2007年05月09日

支那事変南京総攻撃4

当時の出版物に見る南京陥落完全占領

 支那の大嘘と朝日新聞のため、未だに問題となっている南京戦について、
南京陥落から約八ヶ月後の昭和十三年八月から、事変の経緯と支那各地の知識を解説した内容を現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある南京総攻撃の部分から、昭和十二年十二月十三日の南京完全占領に至る部分を掲載してみます。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
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引用開始
[南京城門に大日章旗]
 九日(昭和十二年十二月)午前五時半、南京城光華門前面の城壁間近に到達した脇坂部隊は、三十六時間の永きに亙って城壁上から猛射を浴びせる敵軍最後の抵抗に対し、凄壮極まりなき迫撃戦を続けて、十日午後五時、決死的爆破に成功したのである。
 ああ、かくてこの時、この事あるを熱望した光華門の一部は破壊されたのである。
 時を移さず突入して、十二月十日午後五時二十分、城壁高く日章旗を翻したのである。
 世紀の歓喜!仰ぎ見た将兵は感激に泣く。折から西に沈む夕日を浴びて、我が一番乗りの勇士が力の限りに打ち振る日章旗は、敵首都南京陥落を力強く全軍に示したのである。
 おお何たる喜びぞ! 何たる一瞬ぞ! これを眺める将兵の感慨は、弓矢とる身でなければ分かるものではない。敵はこの城壁を首都防衛の最後の線と恃み、九日早朝我が軍が城壁下に達するや、続々精鋭を繰り出し、分秒の隙もなく機銃を撃ちまくり、明故宮飛行場その他城内の砲兵陣地からは、重砲や迫撃砲を釣瓶打ちにして、我が軍を悩ませたが、我が軍はかかる敵の死に物狂いの抵抗に屈せず決死の意気鋭く、背嚢をかなぐり捨てて唯生の甘藷と弾丸を腰につけて、敵と対戦したのである。
 敵弾雨霰と降りそそぐ中に、後方とは全く連絡を断たれ、弾薬、糧食の供給は全然不可能になったが、全将兵は城壁の下から一歩も退かなかったのである。かくて朝来薄曇の空を衝いて飛来する我が空軍の南京城内爆撃と、芹澤部隊の砲撃により城壁の一廓が崩れたが、光華門は鉄扉を以て固く閉ざされ、その上土嚢を積んで厳重に固められていたので、我が砲弾を幾つ受けてもびくともしなかった。午後五時我が決死隊は敵弾雨飛の中をくぐって、城門に突入爆薬に点火するや轟然たる爆音と共に、門の一角に穴が開いたのである。それを見た岸大尉の一隊、続いて葛野中尉の一隊が、城門に突入して、ここに歴史的南京陥落の一頁は描かれたのである。見よ! 城頭高く翻る大日章旗! 脇坂部隊の全将士の万歳の声は、南京城頭に谺(こだま)したのである。
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2007年05月08日

支那事変南京総攻撃3

当時の出版物に見る松井大将の投降勧告文

 支那の大嘘と朝日新聞のため、未だに問題となっている南京戦について、
南京陥落から約八ヶ月後の昭和十三年八月から、事変の経緯と支那各地の知識を解説した内容を現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある南京総攻撃の部分から、昭和十二年十二月九日の松井大将の南京司令官宛の投降勧告文の内容と、南京陥落直前の模様を掲載してみます。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
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引用開始
[皇軍、最後の投降勧告]
 南京は既にわが掌中に在ったが、九日正午松井最高指揮官は、南京防衛司令官唐生智に対し、二十四時間の期限を付し、十日正午迄に降伏するよう、情理を尽した投降勧告文を飛行機より投下して、光栄ある日本武士道の精神を内外に示したのであった。

