2007年04月29日

支那事変支那軍の挑発

当時の出版物に見る郎坊、廣安門、通州事件

 支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその上巻にある「事変の発端盧溝橋事件」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
画像は通州事件直後の現場状況tsushu01.jpg

引用開始
[郎坊事件]
 昭和十二年七月二十五日午後十一時三十分郎坊駅に日支両軍が衝突したのである。
 郎坊は北寧線北京と天津の丁度中間の小邑である。ここに於て屡々我が軍用電線が切断されるので五ノ井中尉(当時)の率ゆる一部隊は電線補修のため郎坊に到着、直ちに作業に取りかかったが、郎坊に兵営を持つ張自忠麾下の部隊は何故か、我が部隊が作業中の郎坊駅を取囲み不穏の形勢を示していたが、同夜十一時三十分遂に五ノ井部隊に不法射撃を加えたのである。
 止むなく同部隊は応戦、小部隊を以って終夜善戦、二十六日払暁には敢然突撃に移って、大軍の中に斬って入り、支那軍を駅付近より撃退したのであった。
 一方急を聞いた陸の荒鷲は敵兵営を強襲爆撃を敢行した。これこそ今次事変最初の空爆であった。・・・・
 その時天津にあつては、軍当局は、宋哲元に対し三十七師を二十八日正午迄に永定河以西に撤退すべしと厳重に要求していたのである。

[廣安門事件]
 この日衝突は遂に北京にも起った。
 二十九軍との諒解の下に廣部部隊は居留民保護のため廣安門を通過して北京に入城せんとしていた時である。時刻は午後七時三十分、三台目のトラックが通り終った途端、突如全く突如に支那軍は城門を閉し、城壁直下にある我が廣部部隊に機関銃、手榴弾の雨を降らせたのである。
 これが所謂「廣安門事件」である。
 この事件が如何に支那側の計画的暴挙であったかは、当時廣安門にあった人々の身をもって感じた処である。左にその当時従軍していた同盟記者の筆を借りて当時の大要を記そう。

「不誠意極まりなき支那側は、事前の諒解あるにもかかわらず、城門を固く閉して土嚢を積み重ね、形勢全く不穏なるを思わせたが、櫻井顧問の断乎たる交渉の結果、城門は漸く開かれた。今にして思えばこの時既に支那軍は皇軍を奸計に陥れるあらゆる準備を完了していたのだ。
 午後七時十分、豊台からのトラックが何等狐疑する処なく、廣安門を通過し始めた。トラックはスピードを落として一台、また一台、三台目が城門を通過した途端、突如全く突如パンパンパンと三発の銃声! 続いて起る機関銃の掃射、堅固な城壁から二十メーター直下にある皇軍の先頭部隊に真向から暴戻極まりなき猛射を浴びせたのだ。はっと思ういとまもあらせず、迫撃砲、手榴弾、機関銃、小銃の乱射は、夕闇ようやく濃い廣安門大街に縦横に閃光を交錯させる。その物凄さ記者等は全くなす処を知らなかった。次の瞬間、二人の写真部員はアッと叫んで敵弾に倒れてしまった。
 記者はわずかな掩護物を発見して、からくも身をかくしたが驟雨の如く落下する敵弾に全く生きた心地もない。このとき敏捷果敢な皇軍は早くも城門を隔たる数百メートルの地点に間髪を入れず散兵線を展開、直ちに支那軍膺懲の機関銃猛射を開始したのである。」
 以上が廣安門の支那軍の不法射撃である。
 かくして我が国政府、並びに軍が堅く不拡大方針を持して隠忍自重和平招来に尽した一切の努力は水泡に帰したのである。・・・・・
続きを読む
posted by 小楠 at 21:54| Comment(2) | TrackBack(1) | 書棚の中の支那事変

2007年04月28日

支那事変の発端2

当時の出版物が語る支那の協定違反

  支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその上巻にある「事変の発端盧溝橋事件」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真は当時の一文字山の様子
ichimonji.jpg

引用開始
 かくて事件は小康を得た形であったが、支那側は着々八寶山付近から京漢線に至る間、永定河右岸地区に益々兵力を増加しつつあったばかりでなく、事件の発端地盧溝橋付近から京漢線北側地区、八寶山付近に亙る間に、三線の陣地を構築、更に永定河右岸長辛店、及びその西北方高地にも堅固な陣地を占領して、漸次我方に包囲的態勢をとり抗戦意識極めて旺盛なるものがあった。

 一方古都北京の反日意識も意思外に熾烈で事変勃発と同時に戒厳令を布き、内外城門は勿論、市内の随所は二十九軍兵士の青龍刀に固められて、城外との交通は全く遮断された。
 見上げれば屋上等には機関銃さえ配置され、ことに邦人の多く往き交う交民巷付近の街路には、夜間迫撃砲まで持ち出すという始末であった。
 我方の交渉により城門だけは開かれたが、戒厳令は依然続行して、我軍の通過を許さなかった。

 こうした例は数十年来かつて見なかったもので民国革命以来、内乱戦、事変等は屡々起ったが、北京の治安はおおむね警察力で維持されていたのであるが、今回は全く状態が異なり、悉く二十九軍の銃剣と、青龍刀が北京の街を支配した。ことに邦人に対する暴圧は言語同断で、或は我が憲兵を検束し、或は婦女子に迫害を加え、或は住宅に不法侵入し、或は暴行傷害を加える等々の不祥事が頻発したのである。

 かくの如き不法圧迫が北京城内に行われている折も折、十三日城外馬村付近に於て同地通過の歩兵一小隊に支那軍は突如不法射撃を行い、我方は戦死三名を出すという不祥事が惹き起こされたのである。更にその翌日十四日団河村付近を我騎兵部隊が通過の際不法射撃を受け兵一名が戦死した。
 一日置いて十六日午前八時頃鈴木部隊の一部は安平に於いて冀殺保安隊の攻撃を受けるなど重ね重ねの不法射撃を受けたのである。
続きを読む
posted by 小楠 at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変

2007年04月27日

支那事変の発端1

当時の出版物に見る盧溝橋事件

 支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその上巻にある「事変の発端盧溝橋事件」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真は「支那事変 戦跡の栞」全三巻
allbooks.jpg

引用開始
 昭和十二年七月七日、この歴史的な夜は七夕だった。・・・・・
 この夜この時限りに日支両国の運命の星は遂に相離れてしまったのである。
 その夜、我支那駐屯軍に属する豊台駐屯部隊は盧溝橋の北方約千メートルの龍王廟付近の草原に夜間演習を実施していた。・・・・・
 屡々我が部隊の演習はこの好適の草原に行われていたのだが、なんに血迷うてかこの夜十一時四十分頃、盧溝橋に駐屯する支那軍(宋哲元の指揮する第二十九軍の一部)は我が部隊めがけて数十発の不法射撃を行って来た。

