節の行列
gyoretsu.jpg

引用開始
 われわれが宿に着くと(道にいる腕白小僧たちが叫び声をあげるので、少しもゆったりした気分になれず)与力に導かれて家の中を通り、われわれの部屋に行くのだが、そこでは小さな裏庭に出ること以外は何一つ許されず、同心たちは田畑や裏通りの見える窓や、そこに通じる戸口などすべてのものに鍵をかけさせ、釘付けにさせる。
 彼らに言わせれば、盗賊から守るためというのであるが、腹をさぐれば、われわれを盗賊や逃亡者のように見張るためなのである。それでも帰りの旅行の時には、われわれはようやく信用を得たので、こうした彼らの用心は目に見えて少なくなったのに気付いた。
 検使は、その部屋がどの部分にあっても、われわれの部屋に次ぐ良い部屋を使う。与力・通詞および同心たちは、われわれの一番近くにある次の間をとるが、その目的はわれわれを見張っていて、従僕やよその者が、彼らの知らないうちに、または許しを受けずに、われわれの所に立寄るのを妨げるためである。・・・・

 われわれが割当てられた部屋に入ると、宿の主人は、すぐに家族のうちの主立った男たちを連れて姿を見せ、めいめい薄茶をいれた茶碗を持ち、体を非常に低く折曲げ、胸の中からしぼり出したような丁重な声で、アー・アー・アーと言いながら、それを階級順に次々に差出す。
 主人たちが着ている礼服や腰にさしている短刀は、客が泊っている間は家の中でも脱いだり、とったりはしない。その次には、喫煙具が運ばれる。・・・同時に折板や漆塗りの平らな盆に肴が載せてある。すなわち焼菓子、国内産のイチジクやクルミなどの果実、暖かいまんじゅう、米から作った菓子など、また塩水で煮たいろいろな種類の根菜類とか砂糖菓子といったようなもので、これらは最初に検使の所に、次にわれわれの部屋に出される。

 日本人の客に対する給仕は女中が行う。彼女たちは客の所にすべての必要なものを運び、食事時には酒や茶をつぎ、食べ物を出したりし、そうすることで近づきになるための道を拓くのである。
 オランダ人の場合にはこのような給仕はなく、それだけでなく旅館の主人や番頭たちでさえ、茶を持って来た後は部屋に入ることは全く禁止されており、せいぜい部屋の引戸の前まで来ることが許されているくらいである。というのは、われわれの連れて来た従僕がなんでも必要なことをしてくれるし、われわれに加勢してくれるからである。・・・
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2007年06月15日

ケンペルと元禄の日本1

オランダ人の参府旅行準備

1690年(元禄三年)7月4日に日本にやってきたケンペルの「江戸参府旅行日記」の中から、1691年2月13日に長崎を出発して、江戸参府を行った当時の日本人との交際にあたる部分を、少し引用掲載してみます。
これは今から約300年前の日本の姿です。
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引用開始
 ・・・ポルトガル人がそのころこうした儀式(江戸参府)にやむを得ずに従ったように、今またわがオランダ東インド会社の代表たる商館長もそれに従っている。彼は一名ないし二名の書記と一名の外科医をこの旅行に伴うことができるが、そればかりでなく身分や官位の異なる一群の日本人に護衛されるのである。これらの日本人は長崎奉行の支配下にあり、奉行がその役を任命する。
 このことは、将軍に謁見を願う者に敬意を表するかのようにみえるが、実際この護衛の裏にある意図は全く別で、スパイや捕虜の場合と同じようなものなのである。つまりこれによって、道中でこの国の人々と疑わしい交渉や関係が結ばれないこと、また万一にも十字架・聖画像・聖遺物あるいはその他キリスト教に何らかの関係があるものを、こっそり彼らの手に渡させないこと、外国の物やキリスト教の国々から珍しい品物を持込んで、日本人に売ったり贈ったりしないように、さらに誰かがひそかに逃れて、キリスト教の伝道あるいはそのほかの有害な騒動を国内で起こすために、身を隠したりしないように、防止しようというのである。・・・・

