2007年04月21日

日本初の捕虜収容所

松山捕虜収容所

 ご存知の方も多いかと思いますが、日露戦争の時、「マツヤマ!」と叫んで投降するロシア兵もいたと言われる、四国松山のロシア人捕虜収容所の記録が松山大学編「マツヤマの記憶」として出版されています。
 この記録の一部を掲載してみます。そこには当時の日本がいかにハーグ条約の遵守に気を遣っていたかが分かります。
画像はロシア兵捕虜を接待する婦人たち
matsuyama.jpg

引用開始
 日露開戦の五年前(1899年)にオランダのハーグで締結された「陸戦の法規慣例に関する条約」があった。その附属書「陸戦の法規慣例に関する規則」は、捕虜の待遇に関して次のように規定している。
第四条第二項 俘虜は人道を以て取扱わるべし。
第七条第一項 政府は、其の権内に在る俘虜を給養すべき義務を有す。
第七条第二項 交戦者間に特別の協定なき場合に於ては、俘虜は、糧食
寝具及被服に関し之を捕えたる政府の軍隊と対等の取扱を受くべし。

・・・そして当時の日本政府が、彼ら(ロシア兵捕虜)を大いに「優遇」
したことは、今日でもよく知られている。食事ひとつをとってみても、将校には毎日六十銭、下士卒には三十銭を費しており、これは自国の兵卒の食費が、一日あたり十六銭前後だったのと較べて、破格の厚遇といえる。
・・・・日露戦争の時に開設された収容所は全国で二十九ヵ所にのぼり、その収容施設は、総数で二百二十一といわれる。そのなかで、初めて収容所が開設され、初めて捕虜がきたのが松山であった。・・・・

捕虜と市民との国際交流
 捕虜が市内の中学校に来校したり、運動会を見学したりしたのは捕虜と市民との国際交流といってよい。松山中学校を訪問した雄群収容所の捕虜将校で裁判官であったザゴロフスキーは、校長による日本の学校制度の説明に興味をもち、ことごとく筆記したという。また一番長収容所の将校は、師範学校附属小学校を訪問し、図画の授業を参観して大いに感服し、児童が廊下を清掃しているのをみて「毎日斯くするや」と質問し、毎日の日課を教師不在のときでも行う児童に感心した。ロシアでは、よほど高等の学校にしかないような、動物や鉱物の標本が学校にあることをみて彼等は真に敬服したという。
 松山高等女学校では隣の正宗寺が収容所の一つとなったため、将校やその夫人の来校は五回に及んだ。
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posted by 小楠 at 07:32| Comment(10) | TrackBack(1) | 書棚の中の日本