 ここで二十九軍なるものの正体にちょっと触れておこう。この軍隊は民国十四(1926)年以来、西北革命軍として馮玉祥の麾下で北伐に参加し、民国十七年に宋哲元が陝西省主席となると同時に陝西に入り十九年の反蒋戦に敗れ、同二十一年、宋哲元が察哈爾省主席に任ぜられた時、全軍は河北省に移駐した。
 満洲事変には抗日戦に参加したが喜峯口の一戦に敗れてしまった。しかし、性懲りもなく、相変わらず抗日行動の先鋒となって北支民衆を毒しながら、昭和十一年六月、中央軍の河北撤退を期として平津地方を完全に保有してしまった。

 その兵力十数万、軍長は宋哲元であったが、まもなく第三十七師長馮治安が軍長を兼任し、三十七師(師長馮治安)三十八師(張自忠)百三十二師(趙登禹)及び新編二師より構成され、事変前の配置区域は保定付近が三十七師、天津付近が三十八師、京漢線沿線の大名付近には百三十二師が分駐していた。この軍隊は抗日の親玉馮玉祥の麾下であった関係から、抗日意識は下層まで行きわたっていた札つきの悪質の軍隊であったのである。
 さて、我が部隊は演習を中止して人員点呼を行った所、兵一名が不足しているのを発見したので直ちにその付近を捜索すると共に豊台駐屯隊長に急報したが、間もなく不足した兵員は発見され我が部隊に損害の無いことが明らかになった。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:51| Comment(1) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変

2007年04月26日

大戦直前日本の世情4

日米戦はソ連ひとり太る

 大東亜戦争直前、昭和十六年頃の世界情勢の渦中に生きた日本人が、どのようなことを考え、どのような意見を持っていたのかを、その頃に発行された書籍を紐解くことによって、その時代の日本人と同化し、なぜ大戦へと進んでいったのかを探って見たいと思います。
 当時多くのベストセラーを出した、武藤貞一の著
「日米十年戦争」(昭和十六年発行)
から少し引用していますが、下段のコミンテルンの部分は、まさに今の日本、男女共同参画の美名のもとに行われている家族の崩壊政策が、どこに源を発しているかが的確にわかるでしょう。そしてこれに与えられた予算がなんと10兆円! 家族崩壊に我々の税金10兆円が使われるなんて、全く許せません。政治家よ、貴方達は馬鹿の集まりですか。
写真:キャプションでは独裁者ルーズベルトとなっています
dokusaikan.jpg

引用開始
 アメリカはその無限に膨張しつつある資本主義生産力の消化市場として支那を目指し、一方必需原料の吸収地として南洋を目指す。しかもこの二つの目標のいずれもが日本の存在を最大障害なりとして、ここに対日攻勢の理由を置いているのである。
 つまり、日本という東洋に残った唯一のトーチカを取払わなければ、東洋へ向かっての西漸政策を完遂し、かつ南洋資源地の確保に満足な成果を収め難しとするのである。
 このため、折あらば日本勢力を粉砕せんものとし、むしろ今がその絶好機会るを思う。しかるに、実際はこのくらいアメリカにとって悲しむべき謬想はないのだ。もしかりに、彼の思うがごとく、今日、日本が支那事変に疲労しつつある様会を狙って日米戦争の段階に入ったとすれば、かれの目指す最大の目標たる支那大陸はどうなるかを考えるがよい。

 もちろん、日本は逆にアメリカの対日攻勢を粉砕するだけの実力を持っている。特に日米戦争となったら、現在のごとく日本がアメリカの経済封鎖下に喘ぐという状態は一変して、日本の一挙に伸ばし得るであろうところの駿足の下に、アメリカこそ南洋資源を喪失することになるは火を見るよりも明らかな事実である。ただそれ、実際問題として、日本が強敵アメリカに立向うの日は、ここに全力を傾注せざるを得ぬという一事は、恐らくいかなる鈍感なアメリカ人といえども知らねばならぬ事柄であろう。

 かく日本が全力を対米戦争に集結することあるべき場合、支那大陸は、何者によって剽掠せられ、何者によって覇権を握られるかを、アメリカ人よ、君らは知っているか。
 それはいうも愚かなり。ソ連邦ではないか。

 蒋介石が無謀な抗日戦争に血道を上げている間に、支那大陸の奥地には、抜くべからざるソ連勢力――すなわち共産軍の地盤を築かせてしまったのだ。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中のアメリカ

2007年04月25日

大戦直前日本の世情3

蒋介石目覚めよ

 大東亜戦争直前、昭和十六年頃の世界情勢の渦中に生きた日本人が、どのようなことを考え、どのような意見を持っていたのかを、その頃に発行された書籍を紐解くことによって、その時代の日本人と同化し、なぜ大戦へと進んでいったのかを探って見たいと思います。
当時多くのベストセラーを出した、武藤貞一の著
「日米十年戦争」(昭和十六年発行)
から少し引用しています。
 またこのくだりは、当時の日本の敵はソ連と支那の共産党であって、決して蒋介石の国民政府だとは思っていなかったこともうかがわれますが、西安事件以来、蒋介石は共産党と共に抗日を余儀なくされていたこともあり、日本のいらだたしい思いが表れています。
写真は米国女性の長槍部隊
nagayari.jpg

引用開始
 ソ連は日本がこのまま支那大陸の戦争を継続すればするほど、また日本が資源不足で南進政策を積極化すればするほど、おのずから魚夫の利を占め、懐手空腕、よく支那大陸を総舐めにすることができるとずるく考えている。
 蒋介石の勢力減退に反比例して、支那大陸の奥地に隆々たる勢力を培養し、かつ君臨しつつあるものは共産党および共産軍だ。いな、逞しき赤色勢力だ。蒋介石は日本に叩かれて、再起不能に陥っても、あとの支那大陸奥地には赤色勢力の氾濫を如何ともすべかせざるに至ろう。
 
 日本はだれが何と言っても防共のトーチカであり、日本と言うトーチカがその機能を発揮し得ざるに至れば、支那大陸は、アジア大陸は、もはや堰の取れた河原である。
 蒋介石は不当に支那民衆を駆り立て、抗日戦争に専念することによって、彼はソ連の為にマンマと日本を疲労させる道具にされてしまい、身自らも今日では部内の赤色勢力に押され、中共側の攻勢にややもすればたじろいでいる形である。
 蒋介石は、最近だれかに、日支が共倒れになってしまえばあとはアジア全体の壊滅だという意味のことを語ったとのことだが、かれにして既にその認識ある限り、何故一足飛びに従来の方針の大誤謬を訂正する勇気を出さぬのか。
 今や日華条約の締結によって、支那事変は、汪政権との間には終結を告げ、なお残る蒋政権に対しては更にこれからというところだが、戦争は何時まで経っても『これから』であってはならない。
 大軍は永く用うべからず、大軍を永く広野に晒せばその国乱るとは古書の金言だ。支那のため、アジア全国の福祉のため、敢えて蒋介石の猛省を促さざるを得ない。記せよ、闘いの勝負は既に決しているのである。面目などに囚われて、国乱れ、国亡ぶるを何とするや。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中のアメリカ

