2007年05月02日

支那事変上海付近2

上海付近の戦闘

 支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある「上海付近の戦闘」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真のキャプションは「宣撫」となっています。
senbu.jpg

引用開始
 昭和十二年八月十三日午前、閘北の支那前線部隊は続々虹口クリーク、淞滬鉄路沿線、寶山路方面に兵力を終結増加して機銃、小銃の射撃を断続し、同日午後四時十分寶山玻璃廠(日本人経営の硝子工場)付近の敵は本格的に攻撃を開始し来り、午後四時三十分にはまた八字橋警備の陸戦隊にも攻撃し来ったので、わが方は断乎これに応戦しここに上海方面の戦端は遂に開かれた。同夜は早くも彼我の猛撃によって戦線各所が炎上、戦火は大上海の空を焦して凄烈なる状況を呈した。

 十四日午前十時、支那爆撃機編隊は突如として上海空襲を開始し、一機は先ずわが陸戦隊本部上空に現れ他の敵機はわが総領事館、軍艦及び船舶、公大紡、裕豊紡等を爆撃し来り数回反復し来ったが内一機は同日午後三時眞茹上空に於て日本海軍水上機と空中戦の結果撃墜せられた。更に午後四時二十三分敵のマルチン爆撃機十数台は旗艦出雲に編隊爆撃を敢行したが命中せず、わが高射砲機関銃の猛射を浴びて血迷って共同租界、仏租界へ所嫌わず爆弾を投下し、多数の支那人及び外人を殺傷し、英人経営のパレス・ホテル、カセイ・ホテルに三発まで爆弾を誤り命中せしめた。

 我が海軍航空隊はこの暴状に果然憤激、支那海の怒涛を越えて長躯し十四日午後六時半には早くも敵の空軍根拠地、筧橋、杭州喬司飛行場を、同七時半には廣徳飛行場を襲撃し、更に別動隊は同日午後八時南翔飛行場を襲い各々果敢なる爆撃、空中戦を敢行し翌十五日には更に鵬翼を伸して、午前九時半頃杭州を、正午頃南昌を、午後には敵の首都南京を、折柄の悪天候を冒して空襲し支那空軍根拠地の飛行機、格納庫を爆撃して反撃し来った敵機数十を撃墜して制空権を我手に握った。

 爾後わが海軍は空陸海、相呼応して士気益々旺盛に優勢なる支那軍の攻撃を撃退し来り流石に多勢を恃んで執拗な敵軍も、二十日頃には漸く気勢衰え始め戦線は膠着状態に入ったのである。
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posted by 小楠 at 10:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変