支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその上巻にある「事変の発端盧溝橋事件」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
画像は通州事件直後の現場状況

引用開始
[郎坊事件]
昭和十二年七月二十五日午後十一時三十分郎坊駅に日支両軍が衝突したのである。
郎坊は北寧線北京と天津の丁度中間の小邑である。ここに於て屡々我が軍用電線が切断されるので五ノ井中尉(当時)の率ゆる一部隊は電線補修のため郎坊に到着、直ちに作業に取りかかったが、郎坊に兵営を持つ張自忠麾下の部隊は何故か、我が部隊が作業中の郎坊駅を取囲み不穏の形勢を示していたが、同夜十一時三十分遂に五ノ井部隊に不法射撃を加えたのである。
止むなく同部隊は応戦、小部隊を以って終夜善戦、二十六日払暁には敢然突撃に移って、大軍の中に斬って入り、支那軍を駅付近より撃退したのであった。
一方急を聞いた陸の荒鷲は敵兵営を強襲爆撃を敢行した。これこそ今次事変最初の空爆であった。・・・・
その時天津にあつては、軍当局は、宋哲元に対し三十七師を二十八日正午迄に永定河以西に撤退すべしと厳重に要求していたのである。
[廣安門事件]
この日衝突は遂に北京にも起った。
二十九軍との諒解の下に廣部部隊は居留民保護のため廣安門を通過して北京に入城せんとしていた時である。時刻は午後七時三十分、三台目のトラックが通り終った途端、突如全く突如に支那軍は城門を閉し、城壁直下にある我が廣部部隊に機関銃、手榴弾の雨を降らせたのである。
これが所謂「廣安門事件」である。
この事件が如何に支那側の計画的暴挙であったかは、当時廣安門にあった人々の身をもって感じた処である。左にその当時従軍していた同盟記者の筆を借りて当時の大要を記そう。
「不誠意極まりなき支那側は、事前の諒解あるにもかかわらず、城門を固く閉して土嚢を積み重ね、形勢全く不穏なるを思わせたが、櫻井顧問の断乎たる交渉の結果、城門は漸く開かれた。今にして思えばこの時既に支那軍は皇軍を奸計に陥れるあらゆる準備を完了していたのだ。
午後七時十分、豊台からのトラックが何等狐疑する処なく、廣安門を通過し始めた。トラックはスピードを落として一台、また一台、三台目が城門を通過した途端、突如全く突如パンパンパンと三発の銃声! 続いて起る機関銃の掃射、堅固な城壁から二十メーター直下にある皇軍の先頭部隊に真向から暴戻極まりなき猛射を浴びせたのだ。はっと思ういとまもあらせず、迫撃砲、手榴弾、機関銃、小銃の乱射は、夕闇ようやく濃い廣安門大街に縦横に閃光を交錯させる。その物凄さ記者等は全くなす処を知らなかった。次の瞬間、二人の写真部員はアッと叫んで敵弾に倒れてしまった。
記者はわずかな掩護物を発見して、からくも身をかくしたが驟雨の如く落下する敵弾に全く生きた心地もない。このとき敏捷果敢な皇軍は早くも城門を隔たる数百メートルの地点に間髪を入れず散兵線を展開、直ちに支那軍膺懲の機関銃猛射を開始したのである。」
以上が廣安門の支那軍の不法射撃である。
かくして我が国政府、並びに軍が堅く不拡大方針を持して隠忍自重和平招来に尽した一切の努力は水泡に帰したのである。・・・・・
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