2007年04月24日

大戦直前日本の世情2

アメリカの日本圧迫の歴史

 大東亜戦争直前、昭和十六年頃の世界情勢の渦中に生きた日本人が、どのようなことを考え、どのような意見を持っていたのかを、その頃に発行された書籍を紐解くことによって、その時代の日本人と同化し、なぜ大戦へと進んでいったのかを探って見たいと思います。
当時多くのベストセラーを出した、武藤貞一の著
「日米十年戦争」(昭和十六年発行)
から引用しています。
写真は空母レキシントン
lekishinton.jpg

引用開始
 二十世紀初頭よりの米国の極東政策は一に日本圧迫の四字に尽きる。勿論日本という東亜の要塞が潰れれば支那の如きは垂涎せずとも手に唾して取れるだろうからだ。

1,ジョン・ヘイの門戸開放 
 1899年(明治三十二年)9月6日、国務卿ジョン・ヘイは支那門戸開放に関する通牒を列国に発した、曰く「支那全領土に亘り何れの国民にも平等に通商上の自由と機会の均等が与えられるべきだ」と
更に翌1900年7月12日列強に対し無条件門戸開放の要求をしたが、何れも之を峻拒した。
同年米国は我国に対し福建省沿岸に一貯炭所を設置せんとして意向を質して来たが拒絶された。

1,日露講和斡旋
 極東に飛揚せんと企む米国がロシアの東亜席巻的南下勢力の伸長に無関心たり得ぬのは言う迄もない、即ち日露戦争に際しては援日抑露の態度となって現れたものである、1905年(明治三十八年)3月10日奉天陥落し、同じく5月27日露国最後の遠征隊バルチック艦隊が日本海に全滅するやセオドア・ルーズベルトは平和斡旋を提議してポーツマス条約を成立せしめた、このイニシアティヴに対する米国の魂胆は両者何れが決定的勝利を得るも米国に取って利益ではないという結論が生み出していたようだ。

1,桂・タフト協定 
 日露戦争で示された日本の実力に驚倒した米国は将来を懸念して同年夏陸軍卿タフトを訪日せしめ、桂首相をして日本が絶対にフィリピンを攻撃せざることを約せしめると共に日本が朝鮮を保護国とする事を承認した、之を世に桂・タフト協定と言う。

1,満鉄買収計画 
 明治三十八年十一月十二日米国鉄道王ハリマンと桂首相の間に一億円で満鉄を譲渡すると言う約束が成立し、ハリマンは即日覚書を携えて桑港(サンフランシスコ)に帰った、然るに入れ違いにポーツマスより帰朝した小村寿太郎外相は満鉄絶対に手放すべからずと主張し、閣議を一変せしめて右予備契約は取消された、偉なる哉炯眼、同時に米国においても、日本は愈々容易ならざる真敵なる事を認識したものの如くである、爾来対日親善、媚態の一時的笑顔政策は全面的に改変され、機会あれば日本の大陸政策に横槍を入れるに至った。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中のアメリカ

2007年04月23日

大戦直前日本の世情1

アメリカの対日前哨戦

大東亜戦争直前、昭和十六年頃の世界情勢の渦中に生きた日本人が、どのようなことを考え、どのような意見を持っていたのかを、その頃に発行された書籍を紐解くことによって、その時代の日本人と同化し、なぜ大戦へと進んでいったのかを探って見たいと思います。
当時多くのベストセラーを出した、武藤貞一の著
「日米十年戦争」(昭和十六年発行)
から少し引用してみます。
10years.jpg

引用開始
 どのみち、アメリカが資本攻勢のやむにやまれぬ必然的要求から支那大陸の市場を欲し、同時に太平洋西岸の資源を欲する限りは、日本というアジアにただ一つ残れる有色人種のトーチカを爆砕しなければならぬことは覚悟前だ。日本の宿命的相克はいつ始まったかは今更いうも愚かである。
 アメリカが大陸を南漸して太平洋岸に出て来たとき、延いてはペリーが浦賀湾頭に砲声を轟かしたとき、今日の成行きは約束されていたのである。更に下っては、ノックスの東清鉄道中立提案をして来たとき、日本は覚悟すべきであったのだ。満洲事変の際、いわゆるスチムソン・ドクトリンで、対日恫喝が試みられたとき、既にアメリカは戦意を露骨にしていた。・・・

 爾来、アメリカは猛然と準備を急ぎ出した。驚異的大軍拡、対日制圧戦に十分なりと信ずる準備を!
 支那事変となって、アメリカはイギリスと協力し、あらん限りの援助を蒋政権に与えた。これ、蒋介石を利用して、有色人種国唯一のトーチカたる日本帝国の国力消耗を図らんがために外ならない。支那事変こそ、英ソにそうであったごとく、なかんづくアメリカに取ってはもっけの幸いであった。
 1940年1月26日は、アメリカが対日経済封鎖の第一宣告ともいうべき記念日である。当日日米通商条約の一方的廃棄がアメリカによって敢行されてしまったのだ。爾来、アメリカは経済封鎖という対日前哨戦についた。
 固より未だ日本と実力の戦争をする準備が整っていないから、武力戦はアメリカにおいて回避せざるを得ない。そこで、日本に致命的打撃を与えることによって、捨身の反発を起させない程度を加減しながら、ジワジワと経済封鎖を強化するに至った。・・・・・

 かくて、ここ数年来、特に支那事変勃発後のアメリカは、極めて彼に好都合な情勢のもとに、その企図は十二分に発揮できたと見るべきである。いま仮にこれを二つの方式に分けるとすれば、
1,日本の国力を対蒋戦争によって消耗させてきた。
2,日本にその消耗を補充し能わざるよう、日本への原料物資の注入を阻害してきた。

 日本がその主要資源を英米領域に依存し来ったのみならず、経済動力を英米に仰ぎ来ったことは、アメリカに取っての何たる好条件であろうか。およそ世の中に、仮想敵国の使う原料を自分の手で握っていて、その相手と戦う潮合を待つというくらい恵まれた態勢というものはそうザラにあるものではあるまい。同時に、その逆の立場に立つ『仮想敵国』なるものの惨めさは正に言語に絶するものがある。
 しかも日本人は、かかる最悪の関係に立ちながら、一向平気で長年月を経過し来ったところに、日本人独特の呑気千万さがある。否、呑気千万を通り越して、むしろ痴呆症かと疑わるるくらいである。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:39| Comment(4) | TrackBack(1) | 書棚の中のアメリカ

2007年04月21日

日本初の捕虜収容所

松山捕虜収容所

 ご存知の方も多いかと思いますが、日露戦争の時、「マツヤマ!」と叫んで投降するロシア兵もいたと言われる、四国松山のロシア人捕虜収容所の記録が松山大学編「マツヤマの記憶」として出版されています。
 この記録の一部を掲載してみます。そこには当時の日本がいかにハーグ条約の遵守に気を遣っていたかが分かります。
画像はロシア兵捕虜を接待する婦人たち
matsuyama.jpg