【勧告文全文】
 日軍百万既に江南を席巻せり、南京城は将に包囲の中にあり、戦局大勢より見れば今後の交戦は只百害あって一利なし、惟うに江寧の地は中国の旧都にして民国の首都なり、明の孝陵、中山陵等古跡名所蝟集し、宛然東亜文化の精髄の感あり、日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも無辜の民衆及び敵意なき中国軍隊に対しては寛大を以てしこれを冒さず、東亜文化に至りてはこれを保護保存するの熱意あり、しかして貴軍にして交戦を継続せんとするならば、南京は勢い必ずや戦禍を免れ難し、しかして千載の文化を灰燼に帰し、十年の経営は全く泡沫とならん、よって本司令官は日本軍を代表し貴軍に勧告す、即ち南京城を和平裡に開放し、しかして左記の処置に出でよ。
大日本陸軍司令官
松 井 石 根

本勧告に対する回答は十二月十日正午中山路句容道上の歩哨線において受領すべし、もしも貴軍が司令官を代表する責任者を派遣する時は、該処において本司令官代表者との間に南京城接収に関する必要の協定を遂ぐる準備あり、若しも該指定時間内に何等の回答に接し得ざれば日本軍は已むを得ず南京攻略を開始せん。

 松井最高指揮官の武士道的見地から礼を尽した勧告文に対し、唐生智は非礼にも回答期限たる十日正午に至るも何等の回答を為さざるのみか、却って十日早朝来猛烈なる砲火を以て我が軍を攻撃応酬しつつあったのである。ここに於て我が軍は十日午後一時遂に総攻撃を実行することに決し、砲兵の全力を以て砲撃を開始すると共に、全線一斉に進撃を開始して、南京城を圧するに至ったのである。
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2007年05月07日

支那事変南京総攻撃2

当時の出版物に見る南京包囲戦2

 支那の大嘘と朝日新聞のため、未だに問題となっている南京戦について、
南京陥落から約八ヶ月後の昭和十三年八月から、事変の経緯と支那各地の知識を解説した内容を現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある南京総攻撃の部分から、先ず昭和十二年十二月六日から南京包囲までの部分と総攻撃の部分を掲載してみます。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
nankin002.jpg

引用開始
[白水橋付近の夜襲]
 南京を死守する敵は、湯山の市外付近に蟠踞して、迫撃砲、速射砲により頑強に抵抗し、且つ高地には永久陣地を構築して、遮二無二の盲目撃ち、その勢い侮るべからざるものがあった。その時我が新鋭部隊は野田部隊を以て、八日午前零時を期し夜襲を決行したのである。右翼には助川、片桐、左翼には大野部隊、かくて野田部隊の夜襲により、八日暁までに我が軍の先頭部隊は勇躍南京を距ること二里の地点白水橋付近に達したのであった。一方湯水鎮付近三百メートルの高地に蟠踞して、頑強に抵抗を続けつつあった敵は、我が三国部隊の砲撃によって、七日午後八時遂に沈黙するに至った。

[城外の一角の突入]
 我が助川部隊は七日午後湯水鎮の北方、南京城外の紫金山後方の山岳陣地に拠る敵部隊を猛撃、物凄い山岳戦を演じて、これを屠り、南京攻撃三日目の朝には、既に南京城外陣地の一角に突入したのである。
 まだ明けやらぬ八日早暁、南京外周の山野を包む朝霧を衝いて、愈々南京城正面攻撃の火蓋は切って落されたのであった。
 八日朝来の戦況は左の如くである。
 南京街道をひた押しに押し進む助川、大野の諸部隊は、湯山の山腹及び山頂の敵を攻撃、山麓より徐々に敵を制圧しつつ山腹の堅陣に肉迫した。
 索野鎮を突破した下枝、脇坂等の諸部隊は七日に引き続いて街道を扼する普山の要塞攻撃を続行中であった。

