2007年05月06日

支那事変南京総攻撃1

南京包囲戦1

 支那の大嘘と朝日新聞のため、未だに問題となっている南京戦について、
南京陥落から約八ヶ月後の昭和十三年八月から、事変の経緯と支那各地の知識を解説した内容を現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある南京総攻撃の部分から、先ず昭和十二年十二月六日から南京包囲までの部分と総攻撃から陥落の部分に分けて掲載してみます。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真のキャプションは「南京へ南京へ」です。
nankin01.gif

引用開始
[南京へ南京へ]
 北上する左翼千葉、山田両部隊は、六日秣陵関を越えて、叉路口に達し雨花台に迫り、右翼は句容より南京、杭州街道によって西進する助川、大野の両部隊は、麒麟門の難関を突破し、紫金山山麓を縫って進撃すれば、その中間を金壇より長躯進撃した脇坂、下枝等の部隊は、高橋門難関を突破して、大校飛行場を占領、今や全く南京城壁は指呼の中に迫ったのである。
 陰暦四月の弦月は早や西に没して、快く晴れた星月夜に我が掩護砲撃の音殷々としてしじまを破り、各部隊は微かに白く浮ぶ高さ十五メートルの城壁めざして最後の進撃を続けていたのである。今や太湖南北両岸より長躯、南京めざして進んだ我が部隊将士は、晴れの入城を目睫に控えて意気愈々軒昂たるものがあった。

[親衛隊の後退]
 句容及び秣陵関の一戦に多大の犠牲を出して、脆くも敗れた敵大部隊は、東方及び東南方より軍工路伝いに雪崩を打って南京城内に殺到してくれば、蒋介石の親衛隊たる第三十六、第八十七、第八十八の各師の一部も、六日夕刻過ぎより夜陰に乗じて、対岸へ後退を開始したのである。尚御大蒋介石も宋美齢夫人同伴親衛隊若干を率いて、南京落ちを七日早朝行ったと推察された。

[支那軍抵抗線]
 我が軍の主力は、南京に通ずる三つの街道をいづれも南京に向けて攻略の陣を進めつつあったが、支那軍は六日この我が軍の攻略戦の前面にある湯水鎮、淳化鎮、高家村を連ねる山岳地帯によって、南京死守の防御陣をかためて、我が進撃を喰い止めんとしたが、七日朝には我が軍はこの抵抗を排して前進,棲霞山、青龍山、方山を結ぶ敵の本防禦線を撃破したのである。この山岳地帯を我が軍が占領すれば、残るは南京市街を直接に防禦する紫金山、雨花台の最後の防備陣だけである。支那軍はこの防備陣によって死にもの狂いの抵抗を試みるものと察せられた。
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posted by 小楠 at 08:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変