引用開始
 日露開戦の五年前(1899年)にオランダのハーグで締結された「陸戦の法規慣例に関する条約」があった。その附属書「陸戦の法規慣例に関する規則」は、捕虜の待遇に関して次のように規定している。
第四条第二項 俘虜は人道を以て取扱わるべし。
第七条第一項 政府は、其の権内に在る俘虜を給養すべき義務を有す。
第七条第二項 交戦者間に特別の協定なき場合に於ては、俘虜は、糧食
寝具及被服に関し之を捕えたる政府の軍隊と対等の取扱を受くべし。

・・・そして当時の日本政府が、彼ら(ロシア兵捕虜)を大いに「優遇」
したことは、今日でもよく知られている。食事ひとつをとってみても、将校には毎日六十銭、下士卒には三十銭を費しており、これは自国の兵卒の食費が、一日あたり十六銭前後だったのと較べて、破格の厚遇といえる。
・・・・日露戦争の時に開設された収容所は全国で二十九ヵ所にのぼり、その収容施設は、総数で二百二十一といわれる。そのなかで、初めて収容所が開設され、初めて捕虜がきたのが松山であった。・・・・

捕虜と市民との国際交流
 捕虜が市内の中学校に来校したり、運動会を見学したりしたのは捕虜と市民との国際交流といってよい。松山中学校を訪問した雄群収容所の捕虜将校で裁判官であったザゴロフスキーは、校長による日本の学校制度の説明に興味をもち、ことごとく筆記したという。また一番長収容所の将校は、師範学校附属小学校を訪問し、図画の授業を参観して大いに感服し、児童が廊下を清掃しているのをみて「毎日斯くするや」と質問し、毎日の日課を教師不在のときでも行う児童に感心した。ロシアでは、よほど高等の学校にしかないような、動物や鉱物の標本が学校にあることをみて彼等は真に敬服したという。
 松山高等女学校では隣の正宗寺が収容所の一つとなったため、将校やその夫人の来校は五回に及んだ。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:32| Comment(10) | TrackBack(1) | 書棚の中の日本

2007年04月20日

嵐の中の灯台

「嵐の中の灯台」という本があります。副題で、「親子三代で読める感動の物語」となっていますが、内容は主に児童向けの徳育の本という主旨で作られたもので、明治時代の「国語読本 高等小学校用」、「尋常小学読本」や、大正時代の「尋常小学国語読本」、戦前昭和の「小学国語読本」、戦後の「国語」などに採用されていた物語を、現代風にリメークしたものとなっています。
この本の「あとがき」の部分を引用してみますので、興味のある方は是非親子で読まれたらいかがでしょうか。
arashi.jpg

引用開始
 思えば戦前の教育の世界は、今では遠い彼方に去ってしまったようです。昭和二十年八月、終戦の日を境に、日本人の心の流れは、戦前と戦後の二つに見事に分断されてしまって、すでに五十年を過ぎる日々が経ちました。だが一体それでいいのか。このところ連日報じられている教育界の惨状、目を蔽いたくなるような少年による凶悪犯罪の続発、それは日本人ガ日本人としての自己を見失った、言葉をかえれば自らの歴史を失った民族の悲劇という他はないように思われます。とすれば、この混沌とした時代であればあるほど、いま私たちの視界から消えてしまった戦前の教育を蘇らせて、それを私たち自身の目でもう一度見直し、戦前と戦後の断絶を埋めるべき時がきているのではないか、そう思われてなりません。

 とはいえ、戦前の教育といえばすぐに心に浮かぶ「修身」という言葉一つをとりあげてみても、多くの人はいかにも古めかしい、干からびた道徳教育、冷たい道徳という枠の中に子供たちをはめこむような印象を受けるにちがいありません。
 もっとも一部の教師たちによって、そう思われても仕方のないような授業が行われたのも事実でしょう。しかし多くの教師は決してそうではなかった。たしかに「修身」の教科書の目次には「忍耐」とか「礼儀」とか、そういう徳目が並べられていました。
 だがそれぞれの項目には、それらの徳目を身を以て生きた先人たちの、胸迫るドラマが描かれていたし、先生方はそのドラマの中に溶けこんで、子供たちの胸に、人間の真実がどういうものかということを、強烈に語りかけられました。こうして「修身」の授業は勿論、「国語」の授業でも、「歴史」の授業でも、当時の子供たちは、小学校の低学年の頃から、数多くの人生の美しい姿にふれながら生きてきたのです。暗黒に閉ざされた教育、そういう戦前の教育に対する思いこみは、戦前の日本人の生き方を真向から否定しようとした占領政策のなせるわざにすぎなかったというべきでしょう。

 であれば、このような戦前の教育へのいわれのない不信感を拭い去って、戦前と戦後を貫く一本のバイプを通すこと、それがいま何よりも強く求められているのではないか。私たちはそういうおもいをこめて、明治の半ばから終戦直後までの「修身」と「国語」の教科書の中に埋もれていた十八篇の物語をとりあげて、この一冊の書物を編集しました。もっとも原文のままでは、現在の子どもたちには難解の個所も多く、適宜、筆を加えたところもありますが、当時の教科書のもつ雰囲気を直接味わっていただき、これらの文章を教材として、「人生」を学んだ子どもたちと共感の場をもっていただきたいのです。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:29| Comment(5) | TrackBack(1) | 教科書に見る日本

2007年04月19日

グラント将軍の助言

岩倉具視や閣僚との会談と助言

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から、帰国を前に岩倉具視や日本の閣僚との会談中のグラント将軍の助言を引用してみます。
grant02.jpg

引用開始
 日本におけるわれわれの最後の日々は、個人的かつ公の性格を帯びた出来事で満ちあふれていた。個人的という言葉を用いるのは、新聞にも出ず、まして世間にも知られなかった出来事について語るためである。
 閣僚がひっきりなしにグラント将軍を訪れた。岩倉氏はよく訪れた方だが、公務について、特に話をするためであった。
 琉球問題について話し合われた時、グラント将軍は日清両国の協調促進のために精いっぱい努力した。これらの会談の成果について語れるのは歴史だけだが、一言言い添えておくと、グラント将軍が岩倉氏や閣僚と会談したさいに述べた助言は、きちんと文章化され、恭親王や李鴻章に伝えられた。
 琉球問題に関しては日清両国からそれぞれの言い分を聴けば、清国においてこの国の言い分だけを聴いた時よりも正確に話ができる、とグラント将軍は考えた。

 まだ他にもいくつかの問題が持ち上がっていた。それは日本の産業や農業と係わりのある問題である。グラント将軍は、広大な未開墾の肥沃な土地に日本の友人たちの注意を向けさせ、全土を開発する気にさえなれば、国の富と収入がどれほど増大するか、を指摘した。
 話はそこから、国民にとって大きな重荷となっている、政府としても税収入をあげるためにはやむをえない、地租に移っていった。もし政府が、ドイツやフランスのように地租を取り立てずに収入関税を徴収できれば、地租を下げることができるのである。