 再度私はこういう参府旅行に加わる楽しみを持った。最初は1691(元禄四)年で、ヘンリッヒ・フォン・ビューテンヘム氏と一緒であった。彼は正直で気立てがよく思慮深い人で、日本人の流儀や言葉によく通じていた。そして特に賢明で自分の名誉とオランダ国民の名誉を保持していた。もう一度はその翌年で現バタビア総督の弟コルネリウス・アウトホルン氏に随行した。彼は博識で世故にたけ数カ国語に通じており、その生来の愛想の良さによって、疑念を抱いている日本人にうまく取り入っていたので、それによって会社の利益を非常にあげたのである。・・・

 この旅行の準備には次に挙げることが必要である。
 まず最初に将軍とその閣老および江戸・京都・大阪にいる数人の高官に対する、一定の金額の進物を選ぶことから始まる。次にこれらの進物を分け、どれを誰に贈るかを決め、それから革の袋か行李に入れ、注意深く菰(こも)で包むが、それは贈物が旅行中こわれないためであり、最後に封印をする。贈物の選択は長崎奉行が行い、幕府に喜んで受取ってもらえそうなものの中から決める。彼らはそれらの品を早い時期に商館長を通じて注文するか、あるいは現に倉庫の中にあるものを取出す。・・・
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2007年06月14日

幕末明治の英紙報道11

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース(最終回)
日英同盟成る

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
 幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は、日英同盟を祝して長崎に建てられた凱旋門
gaisen.jpg

引用開始
1895年4月13日号
 下関で開かれている講和交渉が、近日中には、昨年7月以来中国と日本の間で猛威をふるってきた戦争の決定的な終結をもたらすことになるよう、また、両国陸海連合軍の間の3昼夜にわたる激戦ののち、2月7日に起った威海衛攻略こそ歴史的事件として記憶されるに至るであろう、と期待されている。
 威海衛の位置は渤海湾南岸に当たり、中国本土北部の遼東半島の末端にあるポート・アーサー[旅順]のほぼ反対側ほ占めるが、その位置は、日本軍の企図する海路陸路からする天津・北京への敵対的前進という観点から見るとき、ここを征服することを非常に重要ならしめているのである。この進軍はもし戦争がもう2、3ヵ月延びたら、きっと企図されたであろう。伊東提督と大山将軍が威海衛で行った作戦方法は、戦術に関する教授鎌アマチュア諸君によってくりかえしくりかえし検討されることになろうが、今週号にわれわれが掲載しているような正確で信頼すべきスケッチは、いずれも今後この問題について出る叙述や論評に関連して貴重なものであることが知られるかも知れない。

戦後の東アジア
1898年3月12日号
 中国の揚子江とその他の内陸河川のヨーロッパ貿易への開港とビルマ鉄道の延長を考慮してイギリス大使C・マクドナルド卿が交渉に当たっていた中国の香港上海銀行からの借款契約は、2月1日北京で調印された、しかしロシアの影響力が強くてこの利益の多い取引がだめになりそうでもある。ロシア側としては、ポート・アーサーおよび大連湾ならびに満洲鉄道の永久租借権を要求している一方で、東部シベリアにおけるロシア陸軍の増大を大々的に意図している。他方、ドイツは山東地方の無限の占領権を要求するらしく、フランスは中国南部での、かねて欲しがっていた便益を要求するかも知れない。日本は、海軍が戦闘的態度をとっている。貿易と財政はこのところかなり混乱に陥っている。
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2007年06月13日

