2007年05月01日

支那事変上海付近1

中支方面戦略大観

 支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある「上海付近の戦闘」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真は上海市政府の建物
cityholl.jpg

引用開始
・・・長江の流域には、数十年来培われた列強の勢力があり、上海特別市は世界で最も複雑した国際都市である。しかもこの地方一帯の住民は北方の民族に比べて知識的であり、多血質であり、多年国民政府の排日教育によって凝り固まって居た。
 盧溝橋畔一発の銃声によって、支那事変の発端が開かれるや時局収拾策に奔命した国民政府は直ちに中支那方面に、日本軍の軍事行動を拡大せしめ国際紛争を惹起し御得意の以夷制夷の術策により事態の態勢を有利ならしめんと企図した。
 この方策は数年来支那で研究唱導されて居た「抗日決戦策」の第一案であったのである。驕慢なる支那軍閥は満洲事変以来の国際状勢と日本内地の状勢を誤断し、うちには支那軍の近代装備と強化を急ぎ、外には列強の支那支持を恃んで「日本軍何するものぞ」と皇軍の実力を軽侮し敢てこの方策に出たのである。

 蒋介石はこのために支那一流の精鋭軍と誇る直系軍三十個師をこの方面に動員し、戦線四十キロに亘って配置、一師の防禦担任正面は実に一、三キロと言う世界戦史にも稀な濃密な布陣をし、戦場一帯に点在する稠密なる小部落と五十メートル乃至三、四百メートル毎に縦横に交錯する大小クリークの水濠地帯を利用して要点には悉くトーチカを準備し、一連の靭強なる大陣地帯を完成して完全な近代的防禦設備により皇軍を一挙に邀撃せんと試みた。

 これに対して日本軍は兵力極めて僅少、そのうえ戦場の地形は平坦で砲兵の観測所に有利なる地点がなく、交通は困難、歩砲の協同至難を極めると言う攻撃に悉く不利なる状況で、一方上海租界を控えて作戦行動にも重大なる国際上の掣肘を受ける有様であった。しかも敵軍は逐次兵力を増強して上海付近の戦い中期には昆山の線以東に実に七十個師の大軍を配して居たのである。
 戦況は惨烈を極めた。世界無比の皇軍にしてこそ始めてこの状況を克服し堅塁を突破したものと断言し得る。・・・・・
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posted by 小楠 at 09:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変