 話はさらにそこから、日本の政治の中で多年の懸案となっていた条約改正へと向っていった。
 条約改正の問題は、岩倉氏が使節となって何年か前に条約国に赴いたときから、一向に進展していない。将軍は、条約問題では常に同じ意見を述べてきた。イギリスが東洋においてとっている政策のうちでおかしな一面は、関税を各植民地の裁量に任せているのに、自由貿易と保護貿易を行う段になると、日清両国はイギリスの貿易に役立つように、税や関税を決めねばならぬと主張する。言い換えれば、日本は独立国であるにもかかわらず、脅迫されているのであり、カナダやオーストラリアなら決してそのような恫喝に屈することはあるまい。
 条約が存続する間は異常な状態がつづくであろうし、イギリスは条約に認められている最高の権利を放棄するそぶりを見せてはいない。グラント将軍が与えた忠告は次のようなものであった。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:39| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物

2007年04月18日

天皇とグラントの対話2

外債、外交についてのグラント将軍の意見

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から。明治天皇から希望されたグラント将軍との長時間の対話について、今度はおよその内容を引用してみます。
grant.jpg

引用開始
 日米間で取り決めた条約[吉田・エバーツ条約]によって、日本もどうやら独力で外国貿易を行える権利をもったが、その条約に満足の意を表したことから、話題はアジアにおける外交政策に転じた。グラント将軍は次のように語った。

「ヨーロッパの発展とアジアにおける外国の影響を研究することほど興味をひいたものはありません。インド滞在中に、イギリスがこの国をどうしたかがわかりました。イギリスによる支配が結局はインド人のためになっているように思います。イギリスがインドから手を引くと、インドは無秩序になります。インドの統治法を見ると、遺憾に思われる点もありますが、ほとほと感心させられる度合の方が多いのです。
 しかし、インドを発ってからというもの、ヨーロッパの列強がアジアの国々を堕落させようとしているのを見て、何度もはらわたが煮え返るような思いがいたしました。
 そんな政策がまかり通るようであってはなりません。どうもアジアの国々を独立させないようにするのが彼らの狙いであったようです。この件は私に痛切にこたえたし、国の友人に宛てた手紙の中でも強調しておきました。
 日本や清国についても同じようなことがいえるように思います。故国においては、独立と国民的生存にとって不可欠なものとみられ、またヨーロッパのどんな小国であっても断じて放棄することのない権利が、日本や清国で認められていないのには驚くほかありません。
 いろいろな権利の中でも、関税権ほど重要なものはありません。一国家の運命はしばしば貿易に左右されることがあり、国は貿易によって生じる利益をすべて受ける資格があります。ことに日本は貿易を監理できさえすれば、大きな重荷となっていた地租を免除できるように思えます。
 重税を課しますと国民は貧困に陥り、農業の発展が阻害されます。収穫の半分を租税として収めねばならぬとしたら、農夫はたぶん生活できる分しか作らないでしょう。もし地租を軽減できれば、きっと日本の農業は盛んになるでしょうし、そうなれば国民の生活は豊かになり、購買と消費が伸びますから、結局は貿易にとっても良いのです。
 イギリスやフランスやアメリカの貿易と同じように、日本の貿易も国家の歳入の一部を形成しているのであれば、地租を軽減することができるように思えます。
 わが国の政府が貴国と条約を結んだことをうれしく思います。他の国々もこの条約に賛意を示してほしいと思います。しかし、いずれにしても、私はアメリカ国民についてよく知っているつもりですが、彼らは党派を問わず日本の独立を心から願っております。わが国民は太平洋に大きな関心を寄せておりますが、アジアの国々の独立と合致しないものは何一つ持ってはおりません。」
続きを読む
posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物

2007年04月17日

天皇とグラントの対話1

民選議会設立についてのグラント将軍の意見

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から、八月十日に明治天皇が将軍と非公式に会談された内容を対話式に見てみましょう。
talk.jpg

引用開始
[陛下]
 私はもっと早く卿とお会いしたかったのですが、政務多忙で本日やっとお会いできる機会を得、お元気そうにお見受けして喜んでおります。

[グラント]
 この国に参りましてから二ヶ月にならんとしております。陛下の政府ならびに貴国民から温かく迎えられ、またどこへ行きましても大変ご親切にしていただきましたから、思いのほか早く時がたってしまいました。来週の火曜日には箱根の温泉に行き、十九日か二十日に帰京することになっております。本月の二十七日に、一行と共に「東京」号に乗りサンフランシスコに向けて出航いたします。もう少し滞在したいところですが、残念ながら船に乗らねばなりません。

[陛下]
 できればもう少し滞在されますことを希望しますが、どうしてもその船で帰国されなければならないと言うことであれば、しかたがありません。今般卿にはわが国の実況を親しくご覧になりましたので、もしわが国のことについてご意見などもありましたら、お教えいただきたく思っています。

[グラント]
 陛下からこのようなお言葉をお聞きいたし大変うれしく思います。もとより最善の国策について論じる場合、その国の人びとこそいちばん適任ではありますが、思いついた意見を陛下に喜んでお話いたしたいと思います。
 長崎に着きましてから、この国の農業面と国民の進歩の状態などに大きな関心と注意を向けた結果、前よりもはるかにはっきり国情と国民についてわかるようになりました。
 私は久しく日本とこの国の発展に大きな関心を寄せてまいりましたが、どちらかといえば関心と同情はここに至ってさらに大きくなりました。今はっきり自分の意見を述べることができます。陛下の国民を別にすれば、私ほど日本の繁栄を心から願っている者はおりません。しかし、この点についていえば、私は大抵のアメリカ人の気持を正しく代弁しているのです。
 シンガポールよりこちら側では、アジア人と欧米人とを同等視して論じることができる、あるいは論じようとする新聞・雑誌がほとんど無いことを知りました。ただ『東京タイムズ』と『ジャパン・メール』の両紙だけが、東洋諸国にも尊重されねばならぬ権利があるかのように論じております。
 ほんのわずかな人を除くと、西洋諸国の官吏はみな、アジアの国々の権利を無視しております。私利私欲がどうであれ、彼らは清国や日本の権利を顧慮せずに権利を主張するのです。時には不公平や利己主義を目の当たりに見ますと腸(はらわた)が煮え繰り返ります。

[陛下]
私は深く卿の誠意を嬉しく思います。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物

2007年04月16日

天皇とグラント初会見

グラント将軍と明治天皇の会見

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から。明治天皇との会見そして浜離宮滞在の模様を引用してみます。
画像は明治天皇皇后との初会見の模様
kaiken.jpg