幕末明治の英紙報道10

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
日清戦争

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は、日本の軍艦「吉野艦」
yoshino.jpg

引用開始
1894年7月21日号
 アジアの極東では、ときおり、仲介的な地理的位置を占める一国が無政府状態に陥って、自分で防衛できなくなったような場合に、ヨーロッパの場合と同様、敵視しあう諸帝国のもつ猜疑心のために、混乱が起る。
 中国と日本とは、朝鮮をいかにあつかうべきか、自他いずれの国もこの国を放任しておくべきかという問題をめぐって、まったく意見を異にしているが、さらに北方には第三国、すなわちロシアがいて、どんな政策をとるつもりか、その意図はまったくわからない。・・・・

1894年9月1日号
 日本における最近の政府の発表によれば、朝鮮国王は6月30日中国からの独立を宣言し、ついで日本軍に中国の分遣隊をアサン[牙山]から駆逐するのを援助してほしい、と呼びかけたとのことである。
 中国側の報告によれば、最近日本軍が京城北西の平壌付近で中国軍に敗れたという。
 8月18日、日本の軍用輸送船団は、軍艦の護衛のもとに、大同江河口の平壌の入江に到着したらしい。
・・・軍は大同江流域を通って平壌に向け出発したが、突然1000騎の中国軍騎兵隊の攻撃を受け、縦隊を2つに分断された。高地に程よく配置されていた中国軍砲兵隊は、日本軍に対し砲火を開き、日本軍は完全な混乱に陥り、自国の軍艦の砲火の保護圏内の海岸へ逃亡した。日本人ガ平壌南方中和へ後退した事実については、上記の報告では言及されていないが、中和は中国軍によって占領されているらしい。・・・
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2007年06月12日

幕末明治の英紙報道9

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
横浜から見た西南戦争

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は、薩摩の戦場に出かける江戸の警官
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引用開始
1877年4月14日号
 日本は火山国であるため、しばしばこの地に爆発が起ることは、極めて自然のことである。実際、昨年10月ヒオゴ[肥後]の国の熊本の守備隊が真夜中に襲撃を受け、多数の将兵が“古い日本”の狂信家たちによって虐殺されて以来、農民の暴動や反乱がこの国のほとんど至るところで起っている。
 しかしこうした行動も、帝国政府によって、個々に鎮圧されてきた。これらの暴動のあいだ強力な薩摩藩は完全に静謐を保ち、ひところは全日本を内乱にまきこむ恐れのあったチョーシン[長州萩]における前原[一誠]の反乱のあいだすら、そうであった。

 農民を鎮めるために減税が行われ、日本国中すべてが静謐に帰するかと思われた。それでも、ときおりは薩摩がかなり動揺しているとの噂が江戸に達した。ひところは、西郷[隆盛]が、不愉快に思っている大臣たちの解任を求める建白書を提出するため、17個大隊の兵の先頭に立って首都に向かって進軍中である、との報せもあった。しかし、これらの噂は否定され、ミカドが今月五日に鉄道開業式に臨むため京都へ赴いたころは、すべてが円滑に運んでいるかのように思われた。しかしこの式典すらも、とても満足には行われなかった。というのは、1隻の政府の汽船が鹿児島(薩摩の首府)から火薬を持ち去ろうとしたところ、その国から火薬を持ち去らせるのを拒んだ武装したサムライ[士族]たちによって追い払われた、とのニュースがこの地に伝わったからである。これが、実に紛争の発端であった。

 薩摩にいた男子生徒やサムライや軍隊は、武器をとって隣国ヒオゴ[肥後]に侵入したのである。ミカドとその顧問官たちは、かねてから和解策をとることを願っていたが、しかし、反乱者たちがこのような振舞をしている旨の電報を受け取ると、彼らは、やむを得ず、戦争を布告した。そこでミカドはアリスガワ・ノ・ミヤ[有栖川宮熾仁親王]を総司令官に任命して、できるだけ速やかに反乱を鎮圧するための全権を与えた。
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2007年06月11日

