2007年05月31日

米国製憲法強要事情9

爆音の下の「戦争放棄」

 児島襄著「史録 日本国憲法」をご紹介しています。奥付には昭和四十七年第一刷、昭和五十年第六刷となっています。
この本の最後の部分に、著者は『どのような憲法論議を進めるにあたっても、先ずは「日本国憲法」の成立の事情を明らかにすることが、出発点と思われる』と書いています。
今回の引用は、いよいよ日本側の改正案の否定と民生局側の憲法改正案の提示の部分になります。
画像は右から吉田茂と白州次郎
yoshida02.jpg

引用開始
 昭和二十一年二月十三日、水曜日
 松本国務相は、午前九時半、麻布市兵衛町二丁目八十九番地の外相官邸に到着した。前日、ホイットニー准将から午前十時に憲法改正問題について会談したい、と申し入れがあり、外相官邸を会合場所に指定したからである。
 総司令部側は、民生局長ホイットニー准将、局次長ケーディス大佐ら数人で、非公式会談とのことなので、日本側は、松本国務相のほかには吉田外相、終戦連絡事務局次長白州次郎と長谷川通訳が参加することにした。
 松本国務相は、英訳文を提出しておいた憲法改正「要綱」と二つの説明書の原文を持参した。吉田外相は官邸に住んでいたので、松本国務相が着いたときは、すっかり身支度して待っていた。白州、長谷川両氏もいた。吉田外相は、「きょうはよい天気だから、庭で話したほうが気分もなごやかになるだろうと思って、ポーチに座を用意した」と、松本国務相を案内した。・・・・

 ホイットニー准将は、きっちり午前十時に、軍用色に塗った45年型フォードに乗って、外相官邸にやってきた。ケーディス大佐とハッシー、ラウェル両中佐が一緒であった。・・・・
 ホイットニー准将は、吉田外相の松本国務相紹介が終ると、松本国務相によれば「えらい威張った顔をして」、ケーディス大佐たちの記録によれば「一語一語念をおすように」話しはじめた。
「最高司令官は、先日あなた方が提出された憲法改正案は、これを自由と民主主義の文書として受け容れることはまったく不可能だ、といわれた・・・」
 ホイットニー准将はゆっくり話したので、松本国務相にも発言は理解できた。吉田外相が愕然とした様子で顔をこわばらせると、松本国務相の細い眼が固定し、頬が紅潮した。白州、長谷川の二人も、眼をみはった。

「しかしながら、紳士諸君、日本国民が過去の不正と専断的支配から守ってくれる自由で開放的な憲法を必要とすることを理解している最高司令官は、ここに持参した文書を、日本の情勢が要求している諸原則を具現しているものとして承認し、私にあなた方に手交するよう命じられた・・・」
 ホイットニー准将はそういうと、ハッシー中佐にアゴで合図した。中佐はカバンから、一束の書類を取り出した。・・・・
 白州次郎がハッシー中佐のさしだす受領書にサインしている間に、ホイットニー准将は、「6」を吉田外相、「7」を松本国務相、「8」を長谷川通訳に渡しながら、いった。
「では、紳士諸君、この文書の内容については、あとでさらに説明するが、あなた方が読んで理解できる時間を持つために、私と私の部下はしばし退座することにする」

 総司令部の記録によれば、松本国務相たちはよほどの意外感におそわれたとみえて一言も発する者はなく、とくに「吉田氏の顔は、驚愕と憂慮の色を示し・・・この時の全雰囲気は劇的緊張に満ちていた」とのことだが、ホイットニー准将がケーディス大佐らをうながして、庭に出ると、とたんに米爆撃機B25が一機、低空で頭上を走りすぎ、爆音が外相官邸をゆるがした。・・・・
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2007年05月29日

米国製憲法強要事情8

最高機密の憲法改正草案作成

 児島襄著「史録 日本国憲法」をご紹介しています。奥付には昭和四十七年第一刷、昭和五十年第六刷となっています。
この本の最後の部分に、著者は『どのような憲法論議を進めるにあたっても、先ずは「日本国憲法」の成立の事情を明らかにすることが、出発点と思われる』と書いています。
今回の引用は、米国製憲法草案作成には、GHQ民生局員が動員され、すべて最高機密扱いで行われ、日本政府が作成したものを承認すると見せかけるようにして発表する準備の部分です。

引用開始
 ケーディス大佐はホイットニー准将の部屋を訪ね、次のような憲法改正草案分担表を提出した。(分担表は省略します)
 すなわち、二十五人の民生局員のうち、朝鮮課四人を除く二十一人が動員され、四人(秘書、通訳)が加えられている。
 ホイットニー准将は、リストをいちべつすると、直ちに二十五人を会議室に招集した。准将は、十一の陸軍将校、四人の海軍士官、四人の軍属、六人の女性が席につくと、立ちあがった。・・・・
 准将は、淑女ならびに紳士の皆さま、と合いの手をいれながら、「マッカーサー・ノート」を読みあげた。意外な内容に、一同の間にざわめきが起った。しかし、准将はいさい構わず、なおも朗々としゃべりつづけた。
「私は、二月十二日までに、民生局の草案が完成し最高司令官の承認をうけることを、希望する。二月十二日に、私は日本の外務大臣その他の係官と、日本側の憲法草案についてオフ・ザ・レコードの会合を開くことになっている」

 ホイットニー准将は、おそらくその日本側草案は保守性の強いものだろうが、自分は、それでは天皇を守ることはできない、はっきりと進歩的なものでなければだめだ、ということを納得させるつもりだ、といった。
「私は、説得を通じてこういう結論に達したいと希望しているが、説得の道が不可能なときには、力を使用すると伝えるだけではなく、力を使用する権限を最高司令官から与えられている」・・・・
「われわれのねらいは、日本の外務大臣とそのグループが、彼らの憲法の針路を変え、われわれが望むリベラルな憲法を制定させることにある。そのあと、日本側ができあがった文書を最高司令官に提出してその承認を求めれば、最高司令官はその憲法を日本人が作ったものとして認め、日本人ガ作ったものとして全世界に公表するであろう」・・・・

 話題は、もっぱら「マッカーサー・ノート」第二項、戦争と軍備の放棄に酋長した。・・・・
 主な疑問点は次のようなものである。
――戦争の放棄と廃止とは、別問題のはずである。戦争はやりたくなければやらなくてもいい。しかし、国家が武装を放棄するのは、外敵の侵略にも抵抗しない、いいかえれば独立の放棄に通ずるのではないか。
――世界各国の憲法を見渡してみて、このような“平和条項”をそなえている憲法は、ない。なぜないかといえば、それは国際社会の実状に矛盾する。つまり、国家の安全と軍備とは、現在の国際社会秩序では、まだ切り離すことはできないからである。結局は、この“平和条項”は、やがて日本が独立国家の地位を回復した場合、かえって邪魔になるのではなのか。・・・・・・
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2007年05月28日

米国製憲法強要事情7

基本は武装放棄宣言の憲法

 児島襄著「史録 日本国憲法」をご紹介しています。奥付には昭和四十七年第一刷、昭和五十年第六刷となっています。
この本の最後の部分に、著者は『どのような憲法論議を進めるにあたっても、先ずは「日本国憲法」の成立の事情を明らかにすることが、出発点と思われる』と書いています。
 今回の引用は、武装を放棄して、日本は防衛と保護を世界の崇高な理想にゆだねるという現憲法の成立事情の部分です。

