2007年04月14日

グラント将軍横浜へ

グラント将軍清水から静岡、横浜へ

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から。
画像は当時の横浜港風景
yokohama01.jpg

引用開始
 清水湾は外国に開放されていない。われわれがここにいるのは、天皇の賓客であるからである。条約の中には特定の貿易港が明記されており、悪天候のときに避難する場合を除くと、それ以外の港には入港できないのである。もし列強が銃剣の先で押し付けたきびしい条件のいくつかを軽減さえすれば、日本人は国内のどんな港でも喜んで開いてくれるであろう。・・・・
 ともかくわれわれは閉鎖されている港に特別に入港できる光栄を持ったことになる。なぜかといえば、外国人がまだ足を踏み入れたこともない日本を見学できたからである。

 軍艦が入港したことは大事件であったのであろう、町中の男女や子供たちまでがたちまち船・荷船・帆船などに乗ってわれわれを見物しにやって来た。べナム艦長は、一度に五十名を甲板に上げ、艦内を見学させてもよい、といった命令を出した。・・・・年老いた男女、子供を背中におぶったり胸元からつりさげている母親、着物を着たあるいはまとわぬ猟師たち、要するにあらゆる階層の人間が見物しに続々と舷側にやって来て、燃えるように輝いている大砲に驚きの目を向けた。

 県令[大迫貞清]の肝煎りでわれわれは首都に招かれた。そこは沿岸から六マイルほどの距離にある内陸の古い町である。われわれは上陸し、ほんのしばらく猟師たちがとらえた獲物を見ていた。・・・・また茶屋を訪れ、茶のさまざまの製造工程を見学した。・・・・・
 そして午前十時頃になってようやく静岡に向って出発したが、人力車の長い行列が続いた。町中の人間が表に出て見物し、どの家にも日本の国旗が翻っていた。学校は休みとなり、先生を列の先頭にすえて整列した生徒たちは、われわれが通り過ぎて行くと深々とおじぎをした。

 道の状態はかなりよかった。ニューヨーク郊外でみた道よりかはずっと良かったといってよい。人力車はかなりのスピードで走った。町の外に出ると、木陰の下を通り、水をたたえた一帯の水田と茶畑のそばを通り過ぎて行った。小ざっぱりとした制服を着た、警棒を持った警官が、要所要所に配置され、警戒に当っていた。しかし、笑みを浮かべしあわせそうな、友好的な日本では、警官はまるで場違いのように思われた。群集の誰もが上機嫌であった。われわれがやって来るといったうわさの方が、われわれよりも先に着いたようである。なぜかというと、笑みとおじぎでグラント将軍を歓迎しようという群集が、沿道に待ちかまえていたからである。
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posted by 小楠 at 07:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物