2007年04月24日

大戦直前日本の世情2

アメリカの日本圧迫の歴史

 大東亜戦争直前、昭和十六年頃の世界情勢の渦中に生きた日本人が、どのようなことを考え、どのような意見を持っていたのかを、その頃に発行された書籍を紐解くことによって、その時代の日本人と同化し、なぜ大戦へと進んでいったのかを探って見たいと思います。
当時多くのベストセラーを出した、武藤貞一の著
「日米十年戦争」(昭和十六年発行)
から引用しています。
写真は空母レキシントン
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引用開始
 二十世紀初頭よりの米国の極東政策は一に日本圧迫の四字に尽きる。勿論日本という東亜の要塞が潰れれば支那の如きは垂涎せずとも手に唾して取れるだろうからだ。

1,ジョン・ヘイの門戸開放 
 1899年(明治三十二年)9月6日、国務卿ジョン・ヘイは支那門戸開放に関する通牒を列国に発した、曰く「支那全領土に亘り何れの国民にも平等に通商上の自由と機会の均等が与えられるべきだ」と
更に翌1900年7月12日列強に対し無条件門戸開放の要求をしたが、何れも之を峻拒した。
同年米国は我国に対し福建省沿岸に一貯炭所を設置せんとして意向を質して来たが拒絶された。

1,日露講和斡旋
 極東に飛揚せんと企む米国がロシアの東亜席巻的南下勢力の伸長に無関心たり得ぬのは言う迄もない、即ち日露戦争に際しては援日抑露の態度となって現れたものである、1905年(明治三十八年)3月10日奉天陥落し、同じく5月27日露国最後の遠征隊バルチック艦隊が日本海に全滅するやセオドア・ルーズベルトは平和斡旋を提議してポーツマス条約を成立せしめた、このイニシアティヴに対する米国の魂胆は両者何れが決定的勝利を得るも米国に取って利益ではないという結論が生み出していたようだ。

1,桂・タフト協定 
 日露戦争で示された日本の実力に驚倒した米国は将来を懸念して同年夏陸軍卿タフトを訪日せしめ、桂首相をして日本が絶対にフィリピンを攻撃せざることを約せしめると共に日本が朝鮮を保護国とする事を承認した、之を世に桂・タフト協定と言う。

1,満鉄買収計画 
 明治三十八年十一月十二日米国鉄道王ハリマンと桂首相の間に一億円で満鉄を譲渡すると言う約束が成立し、ハリマンは即日覚書を携えて桑港(サンフランシスコ)に帰った、然るに入れ違いにポーツマスより帰朝した小村寿太郎外相は満鉄絶対に手放すべからずと主張し、閣議を一変せしめて右予備契約は取消された、偉なる哉炯眼、同時に米国においても、日本は愈々容易ならざる真敵なる事を認識したものの如くである、爾来対日親善、媚態の一時的笑顔政策は全面的に改変され、機会あれば日本の大陸政策に横槍を入れるに至った。
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posted by 小楠 at 07:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中のアメリカ