引用開始
 ホイットニー准将は、ケーディス大佐の部屋にはいると、手にした黄色い紙片を渡した。特別の用紙ではない。草稿と清書文を区別するため、草稿は色つきの紙を利用するのが、米国のオフィス慣習であり、黄色紙は最も一般的な草稿用紙である。
 その“イエロー・ペーパー”に、鉛筆で数行の文字が書かれている。ケーディ大佐は黙読した。
「天皇は国家の元首(ザ・へッド・オブ・ザ・ステイト)の地位にある。皇位の継承は世襲である。天皇の義務および権能は、憲法に基いて行使され、憲法の定めるところにより、人民の基本的意思に対し責任を負う。
 国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。
 日本の封建制度は、廃止される。皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治権力を含むものではない。
 予算の型は、英国製にならうこと」

 いわゆる「マッカーサー・ノート」と呼ばれ、日本憲法改正にかんする「三原則」といわれるものである。もっとも、ケーディス大佐は、最後の予算の項目は独立しているとみなし、「四原則だった」と記憶するが、いずれにせよ、ホイットニー准将は、大佐の眼の動きで通読が終ったのを知ると、いった。
「ご注文の品だよ、チヤールス。これがジェネラルの憲法改正にたいする基本点だ。これだけはどうしても入れる、あとは任せるということだよ」
「・・・・」
(本当ですか)という質問をのみこみながら、ケーディス大佐は、しばし、絶句した。・・・・なによりも驚いたのは、戦争と軍隊の放棄を定めた第二項である。

 ケーディス大佐は、ホイットニー准将を通じて、おぼろげながら、マッカーサー元帥が、日本の「キバ」をぬいておくためには日本に軍隊を持たせたくないと考えているらしいことを、推察していた。
 しかし、いずれ日本の占領は終り、日本は講和条約によって独立主権国の地位を回復する。そのさい、軍隊を持たぬ独立国というものが考えられるだろうか。
 ケーディス大佐も、日本の憲法改正に関連して日本軍隊の将来について考えてみたが、天皇と軍隊との結びつきを断絶することはすぐ思いあたったものの、もし憲法に規定するとすれば、せいぜい兵力の制限までで、まさか軍備全廃には思い及ばなかった。だが、考えてみれば、これはすばらしいアイデアである。いや、これこそ「平和国家」というものではないのか。
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2007年05月26日

米国製憲法強要事情6

米国製新憲法案を受諾させる準備

 児島襄著「史録 日本国憲法」をご紹介しています。奥付には昭和四十七年第一刷、昭和五十年第六刷となっています。
 この本の最後の部分に、著者は『どのような憲法論議を進めるにあたっても、先ずは「日本国憲法」の成立の事情を明らかにすることが、出発点と思われる』と書いています。
 今回の引用は、憲法改正を日本の意思にまかせるのではなく、GHQ民生局が憲法案を作り、それを受諾させる方向に走り出した部分です。
写真は松本国務相
matsumoto.gif

引用開始
 昭和二十一年二月一日。
 松本国務相は、朝食前の習慣になっている新聞各紙の閲読をはじめたが、『毎日新聞』をとりあげたとたん、眼をむいた。一面トップに「憲法改正調査会の試案」と白抜きの見出しがかかげられ、「立憲君主主義を確立、国民に勤労の権利義務」の副見出しとともに、一面のほとんど全部をつぶして第一条から第七十六条までの「試案」が報道されている。・・・
 ところで、『毎日新聞』のスクープは、当然に総司令部側の関心を刺激した。
 記事の仮訳が作成されて民生局にとどけられたのは午後四時ごろであったが、午後五時すぎ、ハッシー海軍中佐は楢橋書記官長に電話して、『毎日新聞』のスクープ案が政府の憲法改正案かと質問し、ちがう、という返事を聞くと、書記官長に告げた。
「では、すぐ政府案をみせてもらいたい。もちろん、正式の提示はあとでいい。それから、そちらの仕事はできるだけ急いだほうがよいと、ご忠告する」

 届けられたのは、いわゆる甲案の概要を述べた「憲法改正の要旨」と「政府起草の憲法改正に関する一般的説明」であるが、通読して、ホイットニー准将とケーディス大佐はうなずきあった。・・・・
 ホイットニー准将は、これで日本側としては、あらためて「ポツダム宣言に忠実に従ったより純粋の憲法改正案」をつくるか、それとも「われわれの憲法」を受諾するか、どちらかの道を選ばざるを得なくなった、と指摘した。
「そこで、われわれのほうだが、私はジェネラル(マッカーサー元帥)の権限を明らかにした覚書と、『毎日新聞』案とをジェネラルに届けるが、われわれは既定方針どうり、マツモトのように改正項目を示すのではなく、新しい憲法案をつくって示すべきだと思う。そうすれば、日本政府は、われわれがどんな種類の憲法に関心を持っているか、明白に諒解できるだろう」
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2007年05月25日

米国製憲法強要事情5

憲法改正を急ぐマッカーサー

 児島襄著「史録 日本国憲法」をご紹介しています。奥付には昭和四十七年第一刷、昭和五十年第六刷となっています。
この本の最後の部分に、著者は『どのような憲法論議を進めるにあたっても、先ずは「日本国憲法」の成立の事情を明らかにすることが、出発点と思われる』と書いています。
今回の引用は、マッカーサー総司令部が憲法改正を急ぐ理由などについての部分です。
写真はケーディス
kades.jpg

引用開始
 三国外相会議は、これまでソ連が参加しなかった極東諮問委員会を、ソ連をふくめて極東委員会と改組するとともに、東京に米、英、ソ、中国、オーストラリア、ニュージーランド、インド代表で組織する対日管理理事会の設置をきめた。
「理事会」は極東委員会の出先機関ともいうべき存在で、極東委員会はマッカーサー元帥の対日政策を検討する機能をもつが「理事会」は元帥の諮問機関的役割をはたす。・・・・
 マッカーサー司令部は、すでに、旧天皇制の“打破”をうながす処置をとっていたのである。
 天皇自らの神格を否定する、いわゆる「人間宣言」の発表である。・・・・

記念碑としての憲法改正
 ホイットニー准将とケーディス大佐の会話は、准将の部屋に席を移してなおつづいたが、准将は、憲法改正案を作成する理由を、ひとことで説明した。
「極東委員会に口をいれさせてはまずいからな」

 おお、イエス――と、ケーディス大佐は、声にならぬあいづちをうちながら、即座になっとくした。
 前日、十二月三十日(昭和二十年)J・バーンズ米国務長官は、二十六日にモスクワの米英ソ外相会議で設立がきめられた極東委員会について、次のように放送していた。
「・・・極東委員会が政策にかんして一致できず、あるいは対日理事会が政策の実施方法について一致できないことによって、マッカーサー元帥の機能が阻害されないことを保障する」
 極東委員会は、すでに成立している極東諮問委員会にソ連を加えた十一カ国の対日管理機関であるが、米政府の連合国最高司令官にたいする緊急事項の中間指令権、米英ソ中四主要国の三国をふくむ過半数議決方式など、たしかに対日政策にかんする米国とマッカーサー元帥の優位は確保されている。