幕末明治の英紙報道8

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
日本の茶屋の夜と朝

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は、宿の少女
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引用開始
1873年11月15日号
 日本は旅行のためのよい設備をそなえている。この点では、多くの東洋諸国とは異なっている。われわれの言葉の意味でのinn(旅館)は存在しないが、日本人なりのそういう場所は、「茶屋」(tea houses)と称するものによって、充分提供されている。
 こうした場所のひとつふたつは、大抵の村々に見出される。ある村々では、こうした場所は大きな建物である。すべてが極めて念入りなやり方で清潔さを保っており、しばしば日本式に設計された裏庭があり、そこには小型の岩や滝や湖や寺や盆栽の木が置かれている。ただヨーロッパ人旅行者は多少の食料品を用意して行かなくてはならないが、それは、日本の食糧がほとんどヨーロッパ人を満足させないからである。
 それに、いくらか飲める物と、敷布と、枕と毛布は、自分で持参しなくてはなるまい。

 苦力もしくは運搬人は容易に雇えるから、われわれは、日本国内をいとも気楽に旅行することができるのである。これらの茶屋の部屋は、床にたいへん立派な柔らかい藁でできた畳があり、部屋の三方は紙製の、日本の風景を描いた横にすべる板[襖]でできている。夜になって家を締めるときには木製の横にすべる板でできた外側の防壁[雨戸]があり、これらには家を安全にするためかんぬきが使われる。朝になっても、これらの外側の板が外されるまで、光は部屋に入ることはできない。こうした場所のひとつで私がはじめて眠った夜のこと、私は、朝目がさめても、終夜灯が尽きてしまって、あたりは真っ暗であった。今何時だろうかと思ったが、あまりに快適だったため、何時か知るためマッチをするのがめんどうであった。
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2007年06月09日

幕末明治の英紙報道7

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
日本に起った変化(本紙特派通信員より)

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は、新旧両様、日本における服装の変化。
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引用開始
1873年11月8日号
 いかなる国の歴史においても、日本に起った最近の革命に匹敵する変革を見出すのは困難であろう。最も急激な変革が行われ、驚くべき変容ぶりが今なお続いているのである。
 政府の明瞭な代表者であったタイクンは完全に排除され、ダイミョウたちの古い封建制度も一掃されてしまった。この国の軍事力を形成していたダイミョウ家臣団の代りに、今ではフランス式に訓練され、ミカドもしくはその政府に直属する陸軍がある。
・・・・電信線が全国に拡張され、まだ1本だけだが、鉄道もすでに江戸横浜間に運転されており、もう1本の線は神戸大阪間でほぼ完成に近く、やがてはこれらも日本全土に拡張されることとなろう。

 ヨーロッパの暦が採用され[明治5年12月3日が1873年1月1日なので、明治6年1月1日とした]、イギリス製の時計が鉄道の停車場にはどこにもかかっており、・・・・
 いかなる東洋の国も――そして、いかなる西洋の国も、と付け加えてもよかろうが――日本人が自国の主要な島をそう呼んでいるニフォンに、今起りつつあるような急激で完全な組織上の変化をとげたことはない。ミカドは今や政府の真の首長であり、しかも宗教的な神聖さのもとに包まれて見えないところにいる代わりに、彼は国民の前に現われ、政務を実際にとり行っているのである。みずから最初の鉄道の開業式に臨み、横浜商業会議所からの祝辞をたずさえた代表団に拝謁を賜った。・・・・

 これらすべてのことは奇妙にも北京で起った事態と対照的であり、そのことは、・・・皇帝と西洋列強代表たちとの外交関係、およびひきつづき中国のどの地方へも電信と鉄道を導入することに反対している、という詳しい報せのなかで明らかにされる。
 どの港にせよ、日本の港を訪れる人の眼にとまる最初のことは、つい最近起って今もつづいている衣服の変化である。今までのところ、婦人たちは自分の昔からの絵画的な衣裳になんら変更を加えていないし、すべての人々がこの変化をなしとげるにはなお時間が経たなくてはなるまい。しかし、部分的にせよ全面的にせよ、変化をなしとげた人々の数も相当である。
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2007年06月08日