 又秣陵関の天嶮をついて北進した千葉、山田の諸隊は牛耳山の本陣地山麓にとりつき、肚烈な山岳戦に移り、敵を雨花台方面に圧迫しつつあった。いずれも戦況有利に展開して、砲声は南京城外の山野を圧し、戦闘は正午頃に至って益々酣となったのである。
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2007年05月06日

支那事変南京総攻撃1

南京包囲戦1

 支那の大嘘と朝日新聞のため、未だに問題となっている南京戦について、
南京陥落から約八ヶ月後の昭和十三年八月から、事変の経緯と支那各地の知識を解説した内容を現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある南京総攻撃の部分から、先ず昭和十二年十二月六日から南京包囲までの部分と総攻撃から陥落の部分に分けて掲載してみます。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真のキャプションは「南京へ南京へ」です。
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引用開始
[南京へ南京へ]
 北上する左翼千葉、山田両部隊は、六日秣陵関を越えて、叉路口に達し雨花台に迫り、右翼は句容より南京、杭州街道によって西進する助川、大野の両部隊は、麒麟門の難関を突破し、紫金山山麓を縫って進撃すれば、その中間を金壇より長躯進撃した脇坂、下枝等の部隊は、高橋門難関を突破して、大校飛行場を占領、今や全く南京城壁は指呼の中に迫ったのである。
 陰暦四月の弦月は早や西に没して、快く晴れた星月夜に我が掩護砲撃の音殷々としてしじまを破り、各部隊は微かに白く浮ぶ高さ十五メートルの城壁めざして最後の進撃を続けていたのである。今や太湖南北両岸より長躯、南京めざして進んだ我が部隊将士は、晴れの入城を目睫に控えて意気愈々軒昂たるものがあった。

[親衛隊の後退]
 句容及び秣陵関の一戦に多大の犠牲を出して、脆くも敗れた敵大部隊は、東方及び東南方より軍工路伝いに雪崩を打って南京城内に殺到してくれば、蒋介石の親衛隊たる第三十六、第八十七、第八十八の各師の一部も、六日夕刻過ぎより夜陰に乗じて、対岸へ後退を開始したのである。尚御大蒋介石も宋美齢夫人同伴親衛隊若干を率いて、南京落ちを七日早朝行ったと推察された。

[支那軍抵抗線]
 我が軍の主力は、南京に通ずる三つの街道をいづれも南京に向けて攻略の陣を進めつつあったが、支那軍は六日この我が軍の攻略戦の前面にある湯水鎮、淳化鎮、高家村を連ねる山岳地帯によって、南京死守の防御陣をかためて、我が進撃を喰い止めんとしたが、七日朝には我が軍はこの抵抗を排して前進,棲霞山、青龍山、方山を結ぶ敵の本防禦線を撃破したのである。この山岳地帯を我が軍が占領すれば、残るは南京市街を直接に防禦する紫金山、雨花台の最後の防備陣だけである。支那軍はこの防備陣によって死にもの狂いの抵抗を試みるものと察せられた。
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2007年05月02日

支那事変上海付近2

上海付近の戦闘

 支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある「上海付近の戦闘」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真のキャプションは「宣撫」となっています。
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引用開始
 昭和十二年八月十三日午前、閘北の支那前線部隊は続々虹口クリーク、淞滬鉄路沿線、寶山路方面に兵力を終結増加して機銃、小銃の射撃を断続し、同日午後四時十分寶山玻璃廠(日本人経営の硝子工場)付近の敵は本格的に攻撃を開始し来り、午後四時三十分にはまた八字橋警備の陸戦隊にも攻撃し来ったので、わが方は断乎これに応戦しここに上海方面の戦端は遂に開かれた。同夜は早くも彼我の猛撃によって戦線各所が炎上、戦火は大上海の空を焦して凄烈なる状況を呈した。