 しかし、極東諮問委員会と極東委員会とをくらべてみると、諮問の二字が消えている如く、極東委員会は「対日理事会」というマッカーサー元帥の諮問機関を別に持つ、明白な日本管理機構である。その任務は、勧告ではなく、「降伏条項の完遂上、準拠すべき政策、原則、基準を作成すること」にあり、「連合国最高司令官のとった行動」をチェックし、とくに「日本の憲法機構または占領制度の根本的改革」については、連合国司令官は委員会の「事前の協議および意見一致」を必要とする、と定められている。
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2007年05月24日

米国製憲法強要事情4

共産党の新憲法案骨子

 児島襄著「史録 日本国憲法」をご紹介しています。奥付には昭和四十七年第一刷、昭和五十年第六刷となっています。
 この本の最後の部分に、著者は『どのような憲法論議を進めるにあたっても、先ずは「日本国憲法」の成立の事情を明らかにすることが、出発点と思われる』と書いています。
 今回の引用は、当時人気のあった共産党の発表した憲法案と総司令部の態度、そして、「ラウェル文書」で有名なラウェル少佐の提案などの部分です。
写真はホイットニー准将
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引用開始
 牛場友彦が明治生命ビルに呼ばれた十二日(昭和二十年十一月)の朝刊各紙には、次のような共産党の「新憲法案骨子」が発表されていた。
一、主権は人民にある。
二、民主議会は主権を管理する・・・。
三、政府は民主議会に責任を負う・・・。
四、民主議会の議員は人民に責任を負う・・・。
五、人民は政治的、経済的、社会的に自由であり、かつ議会および政府を監視し、批判する自由を確保する。
六、人民の生活権、労働権、教育される権利を具体的設備をもって保証する。
七、階級的ならびに民族的差別の根本的撤廃。

 現憲法に照合するとき、格別に瞠目すべき内容ともいえぬが、当時としては、まさに“革命的”発案である。しかも、この「新憲法案骨子」は、天皇制打倒人民共和政治樹立などを唱う「人民戦線綱領」と不可分の形で主張されている。
 当時共産党は過去の汚れを持たぬ政党として、人気があった。マッカーサー総司令部も、庇護といわぬまでも、共産党の存在を旧体制解体ムードの促進剤として是認する態度を示した。この総司令部の姿勢と思いあわせるとき、近衛公爵には少なからぬ脅威が感じられた。公爵は細川護貞に、いった。
マッカーサー司令部にはユダヤ人多き為か、皇室に少しも好意を持たざるのみか、口実を設けて破壊せんとしつつある様なり。又、赤化も計り居る如し」
 反共を国是とする米国が、日本の赤化を望んでいるとは思えない。しかし、マッカーサー総司令部内に、共産主義者、それに近い急進的理想主義者、あるいは日本の国情に無知な政策決定者がいて、共産党も民意のあらわれとみる結果“赤い憲法”の誕生をうながしているのではないか。・・・・

 第八十九議会では、戦争責任問題のほかに、天皇制、憲法改正も重要な論点としてとりあげられた。もっとも、質疑の潮流は、どちらかといえば保守的なものをうかがわせた。たとえば、斉藤隆夫議員は、
「如何に憲法を改正するとも、之に依って我が国の国体を侵すことはできない。統治権の主体に指をふるることは許されない」といえば、自由党鳩山一郎議員も、次のように、強調した。
「わが日本において、天皇が統治し給うということは、国民の血肉となっている信念である。しかも、天皇は民の心をもって政治をされる民主的存在である・・・民主政治には、日本的という限界がなければならぬと思う
 同じく自由党の北?ヤ吉議員も、日本的民主主義とは「君民同治」あるいは「君民共治」主義であろう、といい、幣原首相は、皇室中心の体制は動かし得べくもない、とうなずいたあと、憲法改正についても、次のような方針を指摘した。
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2007年05月23日

米国製憲法強要事情3

マ元帥、近衛公爵への改憲提案依頼と裏切り

 児島襄著「史録 日本国憲法」をご紹介しています。奥付には昭和四十七年第一刷、昭和五十年第六刷となっています。
 この本の最後の部分に、著者は『どのような憲法論議を進めるにあたっても、先ずは「日本国憲法」の成立の事情を明らかにすることが、出発点と思われる』と書いています。 
 今回の引用は、近衛公爵とマッカーサーの会見内容で、マッカーサーが憲法改正に関する話を持ち出した部分です。
写真はMacarthur
MacArthur.jpg

引用開始
 東久邇宮首相のあと、マッカーサー元帥が迎えた日本側要人は、近衛文麿公爵であった。
 近衛公爵は、十月四日午後五時、通訳にあたる外務省の奥村勝蔵とともに、第一生命相互ビルの総司令部をたずねた。
 公爵のマッカーサー訪問は、二回目である。最初は九月十三日(昭和二十年)、まだ総司令部は横浜税関に居を占めていた。・・・・
 近衛公爵は、日本の過去の軍閥横行の背後に赤化分子の活躍があった、(近衛上奏文参照)
と満洲事変いらいの歴史を略述しながら、説明した。元帥は公爵の話の間に質問をはさみながら聞いていた。
 公爵が主張したのは、軍閥や極端な国家主義者を排除しようとするあまりに、国家の安定勢力まで一掃してしまっては、日本は共産化してしまう、という点であった。

 元帥は、公爵の話が終ると、「お話は有益であった。参考になった」といった。そこで、近衛公爵は、こんどは元帥の意見を聞こうと思い、質問した。
「政府の組織および議会の構成につき、なにかご意見なり、ご指示があれば承りたい」
 すると、マッカーサー元帥は、急に姿勢を正すと、強い語調でいった。
「第一に、憲法は改正を要する。
改正して自由主義的要素を充分に取りいれねばならぬ。
 第二に、議会は反動的である。これを解散しても、現行選挙法の下では、顔ぶれは変っても、同じタイプの人間が出てくるだろう。それを避けるためには、選挙権を拡張して、婦人参政権と労働者の権利を認めることが必要である」
 憲法改正という予想外の発言に、近衛公爵はおどろいたように眼をあげたが、びっくりしたのは、むしろ、サザーランド参謀長であった。・・・
 近衛公爵が、ごんごは元帥の激励と助言とにより国家のためご奉公したい、と述べると、右手のコーン・パイプをぐっとさしだして、うなずいた。
「まことに結構である。公爵はいわゆる封建的勢力の出身ではあるが、コスモポリタンで世界の事情にも通じておられるし、まだお若い。
 敢然として指導の陣頭に立たれよ。もし公爵がその周囲に自由主義分子を糾合して、憲法改正に関する提案を天下に公表されるならば、議会もこれについてくることと思う」
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2007年05月22日

米国製憲法強要事情2

政治的武装解除

 児島襄著「史録 日本国憲法」をご紹介しています。奥付には昭和四十七年第一刷、昭和五十年第六刷となっています。
 この本の最後の部分に、著者は『どのような憲法論議を進めるにあたっても、先ずは「日本国憲法」の成立の事情を明らかにすることが、出発点と思われる』と書いています。