引用開始
 金モールの付いた制服を着た侍従が静かに部屋に入って来て、合図をすると、先に立って案内した。グラント将軍夫妻は、ビンガム将軍と残りの一行に付き添われて、部屋に入った。・・・・・
 われわれは短い廊下を歩いて行き、もう一つの部屋に入ったが、その部屋のいちばん奥に天皇と皇后が立っていた。両陛下のそばには、身をかがめるようにして女官が二人いた。まだほかに皇女が二名立っていた。・・・・
 天皇のそばにいる皇后は、よい素材の地味な和服を着ていた。彼女は真白な顔をし、ほっそりとした体はまるで子供の体のようであった。髪型は地味であり、髪は金の矢で飾られていた。天皇・皇后両陛下は感じのよい顔をしていた。天皇の顔だけは確固たる信念とやさしさを表していた。・・・

 天皇が侍従の一人である、石橋氏に合図をしたところ、彼は静々と前に進み出た。・・・・陛下が話を終えると、石橋氏はグラント将軍の方に歩み寄り、陛下より歓迎の辞を読み上げるよう命じられた旨を伝えた。

 閣下の名は、わが国に知られて久しく、私どもはあなたにお目にかかれたことをとてもうれしく思います。合衆国大統領の要職にある間に、閣下はわが国民に格別の親切と好意を示して下さいました。特命大使の岩倉が貴国を訪ねた折、親切なもてなしを受けました。閣下から受けたご親切は、常に私どもの記憶に新しいところであります。世界を漫遊中、お立寄りいただき、国民一同、閣下をお迎えできたことを喜ばしく思っております。わが国に滞在なさっている間に楽しいことにたくさん出会えることでしょう。
 閣下をお迎えできたことを心から喜んでおります。アメリカの独立記念日に当る日に歓迎できたことは何よりもうれしく思います。また独立記念日に対して祝辞を申し述べます。
 英文による歓迎の辞が読み上げられた。それがすむと、今度はグラント将軍のあいさつがあった。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物

2007年04月15日

グラント将軍横浜上陸

横浜でのグラント将軍歓迎風景と東京到着

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から。当時の横浜港の様子をご想像下さい。
画像は横浜での歓迎風景
yokohama02.jpg

引用開始
 七月三日(1879,明治十二年)に行われたグラント将軍の横浜上陸は、お祭り騒ぎにすぎなかったけれど、一大盛儀であった。横浜には美しい港があり、緑を背景とした町並みがいくつも続いている。・・・・港には各国の軍艦が停泊していた。グラント将軍が到着する正確な時刻がわかっていたので、誰もが注意していた。十時に日本の護衛艦が先頭に立って入港した。十時半にはアシュエロット号を従えたリッチモンド号が、ゆっくりと港に入ってきた。・・・・

 三十分ばかりの間、港に砲声がとどろき、砲煙がもうもうと立ちこめた。リッチモンド号は日本の国旗に対して礼砲を放った。これに続いて日本・フランス・ロシアの軍艦もつぎつぎに礼砲を放った。次いで公式訪問が行われた。――パターソン提督と幕僚、他の艦隊に属する提督と指揮官、総領事のヴァン・ビューレン、きらびやかな制服を着た日本海軍の士官たちが艦を訪れた。
 リッチモンド号の士官たちは正装していた。一時間ほどの間、旗艦の甲板は燃えるような色彩と装飾の洪水であった。グラント将軍は高官たちがやって来ると、彼らを甲板の上で迎えた。グラント将軍の上陸は正午きっかりに行われるようにあらかじめ取り決めてあった。

 歓迎会はいわゆる居留地で開いてほしい、といった希望を在留外人たちは持ってはいたが、日本政府は自国の領内で開くことにした。正午に皇室用の座艇とランチがやって来て、リッチモンド号の舷側に横づけになった。グラント将軍は、夫人、子息、伊達候、ジャッジ・ビンガム、吉田氏、ならびに随行をするよう特別に派遣された海軍士官らを従えて、舷側より座艇に乗り移った。グラント将軍が座艇に足を踏み入れるとすぐに、リッチモンド号は登舷礼を行い、礼砲を放った。すると不思議にも、日本・フランス・ロシアの艦艇もたちどころに登舷礼を行い、礼砲を放った。ドイツの船は帝国旗を掲げ、イギリス船は艦飾りを施した。大砲のとどろきと旗が揺らぐ中を、グラント将軍を乗せた船はゆっくりと岸の方に向かって進んで行った。
続きを読む
posted by 小楠 at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物

2007年04月14日

グラント将軍横浜へ

グラント将軍清水から静岡、横浜へ

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から。
画像は当時の横浜港風景
yokohama01.jpg

引用開始
 清水湾は外国に開放されていない。われわれがここにいるのは、天皇の賓客であるからである。条約の中には特定の貿易港が明記されており、悪天候のときに避難する場合を除くと、それ以外の港には入港できないのである。もし列強が銃剣の先で押し付けたきびしい条件のいくつかを軽減さえすれば、日本人は国内のどんな港でも喜んで開いてくれるであろう。・・・・
 ともかくわれわれは閉鎖されている港に特別に入港できる光栄を持ったことになる。なぜかといえば、外国人がまだ足を踏み入れたこともない日本を見学できたからである。

 軍艦が入港したことは大事件であったのであろう、町中の男女や子供たちまでがたちまち船・荷船・帆船などに乗ってわれわれを見物しにやって来た。べナム艦長は、一度に五十名を甲板に上げ、艦内を見学させてもよい、といった命令を出した。・・・・年老いた男女、子供を背中におぶったり胸元からつりさげている母親、着物を着たあるいはまとわぬ猟師たち、要するにあらゆる階層の人間が見物しに続々と舷側にやって来て、燃えるように輝いている大砲に驚きの目を向けた。

 県令[大迫貞清]の肝煎りでわれわれは首都に招かれた。そこは沿岸から六マイルほどの距離にある内陸の古い町である。われわれは上陸し、ほんのしばらく猟師たちがとらえた獲物を見ていた。・・・・また茶屋を訪れ、茶のさまざまの製造工程を見学した。・・・・・
 そして午前十時頃になってようやく静岡に向って出発したが、人力車の長い行列が続いた。町中の人間が表に出て見物し、どの家にも日本の国旗が翻っていた。学校は休みとなり、先生を列の先頭にすえて整列した生徒たちは、われわれが通り過ぎて行くと深々とおじぎをした。

 道の状態はかなりよかった。ニューヨーク郊外でみた道よりかはずっと良かったといってよい。人力車はかなりのスピードで走った。町の外に出ると、木陰の下を通り、水をたたえた一帯の水田と茶畑のそばを通り過ぎて行った。小ざっぱりとした制服を着た、警棒を持った警官が、要所要所に配置され、警戒に当っていた。しかし、笑みを浮かべしあわせそうな、友好的な日本では、警官はまるで場違いのように思われた。群集の誰もが上機嫌であった。われわれがやって来るといったうわさの方が、われわれよりも先に着いたようである。なぜかというと、笑みとおじぎでグラント将軍を歓迎しようという群集が、沿道に待ちかまえていたからである。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物

