2007年05月07日

支那事変南京総攻撃2

当時の出版物に見る南京包囲戦2

 支那の大嘘と朝日新聞のため、未だに問題となっている南京戦について、
南京陥落から約八ヶ月後の昭和十三年八月から、事変の経緯と支那各地の知識を解説した内容を現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある南京総攻撃の部分から、先ず昭和十二年十二月六日から南京包囲までの部分と総攻撃の部分を掲載してみます。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
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引用開始
[白水橋付近の夜襲]
 南京を死守する敵は、湯山の市外付近に蟠踞して、迫撃砲、速射砲により頑強に抵抗し、且つ高地には永久陣地を構築して、遮二無二の盲目撃ち、その勢い侮るべからざるものがあった。その時我が新鋭部隊は野田部隊を以て、八日午前零時を期し夜襲を決行したのである。右翼には助川、片桐、左翼には大野部隊、かくて野田部隊の夜襲により、八日暁までに我が軍の先頭部隊は勇躍南京を距ること二里の地点白水橋付近に達したのであった。一方湯水鎮付近三百メートルの高地に蟠踞して、頑強に抵抗を続けつつあった敵は、我が三国部隊の砲撃によって、七日午後八時遂に沈黙するに至った。

[城外の一角の突入]
 我が助川部隊は七日午後湯水鎮の北方、南京城外の紫金山後方の山岳陣地に拠る敵部隊を猛撃、物凄い山岳戦を演じて、これを屠り、南京攻撃三日目の朝には、既に南京城外陣地の一角に突入したのである。
 まだ明けやらぬ八日早暁、南京外周の山野を包む朝霧を衝いて、愈々南京城正面攻撃の火蓋は切って落されたのであった。
 八日朝来の戦況は左の如くである。
 南京街道をひた押しに押し進む助川、大野の諸部隊は、湯山の山腹及び山頂の敵を攻撃、山麓より徐々に敵を制圧しつつ山腹の堅陣に肉迫した。
 索野鎮を突破した下枝、脇坂等の諸部隊は七日に引き続いて街道を扼する普山の要塞攻撃を続行中であった。

 又秣陵関の天嶮をついて北進した千葉、山田の諸隊は牛耳山の本陣地山麓にとりつき、肚烈な山岳戦に移り、敵を雨花台方面に圧迫しつつあった。いずれも戦況有利に展開して、砲声は南京城外の山野を圧し、戦闘は正午頃に至って益々酣となったのである。
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posted by 小楠 at 07:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変