今回引用の部分は、現行憲法が日本国民の自由意志によって表明されたものであるように見せかけよ、という指示が米本国からなされていたということを示しています。
写真はGHQがおかれた第一生命保険ビル
daichi.jpg

引用開始
 ケーディス大佐がヒルドリング少将の部屋に最初に出頭したのは、一ヶ月ほど前だったが、当時は中佐だった。進級は三日前で、副官が大佐の階級章姿を見るのはその日がはじめてであった。
「どこかにご赴任でありますか?」
「日本だ」
「日本・・・? それはご苦労でありますが、戦争は終ったので、気楽なご旅行になりますでしょう」
「いや、仕事は大変だ。私の担当は、日本のポリティカル・ディスアーマメント(政治的武装解除)だからな
「政治的武装解除・・・?」
 聞きなれぬ単語に眼をむく副官に、大佐は肩をすくめてみせ、廊下に出た。政治的武装解除という言葉は、ヒルドリング少将のうけ売りだが、じつは、ケーディス大佐にも、意味はよくわからなかった。・・・・
 ただ、対日占領政策の基本方針については、すでにいくつかの概案が用意されており、ケーディス大佐も承知していた。

 いま、ヒルドリング少将の部屋を出た大佐がかかえるカバンの中にも、その一部である国務、陸、海軍三省調整委員会(SWNCC、スウィンクと発音する)の指令『SWNCC二二八』の草案がはいっている。・・・・
 どの文書にも共通しているのは、占領が軍事占領ではなく、むしろ、“新しい国作り”を目標とする政治占領であることを明示していた。・・・・
 そして、このような政治占領を実施する方法として、「初期の対日基本政策」は、次のように間接管理方式を定めた。

「天皇および日本政府の権力は、降伏条項を実施し、日本の占領および管理の施行のため樹立せられたる政策を実行するため、必要なる一切の権力を有する最高司令官に隷属するものとす・・・・日本国政府は最高司令官の指示のもとに、国内行政事項に関し通常の政治機能を行使することを許容せらるべし」
 もっとも、日本政府を通じての占領政治という間接管理とはいっても、あくまで日本の「現存の政治形態を利用せんとするものにして、これを支持せんとするものに非ず」ということで、最高司令官は「政府機構または人事」の変更を要求し、また「直接行動」の権利を保持している。・・・・
 間接管理とはいうものの、日本側がマッカーサー元帥の気にいるようにすれば良いが、そうでなければ容赦なく命令する。実質的には“間接管理という名の直接管理”あるいは“直接管理の変形”と呼ぶのがふさわしい。・・・・
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2007年05月21日

米国製憲法強要事情1

米国製憲法という疑い

 順序を無視して最終部分をまず最初に引用したいと思います。引用するのは、児島襄著「史録 日本国憲法」です。奥付には昭和四十七年第一刷、昭和五十年第六刷となっています。
 この本の最後の部分に、著者は『どのような憲法論議を進めるにあたっても、先ずは「日本国憲法」の成立の事情を明らかにすることが、出発点と思われる』と書いています。
 著者が貴重な御教示と資料の提供を受けたとされる人名を挙げると、入江俊郎、牛場友彦、大石義雄、木戸幸一、佐藤達夫、佐藤朝生、白州次郎、高木八尺、松本重治、福島慎太郎、楢橋渡、細川護貞、三辺謙、清宮四郎、河村又介、宮沢俊義、松本正夫、岩倉規夫、山本有三、田中耕太郎、ヒュー・ボートン、チャ−ルス・ケーディス、セオドア・マクネリー、フランク・リゾー、ジャスティン・ウィリアムズ、となっています。
cons.jpg

引用開始
 閣議が終わったのは、午後九時(昭和二十一年三月五日)そして、直ちに入江法制局次長を中心にして、内閣書記官長室で「要綱」作成作業がはじまった。“総司令部憲法案”の字句を修正するのだが、原本の英文を動かさずに日本文の表現を整えるのである・・・・
 翌日、三月六日午前九時から閣議が開かれ、「要綱」の審議がおこなわれたが、午前十時すぎ、ハッシー海軍中佐が英文の“総司令部憲法案”十三部を持参して、公式の英訳である旨の確認の署名を、楢橋書記官長に求めた。
「これからワシントンに行く。極東委員会十一カ国に一部ずつ、米政府に一部、日本政府に一部、合計十三部の署名をもらいたい」
 ハッシー中佐はそう述べて、楢橋書記官長の署名が終ると、一部を残して、そそくさと辞去した。・・・・・

 「要綱」の審議は、午後四時すぎに終り、政府は午後五時、次のような勅語とともに発表した。
「・・・国民の総意を基調とし人格の基本的権利を尊重するの主義に則り、憲法に根本的改正を加え、以て国家再建の礎を定めんことを庶幾(こいねが)う。政府当局其れ克(よ)く朕の意を体し、必ず此の目的を達成せんことを期せよ」
 マッカーサー元帥も、用意していた声明を発表した。
予は日本の天皇ならびに政府によって作られた、新しく且つ開明された憲法が、日本国民に余の全面的承認の下に提示されたことに、深い満足をもつものである・・・」
 幣原首相も、談話を発表した。
「畏くも天皇陛下におかせられましては・・・非常なる御決断を以て、現行憲法に根本的改正を加え・・・民主的平和国家建設の基礎を定めんことを明示せられたのであります・・・茲に政府は、連合国総司令部との緊密なる連絡の下に、憲法改正草案の要綱を発表する次第であります」
 そして、八日、松本国務相も記者会見で――
「(議会の修正権について)従来、私の考えていたのは一部改正としての修正権で・・・この度のように憲法の全部改正については、充分議をつくして考えていなかった・・・・」
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2007年05月20日

江戸中期の日本評4

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。日本についての外国人ならではの面白い表現を抜き出して掲載していきます。
 ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
「江戸参府随行記」にある今から230年前にツュンベリーが見た「日本及び日本人」の章から。
thunberg.jpg

引用開始
宗 教
 宗教に関しては、すべてが異教徒である。日本の宗教は、宗派の数が多く、かつそれぞれ異なっているが、互いに反目や論争もなく、大きくまとまり調和しつつ共存している。宗教上の皇帝である天皇は、ローマ教皇のように寺社の長であり、最高位の宗教職を任命する。
 各宗派には各々の寺社と偶像がある。だが多くの場合、その像は不恰好である。一般には、古代ギリシャ人やローマ人のように、ほとんど職業の数ほどに多くの偶像を創りだした結果、有名無名の神々ができてしまった。日本人はすべての神々のなかで最も偉大なる、永遠にして全能の神の存在を知らないことはないのであろうが、それについての知識は非常に少なく、すっかり迷信にとらわれている。・・・・
 どの寺も外国人を締め出すといったことはなく、オランダ人でも訪ねることができる。また小さな町だと、宿屋がいっぱいであるような場合には外国人でも宿泊させる。私は、参府の旅でそのようなことが一度あった。・・・・