2007年04月13日

グラント将軍長崎来航

グラント将軍の演説

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から。
画像は当時の長崎
nagasaki01.jpg

引用開始
1879(明治十二年)6月21日
・・・・リッチモンド号は丘陵の間を汽走し、やがて錨を下ろした。まだ早朝のことであった。冷たい魅惑的な緑が水面に影をおとしていた。丘陵の斜面にある長崎は、居心地がよいうえに美しく思われた。そして日本の町を見るのはこれが初めてのことでもあったので、われわれ望遠鏡でよくよく眺め、あらゆる特徴を研究したのである。風景とか絵のように美しい長崎の町の特質とか。
 頂上まで連なるひな段のような丘陵とか、いま耕作中の土地とか一風変わった珍しい家やおびただしい数の旗などを。――この旗によって、われわれがやって来ることを市民がすでに知っており、歓迎の準備をしていることがわかった。波止場には大勢の群集が整列し、また手すきの市民はふつうアメリカの帝として知られている国賓を一目見ようと待っているのにわれわれは気づいた。

 やがてリッチモンド号は日本の旗を掲げると、日本に敬意を表すために二十一発の礼砲を放った。砲台もこれに答え礼砲を発射した。今度は日本の軍艦や砲台からアメリカの国旗がするすると掲げられ、グラント将軍に敬意を表して二十一発の礼砲が放たれた。
 駐箚アメリカ領事のW・P・マンガム夫妻が艦にやって来た。まもなく目もあやな大礼服をまとった伊達候[伊達宗城]と吉田氏[吉田清成]と県令[内海忠勝]らを乗せた座艇がやってくるのが見えた。これらの高官は十分な敬意をもって遇され、艦長室に案内された。伊達候は、天皇の代理としてグラント将軍を出迎え、歓待いたすよう、また将軍が日本にご滞在中は、天皇の名代としてお世話するように、といった勅令を受けたと語った。この言葉がどれほどの意味を持つものであるかは、伊達候が最も身分が高い華族の一人であることによってもわかるのである。・・・・・・

 吉田氏は駐米公使としてよく知られており、利口なりっぱな人物である。彼はこの国の新興政治家の一人なのである。グラント将軍の大統領時代に吉田氏は駐米公使としての信任を得、将軍の知遇をうけていたので、日本政府は彼を帰国させ、接待に当たらせることにしたのである。・・・・・・
 二十三日の夜に長崎県庁で盛大な晩餐会が催されたが、そのおり、グラント将軍のスピーチがあった。グラント将軍の演説は東洋の諸国でいろいろと論議を呼んだようなので、ここに全文を掲げる。・・・・・
グラント将軍は立ち上がり、次のように述べた。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物

2007年04月12日

支那人の特質を知る5

弄策、虚偽、猜疑、忘恩

 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されている幅広の手帳サイズの本です。
今回はその上巻の最後の方にある中野江漢の「支那の話」という部分から、支那について、昭和十三年(1938年)当時の人々の支那人に対する見方が書かれているところ、最後の部分を引用してみます。
今回で支那人の特質の引用は最終回になりますが、対中外交交渉は、このような支那人の特質を熟知した専門家にやって欲しいものです。
画像は当時の国際都市上海
shanhi.jpg

引用開始
 戦乱に次ぐ戦乱を以てする支那は、その間に誇大な宣伝や、反間苦肉[仲間割れをさせるため、自分の身を痛めつける]の計が行われ、あらゆる「術策」が行われた。術策は「欺瞞」の第一歩で、知らず識らずの間に「嘘つき」となり「誤魔化す」ことに興味をもつようになり、果ては「盗み」が茶飯事となった。
 支那の政治家や軍人は、内に於ては売国的行為を敢えてなし、民を誤魔化して財を得、外に向っては友邦を欺き、誤魔化し、外交の不信を招き、国交を害する
 
 下級な僕婢の総ては、嘘をつき、誤魔化し、盗みをする。権謀詐術を用いて、欺瞞し、虚構をこととする結果は、人の言動に対し、常に「猜疑」の眼を以て接することとなる。猜疑を常性とするから「誠意」を欠き、人を「信用」せぬ。互に信用せるように見ゆるのは、互いにこれを「利用」して居るので信用ではない。利用し尽した暁には棄てて顧みない、恰も相識らざるもののようである。若し利用し尽した後にも、なお多大の好意を継続するものがあるとすれば、それは世間体を繕う方便か、さもなくば従来の関係上已むなく情実的好意を標榜するに過ぎないのである。

 こんな風で支那では、真実の信用は皆無といってよい。そこで血縁、地縁、職業団体の信用が必要となり、義兄弟の盟約が重視されるのである。これ等の特殊関係の信用に至っては驚くべきまでに徹底不動である。
 利に結び、害に離るる者に、恩を知り、徳を解するはずがない。支那人が人に恩を施すは、利用の手段に外ならぬから「偽恩」である。
 例えば支那人が、乞食に物を与うるは、乞食そのものを憐んで与うるのではなく、自分の不徳をその喜捨によって補わんとするだけである。若しそうでなくとも、その施恩によってその人は必ず善果があると信じて居る。
 そこで支那の乞食は物を貰うまでは哀願するが、貰ってしまえばケロリとする。彼等にいわすると「人に善をなさしめた」というそうすると、乞食に与えた者は、乞食によって「善をなし」与えられた乞食は、自分[乞食]ありしがために、人をして「善をなさしめた」ことになるから、結局は五分五分である。「恩」のあるべき筈がないのである。

 斯ういう考は、支那では是認されて居る。支那人に「報恩の観念」がないのは、斯ういう風に観て置けば間違いはない。生一本の日本人が、よく「支那人は我の親切を親切と思わぬ」とか、支那人は恩を仇で返す」と、しばしばいうが、支那人に言わしむれば、恩を受けた時に感謝の意を表して居る。恩を受けつつある間は、恩人として敬意を表して居る。それで「報恩」は勘定済みである。報恩は永続的のものではない。若しこれを永遠に求めんと欲するは「恩の押売」である「報恩を強ゆる」ことになる。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:46| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国

2007年04月11日

支那人の特質を知る4

宣伝、無主義、妥協、雷同

昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されている幅広の手帳サイズの本です。
今回はその上巻の最後の方にある中野江漢の「支那の話」という部分から、支那について、昭和十三年(1938年)当時の人々の支那人に対する見方が書かれているところを引用してみます。
対中外交交渉は、このような支那人の特質を熟知した専門家にやって欲しいものです。
画像は日本軍を歓迎する支那人たち(保定にて)
hotei.jpg