幕末明治の英紙報道6

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
明治維新のニュース
 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
 幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は横浜の出入り口の門、門に見える3人は薩摩出身の兵士。
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引用開始
1868年1月11日号
 上海からの報告は、日本で革命が起った旨を伝えている。タイクン[徳川慶喜]は辞職[大政奉還]したといわれ、この変革のひとつの結果として、外国人に対する新たな諸港の開港は、おそらく2、3ヶ月遅れるものと思われる。

1868年1月18日号
 国内の内乱に関しては、現在のところ、帝国政府は今後ミカドのもとに、ダイミョウすなわち貴族層の協議機関をおくことによって運営されていくであろう、との話である。帝国の首都キアト[京都]には争乱が起っているとの噂がある。

1868年3月7日号
 この国は明らかな混乱状態にある。内乱が生じたのは外国人に対して最近行われた数々の譲歩の結果であるが、この譲歩政策については、半独立的な領主たちが中央政府と意見が合わないのである。
 中央政府についていえば、「シャグーン」[将軍]が積極的でしかも目に見える首長であるのに対して、「ミカド」[天皇]は形式上の首長なのである。若いミカドはサツマ[薩摩]、チョイス[長州]及びソソ[土佐]という帝国の3大領主によって捕縛され、1月25日[慶応4年1月1日]付の報告書発信日現在では、捕虜としてなお彼らの手中にあるとのことであった。
 香港で2月12日[慶応4年1月19日]に受取った情報によれば、連合したダイミョウたちとショウグン・ストツバシ[一橋慶喜]との間の争いが継続中とのことである。・・・

1868年4月11日号
アレキサンドリアで受取った情報によれば、日本における内乱は終った。3人の有力なダイミョウ――すなわち、薩摩と、長州と、ゾザ[土佐]――がミカドのもとに政権を握った。

1868年5月2日号
 先月7日[慶応4年3月15日]までの日本からの情報によれば、英国公使ハリー・パークス卿は、ミカドを訪問し、ミカドによって好意的に迎接を受けた。その帰路、パークスは一団の日本人に襲撃を受け[正しくは明治元年2月晦日襲撃を受け、3月3日初めて朝見]、付添の者数人が負傷した。襲撃者のうち3人が捕えられた。
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2007年06月07日

幕末明治の英紙報道5

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は長崎のオメズキ[御目付]とオブンゴ[御奉行]
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引用開始
外国および植民地ニュース:日本
1859年9月3日号
 最近の中国からの郵便は、6月5日[安政6年5月5日]までの日本からのニュースをもたらした。日本とヨーロッパ諸国との国交は日増しに緊張を加え、数年のうちにこの点では完全に変化が起りそうである。
 電信に関する最初の実験ののちに、皇帝[将軍]は、江戸・長崎・下田・箱根の町々を結ぶ線を架設するように命じた。
 皇帝はまた艦隊の改造も決定し、すでに蒸気軍艦を6隻もっている。それらのひとつ「二フォン号」[咸臨丸=原名ヤーパン号]は周航航海に出たが、エンジンはアメリカ製の350馬力である。。船員はすべて日本人で、彼らは蒸気エンジンの操縦に多大の適性を示している。

 アメリカ領事と日本政府[幕府]との間に難題が起ったが、このほど友好的に解決された。豊かな銅山を発見したひとりのアメリカ人が、日本の法律に反して鉱山と土地に対する権利主張した。政府は反対し、事件は不愉快な局面を迎えたが、そのとき、皇帝は、争いがさらにひろがるのを防ごうと、第三勢力を審判員に選ぶことを提案し、当初はフランスを、ついでロシアを指名した。アメリカ領事[タウンゼント・ハリス]は回答を送らなかったが、発見の当事者は、結果を道徳的に判断して、土地に対する要求は放棄し、鉱山を採掘してその利潤を日本政府と分けあう許可を求めた。この申し出はただちに受理されたが、誰しも本件における皇帝のとった中庸的立場を非常に高く評価している。

長崎の日本人
1860年2月25日号
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