 キリスト教の素早い布教によって、ポルトガル人は思いあがってしまった。そして彼らの貪欲さや高慢さによってみずからを転落させてしまうまでに、そう時間はかからなかった。・・・・もしポルトガル人が慎重に、かつ温和に振舞えば、おそらく彼らに対して始められていた迫害は打ち切られたであろう。だが反対に、彼らの高慢さと日本人に対する支配欲は増加したのである。・・・・・・
 その上に、なんとポルトガル人が将軍をその王位から追いやるために企てた反逆行為が発見されたのである。その当時、オランダ人がポルトガル人と戦って奪い取った一隻の船に、「モロ」という名前の日本人船長からポルトガル国王に宛てた手紙があった。そこには、将軍の生命と王位に抗する陰謀がしたためられていた。そしてこの反逆行為は、その後このモロがマカオに宛てて書いた他の手紙により、一層確かなこととされたのであった。(これらの詳細は不明であるが、当時は豊臣秀吉の治世であり、記述には矛盾がある。また事件の概要は異なるが、1596年にはその後のキリシタン弾圧を強化させることになるサン・フェリペ号事件が起きている。)・・・・・

 それからはキリスト教が国内へ再びもたらされることのないよう、最も強力なる措置を講じ、ポルトガル人全員に日本沿岸への寄航を厳禁した。そして、日本人キリスト教徒が国のどこかにまだ潜んでいないかを、念には念を入れて探し出すためにいくつかの対策を講じた。その一つである絵踏みが、今日でも毎年初頭に長崎やその近隣地域において、その名残を留めているのである。
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2007年05月19日

江戸中期の日本評3

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。今回からは、外国人ならではの面白い表現を抜き出して掲載していきます。
 ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
「江戸参府随行記」にある今から230年前にツュンベリーが見た「日本及び日本人」の章から。
写真は幕府が最初に派遣した遣欧使節1862年
kenou.jpg

引用開始
日本語
 日本語は、多くの点でヨーロッパの言語と大きく異なっているので、その習得は大変に難しい。中国語と同様に上から下へ縦に書く。・・・・
 このような困難にもかかわらず、私は昨年の秋から冬の間とそれ以降も、最良の友人である通詞から教わって日本語を理解し、多少は話し、そして書くことにも非常な努力をした。しかしこうしたことは、彼らの無事と私自身の安全のために極秘のうちに行われねばならなかった。この目的をうまく果たすために、私はその時々に学んだ言葉や先述の語彙集をもとに、ヨーロッパではほとんど知られていない言葉についての単語集を作成した。・・・・

衣服
 衣服こそ、日本における国民特有のものであるというにふさわしい。なぜなら、それはあらゆる他民族のものと異なるのみならず、また君主から貧民に至るまですべて同一で、男女とも同じく、そしてまったく信じられないことに2500年間も変わっていないのである。
 それは国中どこでも、長い幅広の着物であり、身分や年齢に関係なく、一枚から何枚かを重ねて身に付ける。身分の高い人々や富裕な人々は上等な絹地の着物を、そして貧しい人々は木綿地のものを着る。
 女性は普通、その裾がつま先までくるし、身分の高い女性はしばしば裾をひきずり、そして男性は踵までくる。また旅人、武士、そして労働者は裾をまくり上げたり、膝までになるよう引き上げたりする。男性は無地の着物が多いが、女性はばら色の布地に花を金糸で織り込んでいるのがほとんどである。

 夏は単衣か薄い裏地がついているだけである。冬は防寒のために、木綿綿や真綿をぎっしりと厚く詰める。男性が何枚もの着物を重ね着することは滅多にないが、女性は三十から五十枚またはそれ以上を重ね着することがたびたびあり、みなごく薄いので合わせてせいぜい四ないし五スコールプンド(1700ないし2125グラム)にも満たない。
 一番下の着物は下着の役割をしており、したがって白または青っぽい地で、たいていは薄くすきとおるようである。これらの着物はすべて、腰のまわりに帯をぐるりと巻いて固定する。帯は男性では手の幅ほどで、女性ではおよそ半アールン(約30センチ)幅であり、腰の回りに少なくとも二回巻いたあとに大きな蝶結びと結び輪が十分に作れるほどの長さがある。
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2007年05月18日

江戸中期の日本評2

日本人の好奇心、親切、正義心

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
「江戸参府随行記」にある今から230年前にツュンベリーが見た「日本及び日本人」の章から掲載しています。
時代が違いますが、画像は19世紀末のおもちゃ屋さん
toyshop.jpg

引用開始
 この国民の好奇心の強さは、他の多くの民族と同様に旺盛である。彼らはヨーロッパ人が持ってきた物や所有している物ならなんでも、じっくりと熟視する。そしてあらゆる事柄について知りたがり、オランダ人に尋ねる。それはしばしば苦痛を覚えるほどである。
 当地へやってきた商人のなかでは、とくに商館付き医師が唯一の博識者だと日本人は考えている。そこで出島の商館でもそうだったが、とくに幕府への途次や首府滞在時は、医師はいつも賢人であり、日本人はあらゆる事柄、とりわけ数学・地理学・物理学・薬学・動物学・植物学・医学について教えてもらうことができると信じている。

 謁見では、我々は将軍の宮殿で老中や他の幕府高官に頭のてっぺんから足先まで熟視された。それは我々の帽子、剣、衣服、ボタン、飾り紐、時計、杖、指輪等々にまで及んだ。さらに我々の書式や文字を見せるために、彼らの面前で字をしたためざるを得なかった。
 この国民は必要にして有益な場合、その器用さと発明心を発揮する。そして勤勉さにおいて、日本人は大半の民族の群を抜いている
 彼らの銅や金属製品は見事で、木製品はきれいで長持ちする。その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。
 農夫が自分の土地にかける熱心さと、そのすぐれた耕作に費やす労苦は、信じがたいほど大きい。
 節約は日本では最も尊重されることである。それは将軍の宮殿だろうと粗末な小屋のなかだろうと、変わらず愛すべき美徳なのである。節約というものは、貧しい者には自分の所有するわずかな物で満足を与え、富める者にはその富を度外れに派手に浪費させない。節約のおかげで、他の国々に見られる飢餓や物価暴騰と称する現象は見られず、またこんなにも人口の多い国でありながら、どこにも生活困窮者や乞食はほとんどいない。一般大衆は富に対して貪欲でも強欲でもなく、また常に大食いや大酒飲みに対して嫌悪を抱く。
 清潔さは、彼らの身体や衣服、家、飲食物、容器等から一目瞭然である。彼らが風呂に入って身体を洗うのは、週一回などというものではなく、毎日熱い湯に入るのである。その湯はそれぞれの家に用意されており、また旅人のためにどの宿屋にも安い料金で用意されている。
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2007年05月17日

江戸中期の日本評1

日本人の外見と国民性

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
「江戸参府随行記」にある1775年にツュンベリーが見た今から230年前の「日本及び日本人」から掲載してみます。
画像は幕末頃の庭園、菖蒲園です。
shobu.jpg