 十四日午前十時、支那爆撃機編隊は突如として上海空襲を開始し、一機は先ずわが陸戦隊本部上空に現れ他の敵機はわが総領事館、軍艦及び船舶、公大紡、裕豊紡等を爆撃し来り数回反復し来ったが内一機は同日午後三時眞茹上空に於て日本海軍水上機と空中戦の結果撃墜せられた。更に午後四時二十三分敵のマルチン爆撃機十数台は旗艦出雲に編隊爆撃を敢行したが命中せず、わが高射砲機関銃の猛射を浴びて血迷って共同租界、仏租界へ所嫌わず爆弾を投下し、多数の支那人及び外人を殺傷し、英人経営のパレス・ホテル、カセイ・ホテルに三発まで爆弾を誤り命中せしめた。

 我が海軍航空隊はこの暴状に果然憤激、支那海の怒涛を越えて長躯し十四日午後六時半には早くも敵の空軍根拠地、筧橋、杭州喬司飛行場を、同七時半には廣徳飛行場を襲撃し、更に別動隊は同日午後八時南翔飛行場を襲い各々果敢なる爆撃、空中戦を敢行し翌十五日には更に鵬翼を伸して、午前九時半頃杭州を、正午頃南昌を、午後には敵の首都南京を、折柄の悪天候を冒して空襲し支那空軍根拠地の飛行機、格納庫を爆撃して反撃し来った敵機数十を撃墜して制空権を我手に握った。

 爾後わが海軍は空陸海、相呼応して士気益々旺盛に優勢なる支那軍の攻撃を撃退し来り流石に多勢を恃んで執拗な敵軍も、二十日頃には漸く気勢衰え始め戦線は膠着状態に入ったのである。
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2007年05月01日

支那事変上海付近1

中支方面戦略大観

 支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある「上海付近の戦闘」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真は上海市政府の建物
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引用開始
・・・長江の流域には、数十年来培われた列強の勢力があり、上海特別市は世界で最も複雑した国際都市である。しかもこの地方一帯の住民は北方の民族に比べて知識的であり、多血質であり、多年国民政府の排日教育によって凝り固まって居た。
 盧溝橋畔一発の銃声によって、支那事変の発端が開かれるや時局収拾策に奔命した国民政府は直ちに中支那方面に、日本軍の軍事行動を拡大せしめ国際紛争を惹起し御得意の以夷制夷の術策により事態の態勢を有利ならしめんと企図した。
 この方策は数年来支那で研究唱導されて居た「抗日決戦策」の第一案であったのである。驕慢なる支那軍閥は満洲事変以来の国際状勢と日本内地の状勢を誤断し、うちには支那軍の近代装備と強化を急ぎ、外には列強の支那支持を恃んで「日本軍何するものぞ」と皇軍の実力を軽侮し敢てこの方策に出たのである。

 蒋介石はこのために支那一流の精鋭軍と誇る直系軍三十個師をこの方面に動員し、戦線四十キロに亘って配置、一師の防禦担任正面は実に一、三キロと言う世界戦史にも稀な濃密な布陣をし、戦場一帯に点在する稠密なる小部落と五十メートル乃至三、四百メートル毎に縦横に交錯する大小クリークの水濠地帯を利用して要点には悉くトーチカを準備し、一連の靭強なる大陣地帯を完成して完全な近代的防禦設備により皇軍を一挙に邀撃せんと試みた。

 これに対して日本軍は兵力極めて僅少、そのうえ戦場の地形は平坦で砲兵の観測所に有利なる地点がなく、交通は困難、歩砲の協同至難を極めると言う攻撃に悉く不利なる状況で、一方上海租界を控えて作戦行動にも重大なる国際上の掣肘を受ける有様であった。しかも敵軍は逐次兵力を増強して上海付近の戦い中期には昆山の線以東に実に七十個師の大軍を配して居たのである。
 戦況は惨烈を極めた。世界無比の皇軍にしてこそ始めてこの状況を克服し堅塁を突破したものと断言し得る。・・・・・
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