引用開始
 文弱に流れ、腕力の争闘を好まぬかわりに、「口先の喧嘩」は達者である。支那人の「口論」を側で聞いていると、今にも火花を散らす大格闘が行われるかと思われるが、口先ばかりで手出しをせぬ。支那では人の群集する場所には、必ず「禁止喧嘩」の掲示があるのを見ても、如何に喧嘩が多いかがわかる。
 その喧嘩の時には、相手方に向っていうことを周囲近傍に聞えよがしに叫ぶ、夫婦喧嘩でも内密ではやらぬ、庭の中央に出て大声で叫ぶのである。お互いに背中合となって叫び合って居ると、必ず仲裁にはいる者がある。そこで直ぐ「妥協」してケリがつくのである。

 怯懦、文弱となった支那人は、口先ばかり達者となり「宣伝」が巧くなった。支那の外交でも、戦争でも、先ず「宣伝戦」で勝を占めようとする。
 支那人は、口先や文章で堂々と主義を唱うる者があっても、腹の底には確固たる主義を有する者は殆ど無いとみて差支えない。勢い窮すれば、その主義を変じ、勢いに付せんがためにも亦、其の主義を改むる。一身の利害のためには、主義や節操を放擲して「苟合妥協」を濫用して恥ずるところを知らぬ。支那に「両面」と「詭随」という言葉がある。何れも旗色のよき方に妥協屈服して反覆常なきをいうのである。支那人は、その個人たると国体たるとを問わず、自己保全の方法として、好んでこの「両面詭随」を平気で慣用するのであるから、油断ができぬ。

 腹の底に確固たる主義がなく、口元ばかりで主義を標榜するだけでも、なお支那人としては上々の方である。国民一般は「無主義」で、ただ勢いに付して喧噪し、運よくば其の間に利益を占めようとする者ばかりである。一人これを唱うると万人忽ち之に和し、宛然主義に合し、団結を造るような現象を呈するが、これは「雷同」であって、その裏面には何等の実質がない。その輿論や団結は、国家本位でなく、自己本位の雷同であるから不利の時には忽ち変じ、目的を達し得ると思えば益々その雷同性を増加するのである。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国

2007年04月10日

支那人の特質を知る3

支那の国民性

 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されている幅広の手帳サイズの本です。
今回はその上巻の最後の方にある中野江漢の「支那の話」という部分から、支那について、昭和十三年(1938年)当時の人々の支那に対する見方が書かれているところを引用してみます。
対中外交交渉は、このような支那人の特質を熟知した専門家にやって欲しいものです。
画像は天津の日本租界
tenshin.jpg

引用開始
 支那の国体、風土、政情、社会、種族を知ると共に、是非研究して置かねばならぬことは、その組織の根本である国民の特性である。・・・・
 では「支那の根本思想」とはどんなことかというに、天を敬う思想である。これを「敬天思想」とか「拝天思想」とかいう。天を敬うとは、「いろいろに解釈されているが、ごく簡単にいうと、天は万物の創造主、万物の産みの親である。人間も亦天が造ったものであり、天の恵みによって生存しているのである。そこで天には絶対の感謝と敬虔とをもって服従しなければならぬ。これは子として親に対する当然の義務である」というのである。敬天思想は、ここにもとづいて起ったものである。

 子としての人間は、生みの親である天に対して絶対に服従するが、親である天はどういう方法を以て、子たる人間に対して親の義務を果たすかというに、天は、子である人間の生存に必要なるものを与え、これを愛護して、その発達成長を計るのである。しかし、天は「無形の神」である、「無形の父母」であるから、「有形の人間」に対し、自ら己の手をもってこれを支配し、これを教え導き、帰趣標準を与えて、その成長進歩をはかることができない。そこで、天は万民の中から「天の代表者」を見出し、この代表者をして、万民を支配せしむることになる。この天の代表者が、支那の「君」である「皇帝」である。君は天に代わって万民に対し、親たる義務を尽すのである。

 然らば、どういう方法で、天はその代表者である君を見出すのかというと、「符瑞」といって瑞祥を現したり、「感生」といって、天の感じを受けて生れるというような、いろいろの方法がある。これは支那の歴史を読むと明らかである。そうすると、天の代表者である「君の資格」はどうかというに、「天の道は正しいものである。そこで天の代表者となるには、正しい天の道、天の徳と合体した人間の中で、最上の有徳者でなければならぬ」のである。これに適った者が君となり、「君は天の父母に代わって、人間界に於て、父母たるの道を行う」ことになるのである。
 そこで、君主の政事は即ち天帝の政事となり、君主の言は即ち天の言であり、天の訓となるので君主一家の私の言ではないことになる。そこで人民は、当然「君主の命は天の命として服従し、これに順行」していかねばならぬこととなる。要するに、君命に服従するは天命に服従することになるのである。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:20| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国

2007年04月09日

支那人の特質を知る2

支那は国家ではない

 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されている幅広の手帳サイズの本です。
今回はその上巻の最後の方にある中野江漢の「支那の話」という部分から、支那について、昭和十三年(1938年)当時の人々の支那に対する見方が書かれているところを引用してみます。
 対中外交交渉は、このような支那人の特質を熟知した専門家にやって欲しいものです。
画像は当時の北京大通り
pekinstreet.jpg

引用開始
 支那は現在[昭和十三年]でも依然、真の統治者がないことになる。統治者がないとすれば、被統治者があるべき筈がなく、真の国民がないことになる。そこでよく「支那は国家であろうか?」といったような疑問が飛び出して来るのだ。斯うした疑いは、支那の実情から見れば、当然起るべきことである。
「凡そ国家というものは、統治権の主体である統治者と、統治権の客体である国民との二大原素の統治した国体をいうのである。」という原則に従えば、支那と称する地面には、ただ四億に余る夥しい人類が、ザワザワと棲息するに止まって、統治団体たる国家を組織したものではないことになる。
 そこで、近代的な国家観念から観ると、「支那は国家ではない」とはっきりいえるのである。若し一時、主権者が出来たとしても、統治者と人民との関係が、頗る乱雑不統一の支那のことであるから、整然たる国家組織を見ることは至難のことである。

 元来、日本はじめ近代文明国の常識としては、「国とは土地を意味する」のであるから、たとえば「この島は何の国に属するか」というのであるが、支那人はこれに反して「国とは人を意味する」と解釈しているから「この島は誰に属するか」という。どうして、支那だけがこんな現代に容れられぬ説を固持するのかというに、支那の古聖は政治を「王道」と「覇道」とに分かち、
「王道を以て、理想的な政治とし、徳を以て仁を行うものを王者としている。これに反し土地を重ずるを覇道として之を斥ける。王道より観れば土地は国家の要素ではない。国家は人であって、土地はこれを養う手段に過ぎない。」
として居る。支那人の国家観念はこれを以て知ることができる。

 支那人は古くから、前に述べたような考えを有っていたので、支那の政治とか制度とか、文化とか、或は礼楽典章等の総てが、国家というものを超越して居る。支那の文化や政治は、読書人の文化や政治で、社会民衆の実際生活とは没交渉であって、国家として必要な、国民教育というものが起っていない。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:43| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国