引用開始
日本人の外見
 日本人は体格がよく柔軟で、強靭な四肢を有している。しかし彼らの体力は、北ヨーロッパ人のそれには及ばない。男性は中背で、一般にはあまり太っていないが、何回かはよく太った人を見た。肌の色は体じゅう黄色で、時には茶色になったり、白くなったりもする。身分の低い人々は、夏期に上半身裸で仕事をするので日焼けして一層茶色になる。上流の婦人は、外出するさいは大抵何かで覆うので真白である。
 この国民の眼は、中国人と同様に広く知られている。それは他民族のように円形ではなく、楕円形で細く、ずっと深く窪んでおり、ほとんど目を細めているように見える。他の点では、瞳は褐色というよりはむしろ黒色で、瞼は大きな目尻ぎわに深い線をかたち造っていて目つきが鋭くなり、他民族とはっきり区別できる独特な風貌を持っている。眉毛はいくぶん高いところにある。ほとんどの人は頭が大きく、首は短く、髪の毛は黒くふさふさして油で光っている。鼻は低いとは言えないがしかし太くて短い。

日本人の国民性
 一般的に言えば、国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き、善良で友情に厚く、素直にして公正、正直にして誠実、疑い深く、迷信深く、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である。
 日本では学問はまだ発達をみていないが、そのかわりに国民は、どんな仕事においてもその賢明さと着実さを証明している。日本人を野蛮と称する民族のなかに入れることはできない。いや、むしろ最も礼儀をわきまえた民族といえよう。

 彼らの現在の統治の仕方、外国人との貿易方法、工芸品、あふれるほどにあるあらゆる必需品等々は、この国民の賢さ、着実さ、そして恐れを知らない勇気を如実に物語っている。
 貝殻、ガラス真珠、きらきらする金属片等で身を飾るような、他のアジアやアフリカ民族にはごく普通にみられる虚栄を、この国で目にすることは決してない。また目先がきらきらするだけで何の役にも立たないヨーロッパ人の派手な金や銀の飾り物、宝石類やその種の物はここでは珍重されず、彼らはきちんとした衣服、おいしい食物、そしてすぐれた武器を国内で製造することに努めている。
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2007年05月16日

参府団江戸到着

江戸時代中期の江戸

 今回ご紹介しているのは、 スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
 ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
画像は幕末頃の街道の例
douro.jpg

引用開始
 品川と高輪は、将軍の住んでいる江戸の町の二つの近郊地である。前者は、その起点(日本橋)からまるまる二里はあり、海岸に沿っている。我々は品川で一時間たっぷり休み、軽く飲食物をとって元気を回復し、美しい眺望を楽しんだ。
 江戸はこの国最大の、そしておそらく地球上最大の町であり、またきれいな港があった。港は非常に浅くなっており、泥土に覆われている。最大の船舶は、しばしば町から五里離れた所に投錨する。そんなに大きくない船舶は二里の距離に、そして小船舶ならびに小舟は何百艘にものぼり、それぞれの大きさや重量によって互いに町の方へ何列にも並んでいる。このようにして町は、他の地域から当地へ輸送される商品の通路を完全に遮断することなしに、海からの敵の襲撃に十分備えているのである。

 我々は、町や港やその周辺を非常に物珍しく眺めたが、同じように日本人は我々を物珍しく眺めたのであった。彼らは噂を聞いてここにどっと集まり、我々の乗り物のまわりを囲んだ。これら日本人のなかには、何人かの身分の高い婦人がいたが、彼女らはその乗り物をここへ運ばせたのである。そして我々が何回か簾を降ろすと、婦人たちはかなり苛立つように思われた。この我々のまわりを囲んでいる地上に置かれた乗り物は、それだけで小さな村を作っているようであったが、この移動式の小さな家は、その後しばらくすると消えていった。

 ただ一本の通りからなる近郊地、品川や高輪を通り過ぎて,番人がいること、住民の数が増えたこと、そして運搬人の沈黙や一層しっかりした足取りから、私は首府に到着したことを感じた。まもなく長さ四十ファムン(約七十一メートル)ほどの橋、日本橋に着いた。国中の地方につながる街道は、ここを起点に測られている。町の入口にあるいくつかの番所を通過して、一時間あまり広い大通りを進み、我々外国人の定宿に到着した。そこは裏門から入り、狭い道を通って家の反対側の端に案内された。この宿泊所に初めて入った印象は、それが大きいとも快適であるとも思えるようなものではなかった。しかし一階上がって通された我々の部屋は、かなりこざっぱりとしたものであった。だが、はるか遠隔の大陸からやってきた使節の一人として私が期待していたほどには、立派ではなかった。

 広い一部屋が、客間、謁見の間そして食堂にあてられた。商館長には特に一部屋が、そして仕切ることができるもう一部屋が医師と書記官に当てられ、また小さな部屋が風呂と他のすべての個人的な便宜をまかなうものとして当てられた。当地滞在中、我々はここで満足せざるを得なかった。狭い道路に面した外の眺めにはたいてい男の子がおり、我々の姿をちょっとでも捕らえると、とたんにきまって叫びをあげた。そして我々を見ようと、向かい側の家の塀の上によじ登っていることも時々あった。・・・・
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2007年05月15日

江戸参府の道中記2

江戸時代の大阪から京都、東海地方へ

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
画像は幕末頃の「のりもん」です。
norimon.jpg

引用開始
 4月9日、大阪と都[京都]間の行程は十三里もあったので、我々は未明のうちに出発しなければならなかった。
 したがって我々は夜明け前、早々に起された。コーヒーを一杯のみ、朝食にサンドイッチを準備して旅を続けた。旅の間、先に立つ日本人はほとんど間断なく歌をうたい、たくさんの松明で朝まだきの暗さを照らした。
 ようやく二里進み、守口という大きな村に到着して、我々と運搬人はしばし休憩した。その後三里進んでもっと大きな村、枚方で再び休み、そして軽い飲食物をとった。その後一里先の休憩所の淀まで行き、さらに一里進んで伏見で遅い昼食をとった。淀は小さいがきれいな町で、この上なく水か豊かである。・・・・伏見は一村落に過ぎないといえようが、長さは三里にも及んで幕府の首府、都[京都]にまで達しており、そのため都の郊外とみなすことができよう。

 その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ちよい旅ができたのはオランダ以外にはなかった。また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、言葉では言い尽くせないほどである。国中見渡す限り、道の両側には肥沃な田畑以外の何物もない。そして我々は長い旅を通していくつかの村を通過したが、村は尽きることなく、一つの村が終わると、そこでもう一つの村が始まるのであり、また村々は街道に沿っていた。
 今日、私は初めて道路でいくつかの車を見ることができた。それは都とその周辺で使われている唯一の車輪の乗り物で、それ以外の地方では使われていない。この車は低い小さな三輪車であった。二つの車輪は通常の位置に、そしてあとの一つは前方についていた。その車輪は全片、木を切って作ったものである。車輪の摩滅を防ぐために、縁の周囲を綱またはそれに類したもので巻いてあった。町近くまたは町中では、車はもっと大きく不恰好で、時に二輪の車もあり、その前方を牛が曳いていた。またいくつかの車は、ヨーロッパのものと同様、轂(こしき)とスポークを備えていたが、留め金はなくもろかった。この車は道路の片側しか通行を許されていない。そのため、その側にはたくさんの車が往来しているのが見られた。またそこでぶつかり合わないように、午前中に町を出て行き、午後に町へ帰ってくるという順序になっていた。

