2007年04月28日

支那事変の発端2

当時の出版物が語る支那の協定違反

  支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその上巻にある「事変の発端盧溝橋事件」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真は当時の一文字山の様子
ichimonji.jpg

引用開始
 かくて事件は小康を得た形であったが、支那側は着々八寶山付近から京漢線に至る間、永定河右岸地区に益々兵力を増加しつつあったばかりでなく、事件の発端地盧溝橋付近から京漢線北側地区、八寶山付近に亙る間に、三線の陣地を構築、更に永定河右岸長辛店、及びその西北方高地にも堅固な陣地を占領して、漸次我方に包囲的態勢をとり抗戦意識極めて旺盛なるものがあった。

 一方古都北京の反日意識も意思外に熾烈で事変勃発と同時に戒厳令を布き、内外城門は勿論、市内の随所は二十九軍兵士の青龍刀に固められて、城外との交通は全く遮断された。
 見上げれば屋上等には機関銃さえ配置され、ことに邦人の多く往き交う交民巷付近の街路には、夜間迫撃砲まで持ち出すという始末であった。
 我方の交渉により城門だけは開かれたが、戒厳令は依然続行して、我軍の通過を許さなかった。

 こうした例は数十年来かつて見なかったもので民国革命以来、内乱戦、事変等は屡々起ったが、北京の治安はおおむね警察力で維持されていたのであるが、今回は全く状態が異なり、悉く二十九軍の銃剣と、青龍刀が北京の街を支配した。ことに邦人に対する暴圧は言語同断で、或は我が憲兵を検束し、或は婦女子に迫害を加え、或は住宅に不法侵入し、或は暴行傷害を加える等々の不祥事が頻発したのである。

 かくの如き不法圧迫が北京城内に行われている折も折、十三日城外馬村付近に於て同地通過の歩兵一小隊に支那軍は突如不法射撃を行い、我方は戦死三名を出すという不祥事が惹き起こされたのである。更にその翌日十四日団河村付近を我騎兵部隊が通過の際不法射撃を受け兵一名が戦死した。
 一日置いて十六日午前八時頃鈴木部隊の一部は安平に於いて冀殺保安隊の攻撃を受けるなど重ね重ねの不法射撃を受けたのである。
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posted by 小楠 at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変