 どの村のどの宿屋でも、米粉を煮て作った緑色や白色の小さな菓子が売られていた。旅人やとくに乗り物の運搬人はそれを買って、お茶を飲みながら食べた。お茶はどこでも旅人のために準備されている。・・・・・
 私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。それはどの地方でも同様であった。このありさまでは、旅人は日本には雑草は生えないのだと容易に想像してしまうであろう。しかし実際は、最も炯眼な植物学者ですら、よく耕作された畑に未知の草類を見出せないほどに、農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである。・・・・・
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2007年05月14日

江戸参府の道中記1

江戸時代の旅人、小倉の宿と下関

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
画像は出島
dejima.jpg

引用開始
 郵便車は国中どこにも見られないし、またほかに旅人を乗せる車輪の乗り物もない。したがって、貧しい者は徒歩で旅をし、そして車代を払える者は馬に乗って行くか、または駕籠か乗物(のりもん)で運ばれる。徒歩で行く者は草鞋を履いている。それは上革のない靴底のようなものであり、脱げ落ちないよう藁を編んだ紐で固く結ぶ。脚には脚絆をつけており、ふくらはぎの後部でボタンを掛けるか、または上部を紐で固く結ぶ。
 彼らはまた裾の長い着物の代わりに、上着[羽織]か、ふくらはぎまである亜麻仁のズボン[袴]を着用することがよくある。そして徒歩で行く武士は、この袴を腿の真ん中まで結び上げる。馬に乗って行く者は、始終、おかしな格好である。一頭の馬に何人も、たいていの場合家族全員が乗っているのをよく見かける。その場合は、主人が鞍の真ん中に乗り、足を馬の首の前まで伸ばす。鞍に取り付けられた片方の籠には妻が、そしてもう片方の籠に一人または何人かの子供が乗っている。そのような時は特定の人[馬子]がいつも馬の手綱を取って、前を歩いている。富裕な人は乗り物で運ばれるが、各人の階級によりその大きさと華麗さが異なり、したがって費用もまちまちである。最低のものは小型で、足を折って坐らざるを得ない。そして四方は開いており、小さな天井がついていて、二人の男が運ぶ。通常は「カゴ」と呼ばれる駕籠は、屋根がありそして四方は閉じられるようになっているが、ほとんど四辺形であり立派とは言えない。一番大きくかつ豪華なものは「ノリモン」と呼ばれ、長方形で、身分の高い役人が乗り、何人もで担ぐ。・・・・

3月9日・・・・・
 小倉は、国のなかでも大きな町に数えられ、広く貿易を営んでいる。・・・
 我々は小倉に到着する手前で、若君の名のもとに城からの使者二人の出迎えを受け、その後、町を通って宿屋へ着くまで付き添ってもらった。我々はここで丁寧に遇され、翌日の午後まで留まった。・・・・・
 ここでも他のどこの宿でも、我々はその家の奥の部屋を割り当てられた。そこは最も住み心地がよく、かつ一番立派な場所であり、常にたくさんの樹木、潅木、草本そして鉢植えの花のある大小の庭を望むことができるし、そこへの出口もある。またその端には客人用の小さな風呂場があって、好きな時に使える。・・・・・

 この国の建築様式は独特で変わっている。各家は相当に広く、木材、竹の木摺そして粘土からなる木骨造りなので、外部は石の家にかなり似ている。そして屋根には、相当に重くて厚い瓦が葺いてある。家は一つの部屋からなっていて、必要に応じまた好みに合わせて、いくつかの小さい部屋に仕切ることができる。それには、木枠に厚く不透明な紙を貼り付けた軽い仕切り[襖]が使われており、それを、その目的で彫られた床と梁に相当する天井の溝にはめると、らくらくとしかもぴったりと据えられる。
 旅のあいだこのような部屋は、我々や随員のためによくつくられた。そして食堂や他の目的にもっと大きな部屋が必要なときは、この仕切りはまたたく間に取り払われる。隣接する部屋の様子は見えないが、話していることはしばしば聞えてくる。
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2007年05月13日

江戸参府出発

長崎から小倉の江戸時代日本観察
 
 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
この描写が江戸時代中期の日本であることに驚きます。
画像はC.P.Thunberg
thunberg2.jpg

引用開始
 1776年3月4日、使節一行は出島を発って江戸参府の旅に向った。・・・この旅に参加するオランダ人は三名だけであった。それは、商館長として大使のフェイト氏、医師つまり商館付医師としての私、そして書記官のケーレル氏である。それ以外のおよそ二百人にも達する相当な数の随員[この人数は疑わしい。通常は60名ほどという]は、すべてが日本人であり、役人、通詞、従僕、召使いであった。・・・・・
 商館長の食卓に並べるオランダ人用の料理をつくるため、商館から日本の料理人二人が同行した。・・・・料理人は全行程にわたっていつも一足先に発った。それゆえ我々が昼食をとりに宿に到着するころには、料理はすっかり調っているのである。・・・

 商館長はもちろん、その医師と書記官も大きく立派な漆塗りの乗物(のりもん)にのり、旅をした。・・・・・この乗物という人の力で運ばれる乗り物は、薄い板と竹竿から出来ており、長方形で前面と両側面に窓がついている。・・・・茶は進行中も沸かされ、欲しくなればいつでも飲めるようになっている。しかしヨーロッパ人が、胃の緊張を解くこの飲み物をのむことはほとんどない。それよりは一杯の赤ワインかオランダのビールを好んで、乗り物にそれらの各瓶を用意し、細長いサンドイッチを二重に入れた長方形の漆器の小箱と一緒に前方の足元に置いた。・・・・

 身分の異なるさまざまな人々が、それぞれに異なる手段で進行しているこの大行列全体は初めて見る者には、立派にして秩序ある光景に映った。そして我々は至る所で、その地の藩主と同じような名誉と尊敬をもって遇された。その上、万が一にも我々の身に危害が加わることのないよう厳重に警護され、さらに母親の胸に抱かれた幼児のごとく、心配することは何もないほど行き届いた面倒をみてもらった。
 これは我々ヨーロッパ人にとって、この上ない大きな喜びであった。我々がやることは、食べ、飲み、自らの慰めに読み書き、眠り、衣服を着け、そして運ばれるだけであった。

 初日は、長崎から二里で日見を通過し、さらに一里離れた矢上へ、そこからなお四里の諫早へ到着し、そこで最初の宿を取った。
 我々は矢上で昼食をとった。そこでは宿の主人から、かつて私が世界のいくつかの場所で遇されてきたより以上に、親切で慇懃なあつかいを受けた。・・・・用意された部屋に案内されると、食卓はすでに調えられており、そこで食前酒、昼食、コーヒーをとった。・・・・
 3月7日、この地方の首府である佐賀には藩主の住む城がある。城は濠と城壁に囲まれ、そして城門のそばには番人がいる。ほとんどの町がそうであるように、この町もきちんと整っており、真っすぐに広い道路が通っている。また何本かの運河に水を導き、町中を流している。・・・・
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2007年05月12日

日本人は第一級の民族


江戸時代中期の日本概観

 支那事変関係が続きましたが、支那事変については今後、当時の新聞社等の特派員報告を掲載するつもりです。
 今日からはちょっと一息のつもりで、
 今回からご紹介するのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
 ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
先ずは「序」から、日本到着までを見てみましょう。
thunberg.jpg

引用開始
 日本帝国は、多くの点で独特の国であり、風習および制度においては、ヨーロッパや世界のほとんどの国とまったく異なっている。そのため常に驚異の目でみられ、時に賞讃され、また時には非難されてきた。
 地球上の三大部分に居住する民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。しかし、多くの点でヨーロッパ人に遅れをとっていると言わざるを得ない。だが他方では、非常に公正にみてヨーロッパ人のうえをいっているということができよう。

 他の国と同様この国においても、役に立つ制度と害をおよぼす制度、または理にかなった法令と不適正な法令の両者が共存していると言える。しかしなお、その国民性の随所にみられる堅実さ、法の執行や職務の遂行にみられる不変性、有益さを追求しかつ促進しようという国民のたゆまざる熱意、そして百を越すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。
     
 このように、あまねくかつ深く祖国を、お上を、そして互いを愛しているこんなにも多数の国民がいるということ、自国民は誰一人外国へ出ることができず、外国人は誰一人許可なしには入国できず、あたかも密閉されたような国であること、法律は何千年も改正されたことがなく、また法の執行は力に訴えることなく、かつその人物の身上に関係なく行われるということ、政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、君主も臣民も等しく独特の民族衣装をまとっていること、他国の様式がとりいれられることはなく、国内に新しいものが創り出されることもないこと、何世紀ものあいだ外国から戦争がしかけられたことはなく、かつ国内の不穏は永久に防がれていること、種々の宗教宗派が平和的に共存していること、飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くの人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。
 私は日本国民について、あるがままに記述するようつとめ、おおげさにその長所をほめたり、ことさらにその欠点をあげつらったりはしなかった。その日その日に、私の見聞したことを書き留めた。
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2007年05月11日

南京からの兵士の手紙

陥落直後の南京からの手紙が語るもの

「南京『事件』研究の最前線」平成19年版という本の中に、陥落間もない南京から、西住小次郎大尉と山田博治伍長の肉親に宛てた私信他が掲載されています。
 西住大尉は久留米の戦車第一連隊の小隊長として支那事変に従軍し、昭和十三年五月七日に徐州会戦で壮烈な戦死を遂げられています。大尉は戦死後で、南京当時は中尉でした。
 山田伍長は福井県生まれで、南京一番乗りの脇坂部隊に従軍したあと、昭和十三年八月二十七日「江西省瑞昌県君山」の戦闘において頭部に銃弾を受け、二十六歳で戦死されています。
 この手紙から、中国が言う所謂大虐殺真っ最中の南京が想像できるでしょうか。じっくり読んで見て下さい。
nankinletters.jpg

西住中尉の手紙
引用開始
[1]第一信
西住千代様
軍事郵便 親展 上海派遣軍司令部付 細見部隊高橋隊 歩中尉
十二月二十六日 
西住小次郎
 当地も大分寒くなり、朝など真白に霜が置く様になりました。
其の後、皆様、御変わりありませんか、御尋ね致します。
年内も後数日となり、ご多忙の事と存じます。今、明日は餅搗き位かも知れんと想像致して居ります。
 当地に居るとさっぱり年末の様な気が致しません。猛烈な迫撃戦で手紙とか小包とか、一向遅れて到着しません。何時か腹巻、靴下を送ったとの事でしたが、まだ到着して居りません。其の内に手紙などもどんどん来るようになりましょう。
 十二月十二日、南京に到着以来ずっと南京城内に居ります。
 南京は敵の首都だけに、東京程はありませんが立派な町です。建物と云い、道路と言い、立派です。又、附近には所謂紫金山、其の他の山々、玄武湖等もあり、風光も仲々いい様です。住むのにもよさそうな所です。

 今、我々の居る所は中央大学とて排日教育最も盛んだった大学です。立派な建物です。一部爆撃された所もありますが、部屋など立派です。今は内地の兵営以上にきちんとした生活をやって居ります。私の部屋も机、椅子、其の他寝台、調度品、総てきれいに飾り、内地では出来ぬ様式にして居ります。全員寝台に寝、ストーブ等もあります。
 只、電燈と水道が今のところこわれてありません。ローソクばかりです。
 近い内に汽車も通じ、電燈もつきましょう。町は全部まだ店はありませんが、避難民等も逐次帰って来る様です。
 正月は南京で迎える様になる事と存じます。此の手紙も恐らく正月の五、六日頃しか着かぬと存じます。
 既に小包等御送りになって居るかも知れませんが、今度送られる時は「塩から」の様なおかずになるもの、褌等を御願いします。
 宛名は手紙の裏面の通り願います。・・・・・・
十二月二十六日 小次郎
母上様 膝下
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posted by 小楠 at 07:37| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変

2007年05月10日

支那事変南京陥落

当時の出版物に見る南京入場

参考記事
 支那の大嘘と朝日新聞のため、未だに問題となっている南京戦について、
 南京陥落から約八ヶ月後の昭和十三年八月から、事変の経緯と支那各地の知識を解説した内容を現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある南京陥落から、昭和十二年十二月十七日の南京入場式に至る部分を掲載してみます。
 中国はこの時点から六週間に亙ってとされる、例の大虐殺の嘘を世界にばら蒔いていますが、これのどこに虐殺してる暇があったのでしょうかね。
六週間で三十万人ということは、一睡もせず徹夜で毎日七千人以上殺して、その死体を運んで埋める等の処理、一方では入城式の準備やインフラの修繕作業も同時に実施。物理的にも不可能でしょう。
いいかげんにしろ!中狂と浅卑新聞!!
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
nankin005.jpg

引用開始
[敵毒ガスで逆襲]
 十日夜半より早暁にかけて、光華の伊藤部隊正面に大逆襲し来った敵は、城壁を奪回せんと、必死の勢い物凄く手榴弾、機関銃の外、催涙弾を雨注し来り、我が将兵は直ちに防毒面をつけて応戦、一時は非常な苦戦に陥ったが、肉弾戦を以て之を撃退したのである。

[長江北岸奇襲]
 九日當塗を占領した長野、山田両部隊は十日夜陰に乗じて、一挙に揚子江を渡り、奇襲をもって北岸に上陸、十一日払暁烏江の敵を急襲して之を占領、息つく間もなく省境を越えて江蘇省に進入した。これが為、南京籠城の敵が唯一の血路と恃んだ最後の退路も遂に遮断され、南京六万の敵は完全に我が包囲下に陥ったのである。

[南門撃破]
 わが新鋭部隊の先鋒長谷川部隊は、十二日午後零時十分、南京城中華門(南門)を破り、城内に突入して、城内到る処に壮烈なる市街戦を展開したが、緒方敬之中佐の一隊によって、南門は占領されたのである。続いて岡本(保)部隊も、中華門に突入したのであった。

[南京完全占領]
 かくてわが南京城攻撃軍は、十三日夕刻南京城を完全に占領したのである。江南の空澄み日章旗は城頭高く夕陽に映え、皇軍の威容は紫金山を圧した。
 かくて南京は世紀の感激の裡に見事陥落したが、各部隊は城内の残的掃蕩と、市内整理に当ったのである。この南京攻略戦で失った敵兵は、六万を下らぬと推察された。
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posted by 小楠 at 07:11| Comment(2) | TrackBack(2) | 書棚の中の支那事変